年間観光客120万人、疎振興地域脱却

宮崎県 綾町(あやちょう)に学ぶ  --2003.12.3--

私は、最近、過疎振興地域の指定から外れた町として「綾町」の名を聞きました。
「綾町」の名はこれで2度目、ともにテレビニュースをとおしてだったので
一体どんな町づくりをしてのことなのか、調べてみることにしました。


インフォメーション

綾町は宮崎県の中央に位置し、町の面積の78%が山林、そのほとんどが国有林、公(県)有林だった。
そのため、山の仕事を主な産業とすることは考えられなかった。
また、農地は河原の状態で、野菜は全部宮崎市の市場から買ってくるような生活だった。

1960(昭和35)年に綾川総合開発事業が終わるとこれを境に、営林署の仕事の機械化とモータリゼーションが進み、町民自身が「夜逃げの町・人の住めない町・若者が出稼ぎに行く町」と呼ぶほど過疎化がすすんだ。
ピーク時人口11,500人がついには7,300人を割ったこともある。

その町が県内外から人が押しかけ、徐々に活気をとりもどし、今では何と年間120万人もの観光客が訪れており、人口も昭和55年以降徐々に増加し、現在人口7,500人以上(2003.11.1調べ)、過疎振興地域の指定を外れたという。

これは、日本の中央に位置する愛知県は常滑市の観光スポット、「焼き物散歩道」に訪れる観光客が年間33万人というから、驚きの数字ではないでしょうか。
ホームページで調べると、

助役時代(12年間)から町長時代(24年間)、計36年にも及ぶ郷田 実氏(前町長)の町政抜きには語れないことがわかりました。
しかし、郷田氏は2000年3月21日に他界されており、また現地に足を運びたいのは山々ですが、??とか暇なし。かくして、1冊の本を入手することになりました。

 『命を守り心を結ぶ』---有機農業の町・宮崎県綾町物語--- 2000.7. 自治体研究社出版 \1600- 当時西日本新聞社だった白垣詔男氏が100時間に及ぶ録音を、聞き書きシリーズの一つとして109回の連載にしたのち、郷田氏亡き後に単行本化したもので、今は亡き郷田実氏の人柄を彷彿とさせる語りことばで書かれています。
前町長 郷田 実氏のリーダーシップの真髄

町づくりのターゲット(目標)は「ニーズ(必要)ではなく、トレンド(潮流)」、
時代の先取りだ

・心の豊かさ・余暇を楽しむ・健康を買う時代 の到来 ととらえた

・町づくりの目標は「近未来」をにらんだもの

・どうしたら、町民が生き生きした生活文化を楽しむ町づくりができるか
 「生活文化を楽しむ、眠った文化を掘り起こす」  それが町づくりの核

・自分たちの身の回りを良くするために自主的に全員が参加する
職員が納得できる計画が決まったら、自治公民館で話し合い、全員参加の議論に(公民館運動) 何かを良くするために対案を示す 根回し不要
(全員参加  -- 地方自治・民主主義の原点  それは 
結い(ゆい)の心
郷田氏がこのような目標を持ったのは昭和40年前半でした。
つまり、新幹線が走り、東京オリンピックが開催され、…
時代はまさにバブル期ではなく、高度成長期へとつっぱしっていくときだったのです。

では、なぜ、どうして郷田氏がそのようなすばらしい先見性を持ち得たのでしょうか?

それは、ダム建設や発電のための綾川総合開発が終了し、機械化やモータリゼーション化がすすんで町が過疎化したにもかかわらず、
今度は営林署が「土地を交換して、国有林としてまとめて使いやすくする」という話がもちあがったことに端を発しています。それは、多くの木を切り倒すことにつながることでした。

切ってはいけない、切らせない、と盾になる一方で、
それはなぜか、本当に町民やこどもたちの暮らしを守れるのか? 
自問自答と研究を重ねます。
そして、

郷田語録

世界のために

わが町の★照葉樹林は、日本文化のルーツだ。日本文化が、あの山の中から生まれたというのに、それをどんどん切りちらかして、あの山がなくなってしまいつつある。いやあこれは大変だ。よし、これは綾町のためだけじゃない。日本のために、世界のために残さにゃいかんと、ここらへんから私は強くなるんですよ。

このような、強い信念をもつに至ります。
それ以来、22ヶ所もある公民館で皆で話し合いを重ね、町のリーダーとして、ますますその手腕を発揮していきます。
国の方針と違っていても、資金面でも…困難に出会っても、ねばりにねばるのです。
郷田語録

山が死ぬと水が死ぬ

「昨年(1998年)、林野庁長官に会ったら「いやあ、あなたが山を切るのに反対して残しておいてもらってよかったと思います。われわれも今、山を残すだけじゃなく、山を造ろうとしておりますよ」と言われた。変われば変わるものですね。
そいえば、今は漁民が「山は海の恋人」といって、山に木を植える時代ですから。私が30年以上前に、「山が死ぬと水が死ぬ。水が死ぬと川が死ぬ。川が死ぬと海が死ぬ」と言っておったことが、やっと広く言われるようになったんです。」

共存共栄
照葉樹を守ることもさることながら、自然界の営み、共存共栄と照葉樹林がわかってきたが、毎晩徹夜で勉強したことによる本当の収穫でした。人間だけが自然から略奪するばかりで、あまりにもわがままなんです。人間だけがよければいいという生活は絶対に許されない、このままだったら人類はきっと滅びると思いました。


健康は、まず食べ物なんだと。だから、健康を買うということは、健康な野菜、健康な米、健康な食べ物を買うということだ。今作っている、ミネラルも入っておらん不健康な食べ物を食べたら病気になる、と機会あるごとに言っておりました。

土づくり
私は自分で「自然の巡り」を考えていたもんですから、アメリカやヨーロッパのことは一切関係ありませんでした。…私が言う「有機農業」は、一般的な意味ではなく、「土づくり」です。「薬をかけない」とは言わない。土をつくれば薬は必要なくなる、と言うんです。

収入だけで推し量れないもの
「(重油をたいている)ハウス農業の方は(商業主義に惑わされた消費者に助けられ)お金がたくさん入るけど、病気をして、どれだけお薬を飲んだか、どれだけ精神的に、ご苦労なさったかというような試算は全然してないじゃないの」(薬剤師の長女の言葉をうけ)

「有機農家」の方たちのところでは、子どもたちも草むしりの加勢をしてくれるとか、子どもたちと一緒に仕事ができるんですが、ハウス栽培のところでは、★子供たちをハウスの中に入れるのは、怖くてできないんで、加勢させることもできんでしょう。しかも、大量に栽培しておるから朝早くから夜遅くまで子供と触れ合うこともなく働かにゃならん農家が多い。家庭生活が犠牲にされておるんです。有機栽培の農民は、子供たちと一緒に仕事ができる。子供たちは加勢するのは嫌かも知れませんが、これが教育ですね。が「有機農業」にはあるんです。

自然生態系を大事にする農業
賞味期限が切れた食べ物は、私なら、集めて肥料を作ります。高くつくでしょうね。施設を造らにゃいかん。だが、そんな金は要ってもかまわんじゃないですか。日本の土づくりができ、日本の農業が安定的に長く続けられることになるんですから。

人間は、その昔は、下肥(しもごえ)といって、し尿を土に返しておったんですね。小鳥、イノシシ、サル、シカなど動物は、し尿はおろか死がいまで土に返しておるのに、今は人間だけが違うんです。し尿を処理して海に捨てるなんて自然破壊ですよ。ここらへんのことがわかると、じっとしておれんのです。

本物
「もうけようもうけようと思って物を作る時代は終わるのよ。自分がもうけよう楽をしようという、ひとはどうでもいい、ひとの健康がどうでもいい物作りは終わる。これからはどうしたら喜んでもらえるのか、どうしたら食べる人が健康になってもらえるか、そういう物作りじゃなかったら駄目なのよ。本物を作る、どこにも負けんような物を作る、それは巡り巡って、わが綾町で物作りができる、働く場所ができるということなのよ。」

町づくり
「町づくりをやるときは、都会に背を向けなけりゃいかん。綾にたって都会を見ておったら、都会らしい町にしかならんのです。田舎田舎と思って、都会と田舎の中に立って都会に背を向けてやらないかん。道路、公園、建築物みんなそうです。今はどこの町でも近代的なものを造ろうとしている。近代的というと、道を広くして歩道を真っすぐに造らにゃいかんぐらい考えとる。幹線道路はそれでもいいでしょうが、田舎に入ったら違うんです。平成8年、イギリスに行きましたが、向こうでは道が狭く曲がっておることを自慢します。アメリカは景色が悪い。あれは道が広くて真っすぐなのがいかんと言われる。日本はアメリカの悪いところを真似してしまいましたわ。」「よそと違うもの、そして近い将来、国民全体の共感を得られるものを町づくりの核にしようと話し合うんです。全国的にあまり知られていない綾町の場合、町づくりのなかから「日本一」「世界一」である施設を造るのも面白いとも考えるんです。」

「比較異」のまちづくり
「よその町と比較して異なるものを町づくりの核にしようということです。
同時にただ異なるだけでなく、近未来に広く共感が得られるようなものでないと駄目である。そういうものが地元にどれだけあるか、みんなでいろいろ探しました。そこからでてきたのが、綾城や綾馬事公苑や照葉大吊り橋です。その延長線上に当時世界一の花時計ができたのです。」

産業観光
私はそれを産業観光という言棄で表現しました。観光という言葉の意味は光を観るということです。その観るは、光を心で、体で観ることです。すばらしく輝いている場所なり物なりを観て、交流し、体験しあう。
ではその光は何かといえば、まず照葉樹林の自然生態系であり、水であり、これを補完するものとして{大吊り橋}{綾城}{馬事公苑}{本物センター}などがあり、そして最終的にはその地域の人々の生活、文化を愛する目の輝きだと私は思うのです。
いくら美しい観光資源があっても、住む人々の目が輝いていなかったら、その地域はこれからの本当の観光地とはなれない。なぜならこれから訪れる人の求めるものは{物から心}と言われる{心}なのです。その心とは、文化を求め、文化を交流しあう心です。
人に喜ばれ、人が集まってくる町をつくるには、まずその町の住民が愉しくなければならない。毎日の生活がいきいきしていなければなりません。つまりその地域の人々の生活そのものが観光資源になるような町。これが観光産業ではない{産業観光}の考え方です。

心の観光
「心の観光、親切観光、綾町にやって来られた多くの人との交流を「掛け算」と思う

農村文化
どぶろく馬鹿(うましか)まつりは、農村文化を取り上げておる国の行政に対する抗議の意味で昭和63(1988)年に始めました。馬と鹿の肉を味わい、どぶろくを飲んで楽しむんです。しかし、これは税務署から非常にやかましく言われ職員は困っていました。…日本では、どぶろくを造ることを規制して文化を国民から奪っておるんです。そして税金をかけて国の財源にしなきゃならんという。

政治の有り方
「今、国会議員が考えなければならない大きな問題に、日本の将来があります。食料自給率をどうするのか、減田減反で自給率が下がっておる。綾町でも、昔おいしい米ができておった棚田がほとんどなくなって杉が植えてあるんですよ。穀物に至っては自給率が30%を切っておる。しかし、将来の食料自給率、日本の農業についてどうするのか、本気で考えている政治家がいるんでしょうか。資源として土に返さにゃいかん「し尿」を川や海に捨てる。生ごみを焼却する。そして、土が死に環境が破壊される、農業ができなくなる。「安全な食べ物」を本気で考えておる人が、どれくらいいるんでしょうか。「有機農業」が遅々として進まない現状をみるにつけ、日本の農業ひいては政治の在り方には失望することが多いですよ。」幸福ニュース 「結の心」

議会制民主主義
今、国、地方を問わず、根回しをやらなきゃいかんような議員さん、首長は辞めたほうがいいです。議員、議長の資格がありません。議会制民主主義を冒涜することなんですよ。

日本は民主主義も地方自治も米国から与えられたものです。戦後50年以上もたっておるのに、これが成熟しておらんのです。これは、日本が闘い取ったものじゃなく、与えられたものだから駄目なんで、変えていかなければいけません。それには、みんなが議論し合うことだと思いますよ。日本人は、もっと議論そのものに対する理解を深めないと、国づくり、町づくりの大きな障害になっておるんです。

発展と進歩
「うちの玄関には、松の根で作ったモミスリ機が置いてあります。数年前、約1キロメートルほど東にある両親の実家の馬屋を壊すときに出てきたもので、4人のおいがかついできたんです。できたのは百年以上前と思われます。まだ立派に使えますよ。これが鉄で作ったものだったら、百年以上たったらボロボロになるが、これはまだ使える。しかも、作るとき、油をたいて地球を汚した電気を使って製鉄をして、動かすときにも電力を使う。このモミスリ機は手作りだし、人や家畜が回してきた。こっちのほうが地球を汚さんし近代的じゃないのか。
そこで、地球を汚して人間の生活ができんようになるような物を作って、これを「発展」「進歩
」と言っていいのだろうか、と考えたんですね。鉄製モミスリ機ができたとき、「発展、進歩した」と言っただろうけれど、そうだろうか。


自然破壊をして人間が住めないような地球にしとるんだから、「後退」だわ。
…今日の生活がこのまま続くと考えるのは、楽観過ぎますよ。その中でも、地球を汚して野菜を作り、残飯を大量に捨ててしまう、そして文明に寄り掛かり過ぎておる日本は長くは続かないでしょうね。


大きなサイクルで考えて、実現に向けて方針を打ち出していきました。
町民や議会の理解が得られず、引かざるを得ないこともありました。
    ★詳細は最後に年表形式にしてありますのでご覧下さい。

その結果として、
受賞及び指定

(1982−S57.9.23)
第29回保健文化賞(朝日新聞社厚生文化事業団)を皮切りに
(1983−S58.1.1)日本の自然百選【九州中央山地国定公園】(朝日新聞社、森林文化協会)
(1985−S60)名水百選【綾渓谷の照葉樹林】 (緑の文明学会)
(1986−S61.4.19)
森林浴の森百選【綾渓谷の照葉樹林】 (緑の文明学会)
(1986−S61.6.5)あおぞらのまち40選【どこまで見える青空コンテスト】(環境庁大気保全局長)
S61.12.9)
農村アメニティコンクール優良賞(農村開発企画委員会)
S62.12.1)
潤いのある町づくり(自治大臣)    

など
 多数

… 略  ★照葉樹林都市 綾町-概要-綾町の受賞及び指定

「比較異」 今なら -オンリー・ワン-

昭和57年から平成7年まででも毎年のように、しかも、健康空気森林農業 といろいろなジャンルで賞を受け、かくして、綾町の名は日本中に広まり、観光客はもとより村おこし・町おこしの先駆的モデルとして、学びに訪れる人も後を断たない町になっていったのでした。

照葉樹とは(カシ・シイ・タブ・クス・ツバキなど常緑広葉樹で太陽の光に当たるとピカピカ光る樹)
豊かな自然(山は生き物を育み木々は、土を肥沃にし、川と水、空気を美しくする)
その恩恵にあずかる手づくり本物文化を町をあげて大切にしようとした。

名づけて照葉樹林文化
そこには、ワラビ・コンニャク・ヤマノイモ・シソ・カイコ・ムクロジ・ウルシ・茶・ミカン・ヤマモモ・ビワ・酒がある。

改革の歴史
 助役時代1954(昭和29)年〜   12年間、
 助役と公民館長を兼任、区長と公民館長を兼任
助役時代
1954〜
町民に自治の心があった
  自ら治める、自ら自分たちの生活を豊かにする心があった。
  自作農家がだんだん豊かになって高度経済成長期ともなると、人々から自治の心がなくなっていく、その変化に気づく。
昭和30年〜35年 綾川総合開発事業とは--発電所・ダム造り
  昔は山を大切にすることによって水を防いできた。
  昔は択伐、今は全伐という手入れ方法(採算性のため)、そのため大きな自然破壊がおこる
  開発はよかったのか?と疑問視
  山を治め、水を治め、道を治めることが重要と町長になってから反省
町長時代
1966(昭和41年)〜
 町長時代1966(昭和41)年〜   24年間、 
7月 ・真っ先に区長制を廃止、自治公民館運動--改革断行
・PTAからの寄付を断る。(町の財政にゆとりがなかったため、教育関連費は寄付に頼っていた。)
9月 営林署の要望「国有林の真中に邪魔な民有地(今、「歩いて渡る世界一の照葉大吊橋」がかかっているあたりの照葉樹林)とパルプ会社が木を切り出したはげ山とを交換する」に異を唱える。
・当時の国の方針は全国の照葉樹を切って杉に変える方針で、営林署から再三にわたる交渉があった。パルプ会社が綾町の樹を欲しがっていた。

・ひとまず消防団に頼み、町民の70%にあたる請願署名を集めることに成功
・宮崎県、熊本営林局、農林大臣に直訴
一応、国有林とパルプ会社の山の交換は止まった。
佐藤内閣当時、国は河川改修時代だったため、総理への直訴も考えた。

12月 ・営林署所長から「交換は再検討することになった。今度はここを伐採させていただきたい。」と次年度の計画を見せられる。
ダムや堤防があるから安心して木を切れる。木を切れば水害、山崩れ、土砂災害、国土は荒廃の悪循環に陥るとの認識があった。-- 135,000立方メートルもの伐採計画がもちあがる。
・県立図書館に職員を派遣し「山」「自然」に関わる本を借出し夜毎読破した。その凄まじさは左目の視力を失うほどだった。
山を守る一念から始まった勉強によって、勉強すればするほど山をきってはいかんとの信念を強めていった。
そして、「照葉樹林文化論」(中尾佐助著 岩波新書『栽培植物と農耕の起源』中 約15ページほど)に出会う。これは日本文化のルーツを考察するものであり、日本のため、世界のために残さねばという強い使命感に変わるものであった。
・書物から、土作り近代農産物の欠陥微生物の力自然の巡りについて学ぶ
・中尾佐助著『栽培植物と農耕の起源』中の照葉樹林文化論に出会う。
・山を切れば国からの補助金、当面の山関係の仕事が確保され、商工業が潤うと激しい葛藤があった。
消防団の請願署名後は孤立無援、四面楚歌の状態だった。

昭和42年 営林署の交渉は翌年も続いた。平成2年まで毎年木を切らせて欲しいという話があった。--隣の村は切ってほしいという陳情書を出していた。
・照葉樹林を守り、山を国定公園にする申請を出す運動を展開
・「一戸一品運動」 各家庭が手づくりの品を作って生活文化を楽しむことを提案
一坪菜園運動「健康な野菜、本物の野菜を作ろう」「せめて、自分のうちで食べる野菜は自分で作ろう」--春と秋に種子を無料配布
・きれいな町をめざして、花いっぱい運動を展開
農業振興地域整備に関する法律施行前にと、ナイター設備のある運動場整備を急ぎ(自治省、元官房長官に陳情)完成
・就任2、3年後に夏と秋の祭りを復活
昭和43年 ・70歳以上の医療費の無料化を実施⇒47年全国初の条例
昭和44年9月 ・農業振興地域整備に関する法律施行
昭和45年 ・熊本県議や宮崎知事にもちかけ照葉樹林の山を国定公園にする申請を提出
政府に陳情など、さまざまな運動
・このころ、においがしない養豚場の視察--酵素の研究に取り組む
昭和46年10月 ・「手づくり本物の町」「物作りのできる町」の原点、川村賢次氏が綾焼窯「綾川陶苑」を開業⇒木工・竹細工・ガラス工芸⇒のちに「手作りの里」へ
昭和47年5月10日 ・綾川荘オープン⇒国民年金融資事業として--旅館がなかったので初めてのゲストハウスとして建築。食堂は小さなうどんやさん1軒だけ
・し尿の堆肥化を提案
・教育を重視⇒乳児医療を2年間無料化
昭和49年 有機野菜の価格補償制度により農家を守った(かえって安く買いたたかれている時代だった。認定機関は生産者や農協ではなく、町が法のもとに責任を持った。)〜昭和55年まで継続
昭和49年 ・南俣・宮崎道路促進期成会し、基幹道路の整備の足がかり
昭和50年 「綾町の自然を守る条例」を制定
昭和51年 ・初めて町議会でし尿を液肥化する「液肥工場」を予算化
昭和51年12月 青空市場(毎水曜日)--農協の協力得られず、町婦人会連絡協議会会長が協力
・その後、朝市も(毎日曜日)
昭和52年 ・液肥工場の地権者の反対運動にあう。
昭和53年7月 し尿を液肥化する「液肥工場」完成。しばらくの間農協や県の農業試験場から横ヤリ--使い出し定着するまでに10年近くかかった。(家畜し尿の肥料化は50年代の終わりには国の補助の対象になった)
昭和55年 「土からの文化を楽しむ農園」--10坪×58区画、有機農業体験農園完成
町内外の人に貸し出し。土・日曜日には指導員が付く。
文化祭が始まる。一戸一品作品を持ち寄りの実現
昭和56年 ・花火大会を始める
昭和57年 照葉樹林が国定公園に指定される。「九州中央山地国定公園」となる。
長引いたのは営林署が反対していたため。林業が制限されるため反対者の同盟ができていた。
・綾競馬大会⇒良馬をいかして「綾ダービー」「馬術の町」へ
馬券といっても、お金ではなく綾町の産物が賞品、
⇒馬事公苑、屋内練習場がある。
・綾工芸まつり
昭和57年10月 ・町制50周年で綾町憲章
  1.自然生態系を生かしてそだてる町にしよう
  1.健康で豊かな活力ある町にしよう
  1.青少年に誇りと希望をいだかせる町にしよう
  1.生活文化に創意と工夫をこらす町にしよう
  1.思いやりとふれあいで明るい町にしよう

もう一度 村の時代へ--「結い
昭和59年3月28日 ・残してもらった自然林をどう活用したら責任を果たせるか--⇒過疎債を適用、坂本商事の協力⇒歩いて渡る高さ世界一の照葉(てるは)大吊橋完成
・第1回照葉樹林文化を考えるシンポジウム開催--「照葉樹林都市・綾」を宣言
昭和60年 ・天然山桜まつり
・かじか吊橋完成、⇒約45分で自然浴散歩通行料100円(町長交代後300円)
・名水の活用をと酒造工場誘致、工場側も環境に配慮した設備とした
昭和60年6月8日 ・歴史をひもとき、山城である綾城を開場、
昭和61年6月 綾国際クラフトの城(工芸館)--各種工芸品を見て触れて体験できる施設
昭和61年6月 リゾート法施行。その前に宮崎県と綾町も指定をと陳情するも外された。(なぜ陳情した?)
昭和61年10月 ・照葉樹林マラソン、綾城まつり
昭和61年 福岡市(都会)の子どもと綾町の子どもとの交流⇒両市町とモンゴルの子どもとの交流へ
昭和62年 南俣・宮崎道路促進期成会の運動が実り、有田橋完成--観光、通勤通学が便利に
昭和63年 「自然生態系農業の推進に関する条例」--日本初、行政が条例を作って「有機農業」を始めた町となる。本物以外は町外に出せない--認証シールを交付
・どぶろく馬鹿(うましか)まつり⇒現在は行われていない
・酒泉の杜
・生ごみのたい肥化も20年ほど前からはじめている
1989(平成元)年6月1日 手づくりほんものセンター開店--今センターの売り上げは3億5千万円以上
1989(平成元)年

・環境省みどりの国勢調査で照葉樹林の原生林の残量日本一

1990(平成2)年 ・当時世界一の花時計完成、昭和40年代から建設省に陳情、昭和50年代に中曽根総理の「堤防には樹木や花を植えて、もっと楽しく活用を」発言をうけ、再度建設省に陳情、ようやく堤防に桜植樹の予算化(自転車道)


                          
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