raの日記
H23/3/11 東日本大震災が起きた! これは、5/2〜5/4の体験記です。
■ 震災救助の発端


3月11日、記録的な大震災が起きました。遠方の出来事ではあるが、何か自分のことのように感じ、いてもたってもいられないような気分に襲われていました。

「何が起きている?何ができる?今後どうなる?」
意を決してゴールデンウィークの休みを利用し、単独で車を走らせ現地へ向かうことにしました。

 5/1 16:00 出発 GWの混雑を避けるつもりで夕出発したが、東名が大渋滞。東京着23:30 車内で仮眠。
 5/2 常磐自動車道でいわき市に入る。原発を避けて福島に廻り込み、相馬市、南相馬市へ入る。
 5/3 仙台を越え、石巻、南三陸町に入り、避難所に入る。夜は気仙沼市に入り、車内で仮眠。
 5/4 気仙沼でボランティア登録。その後、壊滅的な被害を受けた陸前高田へ入る。
 5/5 早朝5:00発東北自動車道にて、一気に東京まで、そして、東名を使って岐路へ。岐路は渋滞なし!

現場は、想定していたこととは、全く違うことがいくつか起きていました。

ルートマップ
福島市 磐梯山
福島市


  東北自動車道を福島で降りると、まず会津磐梯山(吾妻連峰)が見えました。震災とは裏腹の美しい景色。桃の木の他に、5月だというのにまだ桜がそこらじゅうに咲いていました。

 これで震災が起きたのだろうかと疑ってしまうような景色でした。

 ここから、車で飛ばして約1.5時間先には、相馬市に入っていきます。


相馬市の記録

  まず、大きく被災した町として、最初に入ったのは相馬市です。 海に近づくにつれ、屋根のかわらにブルーシートが張ってある家が1・2軒ありましたが、それほどでもないと思っていた矢先、海辺に出てみると景色は一気に変わりました。
  見渡す限り、廃墟。基礎のコンクリート土台が残っているだけ。殺伐として、人はほとんどいませんでした。


相馬市の被災状況1

相馬海岸


  海岸近くとはいえ、1階・2階が大きく破損した喫茶店。3階はなんとか残っているが、危なくて住むことができない。
被災の傷跡がものものしい。


松浦にバスが水没。他にも家や車が水没していた!   地盤沈下のためか、満潮時の水面

松川浦港の船が道路へ
 

松川浦を出ると道路に大きな船が乗り上げていた。その下に小さなボートが下敷きに・・・。
周りの自動車は、なにごともなかったかのように、ごく当たり前の風景であるかのように通り過ぎていく。
この道を通学の中学生が通り過ぎた。


 

 


南相馬市について

  南相馬市は、原発の影響があり、一部退避命令が出ているところです。風の関係で北西の方が危険らしいのですが、とりあえず北側の海は大丈夫とのことなので、相馬市から海岸沿いに南下しました。
  荒涼とした被災地にポツンと一軒立派な家があったので近づいてみました。



すると、家の反面は、見るも無残。
一見、住めそうに見えましたが、内部はとても住める状況ではなく、住人はいませんでした。
木材など新しく、建てたばかりの家という感じです。配線機材やケーブル類が上から垂れ下がり、浜からの風が無残に吹きすさんでいるばかりでした。  

荒涼とした土地が続きます。この写真ではわかりにくいのですが、左側に海があり、右側は陸地です。
この道の先を進むと右側には、家屋の崩れたものが散乱し、山のようにつまれていますが、左側には何もなく平らな平地と家の土台だけが残っていました。
  つまり、津波によって破壊されて陸側に押され、今度は引き潮のときに道路に引っかかって家の木材が溜まっているという状況です。津波の威力はすごいものがあります。

ところどころに、残ってしまった家屋に落書きで、「コワシテ」と書かれているものをいくつか見かけました。 残ってしまったけれども、もう絶対に住めない。かえって残っているだけ惨め。そして、壊す力もない。それが、落書きの内容です。
本当に住人の方々が泣いているのを感じます。

この荒涼地から3キロぐらい内陸に入った住居者がある町の入り口で、転覆した船を見かけました。そして、電信柱が4〜5本倒れているところを通過して、仙台 石巻市へ向かうことにしました。  

次のページへ