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成功するには訳がある
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成功とは…
真の成功とは、健康で物心ともに豊かで愛に満ちた生活。自分の徳分にあったお金にも困らない。(河合 利章)
成功感の本質は「勝ち感」、「達成感」、「成長感」ともいわれています。(田坂 広志)
そして、その成功感を得るためには「必ず成功できる法則」、すなわち「成功哲学」があるとも言われています。
その「成功哲学」については別ページにあるのでぜひご覧ください。
苦労はしても、身のほどに合った幸せを感じ、最後ににっこり笑って「大往生」の姿。
とにもかくにも、「終わりよければ全て良し」、ではないでしょうか。
そして、このページのタイトルが浮かんだのも河合さんのことを小耳にはさんだことがきっかけになっています。
心にひっかかった人を探ってみると、「もしかしたら」と思ったことが
「やっぱり~そうだったんだ~」と確信にかわるようなエピソード・物語が隠されていました。
私的ですが、まだまだあまり有名ではない方や有名ではないエピソードにスポットをあてていきたいと思っています。
勝手に再話したり、割愛したりしてすみません。
ですが、根っこにある思いをくみとり、お許し下さい。
また、ご自分でも追跡調査してみてください。
人名をあいうえお順に並べていきます
面白い出会いがありますように!!
【あ~お】
アーランド・ウィリアムズ(エア・フロリダ90便墜落事故の犠牲者)
安藤 忠雄
石黒 由美子(交通事故を克服してシンクロの選手に)
市立柏高等学校(いちかし)
岩田 守弘(ボリショイ・バレエダンサー)
岩谷 時子と本田美奈子
エム・ナマエ(全盲のイラストレーターとは)
オリビア・ニュートンジョンと娘クロエ
【か~こ】
金子 祐介
カルロ・ウルバニ(SARS世界流行から救った医師の行動)
河合 利章(小学生のときから社長と呼ばれた男、しかし15歳で定めた夢とは)
川島 隆太(DSのソフト脳トレが大ヒット、その報酬の使い方は)
木村 秋則(リンゴが教えてくれたこと、奇跡のりんご)
クミコ(高橋久美子)
【さ~そ】白州次郎
下川原 孝
シークレットサンタ
柴田 トヨ
杉山 龍丸と親子三代の夢
杉原 千畝
宗太郎君
【た~そ】ターシャ・テューダー
田中 義剛
棚橋 絢子(県名古屋高等女学校初代校長)
土光 敏夫
【な~の】中田 正一
新妻 香織(フクロウの幼鳥、フー太郎との出会いがもらたしたもの)
ネルソン・マンデラ
【は~ほ】
平林 都
フジ子・ヘミング
ベニシア
堀 文子
【ま~も】増山 たづ子
松浦 元男
マリカ・ウフキル
三浦 敬三
水野 南北(命は食にあり、観相学者の数奇な人生とは)
宮崎 康平
【ら~ろ】レオニー・ギルモア
ロウィーナ・ケイドとミナック・シアター(Minack Theatre)
ロビンフッド702
【や~よ】安池 興男(清里のもう一人の父)
山野井 泰史
山田 治朗吉
山本達雄(なぜか福岡県の星野村にある原爆・平和の灯)
横溝 千鶴子(10億円の横溝基金に込めた本当の思いとは)
【わ】
渡部 陽一(戦場カメラマンになったわけ)
ワリス・ディリー(トップモデル 自伝・映画『デザートフラワー』)
♪*♪*♪*♪*♪*♪ 申し訳ありませんが一部省略させていただきます ♪*♪*♪*♪*♪*♪
【あ~お】
アーランド・ウィリアムズ
・1982年の1月第2週は、米国東海岸地域に歴史的寒波が襲い、首都ワシントンでも数日にわたって低温が続き自動車が路上で立ち往生するなど日常生活にも支障をきたしていた。
ワシントン・ナショナル空港もこの日正午の段階でようやく滑走路が使用可能となったが、再びいつ閉鎖になるかわからない状態だった。
・当該機およびクルーは当日朝にフロリダを出発して午後1時45分にワシントンに到着し、折り返しフロリダ州タンパ経由フォートローダーデール行き90便となったが、降雪により滑走路が一時閉鎖になり1時間45分遅れとなっていた。
・1982年1月13日16時1分(東部標準時)ごろ、ワシントン・ナショナル空港(当時、現在は改称してロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港)を激しい吹雪のなか離陸したエア・フロリダ90便(ボーイング737-222、機体記号:N62AF)が、離陸直後に氷結したポトマック川に架かる橋梁に激突・墜落した。
・乗員乗客79人の内74人、橋梁上の自動車の中にいた4人の合わせて78人が死亡し、客室乗務員1人と乗客4人が救助された。
・その間、水没しなかった尾翼部分にしがみついた生存者の救助を多くの人々が見守る映像は大きな衝撃をあたえた。
・なお、この事故をきっかけにエア・フロリダの経営は悪化し、2年後には倒産してしまった。
・救助の際、2度にわたってヘリコプターからの救援ロープを他の女性に譲ったのは46歳の銀行監査官アーランド・ウィリアムス (w:Arland D.
Williams, Jr.) であった。彼はアメリカ政府から救助ヘリの乗員2人とともに自由勲章が授与された。
・その後、彼の偉業をたたえ事故現場となった橋が "Rochambeau Bridge"(ジャン=バティスト・ド・ロシャンボーにちなんでいた) から "Arland D. Williams Jr. Memorial Bridge" と改名された。
・他にも彼を記念して命名された施設がいくつかあり、彼の郷里のイリノイ州には2003年に彼の名が付いた小学校が新設されたという。
安藤 忠雄
双子であったため母親の実家、大阪市旭区の祖父母に養育されることになり安藤姓となる。(3人兄弟で双子の弟北山孝雄と一番末の弟北山孝二郎も建築家。)
現在仕事の7割が海外の仕事。でも、大阪を離れない。
・自宅の長屋で2階を増築するため近所の大工さんが毎日来て、一心不乱に働いていた。家をつくる仕事はこれほど人を夢中にさせるものかと思った。
・中学3年生の遠足で唐招提寺と東大寺南門を見てピンときた」という。二つの体験が15歳の少年を建築の世界に導いた。
・好奇心はどこからくるのか。人が到底近づくことができないものを見たときではないか。そして、建築の独創的発想に欠かせないのは、美しさや本物を見抜く審美眼。文学や哲学、美術、音楽などで磨いておかないといけない。
・西洋建築を見ようと24歳のときに木工家具の製作で得た資金を手に、ナホトカからシベリア鉄道経由で欧州へ一人旅に(放浪中に安藤が撮影した写真は、ルイス・I・カーンの作品集などで使われている)。
・京都大学に進学した友人から「建築家を志したら古代ローマのパンテオンを見ておけ」と言われていたが、いざパンテオンを見てもよく分らない。好奇心が湧かない。知識も必要だと思った。好奇心の原点は感動と探究心。好奇心が知識を得る力となり知的財産の総量がまた新たな好奇心を生む。
・いろいろ本を読んで東西の建築様式の違いに引かれ、ル・コルビュジエなどの建築を何度も見に行った。
・建築関係の大学に進まず(大阪芸術大学への入学歴はある)、関西の建築家・都市計画家水谷頴介などの建築設計事務所でのアルバイト経験と建築の教科書など専門書を読みながら独学で建築士試験に合格したという。
・過去にはプロボクサーでもあった。ファイティング原田の練習風景を見て、その才能に圧倒され、ボクサーとしてやっていくのを諦めた。
・1969年安藤忠雄建築研究所を大阪に設立し、個人住宅を多く手がける。
・1976年に、「住吉の長屋」が高く評価され、大規模な公共建築ではない小さな個人住宅として、はじめて日本建築学会賞を受賞した。
以降、コンクリート打ち放しと幾何学的なフォルムによる独自の表現を確立し、世界的な評価を得る。
・10代に出会った時の感動がずうっとひきずっていくもの。面白い人や古い建築、本、音楽、美術なんでもいい。自分の人生を組み立てるときに、感動からスタートする。その感動が今では少なくなり、子供たちは知識だけを詰め込まされている。飼いならされた籠の鳥のよう。日本が今、世界の中で弱くなっているのはこんな小鳥がいっぱいだからではないか。
・設計した淡路夢舞台(2000年完成)の10周年記念イベントで15歳の中学生向けにノーベル賞受賞者の講演を企画。野依、小柴、益川の三氏に自ら直接電話で頼んで実現。遠い昔の鑑真の思いが唐招提寺を通じてわたしたちに伝わっている。
同じように先達の思いを次世代に語りかける機会を今後も考えたいという。(Wikipediaと日経新聞 20104.24記事より)
安藤さんの建築はテレビで見た「光の教会」が大変印象的でした。また、建築については大学では学ばず独学だったことが印象に残っていました。
石黒由美子
新聞記事で彼女のことを知りました。
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2008年の8月、北京五輪シンクロナイズド・スイミングのテクニカルルーティン(TR)で4位に入った日本チーム。
水中で舞う8人の中に、交通事故の後遺症を抱えながら競技に打ち込んできた選手の姿があった。
緊張で音楽が聞こえづらかったというが、力強い演技は仲間と息が合っていた。
豊かな表情で演じ切った石黒は「全力でいくという意気込みを前面に出した」とすがすがしい表情で語った。
その石黒にはこんな過去があった。
事故に遭ったのは名古屋市内の小学2年だった91年10月3日。
止まっていた母和美さんの車に、暴走車が突っ込んできた。
「由美子は血が流れて気を失った。救急車も受け入れ先をすぐ見つけられず、どうなることかと思った」と和美さん。
石黒は手足を骨折し、顔面を540針縫った。
リハビリを兼ねて翌92年にシンクロを始めた。
女優宮沢りえさん主演のシンクロのドラマを繰り返し見た。アキレス腱(けん)を切ってバレリーナの夢を断念し、シンクロに懸命に励む主人公の姿に自分を重ねた。顔面まひ、網膜剥離(はくり)、難聴……。
みんなのように体が動かないので、離れたところでぽつんと練習していたという。
母に忘れられない思いがある。娘の小学校に授業参観に訪れた時だ。
「おーい、フランケン」
娘をこう呼んだ同級生に詰め寄ろうと思った瞬間、「なーに」と娘は明るく答えた。
「本当に強くて明るくて素直な子。事故の恨み言も一切言わない。元気なのが救いだった」と母は振り返る。
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とある新聞記事によると、もう一つ、石黒を育てたのが作ったのが『少女パレアナ』(エレナ・ポーター著)の物語だという。
ネットで探し、初めてパレアナの物語を読んだ。こんな物語があったのだ。
まさに、プラス思考をわかりやすく伝えるための話だと思った。
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石黒は壮行会など人前に出る時は、今も笑みを絶やさない。
競技のシンクロはみるみる成績を伸ばした。
小学校高学年の部で全国5位。
07年夏、スイスオープンのソロで優勝した。
年末になって初めて日本代表に加わった。「誰も私が入るとは思わなかったでしょう」。ここでも会心の笑みを見せた。
後遺症はほとんどなくなったが、今も左目は完全には閉じない。
石黒は言う。「こんな私でも五輪に出ることが出来る。これからも障害者や苦しんでいる人に勇気を与えることをしていきたい」と。
市立柏高等学校(いちかし)
紳助の番組見て、「感動したっ!」
だけど、まだまだ「成功するには訳がある」の「訳」の部分に迫りきれていません。
・スポーツ系・文化系問わず、部活動には特に力を入れている。
・とりわけ吹奏楽部は、毎年普門館で行われる全日本吹奏楽コンクールの常連校でもある。
・その実力は世界にも認められる程で、1995年には世界吹奏楽大会に出場。
・2000年元旦アメリカ・ロサンゼルスのローズパレードにも出場し、海外からの初出場団体にも関わらず、ローズパレードの歴史で初めて大会全5部門を制覇する前代未聞の偉業を成し遂げた。
・2008年正月にはシンガポールへのコンサートツアーを敢行、シンガポール国内のプロの演奏家ですらそのステージに足を踏み入れる事が困難といわれる国立エスプラネードホールでのメインコンサートも成功させ、北米のみならずアジアにもその名を轟かせている。
・部員は200名近くいて、コンクール・コンサートでは全部員をステージに上げる事が出来ず、客席を巻き込んだパフォーマンスに及ぶ。
・楽曲も既存の感性に囚われない、老若男女問わず親しめるような選曲で1曲1曲の完成度も高く、素人だけでなく専門家も舌を巻くほどのそのパフォーマンスは、イベント参加の要請が後を絶たない程の人気ぶりで、ダブルヘッダーもしばしば。だが近年ではその大人数を活かし、学年毎にメンバーを編成することで多忙なスケジュールに対応している様子。
・その際、入学したばかりの1年生でも関係なく演奏をすることがあるが、その実力は上級生にも負けず劣らず、鑑賞に来た観客を驚かせている。
・2010年10月3日に日本テレビで放送されたバラエティ番組『世界1のSHOWタイム〜ギャラを決めるのはアナタ〜』に出演した際は、そのパフォーマンスで司会の島田紳助等を感動させ、名だたる世界の名パフォーマーを上回る番組最高額ギャラ(177万1400円)を記録した。
・2007年には創部30周年を記念し「THE BEST OF ICHIKASHI」というDVDが発売された。
岩谷 時子の晩年
歌手本田美奈子の最後の時は一度テレビのドキュメンタリーで見たことがあった。2度目は友人が見せてくれた他局の番組のDVD、NHK BS ハイビジョン特集 「本田美奈子:最期のボイスレター」 ~歌がつないだ“いのち”の対話~
。
ミュージカル『ミス・サイゴン』の訳詞を手がけたことがきっかけで、同作品に主演した本田美奈子と親交を深める。本田の才能を「越路の再来」と高く評価し、数多く詞を提供した。越路とは偶然仕事場で出会い意気投合し、以来越路が死去するまでの約30年間、マネージャーとして強い信頼関係で支え続けた越路吹雪(当時15才)。
偶然にも、2005年6月(本田が38才で死去する直前)、足を負傷して本田と同じ病院に入院。当時無菌室に入っていた本田はボイスレコーダーを通して89歳という高齢の岩谷を「お母さん」と呼び激励した。
無菌室の本田と、動けない岩谷が、ボイスレコーダーを通して、病気と闘いながら励まし合う声の記録は感動的。
本田は、岩谷へのボイスレターに必ず自らの歌を録音していた。
ある日、珍しく本田は気持ちがブルーだと言いながらも歌ったのは岩谷時子作詞の「祈り」。
「神様 今日も、世界をおまもりください。
わたしにいのち 与えたもうた この御手で 曠野(あれの)は寒い 子羊は祈る。
神様 お恵みを さまよう者に。
おびえる子供らに 御救いを、おびえる子供らに 御救いを 。」
美奈子:「ねえ、お母さん。お母さんの詩ってすごいでしょ。心にいっぱいキズをおってしまって、自分が生きているのも辛くなるような子供達が最近増えていると思うんですね。そういう子供達に、お母さんの詩のメッセージ伝えるために、子供達の前で歌うことができたらいいなって、今思いました。」
時子:「とっても綺麗な歌声を聴いて、さわやかな気持ちで寝むれない春の夜を眠りました。やっぱり色々と考えることの多いこの頃だけど、あなたも私もこれから頑張って生きていかなければならない宿命を持っていると思うのね。だから、力を合わせて、何とか幸せに、周囲も幸せになるように頑張りましょうね。」
手術を受け回復したその後、
エム・ナマエ(ペンネーム)
ちょっとした点訳ボランティアにかかわってのこと、
私が分担する予定だったところがIさんと入れ替わることになった。
さっそく点訳にとりかかってみると、まず印象的だったのがそのペンネーム。
そして次に彼の肩書きが全盲のイラストレーターだったこと。
彼のモノクロのイラストを見ながら、絵本の文章とあとがきの点訳が終わると、早速「あとがき」にあったHPにおじました。
略歴から私がびっくりしたところのみを一部抜粋しましたので、関心のある方はぜひ、彼のページを訪問してみてください。
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・1948年、東京の、ごく一般的な家庭に生まれる。本名、生江雅則(なまえまさのり)。
・幼年時代よりの鮮明な記憶があり、それが母親よりも正確であることは周囲が証明している。3歳から意識的に絵をかいていた記憶がある。記憶の最初にあるのは寄席の絵。また、どの絵をどのように、どんな気持ちでかいたか、いちいち覚えていて、それが失明後の人生に役立つことになる。
・目白のキリスト教系列の幼稚園に入園する。だが、そこで、みんなと同時に同じことをさせられる毎日の連続に納得ができず、自分の意志で中退した。小学校に入学した直後から、学校内部で絵や作文の才能を高く評価されるが、小学校の、みんなと同じことをさせられる団体教育にも抵抗を感じていた。そこでおしゃべりばかりしていたら父兄参観日があり、父親から厳しく叱責され、庭で一晩を過ごせと命じられる。それ以後、仕方なく模範生徒になろうと努力する。
・進学した慶応義塾志木高校は創立当初は先進的な農業高校を目指した独創的な教育機関で、そこでのユニークな高校生活は以後の人格形成を決定する。自由な教育と豊かな自然や人間関係に恵まれ、充実した3年間を経験した。その頃、音楽や文化としてのビートルズに出会い、特に音楽家としてだけではなく、詩人や画家としてのジョン・レノンに大きく影響される。1966年のビートルズ東京ライブの体験は永遠に忘れられないものとなった。
・1967年慶応義塾大学法学部に入学。大学の漫画研究会に所属し、法律と漫画を同時に学ぶ。というのは世を忍ぶ借りの姿で、本当をいうと、入学してすぐに法律には興味がなくなっていた。その頃、漫画やイラストレーションがすべてであった。また、絵本への興味が深まり、文学部図書館情報学科教授、渡辺茂男先生の児童図書の講義を選択し、そこで学ぶ。1968年には学生ロックバンドのボーカリストとしても活動する。音楽業界からの誘いもあったが、結局は絵の道を選ぶことになる。
・1968年、最初の絵本、「雪の坊や」を自費出版する。物語は都会の自然を題材にしたもので、当時から環境問題をテーマにしていた。1969年、最初の個展「空」を開く。展覧会全体のテーマはやはり環境問題だった。複数の編集者に作品のテーマと色彩の美しさを認められる。1970年、慶応義塾大学法学部在学中よりプロのイラストレーターとしてデビューすることになった。
・イラストレーターとしてデビューしてすぐに多忙となり、大学は中退する。
・1980年、ジョン・レノンの死に多大なるダメージを受ける。その直後からエム ナマエにとって彼の存在は神と同格となる。それからの夢は、ジョン・レノンの仕事の百万分の1でもいいから引継ぎたいという願望になった。それは彼の歌う「イマジン」に現れるような世界の実現への貢献である。これがエム ナマエにとって「地球教」への目覚めとなった。
・1983年、視力と体調の低下のため病院を訪れた所、糖尿病と診断される。少年時代から病んでいたらしい。直ちに入院。そこで近い将来の失明を宣告される。糖尿病の克服に全力を注いだ結果、病状は著しく改善され、その年末からイラストレーションの仕事に復帰できた。しかし、翌年1984年、再入院。視力が著しく低下していった。半年の入院生活で人生最大の苦難と絶望を味わう。
・1984年クリスマス、担当のクリスチャンである眼科医師はエム ナマエを病院内の個室に招き、「あなたは神に選ばれたのです」と伝えた。退院直後の1985年新年5日夜明け、眠れずに苦悩していたエム ナマエに朝日と共に突然神からの啓示がくだる。瞬間的にそれが創造主であることを悟る。そこで宇宙の存在すべてが神より無限の愛を注がれていることを知り、愛の存在がくれる運命なら感謝して受け入れようと決心する。そこから世界がまるで新しく見えてきた。
・1986年2月、完全に失明。同時に人工透析を導入。しばらくは失意の底にあったが、すぐに失明前の決断を取り戻し、ボールペンを握り、作家デビューに全力チャレンジする。その年末、自分では読めない文字で長編SF童話を完成させる。1987年、その作品を推敲する。1988年、作品は処女長編童話として出版される。1989年、作品は児童文芸新人賞を受ける。以後、童話作家としての本格的執筆活動に入る。
・失明直後、一方的な理由でふたり目の妻から離婚を要求され、それを認める。以後、両親や友人、先輩の協力のもとに作家活動を続けていたが、1987年、現在の妻に出会い、交際を始める。1990年、周囲に祝福され、キリスト教会で結婚式をあげる。結婚の記念に失明後初めてかいた絵を版画にして友人らにプレゼントする。その作品がジャーナリズムに取り上げられ、話題となる。メディアにより、作品とエム ナマエの活動は一般に知られるようになる。しかし、もともとこれらの絵画作品はエム ナマエとの結婚を決意してくれた妻に楽しんでもらうためだけにかかれたものであった。
・1998年、ニューヨークで個展を開催する。そのとき、サムソナイトに潜ませて持参した失明後の版画「イマジン」(イメージ・ジョン・レノン)がカーターズ社との奇跡のドラマを展開させていく。天からジョンが導いてくれたような奇跡と偶然のドラマ。そして2000年、エム ナマエの作品は子供のための総合コレクションにアレンジされ、ジョン・レノンのそれと並んで全米に展開された。
・二千年期最後のジョンの命日、エム ナマエはジョン・レノン・ミュージアムのオフィシャルコンサートで歌うことを許される。少年時代からの夢、世界に通用する画家になりたい夢。ジョンが凶弾に倒れたときからの願い、その仕事の百万分の一でもいいから引継いでいきたい。それらの夢が二千年期最後の年に形となった。「夢は現実の卵」。エム ナマエのこの言葉は、その通りに実現したのである。
・さあ、いよいよ三千年期に突入した。これからどんな時代を築いていくのか。ひとりひとりで考え、ひとりひとりで実行し、そしてよりよき結果が導かれるよう、実践と討論を繰り返し、そして調和と融合を大切にしながら、新しい未来を模索していきたい。これから自分たちの選ぶひとつひとつの道が次の時代を開くのだから。
・現在、考えるところがあって特定の宗教や宗旨には属してはいない。ただ、すべての宗教を超越し、すべての宗教を融合させるような自分自身の信仰を深く抱いている。いわゆる自分教である。組織や団体によるものでなく、個人がいかに神の存在に目覚めるか。その存在に向かうか。これこそが真実の信仰の基本ではないだろうか。ジョン・レノンがいう宗教による争いのない世界は、これら真実の信仰に人々が目覚めたときに実現するのではないだろうか。宗教にこだわらず、いく所どこでも教会、神社仏閣を訪れ、あらゆる宗教の指導者とも接触するが、みんな誰でも同じことを信じている。そう実感している。一刻も早い宗教による戦争のない時代が実現することを夢見てやまない。
【か~こ】
金子 祐介
・父親に続く元ジャンパー
・2005年3月25日に札幌大倉山で行われた伊藤杯シーズンファイナル大倉山ナイタージャンプ大会で2本目に145.0mという驚異的バッケンレコード(ジャンプ台記録)を記録、2002年に原田雅彦が記録したそれまでの記録141.0mを4m更新した。
・本人曰く目が悪くて暗い着地斜面が見えず、気がついたら一番下の笹を越えて飛んでいたとのこと。
・翌2006年(05-06年)シーズンも夏場から好調さを見せ、トリノ五輪へ期待を寄せられていたが2005年11月28日に合宿先のフィンランドのロバニエミでフライト中に空中で板が外れるという事故に遭い顔面から墜落、当地で緊急手術を受け、顔面骨折・脳挫傷で意識が戻らないまま日本へ搬送される。
・その後意識は回復したものの自分の名前すら思い出せないほどの記憶喪失が残った。そんな段階でのリハビリで誰に教えられるでもなくジャンプのクラウチング姿勢をとったという。
・婚約者や、自身のスキーへの情熱に支えられてリハビリを重ね、翌シーズンに劇的な復活を果たし、11月に秋田県鹿角市花輪シャンツェでの復帰戦でいきなり優勝した。
・2007年11月に婚約者と結婚。
・その後一時は成績が落ち込んでいたが、2月13日の第22回国民体育大会のジャンプ成年Bの部で優勝。
・その舞台は復帰戦で優勝を遂げた鹿角市の花輪シャンツェであった。
・2008年3月2日、このシーズン限りでの現役引退を表明、3月22日の伊藤杯シーズンファイナルの4位を最後に、大倉山のバッケンレコードを保持したまま現役生活に別れを告げた。引退の理由に妻の重大な病気があったという。
・物心共に妻を支える金子の顔には責任感とともに充実感で満ち足りているようにみえた。
カルロ・ウルバニ
2009.3.30、日本で「豚インフル世界で流行の懸念」のニュースが流れました。
その後、6月になってテレビの番組で彼のことを見たのはこれで2度目です。
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彼は重症急性呼吸器症候群
(SARS) をはじめて新しい感染症と認定し、国際社会へ報告したイタリア人の内科医である。
国境なき医師団イタリア支部の会長を務め、1999年に同組織がノーベル平和賞を受賞した際には、授賞式に参加する代表団の一人であった。
アンコーナ大学で医学博士号を取得した後、世界保健機関に採用され、ハノイ(ベトナム)で主に寄生虫感染症の対策に取り組むことになる。
2003年2月の後半、中国からの旅行者を治療したベトナムの医療従事者の間で急速に重度化する肺炎が見られた。
このときの患者の第一発生国の情報公開の姿勢が大変重要だった。
彼は、E-メールで情報収集。日本の押谷仁医師とも情報交換。
この症候群を従来にないものと判断し、SARSという新病だと認定。
さらに、これが飛沫感染によるものと判断し、病棟の隔離処置を行った。
この前後に彼はSARSに感染したものと思われる。
同年3月11日にタイのバンコクを会議出席のため訪れた際に発症し、同地で46歳でこの世を去った。
だが、彼の警告により、世界保健機構は各国への警報を発することができ、ベトナムにおいてはSARSの大規模な流行を防ぐことができた。
河合利章
環境問題と生き方を考えるサークル活動をとおして知り合った方と久々の再会をしたときのこと、
美術品のコレクターとしての河合さんの話を聞きました。
どうして、アラブの石油王たちと張り合い、ゴッホなどの世界の名画を落札できるまでの大富豪となり得たのか、名画を落札する動機は何だったのか??気になりネットで調べると…
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・いたるところで幼少時極貧の家庭環境にあり、僅か小学校2年のときその境遇に対して逆に
「両親に感謝したことで今日がある」と常々話している。
・苦しい家計を助けるため小学校高学年で友だちと納豆売りをして、小学生にして自ずと「社長」と呼ばれる。
・15歳の修学旅行で京都美術館を訪ねた時、徳川家康の御用絵師として活躍した狩野探幽の作品に惹かれ、将来お金持ちになって、このような絵を所有すると決心。(もちろんそれは自分の欲のためではなかった。)
・学業終了後、19歳で「河合鉄工所」を設立し、生産効率を上げる画期的で独自な機械を次々と世に出す。
特に「河合の角ノミ盤KT-35」は、30数年前に1台250万円で年間800台を一人で販売。
このセールス記録(年間20億円の売上)は世界中で今でも破られず、伝説のセールスマンとしてでも有名。
・経営手腕は人並みはずれて優れ、先見性を持った土地と株の投資(まだ無名のビル・ゲイツに会いにいき、マイクロソフトに投資)で、巨万の富を築き、美術品の個人所有では今や日本一のコレクターと言われている。
・それが元となり松下幸之助や本田宗一郎、塚本幸一ら著名人との交友も幅広く親交を深めることになった。
・更に世界40カ国で河合美術コレクション展を開催し、その多くの国々から名誉市民賞を受賞されている。
・自身の成功哲学は大変シンプル ⇒ 超シンプルな「成功への7つのキーワード」(ワードデータ)へ
・ワコールの創業者、塚本氏が生前、全て自費で世界中の貧しい国へ自ら所有していた美術品を持参、コレクション展を実施されていた。
・美術コレクション展を止めたあと、親交があった塚本氏から背中を押される形で、全て自費で保有している美術コレクションを持参し、世界40カ国に無料コレクション展を開催。
♪*♪*♪*♪*♪*♪
【か~こ】川島隆太
感動したっ!!
友人たちとお茶したときに初めて「アンチエイジング」なる言葉を聞き、なるほど、私たちの年代はこれからもっともっと意識して記憶術を高め脳トレなるものをしなければ…と思ったものでした。
するとその日の夕方、川島先生がテレビで正にその説を唱えておられるではありませんか!早速彼女にメールし…
それから一躍時代の寵児となられ、「DS」だの「脳トレ」だので小耳にははさんでいましたが、
このニュースには脱帽し、そして2008.8.30縁ありまして、初めてDSにて先生監修の脳トレを体験することができました。
♪*♪*♪*♪*♪*♪
世界中で売れている『脳を鍛える大人のDSトレーニング』ゲーム。
その中で微笑んでいる顔が印象的な川島隆太教授(48歳)
このシリーズで生じた監修料約1100万ドルの受け取りを辞退した人物でもある。
AFPが最近行なったインタビューをまとめた記事によると、川島教授が勤める東北大学の規定で、教授はこれらのゲームで発生した監修料の半分を受け取る権利があるが、同教授はこの全額を研究室建設に回したという。
監修料はNintendo DSのみでも累積24億円にのぼり、教授はこのうち12億円を受け取る権利があるという。
川島教授は約1100万円の給料だけで満足だと述べ、
「家族はみな怒ってますが、私は、金が欲しいなら働いて稼げと言っているんです」と語っている。
川島教授は辞退した監修料を研究資金として使用し、東北大学加齢医学研究所に3億円をかけた研究室(最新のレーザー顕微鏡が約2億円)を建設した。4億円をかけた別の研究室(超高磁場の磁気共鳴画像装置設備)も、3月に完成する予定。
世界で最も成功したゲームの1つに顔を出しているにもかかわらず、川島教授自身はゲームをせず、仕事をして時間を過ごす方が好きだという。教授の子供たちも、平日のビデオゲームは禁止され、遊んでいいのは休日の1時間のみだった。
「ゲームの恐ろしいところは、いくらでも多くの時間を注ぎ込めることだ。ゲームをすること自体が悪いとは思わない。問題なのは、ゲームをすることで子供たちが、勉強や家族との会話といった大切なことをできなくなってしまうことだ」と、川島教授は言う。だからこそ、川島教授のゲームは1日数分で脳を鍛えられるようになっているのだろう。
♪*♪*♪*♪*♪*♪
そのとおり!
私は一時中止。最近また再開、たまに時間を見つけてやっていますが、ほんの数分~長くて15分ですね。
それでも、ちょっと鍛えられた実感があります。感謝!!
木村 秋則
NHKのプロフェッショナルの予告タイトルを見て、どうしても見たかったのだが…録画も忘れてました。
見た方にダイジェストでお聞きすると!!
ここはHPにフォローを頼むしかありませんね。
♪*♪*♪*♪*♪*♪
主人公はりんご
木村が農薬も肥料も使わないりんご栽培法を確立するまでには、長く壮絶な格闘があった。
かつて、農薬を使っていた木村だが、その農薬で皮膚がかぶれたことをきっかけに、農薬を使わない栽培に挑戦し始めた。
しかし、3年たっても4年たってもりんごは実らない。畑の雑草で食費を切りつめ、子供の文房具を買うにも苦しい極貧生活。
6年目の夏、絶望した木村は死を決意した。ロープを片手に死に場所を求めて岩木山をさまよう。
そこでふと目にしたドングリの木で栽培のヒントをつかむ。「なぜ山の木に害虫も病気も少ないのだろう?」
疑問に思い、根本の土を掘りかえすと、手で掘り返せるほど柔らかい。この土を再現すれば、りんごが実るのではないか?
早速、山の環境を畑で再現した。
8年目の春、木村の畑に奇跡が起こった。畑一面を覆い尽くすりんごの花。
それは豊かな実りを約束する、希望の花だった。その光景に木村は涙が止まらなかった。
育てない、手助けするだけ。
化学的に合成された農薬や肥料を一切使わない木村のりんごづくり。
不可能と言われた栽培を可能にした秘密は、畑にある。
木村の畑では、あえて雑草を伸び放題にしている。畑をできるだけ自然の状態に近づけることで、そこに豊かな生態系が生まれる。害虫を食べる益虫も繁殖することで、害虫の被害は大きくならない。さらに、葉の表面にもさまざまな菌が生息することで、病気の発生も抑えられる。
木村がやることは、人工的にりんごを育てるのではなく、りんごが本来持っている生命力を引き出し、育ちやすい環境を整えることだ。害虫の卵が増えすぎたと見れば手で取り、病気のまん延を防ぐためには酢を散布する。
すべては、徹底した自然観察から生まれた木村の流儀だ。
「私の栽培は目が農薬であり、肥料なんです」
クミコ
プロフィールより
・1978年に「世界歌謡祭」に日本代表として参加
・1982年にシャンソンの老舗・銀座「銀巴里」のオーディションに合格。
・1987年に”高橋久美子”の名前で出したミニアルバム「POKKOWA PA?」でデビュー。
・1994年に名前を”高橋クミコ”と改名するがヒット曲には恵まれず、声帯結節の手術で声を失う危機もあった・・・。
・1999年に作詞家・松本隆さんと出会い「あなたの歌には言霊がある」と絶賛され、名前を”クミコ”に改名して、46歳で再デビュー。
・2000年8月 松本隆氏・鈴木慶一氏共同プロデュースによる、シングル「接吻」をリリース。
・〃9月20日 アルバム「AURA アウラ」をリリース。“大人のポップス”を提唱し、話題となる。
・2002年 アルバム「愛の讃歌」に収録した「わが麗しき恋物語」が、“聴くものすべてが涙する歌”として大きな反響を呼び、シャンソンでは異例の大ヒットとなり一躍脚光を浴びる。
・2009年2月24日にはNEWシングル「INORI 〜祈り〜」(広島で原爆に被爆し亡くなった少女佐々木偵子をイメージ)をリリース。ヒット中
・現在、ライブ・コンサート他、エッセイ執筆、テレビ・ラジオ出演等、多方面で活躍中。
朝ズバで初めてクミコさんのことを知り、早速You Tubeで「わが麗しき恋物語」と「INORI 〜祈り〜」を聞きました。
You Tubeでも(失礼)涙があふれてきました。
松本隆の「あなたの歌には言霊がある」という言葉に納得です。
柴田 トヨ
1911(明治44)年6月26日、栃木市に生まれる。
裕福な米穀商の一人娘だったが、十代の頃に家が傾き、料理屋などへ奉公に出る。
三十三歳のとき、調理師の柴田曳吉と結婚。翌年、健一を授かる。曳吉とは1992(平成4)年、死別。
以来、宇都宮市内で一人暮らし(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
92歳から詩を書きはじめて、100歳近くなった現在までの詩をまとめて『くじけないで』という処女詩集が完成。
やなせたかしの書評によると
詩の質が進歩していることにも感動します。
生きてるということは本当にすばらしいとうれしくなる。
「私が詩を書くきっかけは倅のすすめでした。腰を痛めて趣味の日本舞踊が踊れなくなり、気落ちしていた私をなぐさめるためでした」と、あとがきにありますが、
それが天の声で、トヨさんの心の中でねむっていた詩の天使が眼をさまして、人生の晩年に歌いだしたのだと思います。
少しも枯れていない少女のような愛らしい声で。
詩はおもいついた時にノートに鉛筆で書き朗読しながら何度も書きなおして完成するので、1作品に1週間以上の時間がかかるそうですが、これは正しい詩のつくりかただと思います。
全部の詩がなめらかで読みやすい。耳にやさしくひびきます。
読んでいてひとりでにメロディが生まれて思わず歌ってしまった詩もありました。
ぼくは詩の楽しさはこういうところにもあると思っています。
もし詩のボクシングで、柴田トヨさんとぼくがリングで対戦することになったら、たたかう前にぼくはギブアップして平伏してしまいます。
詩集の最後に「秘密」という詩があります。
九十八歳でも
恋はするのよ
夢だってみるの
雲にだって乗りたいわ
「ぼくもそうだ」と心の中でトヨさんにさけびました。
高群 逸枝
高群逸枝は1894年(明治27)1月、熊本県下益城郡豊川村(現・宇城市)で、小学校長・高群勝太郎の長女として生れた。
自伝『火の国の女の日記』の冒頭で「私はこの世に歓迎せられて生まれてきた。そこには実に愉快なお伽ばなしがあった」と書いているが、子供に恵まれなかった両親は観音様に願をかけて、その初観音の縁日に逸枝は生まれた。男系中心家族制度の中で「観音さんの子」として両親から祝福され大事に育てられたが、このことが後の生活に大きな影響を与えた。
逸枝は霊感のある天才少女に成長し、校長として教育熱心な父は逸枝に文章作法を教え、文学少女に育て上げた。漢文の素養、皇国史観、後の女性史研究とその膨大な執筆量、日記は父譲りのもので、熊本女学校を卒業し、大正三年四月、西砥用尋常高等小学校代用教員となった。
大正6年8月、23歳の逸枝は同じく小学校代用教員をしていた橋本憲三と運命的な出会いを果たした。憲三は3歳年下で、左目を失明した虚無的な文学青年。2人は恋に落ち、恋愛至上主義の逸枝はすぐ「永遠の誓い」を書き送ったが、憲三にはぐらかされる。絶望した逸枝は四国をお遍路をしてまわり、「娘巡礼記」(104回)を『九州日日新聞』に発表、一躍、新進女流作家の誕生として注目を浴びた。
25歳で2人は婚約した。逸枝は詩集「放浪者詩」「胸を痛めて」、小説などを次々に発表、この間、最初の子供は死産する。憲三は大正11年、東京に出て小説「恋するものの道」(大正12年)などを発表し、平凡社に入社、アナーキズムに傾倒した。
昭和6(1941)年7月1日は、日本の女性にとって記念すべき『日本の女性学誕生』の日となった。この日、未知なる学問探求への冒険が熱い志を持った高群逸枝37歳と橋本憲三34歳の夫婦によって始まったのです。
東京世田谷区中在家の雑木林の中に敷地面積200坪、クリーム色の方形の2階建て延べ30坪に2人の女性史研究所兼住宅が完成した。ソローの「森の生活」にちなんで『森の家』と名づけられた。1,2階には各3部屋あり、2階に5坪の書斎、ここのタタミ敷の書斎には大きな仕事机が真ん中に1つ、周囲の壁の本棚にはまだ1冊の本もない。机の上には[古事記伝](本居宣長著)が1冊があるのみ。
高群は不安と決意を胸に、1人で机の前にポツンと座った。日本の女性学がスタートした瞬間です。高群は「腹は借りもの」の言葉に怒り、未踏の「女性史」の研究に挑んだのです。研究のきっかけとなったのは強い愛情と信頼で結ばれた2人の会話からだった。
憲三は「あなたの才能は非凡で、稀有なもので、私はそれをしっかりと見てきました。それに野性的なその美貌はカルメンや『緑の館』のリーマに匹敵するものです。私はあなたの下僕となり、よい後援者になる。生活は保証するので女性史の体系化に取り組もう」と熱心に提案した。「私の希望は有名な学者になることではなく、生涯無名の一坑夫になることなの。前途はひどく暗く、貧苦と病苦がともなうだけ・・」と逸枝が答えると、
「いいよ、二人でやろう」と憲三は決意を告げた。(高群著「火の国の日記」(理論社、1965年)
こうして、研究所兼住居が完成した。逸枝はそれまでの一切の文筆生活をたち切って、10年計画で婦人論、恋愛論など3部作を完成させる予定だったが、書架にはまだ1冊の参考書とてない。歴史学は全く初めてという、無知、無一文からの出発であった。
逸枝は『門外不出』『面会謝絶』『1日最低10時間以上は勉強する』という鉄のオキテを自らに課した。そして、金がない、資料もない、専門家でもない、まだ方法論もない、と全くのないないづくしで船出したのです。
当時の逸枝の日課は起床6時、8時に朝食、それから書斎に入って勉強し、昼食ぬきで午後4時まで、午後6時に夕食、そのあと執筆、勉強、午後10時就寝だったが、以後ますます厳しくなっていく。2人は女性史完成のためにすべての生活費も切り詰め,
逸枝は和服を洋服に縫いかえ、夫のズボンをスカートに変えたりしながら、互に髪きりあっては散髪代も節約したといいます。
憲三は妻にかわって生活費を稼ぎ、家事、生活の雑事の大部分を分担して、研究に必要な専門書、文献、古本や資料の探索、蒐集、購入を一切やるほか、執筆の手伝い、書いた原稿のチェック、内容の検討、分析を逸枝と2人会議と称して熱心にディスカッションしています。もともの優れた編集者であり、本づくりのプロであった憲三が編集作業の全般を行って逸枝の研究を全面的にバックアップしたのです。逸枝は書斎から一歩も出ず、面会謝絶にして、文献を読破してはカードを作って研究、執筆にひたすら打ち込む。(「国文学」09年4月号に掲載)
このあたりは、筆者は専門的な知識に欠けているので論評できませんが、いずれにしても今のように、フェミニズム、ジェンダー論が盛んになる70年も前に、在野で徒手空拳でもって女性学を切り開いた高群の先駆的な業績は決して小さいものではない。
さらに、ここでもっと注目すべきは高群の研究を全面的に支えた憲三の献身的な愛情であり、フェミニストぶりであり、夫婦一体愛の深さである。
憲三は彼女の月経で汚れた下着を何度か洗濯したことも赤裸々に書いているが、ここまで家事全般を肩代わりし、妻に優しい愛情を示し、その才能の開花を献身的に支えた日本男性がいたであろうか。
憲三は高群の死後も『高群逸枝雑誌』(季刊で合計31号)を死ぬまで発行して女性史研究を深化させ、未完の『火の国の女の日記』も補筆して出版。
同時に2人の共同作業ぶりについては『同日記』や、堀場清子・橋本憲三『わが高群逸枝(上下)』(朝日新聞社、昭和56年刊)の中で詳細に語っており、後進の女性史研究に道を開いた点は、閉鎖的な大学、男社会の学閥に閉じこもった専門家、研究者とは180度違うところである。1964(昭和39)6月7日、逸枝はガン性腹膜炎で70歳で亡くなった。(「国文学」09年4月号に掲載)
「私がいかにあなたを好きだったか、いつでもあなたが出てくると、私は何もかもすべてを打っちゃって、すっ飛んでいった。私とあなたの愛が火の国(自叙伝)でこそよくわかるだろう。しまいまで書いて置いてください。ほんとうに私たちは一体になりました(逸枝)
「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」(憲三)、
「われわれはほんとうにしあわせでしたね」(逸枝)
「われわれはほんとうにしあわせでした」(憲三)と力をいれてこたえ、さらに顔を近づけて私が、「………」というと、彼女ははっきりうなずいて、「そうです」 といった。彼女は心からそれをゆるし、そしてよろこんでいるのだった。いまこそわれわれ一体になったのだ。
一九六四(昭和三九)年六月七日午後十時四十五分、逸枝の生命は燃え尽きた。
連絡でかけつけた憲三は妻・逸枝の髪をなでやわらかい頭をかかえてくちびるを合わせた。
翌日、その遺体は平塚らいてうらによって見送られた。
憲三は夫婦の愛の結晶ともいうべき「高群逸枝全集(全10巻)」(理論社)を完成させて、昭和51年(1976)五月、79歳でなくなった。
「結婚とは死にまでいたる恋愛の完成である」とは逸枝の言葉だが、ここまで深い愛を完成させた夫婦がいたであろうか。
(「国文学」09年4月号に掲載)
ターシャ・テューダー
何か探し物をしていたら、ターシャの本のタイトルが見つかった。
あたたかい声が聞こえた。
この本の見出しは以下のようなものでした。
1)幸福とは、心が充たされること
2)世界を好きなように造れる職業
3)ガーデニングとガーリックと山羊の乳
4)価値のある良いことは、時間も手間もかかるもの
5)死さえ怖くないのは、人生に悔いがないから
すると数日後に偶然NHKで「ターシャの庭」に関する番組を見つけた。
さらに、図書館で本を借りてきた。
友人からNHKの番組を録画したDVDを借りることになった。
以後、ターシャのライフスタイルは私の潜在意識の奥深いところであたためられ続けています。
田中 義剛
・今では牧場経営でも有名になったが、歌手でありタレントである。
・北海道に牧場を持っているという話は知っていたが、ここまで牧場経営をする実業家であるとは知らなかった。
・テレビ番組『波瀾万丈』を見た。更に『オーラの泉』を見た。
・花畑牧場では今1日450人が24時間フル稼働(3交代?)で働いている。
搾りたての牛乳を使った生キャラメル。その製法は銅鍋で煮立てるだけ。およそ45分。
・へらを使ってひたすらかき回す。パレットに平らにして冷やし固まるとカットする。
担当者が味見をして品質を厳しくチェックする。
・手作業のため生キャラメルの廃棄率は1割~2割にのぼる。かき混ぜ方、わずかのタイミングミスで商品価値がなくなってしまう。味見テストに合格した物が包装され、人の手で箱詰めされる。
・また花畑牧場を世に知らしめたチーズも加工工程のほとんどが手作業であり、ガラス越しに一般に公開もされている。
・今、新しいスイーツ工場、ビニールハウスの豚舎増設をしている。全てが順調に進んでいるようにみえる現在だが、ここにたどり着くまでには多くの困難があったという。
・1958年3月,田中義剛は青森県八戸市でサラリーマンの家庭に生まれる。
・中学・高校時代はフォークソングが流行。夢中になった。
・1978年8月、中学時代の大親友が船員となり,オホーツク海で沈み亡くなる。
それが大分ショックで、供養のためオホーツクの海を一人旅に出かける。
・そのとき「(北海道で見た)馬や牛がすごく良かった。可愛くってしょうがない」「牧場をやってみたい」とポツリと言ったという。・当時みんな青森から東京へと思っていたが「俺だけ一人北海道に行きましたね。酪農でやってみよう」と思い、1976年酪農大学へ入学。そして実習のときすでに現在の酪農のあり方を考えていたという。「牛飼って、乳搾ってだけじゃなくて、さらにそこから商品にする、チーズにする、乳製品にするところまで考えた酪農をやりたかったですね」という。
・歌手としてデビューしたのは酪農の資金稼ぎのため。1986年のことだった。その後、タレント活動に入る。実現はなかなかできなかったが「牛を飼う」「牧場を持つ」これだけは変わらなかったという。
・しかし、北海道で新規に農業を始めるには農地の取得に厚い壁がある。農地の取得には農地法の規定で地元の農業委員会の承認が必要なのだ。「当時は本当にうってくれなかったですね」「しつこさしかない。何回も通ってとにかく農地法さえクリアしたら成功する自身があるというのを認めてもらうまで通いましたね」2年間通って1993年農地取得。
・しかし「23ha、7万坪っていう土地、こんな大きなサイズでしか買えない。この場所しかない。電気も水道もなくてインフラだけで億という金がかかりました」
・さらに「当時農協サイドから『たくさん牛飼え』って言われたんですけど、私はそういうの興味ないと。『牛1頭からやる』と。
『牛1頭飼って、牛乳搾ってチーズを作る…』そういうのをやりたいと押し通しました」
・周りの反応は「もう、『タレントが遊びで何かやってる』みたいな・・・冷ややか―なもんですね」牛1頭からの酪農。初めは大赤字だったという。
・「牛1頭から牛乳搾ってチーズ作り始めたんですけど、これが全然うまくいかなくて大赤字になりましたね。当然製品も悪かったですね。最悪でした。チーズも上手に作れませんでしたし、まあ素人経営ですよね」「10年間はね赤字覚悟してましたから」「その分は芸能界で稼いで補填しようと思ってましたから」
ここまで聞くと、いいよなー、補填できるバックボーンがあるんだから、と思ってしまう。
でも、普通でいけば芸能界にはいって全国的に名前を売るだけでもすごいことなのにそれが元々補填事業だったのです。普通10年間も赤字覚悟ではできないでしょう。
・2006年3月、牛乳廃棄問題が起きる。(次にバター不足が起きた。そして、今は口蹄疫。大変な事業だ。)
・Jリード(農事組合)の井下さんが「この現状を報道してもらいたい、伝えてもらいたいと田中さんに相談をした。井下さんは田中義剛の大学の1年後輩だった。それを聞いた義剛は「びっくりしましたよね。『なにそれ』って。『捨てろ』っていうのは農家に『死ね』って言うようなものですから。これ、農業政策の失敗でしょう。その失敗なのに誰も責任取らない。苦しんでるのは末端の農家だけ。これは許せない!」井下氏と一緒に北海道農協に実情を訴えたという。
・牛乳廃棄は義剛にとって転機になった。「いくらいい牛乳を作っても国の政策一つ農協の政策一つで捨てられるんだったら『(加工品を)作ってやろうじゃないの』って開き直りましたね」「それで、カチョカヴァロ(チーズの一種)の生産を倍にしたんですよ。工場作って」それから近隣の酪農家から牛乳を受け入れ、それを原料に乳製品を本格的に作り始めた。義剛は牛乳廃棄問題を大きなビジネスチャンスにしたのだ。
・そして、今年。チーズから出る廃棄物ホエー(上澄み液)を使ったビジネスを始めた。ホエーには乳酸菌やミネラルなどの栄養が豊富に含まれている。このホエーを豚に与えると「食いつきも良くなる(えさを良く食べる)し病気もしなくなる。ホエーを飲むと肉質が柔らかくなる」という。それをコストの安いビニールハウスで飼育するのだ。それに豚舎はバイオ・ベッドだ。これはおが屑を中央にうずたかく盛り上げ、糞尿を微生物に分解させる。暖かく臭いもしなくなる。匂いがなくジューシーで柔らかいホエー豚になるという。
・俺が何でここまでやれたのかって言いますと、逆境にへこまなかったから。その時こそパワーが来て何かやってやろうと」思ったからだという。
そして牛乳廃棄から2年。
・また飼料の高騰・原油高による資材の高騰で酪農を辞める農家が増えているという。義剛はいう「今のままだと(酪農家は)なくなりますよ。やったって意味ないもん、赤字だから。えさは上がる、原料代は上がる、牛乳の値段は2年に1回何円かしか上がらない。『バターがない』っていま騒いでいるでしょう。次、牛乳がなくなりますよ。これも俺らの中では予測の範囲ですよ」 。
・そんな中で日本の酪農の将来は「付加価値をつけたブランドビジネスですよ。付加価値をつけた牛乳を今度は『どう売るか』を農協,国がらみて考えろってことです」
棚橋 絢子
幼少から父親の影響で学問に親しみ、若くして失明した漢学者棚橋大作と結婚し、愛知県で寺子屋や私塾などを開いた。その後上京して、貴族の娘の家庭教師や学習院等で教師として活躍した。
58歳の時、名古屋市が高等女学校(現在の菊里高等学校)の創設を依頼し、初代「おなご校長」として評判となる。
その後、東京高等女学校(現東京女子学園)の初代校長として65歳で就任し、100歳まで校長職にあった。
「女子には教育はいらない」と言われた時代、絢子のいう良妻賢母とは伝記によると「女子も知性に基づいて自らの力で判断し、行動する能力を養わねばならない」。技能を身につけ、経済的に自立する力を持つべきだとの考えだった。
どんな時代でも男性と同じように女性も教育を受けることが大切であると教え続けた。
101歳で没。訃報は、ニューヨーク・タイムズにも掲載された。
中田 正一
・若い頃日中戦争で兵隊として中国の鉄道や建物等の破壊工作に従事した。
・帰国後はその反省から農業関係の仕事に就く。しかし、高度経済成長で破壊される日本の農業に嫌気がさし、1960年代後半から、依頼されてアフガニスタンの農業指導者となった。
・その頃のアフガニスタンは緑豊かで、昔ながらの農業が行われる穏やかな国だった。だが、1979年のソ連侵攻以後、アフガニスタンは荒廃する。彼はその前に任務を終えて帰国していた。
・その後妻に先立たれた中田氏は、今度はバングラデシュに赴き再び農業指導に従事する。そのときの年齢が72歳。そこで同じくNGO活動家として、学校で子供達を教えていた女性(42歳)と知り合う。そして、翌年彼女と結婚する。
・1984年、中田氏は78歳で千葉に「風の学校」というNGO活動家養成のための学校を作った。
・奥さんは当初そんな物好きは来ないと言ったが、ぽつぽつと入学者が集まり始める。
ところが、中田氏はろくに教えない。自分たちでただ農業をやらせるばかり。貧しい国に行ったときは、全て自力でやるしかない。彼は「自力で解決するたくましさ」を身につけて欲しいから、敢えて教えなかったそうだ。
・その中田氏が一転貧しい国に必要なものは水、井戸掘りを教えたいと勉強し始めた。そう決心したときが80歳。
彼は苦労した挙げ句、日本古来の「上総(かずさ)堀り」の井戸掘り法を知り、工夫と改良を経てやっと井戸掘りのやり方を完成させた。
・途中7年間、中田がバングラデシュへ赴任したが、有志および研修生達により続けられ82年までに70余人の生徒が隊員として世界へ巣立って行った。帰国した中田は、国際協力会にはっきりとした指針をもたせ、風の学校と新たに命名、年会費3千円で協力者を募って財政面を整え、84年再スタートした。
農業部門と井戸掘りを新たに研修内容に加え、自活実習方式は引き継ぎ、新しく「適正技術開発」を打ち出した。その国で手に入る材料を用い、住民と手作りしようとするもので、結局その国に見合った技術しか定着しないためだ。これまでフィリピンとセネガルに30本の井戸を住民と共に掘ってきた。
・1989年にはフィリピンの貧しい地区で井戸掘りを始めた。
・その年ソ連がアフガニスタンから撤退。中田氏は荒廃したアフガニスタンで井戸掘りをしようと隣国パキスタンへ飛ぶ。しかし、アフガニスタン政権は外国人を入れようとしない。二度試みて失敗、三度目は現地の人に変装してまで入国しようとするが、結局達成できずあきらめて帰国した。
・その直後中田氏は脳腫瘍で倒れ、1991年10月に亡くなった(享年85歳)。その頃彼の弟子達がフィリピンで井戸掘りをしている。彼は病床からその様子が撮影されたビデオを眺めていた。だが、井戸掘りが成功したビデオを見ることはできなかった。
・その後中田氏の弟子達はアフガニスタンで井戸掘りを始めた。だが、その施設も米軍のアフガン戦争空爆によって破壊されてしまった……。
・中田氏の言葉
「今日一日自分でできることを精一杯やる。そうすれば、明日は今日より少しだけいいものになるだろう」と。
「助けることは助けられること」
ネルソン・マンデラ
1918年7月18日、南アフリカのウムタタ地方生まれ。弁護士。
アパルトヘイトを無くすために闘い続け、63年に国家反逆罪などの罪で政治囚として終身刑を宣告され、ロベン島収容所に収監(18年)
。他に2つの刑務所で暮らす。先進諸国の経済封鎖等の圧力もあり処刑をまぬがれた。
27年間の刑務所暮らしに耐え、90年に釈放された彼は翌年にANCの議長に選出され、ついに94年には南アフリカ共和国の大統領に選出。
その前年の93年にはノーベル平和賞も受賞しています。また民族の融和にも尽力し、アパルトヘイト制度撤廃と共に96年には真実和解委員会を設置しました。この委員会はアパルトヘイトの下に行われた人権侵害などの被害者の救済と民族の和解を対話によって進めていくというものです。現在は公職から退き、ユネスコの親善大使を務めています。
マンデラが大統領となり、大きな進歩を遂げた南アフリカ共和国。しかし、南アフリカ共和国が真の「虹の国」となるにはまだまだ課題が残されています。女性と少女に対する暴力、難民・庇護希望者・移民に対する人権侵害、改善されないHIV/エイズ問題、犯罪加害者の免責、警察などによる拷問・虐待が繰り返されているのが現状です。
2010年6月、治安の悪さが心配される中でサッカーワールドカップ開催。御年92歳冬の寒さを押して、開会式でスピーチをするはずだったが、直前夜孫の事故死により急きょ取りやめとなった。『マンデラの名もなき看守』という映画を見た直後なので(獄中彼の息子が事故死、マンデラがロベン島を出てから看守の息子が事故死)。改めて氏の心の痛みに深い哀悼の意を表します。
■今後の抱負
風の学校で学んだ生徒達が、世界に散って自分の風の学校、水の学校、森の学校などを創り、民族や思想の違いを超え、分かち合い補い合い輝いて生きる青年が育つ人材育成の場でありたい。
■思い出深い出来事
ある年フィリピンのゴミ捨て場に井戸を掘った。岩盤続きで一般的なチューブ方式では無理で、丸井戸の要領で掘ることになった。人が中に入って掘り下げるため、人も土砂も1本の釣瓶で出入りする困難で危険な現場であった。住民と共に工夫しながら、ともかく50mあまりで水飲み水を得ることができ、完成を喜んだ。
ところが日ならずして涸れてしまったというのである。相手方NGOとは保守管理について話し合ってあるので、住民の数や使い方をみて給水制限をしていると思っていた。しかし遠くから水を汲みに来る婦人子ども達を前に通用するはずもなく、地域住民が使うぐらいにしか考えていなかった我々の認識の甘さを強烈に知らされた。井戸があまりにも少ないのである。
■工夫している点やユニークな方法論
風の学校と名付けたのは、風の持つ存在感・エネルギー・自由・国境を越えて吹く風であれとの願いを込め、教育的な仕事で関わり合いたいとの願いからである。建物も学校らしい設備もカリキュラムも何もない。あるのは農家の廃屋と産業廃棄物の山である。
生徒はここに寝泊まりして自活実習で研修を積む。生徒自身が風の学校である。自分の目的をきちんと持ち、何をどのように勉強したいのかはっきりしていないと続かない。風の学校はその人に合った分校や指導者を決めるが、全員ボランティアである。
■運動の問題点
近年、女性の井戸掘り希望者が目立って多くなってきたが指導者がいない。
■運動を続けるポイント
金と物の協力はしない。技術はあくまでも手段であり人が交流することが目的である。風の学校の国際協力哲学は「助けることは助けられること」。広い意味での平和運動ととらえている。単なる技術者の養成所ではない。
新妻香織
フー太郎基金理事長。
フー太郎と出会ったのは、エチオピアが30年にわたる内戦を終えたばかりの1994年のこと。
少年たちにいじめられていたふくろうの子供(フー太郎)を買い取ったことがはじまりでした。ふたたびフー太郎を自然に帰すため、2人(1人と1羽?)は森を捜す旅に出掛けます。
しかし、目に映るのはどこまでも続く乾いた大地ばかり。森どころか1本の木を見つけることさえ難しいという有り様でした。「森はどこへ消えたのだろう?」。そう、エチオピアはここ数十年の間に、いきすぎた農地の拡張(過耕作)や過放牧、燃料確保のための無計画な森林伐採によって、かつて国土の40%あった森をわずか4%にまで減らしてしまっていたのです。
木がないということ、それは土が無くなり、水がなくなってしまうという事。エチオピアの人々は乾季の干上がった川を掘り、わずかににじみ出る泥水をすくっていました。年間10億トンもの土壌流出で土地は痩せ、農業も立ちゆかない状態に陥っていたのでした。
フー太郎が安心して帰れる森を作ってあげたい。この深刻な水と緑の問題に対して何らかのアクションを起こさなければ。そんな思いからフー太郎の森基金の一歩を踏み出したという。
平林 都
・幼い頃に母親を亡くし、父親も女性と遊び歩いてばかりでほとんど家に帰らなかったため、高校卒業まで叔父夫婦の元で育つ。そのため子供ながらに「(叔父・叔母に)嫌われないように頑張らなきゃ」と笑顔でいることを心がけたことが、接遇を極めるきっかけになったという。
・近所の人にかわいがってもうらうために、小学生のときの運動会でお弁当を食べるとき、高校生になったときにはじめたアルバイトで…生き抜くために、幸せになるために、自然と人との接し方を学んだ。
・本人曰く「(高校卒業後は)本当は大学に行きたかったが、叔父夫婦に言い出すことはできず、自分より成績の悪い同級生が大学へ進学していくのを見て、とても悔しい思いをした」とのこと。
・高校卒業後、兵庫県の信用金庫に就職。自らの給料で、茶道、着付け、華道などの習い事を1週間に12ヶ所も通う。その中で最も魅力を感じた「マナー講習」「接遇」を極め、27歳の時に、経営者兼講師としてエレガントマナースクールを開業。このマナースクールが評判になり、病院・銀行・自動車販売店など数多くの研修を担当、受け持った企業の業績を確実に伸ばし、現在では年間で300件以上の研修をこなしている。
・マナー講師、エレガントマナースクール代表取締役。
・妥協を絶対に許さないスパルタ指導でも知られており、受講者に少しのミスでもあれば、関西弁で叱責し怒声を浴びせるのが特徴
・怒声と笑顔のギャップを自らのギャグ?看板としてイメージ化している。また、自ら研修先のユニフォームを着用して働きながら指導していくスタイルも注目されている。
・経営者としての立場から研修先の経営方針についてもアドバイスすることがあり、例えば高知県の病院(野市中央病院)では専業主婦を多く採用し、診察待ちの患者にお茶を出したり、高齢の患者を自宅までバスで送迎するなどの改革を実現させている。
・家庭では、大学生の娘が1人いる。その父親である男性とは別居の後に離婚したと2010年3月放送回の『踊る!さんま御殿!!』出演時に告白。
・テレビ出演時に年齢を尋ねられることが多いが、必ず「それを聞くのはマナー違反ですよ。秘密です。」と笑顔でかわしている。
ビル・ゲイツ
君たちの祖父母はハンバーガーを引っくり返すことを別の表現を使った。
それはチャンスと呼ばれた。
ビル・ゲイツは最近は慈善活動に関心があるということであろう。
ビル・ゲイツの慈善活動については、以前バフェットの慈善活動と一緒に取り上げた。最近の動きとしては、ビル・ゲイツはバフェットと組むばかりでなく、バフェットのバークシャー・ハサウェイの後継者になるらしい。(※参考)
そのような慈善活動の背景となるビル・ゲイツやバフェットの考えについてそれほど著作は多くないようだが、「ゲイツとバフェット
新しい資本主義を語る」(徳間書店)でビル・ゲイツの講演やバフェットとの対談がある。
本書によれば、ビル・ゲイツは、資本主義の営利活動と慈善活動を両立しないものであると捉えていない。例えば「評価」のようなインセンティブを機能させることで両者は両立するとし、両立させる資本主義を「創造的資本主義」としている。
ここまでは一般的なCSR、SRIの考えに近いが、次に注目。
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そのシステムには、二つの使命が課せられることとなります。収益をあげること、そしてさらに、市場取引から十分な恩恵を受けることができない人々の生活を改善すること、この二点です。このシステムを長期にわたり持続していくためには、常に利益インセンティブを利用する必要があります。(p16)
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むしろ資本主義で長期的に慈善活動を持続させるには、慈善活動が営利活動の中にうまくインセンティブとして組み込まれる必要があるというようなこと。
この点はおそらく重要なところで、「現実的な」仕組みとして機能させるにはこうでなければならないということであろう。
CSR、SRIについて考える上で、「偽善」が大きな問題。そのCSRは慈善活動かというとき、「いやただの営利活動です」ということでいいじゃないですか、と。
営利活動を追求しているうちに慈善もしてしまうという仕組みがあればいいということ。それはアダム・スミスの「見えざる手」のような話である。ビル・ゲイツは講演の中でスミスの「道徳感情論」(訳では「道徳情操論」)を引用しているし、p16の「資本主義の特質は個人の利益をより多くの人の利益に敷衍できることにあります」あたりを読むと、スミスの影がみられる。
最近は自由主義的な論調がなくなった感じで、中谷巌のように人々の思想基盤が揺らいでいることを反映してか、「アダム・スミス」(堂目卓生 中公新書)が少し前に売れて話題となった。
アダム・スミスと言えば「富国論」が有名で、近代経済学の祖という感じだが、マル経の源流でもある。「アダム・スミス」でもまず「道徳感情論」があるという話から。
やはり面白いのが、経済を発展させるのは、人間の中にある「弱さ」というところ。
スミスによれば、「賢人」は「最低限の富さえあれば、それ以上の富の増加は自分の幸福に何の影響ももたらさないと予想する」(p83)ので、経済は発展しない。
「弱い人」は「野心」や「幻想」を抱き、その「欺瞞」や「虚栄心」が経済を発展させるとする。
「弱い人」の富は、自らの「利己心」と「貪欲」によって社会に「分配」される。これを「見えざる手」と呼んでいる。
堀 文子
『ゆうゆう』2010.1.に掲載された写真が凛として美しかった。
1918(大正7年)東京生まれ。とあるから取材当時御年92?歳
「…。スケッチというのは大自然と私の感性との間に火花が散った瞬間、自然という神が私に何かを発信している瞬間ですから。私の中のDNAを通して神と私が感応しているといいますか。まことに不思議な、まるで雷が落ちるような感じで、私にも何が起こっているかわからないんです。だから二度と同じチャンスはないんですね。」
女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科日本画部卒業。
女子美術専門学校在学中の1938年に第2回新美術人協会展入選。
1940年に女子美術専門学校を卒業し新美術人協会会員になる。
画家としての活動のほか、『キンダーブック』(フレーベル館)、『ふたば』などで挿画、装幀を描く。
29歳のときに外交官の箕輪三郎氏と結婚、43歳のときに夫と死別。
1961年から1963年にかけ世界放浪の旅へ出る。
旅の中でアンフォルメル、シュルレアリスムの影響を離れ、日本画の持つ色彩や顔料の美しさに回帰する。1967年に神奈川県大磯に転居。
1974年、創画会の結成に参画。1974年から1999年まで多摩美術大学日本画科教授として日本画の指導にあたる。
1981年に軽井沢にアトリエを構える。1987年にイタリアアレッツォにアトリエを構える。1992年にアレッツオ市で堀文子個展を開催。
1995年にアマゾン川、マヤ遺跡・インカ遺跡へスケッチ旅行。1999年に創画会を退会。
2000年、82歳のときに幻の高山植物ブルーポピーを求め、ヒマラヤ山脈の高地を走破(「アーティストたちの挑戦
ヒマラヤ 高き峰をもとめて 日本画家 堀文子」(NHK収録/放送、2000年)。
2001年に病(解離性動脈瘤)に倒れて以降、長期間の取材旅行に出かけられなくなったことから微生物に着目し、海中に生きる命をモチーフとする作品を発表。これらの作品は画文集や個展で発表されている。
自然の中に存在する命をモチーフとする作品が多く「花の画家」と呼ばれることもある。
日本画のほか、装幀、随筆でも多くの作品を発表している。
自然の命を描き続ける日本画家。
自由であるために、真剣に孤独と向き合う姿、凛々しくも洒脱味溢れる言葉が、私たちの心の奥に眠っている勇気の種に火をつける。
「人間誰でもいろいろな意味で、悩んだり、悔しかったり、ひどい目に遭ったり、生きるということは毎日が大騒ぎじゃないですか。
そんなときに、お説教されるのは嫌ですが、何か自分の気持ちに相応しい言葉と出会ったりするのは嬉しいものです。
この本は、短い言葉で、いつ、どのページを開いてもいいというのがいい。自分で読み返してみても、なかなかうまいこといっているなと思います。
私は、人に相談しないし、自由でいることに命を懸けてきたような人間ですから、私の言葉が何の役に立つのかわかりませんけど」
(堀文子の言葉 ひとりで生きるまえがき抜粋)
「自由は、命懸けのこと。」
「群れない、他人に頼らない、慣れない、がモットーです。」
山野井 泰史(やまのい やすし )
高校就学時よりアルパイン・クライミングに傾倒。高校卒業後はアメリカ合衆国のヨセミテなどでフリークライミングに没頭する。
その後はビッグウォールに転身し、妻の妙子とともに、毎年新ルートを開拓する。
ギャチュン・カン北壁の登攀後、嵐と雪崩に巻き込まれ重度の凍傷に罹り手足の指10本を切断する重傷を負うも、クライミングへの熱意は冷めず、オールラウンドな挑戦を続けている。
2008年9月17日、自宅近くの奥多摩湖北側の倉戸山登山道付近をジョギング中に熊に襲われ、顔などに重傷を負い、ヘリコプターで青梅市内の病院へ搬送された。右腕20針、顔面70針を縫い、9月24日まで入院する。
山田 次朗吉
直心影流の山田次朗吉という、仙人のような剣士。
剣を心の修養と考え、明治維新で剣が無用と言われた時代にあえて剣の道を志し、深奥を極めた人。
関東大震災を数年前に予言したとの話もあり、常識ではとらえきれない人です。
そばにいれば、すがすがしい気持ちになった人のようです。
山田は芥川龍之介が府立三中の学生だったころの剣道の先生でもあります。
『大東京繁盛記下町編』の「本所両国」で、芥川は山田のことを描写して、「仙人になる道も修業していた」と書いています。
第4代経団連会長だった土光敏夫さんはもともとはエンジニアでしたが、若いころから志が高かった。
85歳で政府に請われ、行政改革にトライした「メザシの土光さん」です。50代のころから企業再建で名をはせた土光さんは、社員をものすごく働かせましたが、自分もモーレツに働いていました。
フジ子・ヘミング
今日初めて公式サイトを拝見しました。
ピアニストとしての類まれなる才能をもちながらも、
国籍がなかったゆえの苦労、
音楽家として生きてゆく苦労、
平凡な家族に恵まれなかった苦労、
2年間耳が聞こえないという体験の後、治療に専念し現在は左耳の約40%が回復。
治療の傍ら音楽学校教師の資格も取得。
以後はピアノ教師として後進の指導にに当たる一方、欧州各地でのコンサート活動で再起を果たしたピアニスト…
http://www.jvcmusic.co.jp/fujiko/profile/index.html
CD Fujiko Hemming フジ子・ヘミング こころの軌跡 での坂口紀三和の解説
2003.10.17 スペシャルドラマ『フジ子・ヘミングの軌跡』
以前「誰でもピカソ」に出演したときに周りが披露するので、やむなく
「 できる人みんなで少し貧しい人を援助すればいいんじゃないですか」とそのテレビ出演料を寄付することもさらっと言ってやってのける人。
2009年のNHKのもう一度見たい番組ベスト50の一つに
ドキュメンタリー ETV特集「フジコ~あるピアニストの軌跡~」(1999.2.11 放送後も異例の短期間再放送・再再放送 続編も)が。
ピアニストのフジ子・ヘミングを丹念に追いかけたドキュメンタリー。
放送後には日本中でフジ子ブームが起こるほどの影響を与えた番組。
不思議なご縁で、録画して見ることができました。
番組最後に語られているように、彼女の聴覚を失ってのちの再起にこの番組のディレクターとの出会いなくしては難しかったことでしょう。
別のテレビ番組で(安住さんがレポーターでした)気になったエピソード
・フジコ・へミングが番組内で紹介した聖書の言葉。
ひょんなことから警察に通報され、精神病院に送り込まれ、やむなく病棟で宿泊することに。
周りの状況に眠れないフジコはピアノを目にし、やさしく癒しの曲を奏でると、心を病んだ人達や医療にあたっていた職員たちが集まってき、涙を流す人も。
それで、もう一度フジコがピアニストを目指そうとする。
後日教会に行き、聖書に目を落とすと、
「どんなに遅くなっても待っていなさい。その時は必ず訪れる。」
それは、さらにいっそうもう一度ピアニストを目指そうとする思いがこみあげてきた瞬間だった。
・傷ついた子ガラスを助け上げたことと追いかけてくる母ガラス、
そして、帰宅すると弟からの母の死を告げる電話
数日前の母からかかってきた電話の珍しく気弱な声が気になっていたころ…
そして、帰国を決意する。日本には母が残してくれた家があった。
***
いつか、この言葉が私たちを救いあげてくれるような気がして、正確な情報を探しています。
ベニシア
・ゆっくりと季節の移ろいを味わいながら、英語のエッセイ、大原の景色、人々との交流、ベニシアさんのレシピ、ベニシアさんの日記(Diary)を、素敵なBGMとともにNHKがテレビ番組で紹介
派手ではないけれど、こういう人生を歩めたら、どんなに幸せなのだろうか。
生きることの「幸せ」を教えてくれる時間。
書物を開くと、番組同様、ベニシアさんの暖かい言葉と、必ずしも順風満帆ではなかった、日々。
様々な葛藤の中で、現在に至るまでの中で見つけた、「先人の知恵」、「人々との出会い」、「交わした言葉」…
とても気になります。
増山 たづ子
テレビで垣間見た見たたづ子さんの人柄に惹かれて、没後ではありましたが写真展に行ってきました。
・夫(増山徳冶郎)と息子を亡くした太平洋戦争後は農業のかたわら民宿を営んでいた。
・昭和30年代、徳山ダムの建設が計画され、徳山村は全村が水没することを知る。個人的にはダム建設に反対であったというが、「国がやろうと思うことは戦争もダムも必ずやるから、反対するのは大河に蟻がさからうようなもの」としてこの事実を受け止めた。
・その後は徳山村の記録を残したいという思いから、当初はテープレコーダーで村の行事や生活音を録音
・1977年(昭和52年)10月10日の徳山村運動会から写真を撮り始める。
・60歳を過ぎてからのアマチュア写真家誕生であった。消え行く村の人々の表情、四季、自然、物、風景、風習、民俗等、あらゆる物を撮り続けた。
・生涯に撮影した写真は8万枚に及ぶともいう。
・写真集『故郷-私の徳山村写真日記』(じゃこめてい出版、1983年、絶版)『ありがとう徳山村』(影書房、1987年、絶版)『増山たづ子 徳山村写真全記録』(影書房など。
・日本各地で写真の展覧会を行った。
・写真を撮り始めた理由について、NHK総合テレビ『発見ふるさとの宝』で、「好きで戦争に行ったもんはおらん。(遺骨が戻らなかった夫に対して)父ちゃん(夫)がいつ帰って来ても、ダムに沈んでいった徳山村の事を伝えられるようにしたい」と語った。
写真集にも同じ趣旨の記述が見られる。
・愛用したカメラはピッカリコニカ。カメラ店に「素人の自分でも写せるカメラはないか」と相談したところ、「猫がけっとばしても写る」と勧められ、当初はフィルムの入れ方すら知らなかったという
松浦 元男
テレビ放送は拝見しませんでしたが、HPを印刷したものがひょっこり出てきました。
『カンブリア宮殿 2006.8.28放送』 詳しくはそちらをご覧下さい。
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愛知県・豊橋市にある、樹研工業(じゅけんこうぎょう)。
この会社の名が世界に知れ渡ったのは、「世界最小の100万分の一グラムの歯車」を完成させたこと。
ここまでのことは聞いたことがありました。
しかしその歯車は「小さすぎて、まだ使い道は決まっていない」という。
一見ムダに見えたこの先行投資だが、これがきっかけとなり国内外からの受注が相次ぐほか、
カメラ付き携帯電話機用のプラスティックレンズ、光通信部品の金型製造で売り上げを伸ばす。
韓国・台湾・シンガポールなどの海外にも製造拠点を持ち、社員70名、年商30億円とも。
会社設立と経営方針はこうだ。
県内の大学を卒業後、セロファン会社に就職。
その後、会社への提案を受け入れられず、1965年、退社後自ら「樹研工業」を設立。
採用は先着順、学歴・国籍・性別は不問。
賃金は、年功序列制。
出張するときは、全社員がグリーン車使用。会議は自由参加。残業は申告制。定年制はない。
… 型破りな経営が見て取れる。…
-常識破りの反管理主義で、社員の能力を最大限に引き出す方法とは?
そして松浦の目に、ものづくりニッポンの未来はどう映っているのか?
そのトップ松浦の番組での「今夜の一言」がこうだ。
「お金持ちになることを考えてはいけません。有名になることを考えてはいけません。偉くなろうと思ってはいけません。これは人生の結果であって、これを目的にすると、とんでもないことになる」
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マリカ・ウフキル
とりあえず、置いておきます。
5歳の頃、ムハンマド5世の娘であるアミーナ王女の遊び相手として養女に迎えられた。
マリカ・ウフキルの父親であるムハンマド・ウフキル将軍は内相、国防相を歴任し、モロッコ国王のハサン2世の厚い信頼を得ていた。
しかし、1972年にハサン2世が搭乗するボーイング727の撃墜未遂事件が発生、事件の首謀者であったウフキル将軍は処刑された。
事件の数ヵ月後、マリカ・ウフキルとその家族は1973年から1977年までモロッコの南にある廃墟に軟禁された。
1977年にサハラ砂漠の監獄に移され、さらに過酷な監禁生活を送ることになった。
1987年、マリカを含む数人(4人)が脱獄を決行し、幾多の奇跡の後、フランスのラジオ番組のレポーターを介して救出され、14年に及ぶ監禁生活の事実が全世界に知られることになった。
その後4年間はモロッコの監視下に置かれたが、1991年に晴れて自由の身となり、マリカと家族の多くはフランスに移住した。
現在はフランス人と結婚しアメリカに在住している。
1999年に自らの体験を綴った「La Prisonnière」を出版し、ベストセラーとなった。他言語にも翻訳され、日本では「砂漠の囚われ人マリカ」として出版された。
三浦 敬三
敬三さんが三浦雄一郎さんのお父様であることを知ったのはとあるテレビの番組ででした。
奥様亡き後も独特の食事法で健康に留意して一人暮らしを続け、90歳を越えてなおスキーヤーとして自立した豊かな生活をしてみえました。
それがきっかけで、このニュースも心に留まりました。
2004年2月28日(米国ユタ州ソルトレーク・シティ)にて
三浦敬三さん、親子4代 100歳記念スキー滑降に成功。カーター元アメリカ大統領も参加
1歳(ひ孫)から100歳そして170名の大滑降 ~
99歳でモンブランを滑走した敬三さんは100歳の誕生日のときに
「明日はもう少しスキーがうまくなりたい」と、雄一郎さんにそう言ったそうです。
2006年1月5日、多臓器不全のため101歳で死去。
水野 南北
経済学者のことを調べていたのに、不思議にも彼の人生を垣間見る出会いがありました。
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両親を早く失い、叔父の世話になるも、子供の頃より盗み酒を覚え、長ずるに酒と博打と喧嘩に明け暮れ、
18歳の時、大罪を犯し、とうとう牢屋に入れられました。
ところが、これが何と観相学への第一歩となったのです。
牢屋の中で罪人たちの顔をまじまじと観察して、「人の顔にはそれぞれ相がある」と気づく。
また、出牢後、大道易者に「剣難の相がある。1年は生きられない。死相が出ている」と告げられ、
その災いから逃れるため禅寺へ行き、出家を願い出ます。
ところが、「1年間、米飯を口にせず、麦と大豆のみで過せたら入門を許す」と言われ、
やむなく麦と豆を常食にし、川仲仕をして暮らします。
1年後、易者と再会すると、「不思議だ!剣難の相が消えている!!何か大きな功徳を積まなかったか」と聞かれ、
食事を麦と豆だけにしたことを言うと、
「食を節することは 天地に陰徳を積むことであり、それにより 知らず知らずに天録が書き換えられ、
相まで変わったのだ」と教えられました。
これが契機となり 観相学に興味を持ち、まず3年間、散髪屋で小僧になって頭の相を研究、次の3年間は、風呂屋の三助をして 裸体を観察。さらに3年間を火葬場の隠亡(おんぼう・・・死体を処理する人)をして死者の骨相や 死因がわかっている死体を観察。これ以降も 研究を積み重ね 学究の徒と 化していく。
神道や 仏教から始まり、儒教、史書、易まで網羅する。
南北の名である南と北は「火と水」であり「陰陽」すなわち「易」である。
しかし そこまで研鑚を 積み重ねても従来の観相学では百発百中とはいえず悩んだ末に、
伊勢の五十鈴川で 断食水行50日の荒行を行い断食を続けるさなか、天啓が訪れる。
『食は命なり!』~「人の命運は総て食にあり」と。
水野南北が言うには、運のいい人に共通している特色があり、
死体を切り開いて、運の悪い人は内臓とくに胃や腸の中の色やツヤ、残存物が悪いことを発見したのです。
このことから彼は「運は食なり」という結論にたどりついたのです。食べるものが偏っている人は運も悪いというのです。
さらに食事の量を見ると、その人の性格や運がわかるとさえいっています。
食事量の少ない人は、たとえ人相が悪く見えても福相で長命型が多い。
人間の欲望の中でいちばん強いものは「食べる」という欲望です。その「食べる」欲望をどのようにコントロールするかが大切だと悟ったのです。水野南北流の運命判断法が考案され、やがてその弟子が日本各地に三千人を超えるほどの運命学者となっていったのです。
水野南北は人相や手相に関するさまざまな判断法を考案し、その「相法」を弟子たちに教えるとともに、占い師としての生活の戒めを書き残したり、言い伝えています。
水野南北の占いが300年近くもの長い年月の間受け継がれているのも、彼のこの占い師としての生活の戒めの効果が大きかったと思われます。
水野南北の家憲として残されているものの中に次のようなものがあります。
「人の貴くなること、また賤(いや)しくなることは、みな飲食のつつしみにあるべし」
・美味大食を戒め「慎食延命法」を説くに至る。以後、観相にあたっては必ず詳細にその人の食生活を聞いて占断を下し、
外れることが なかったという。
・また凶相の者でも 食生活を改善することにより運を変えることが出来るとし『南北相法極意』を執筆。
・後『相法修身録』と改題し、刊行され広く世に知られた。
水野南北の教え
『食は命なり』。「飲食により、人間の運命が変わる」
いかなる良相・吉運・健康な人であっても常に美食をし、十二分に食事をしたならば悪相となり 凶運短命となる。
如何なる悪相・凶運・病弱の人でも口にする物を節し 食事を腹八分目にする人は良運となり 健康長命となる。
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宮崎 康平
偶然、途中からだったがテレビで「知ってるつもり」を見ました。
その後、今度宮崎さん夫婦をモデルにした映画『まぼろしの邪馬台国』として全国ロードショーが始まることを知りました。
映画の完成度は…でしたが、HPで調べると「人生って!」!と思わずにはいられませんでした。
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邪馬台国を巡る最大の謎…。邪馬台国は一体どこにあったのか?
「南の方、投馬国に至る。水行二十日。 南の方、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。」
この倭人伝の文章をどう読み解くかで、邪馬台国の場所は諸説紛々、紛糾し、実に日本で500カ所、ついには海外に邪馬台国があったという奇天烈な説まで飛び出したという。
今から34年前の昭和42年、「まぼろしの邪馬台国」が大ベストセラーとなった。
著者は、当時無名の詩人、宮崎康平。本の前書きには、こんな言葉がつづられていた。
「私の邪馬台国探求は、歴史のジャンルとしてではなく、私自身が生きるために、自己への対決として出発した。
というのは失明という体験を、私が余儀なくされたからだ。」
広大な有明海を望む、長崎県島原に、宮崎康平は生まれた。
父は土建業を営み、大正時代に九州各地の鉄道敷設工事を独占、一代で島原一の財をなした。
母は、この地では一二を争う庄屋の生まれだった。
康平はその宮崎家の次男として生まれた。
詩人・北原白秋に夢中なり「何としても文学をやる!」と、父親に早稲田大学文学部進学を願いでる。
この早稲田で一つの運命の出会いが待っていた。邪馬台国と卑弥呼の世界を描いた横光利一の小説、「日輪」である。
太平洋戦争開戦前年の昭和15年、大学を卒業し、脚本家見習として東宝に入社。
その矢先跡継ぎの兄が急死。
父の後を継ぐべく、故郷に帰った康平を待っていたのはなんと長崎に原爆投下であった。
昭和25年3月。唯一手元に残った島原鉄道の取締役として職に就いていた時、異変は起こった。
学生時代から徐々に失われていた視界がついに暗闇に閉ざされ、完全に失明したのである。33歳だった。
(失明が原因か?、最初の妻に逃げられたという)
「なぜ自分だけが失明の宿命を負わされなければならないのか、暗闇の招待状を受け取った私は、世を恨み、身の不遇をかこちながら明け暮れていた。」という。
その時、康平にある想いが沸き上がった。
「目が見えるときと同じように生きようとするからつらいのではないか?
自分は目の見える世界に執着し、目の見えないと言う事実に立ち向ってはいなかった…。
失明した今になって、様々な物事が心の眼で見えてきた。」
すべてを受け入れたとき、なぜか康平の心は澄み渡っていた。
そして失明から7年がたった昭和32年、更なる運命的な出会いをする。
二度目の妻となる和子である。
白い杖を手に、島原鉄道の役員として復員した康平。
更に運命は再び彼に大きな転機を用意していた。
結婚から2ヶ月、島原地方を襲ったのはかつてない集中豪雨だった。
島原鉄道は営業区間の半分40キロ区間をメチャクチャにされ、線路の切れたところが180カ所、45の鉄橋は跡形もなく流されてしまったのである。復興工事の責任者となり、白い杖を片手に現場を回り、持ち前のバイタリティを発揮し始める康平。そんなある日、現場で一休みしていた彼に、部下がふとこう声をかける。
「こんな土器の破片が川の中にたくさんありますよ。」
崩れた土砂の中から出てきたのは、土器のかけら。その土器を指先でまさぐった康平に、その瞬間、血の沸き立っような想いが走る!
「邪馬台国」…。もしかしたら、この場所が邪馬台国かもしれない…。まぼろしの邪馬台国をこの手で探してみたいものだ…。
白い杖をつきながらの邪馬台国探し。
まず、「魏志倭人伝」を読もうにも当時、点字本があるわけはない…。
その時、彼の目となったのは、妻の和子だった。
九州から朝鮮半島まで調査を続けた15年間。
生活は苦しく、家財道具も売り払い、ついには借金生活に落ち込んだという。
そして…。邪馬台国を探した日々の中で、ついには康平は、結論にたどり着く。
長崎・島原こそが、邪馬台国だ…。コツコツと調べ上げた調査結果を妻の口述筆記で、一行一行刻んでいく。
昭和42年、ついに「まぼろしの邪馬台国」は完成した。
そして…。発売と同時に、本は大ベストセラーとなり、日本中に邪馬台国ブームを巻き起こすことになるのである。
そしてこの夫婦で作り上げた結晶のような本は、第1回吉川英治文学賞に輝く。
授賞式で贈られたのは、夫婦連名で書かれた賞状だった。それはまさに、二人に贈られたものに、他ならなかった。
昭和55年3月、突然倒れた康平は、そのまま帰らぬ人となった。享年62。
生前、康平は色紙にこんな言葉をよく書いたという。
「矢が飛ぶのは、弓の力。男の業は女の力…。」
また、宮崎は夢を描きながら生きた。
「ほら吹き康平」などと皮肉る人もいたが、鉄道を使って島原の良さを天皇に見ていただこうと、お召し列車の招致を成功させ、半島を酪農で豊かにしようとオーストラリアから乳牛を輸入。
諫早水害からの復興、無農薬有機栽培の実践など、アイデアを次々に実現。
57年に結婚し、宮崎の目となりペンとなった和子夫人も「康平とともに暮らした25年間は本当に面白かった。一日たりとも退屈することはなかったような気がする」と語っている。
和子は宮崎亡き後、島原の無農薬有機栽培の会の代表を務めている(た)とも…
安池 興男
所長がいなくなってかなりたってから、私たちは初めてある事実を知りました。
入植して一年あまり、肥料や種苗類はすべて県からの支給と思っていたのが、実は所長の自弁だったというのです。所長は給料の一年分のほとんどを、私たちにつぎ込んでくれたのでした。
最小限の営農資金も認めようとしなかった県が私たちにくれたのは、結局鍬一丁だけだったのです。
終戦後、国は食糧難打開のため開拓政策に力を入れ、清里にも続々と新しい入植者が送りこまれてきました。その第一陣が、現在旭ヶ丘地区にいる人たちです。八年先輩に当たる私たちの暮らしの貧しさに、この人たちは目を見はりました。
しかし国で力をといっても、さまざまな名目の資金は、結局入植者の肩に借金となってのしかかってくるものばかりです。旭ヶ丘に続いて、東念場、下念場と入植者はふえ続けましたが、やはり苦労は絶えなかったようです。
立教大学のポール・ラッシュ博士が、戦前からの大学の施設を充実させて清里農村センターを開設されたのも、この頃のことです。立派な教会や実験農場、病院、図書館などが作られ、近在の農家との交流もさかんに行われました。
ことに、毎年八月に開かれた、カンティフェアは、私たち農家にとって最大のおまつりでした。牛や牧草地の共進会で、私たちは成績を競いあいました。農業技術や酪農の研究会もありました。小学校の子どもたちにミルクを支給してくれた時期もあり、そのお礼に農場のまわりの草刈りに行ったりもしました。
やがて、都会の若者がぼつぼつと清里を訪れるようになり、センターの宿泊施設、清泉寮は人気の的になりました。
清里は次第に観光地化してきました。私たちの仲間が民宿に転向し始めたのは、昭和四十四年頃からです。私も今は、牧場と民宿を経営しております。
清里村は近くの四つの村と合併し、高根町となりました。昭和四十六年、高原の牧草地の一角に、私たちの共同墓地が完成しました。
整然と並ぶ二十三の墓石は、はるかふるさとの丹波山村に向かって立っています。その姿を見守るように、一番奥に安池先生の墓もあります。生前のお墓です。
その裏に先生は、「感激の至情 楽土を拓く 興男」と刻まれました。苦楽を共にした仲間は、もう多くは残っていません。いずれは全員が、この黒御影の石の下で、高原の青天井を見上げながら眠りにつくことでしょう。
山本 達雄
■火をカイロに■
・半月後、復員命令が出た山本さんは、父親代わりに自分を育て、かわいがってくれた 叔父の行方がどうしても気になり、帰郷前にぜひとも確認しておきたいという悲愴な思いで現地に赴いた。
・別れを告げるためでもあった。
・夜は美しい鈴蘭灯でにぎわっていた商店街は、一瞬にして一面の焼け野原と化していた。
・幾日も必死になって捜した揚げ句、何の手掛かりも見出せなかった山本さんは、
せめて遺骨代わりになるものはなかろうかと、押しつぶされていた地下壕に降り、
くすぶりの中でまだチロチロと燃え続けていた小さな炎を発見した。
・何か生き物のように思え、形見として持ち帰ろうと考えたとき、寒い冬に出征する際、 祖母が孫の身を案じて持たせてくれたカイロを思い出し、奉公袋から取り出した。
一本のカイロ灰を炎にそっと近づけてみた。炎はすぐに燃え移った。
・1945年9月16日のことである。
・その後、故郷の星野村に帰った山本さんは、大切に持ち帰った火を仏壇に灯し、それを絶やさないために、いろりや火鉢にも移し、23年間、雨の日も風の日も、隣家にさえ漏らすことなく、祖母(叔父の生みの親)ら家族とともにひそやかに守り続けたのである。
・しかしその歳月は、山本さんにとって決して生易しいものではなかった。あの言葉では 到底表現しようもない無残さ、原爆投下国に対するどうしようもない感情、そして火を絶対に絶やしてはならぬという心の重荷、負担。
・一時は苦しい胸中の思いを晴らすため、ハワイの上空で火を消そうと考えたこともあったという。 村の消防隊支部長をしていた時のことである。
しかし同時に、あの悲惨な死に方をした何十万人という人々の気持ちを忘れてはならぬという思いも強くなり、とても火を消すことはできなかった。
・こうした苦痛に満ちた複雑な思いを簡単には人に語れぬまま、20年以上の月日 が流れた1966年のある日のことだった。もう汗ばむほどの季節になっていたのに、
まだ家族がこたつに火を入れているのを、その時たまたま茶の取材で山本さん宅を訪れていたある新聞記者が不審に思った。
そして戦争の話をきっかけに、
・山本さんはその記者に対し、積りに積っていた長年の思いを全部爆発させてしまった。
これで「原爆の火」が初めて世に知られることになったのである。
その後、話は少しずつ広まり、当時の星野村の橋詰喜三郎村長の耳にも入った。
そして全村民の要望として、火は平和を願う供養の灯、世界の平和の道しるべの火として永遠に灯し続けるために、星野村に正式に引き継がれることになったのである。
・1968年8月6日、(23年後)原爆の残り火は山本さんの家から星野村役場前に建立された「平和の塔」に無事移された。山本さんは当時を振り返り、「火を村に渡すときは、心の整理もできて平和な気持ちになっていました」と語っている。
・さらに、被爆50周年を迎えた1995年3月には「星のふるさと公園」の一角に、新しい「平和の塔」が建立され、福岡県被爆者団体協議会による「原爆死没者慰霊の碑」とともに「平和の広場」として整備された。
2)福井県星野村の「原爆の灯」
・1945年8月6日以来、一度 として絶えることなく燃え続けている火、広島に投下された人類史上初めての 原子爆弾の火、すなわち、世界で唯一の「火」である。
・星野村で生れ育った山本達雄さんは、三度目の召集令状を受け、当時広島から130Kmほど東の陸軍野営部隊で任務に就いていた。
8月6日、山本さんはいつもの通り、 広島近くの宇品にあった本隊に向かうため、汽車に乗っていた。
・そして午前8時15分。突然、車中を白っぽい光が通り抜け、大地を揺がす途方もない爆弾音が・・・。
汽車はそのまま止ってしまった。広島に原爆が落ちた瞬間だった。
・乗客は大混乱。山本さんは何が何だか分からないまま車外に飛び出し、市内で書店を営む叔父・山本彌助 の安否を確かめに、広島方向に向って歩き出した。
・しかし、市内に近づくにつれて目の当たりにしたのは、そこかしこに転がる黒焦げの死体、 断末魔のうめき声と助けを求める手・・・その惨状は、この世のものとは思えない地獄絵であった。
・巨大な火柱となって激しく燃える広島の町。 山本さんは、一歩も前へ進むことができなかった。
・翌日から山本さんら部隊は、死に絶えた広島にトラックで通い、死体を集めて焼くなど、 重い任務にあたった。
・やがて8月15日になり、戦争は終わった。
■火をカイロに
・半月後、復員命令が出た山本さんは、父親代わりに自分を育て、かわいがってくれた 叔父の行方がどうしても気になり、帰郷前にぜひとも確認しておきたいという悲愴な思いで現地に赴いた。
・別れを告げるためでもあった。
・夜は美しい鈴蘭灯でにぎわっていた商店街は、一瞬にして一面の焼け野原と化していた。
・幾日も必死になって捜した揚げ句、何の手掛かりも見出せなかった山本さんは、
せめて遺骨代わりになるものはなかろうかと、押しつぶされていた地下壕に降り、
くすぶりの中でまだチロチロと燃え続けていた小さな炎を発見した。
・何か生き物のように思え、形見として持ち帰ろうと考えたとき、寒い冬に出征する際、 祖母が孫の身を案じて持たせてくれたカイロを思い出し、奉公袋から取り出した。
一本のカイロ灰を炎にそっと近づけてみた。炎はすぐに燃え移った。1945年9月16日のことである。
■燃え続ける火
・その後、故郷の星野村に帰った山本さんは、大切に持ち帰った火を仏壇に灯し、
それを絶やさないために、いろりや火鉢にも移し、23年間、雨の日も風の日も、
隣家にさえ漏らすことなく、家族とともにひそやかに守り続けたのである。
・しかしその歳月は、山本さんにとって決して生易しいものではなかった。
あの言葉では 到底表現しようもない無残さ、原爆投下国に対するどうしようもない感情、
そして火を絶対に絶やしてはならぬという心の重荷、負担。
・一時は苦しい胸中の思いを晴らすため、ハワイの上空で火を消そうと考えたこともあったという。 村の消防隊支部長をしていた時のことである。
・しかし同時に、あの悲惨な死に方をした何十万人という人々の気持ちを忘れてはならぬという思いも強くなり、とても火を消すことはできなかった。
・こうした苦痛に満ちた複雑な思いを簡単には人に語れぬまま、20年以上の月日が流れた1966年のある日のことだった。
もう汗ばむほどの季節になっていたのに、まだ家族がこたつに火を入れているのを、
その時たまたま茶の取材で山本さん宅を訪れていたある新聞記者が不審に思った。
そして戦争の話をきっかけに、山本さんはその記者に対し、積りに積っていた長年の思いを全部爆発させてしまった。
これで「原爆の火」が初めて世に知られることになったのである。
■平和の火、世界の火に
その後、話は少しずつ広まり、当時の星野村の橋詰喜三郎村長の耳にも入った。
そして全村民の要望として、火は平和を願う供養の灯、世界の平和の道しるべの火として永遠に灯し続けるために、
星野村に正式に引き継がれることになったのである。
・1968年8月6日、(23年後)原爆の残り火は山本さんの家から星野村役場前に建立された「平和の塔」に無事移された。
山本さんは当時を振り返り、「火を村に渡すときは、心の整理もできて平和な気持ちになっていました」と語っている。
さらに、被爆50周年を迎えた1995年3月には「星のふるさと公園」の一角に、新しい「平和の塔」が建立され、
福岡県被爆者団体協議会による「原爆死没者慰霊の碑」とともに「平和の広場」として整備された。
・星野村で燃え続ける灯火を知り、NGO「世界ともしびプロジェクト」をたちあげた。
これは星野村の火を平和の灯火として世界に分与しようというプロジェクトである。
・そして、第一回「分火国」としてキューバが選ばれた。
以上のような経緯で「ホシ」の村の火が、カリブの「シンジュ」に灯ることになったのである。
星野村の「原爆の火」が今年、「平和の誓いの火」として、世界の火になる。
■チェ・ゲバラが残した思い
1959年7月25日、戦後14年経ったこの日、遥か遠くカリブ海に浮かぶキューバ共和国から、当時31歳の若きチェ・ゲバラが広島へやって来た。アルゼンチン国籍を持ち、キューバ革命で戦い、その後キューバの親善使節団の代表として日本に訪れたチェ・ゲバラは、外務省が勧める無名戦士の墓を訪れることを拒み、自らの意思を貫いて自費で広島へ向かった。
チェ・ゲバラが撮った写真
1962年核による破滅の危機から免れた歴史を持ち、常に日本の被害者へ追悼を尽くすキューバ共和国。
キューバの長年の追悼をねぎらい『世界ともしびプロジェクト』2007年分火国に決定されました。
横溝千鶴子
どこかの町に超高額寄附をした年配の女性がいた…
そんなおぼろげな記憶をもとに、ネットで検索をかけてニュースを探すとまさにこの方のことだった。
足柄市に寄附をしたその金額はな、なんと10億円。
しかも、その10億円が節約でこしらえた10億円として注目をあびていた。
さらには、金を無心しようと自宅にまで押しかけた輩と、節約ばかり強調する一部マスコミに強い憤りを感じているという。
『何より残念だったのは、「義務、責任、愛情」を子供たちに原点から教えていきたいとの気持ちが全く伝わらなかったことだ。』
『「父を救ってください」と玄関先で涙ながらに話す女性もいたが、
「私は人間の基礎づくりをしようとしているのです。人生の“結果”にはかかわりません」と受け付けなかった。』という。
♪*♪*♪*♪*♪*♪
横溝さんは(多分2007年)11月16日の記者会見以来、胸の内にわだかまりを抱え続けてきた。
当初はすべての取材を拒否してきたが、「思いを伝えてくれるのなら」と、ようやく重い口を開いたという。
「10億円にどのような思いを込めたのか、結局、どなたも聞いてくださらなかった。
それがとても残念。そして節約のことが前面に出すぎてしまった。
このお金をこれからどう使うか、それが大事ですのに…」
一連の報道で、節約で10億円をためて自治体に寄付した女性と理解している人が多いだろう。
だが、真相は違った。 「10億円は、約25年前に都内の土地とマンションを売却した際のお金を核にして、利息やその後の収入を加えてつくったものです。節約だけで10億円なんてためられませんよ」
記者会見では、お金をためた方法について詮索(せんさく)されるのが嫌で、
「つい、始終やっていることが口に出てしまった」という。
「お風呂の残り湯をお洗濯やご不浄(トイレ)で使うのは事実ですが、物を大切にする気持ちが節約につながっているだけのこと。重い水を運び、筋力を維持する意味もあります。残り湯を大事にすればお金がたまる、というほど簡単なものではありません」
何より残念だったのは、「義務、責任、愛情」を子供たちに原点から教えていきたいとの気持ちが全く伝わらなかったことだ。
「子供のやる気を起こさせて個性をのばせるよう、10億円で国債を購入し、1年分の利回り2500万円を教育や奨学金として使っていただきます。今後は先生を教育する『横溝塾』の創設も考えています。今は子供をあまりにも平等に扱い過ぎる。競争がなければ成長はありません。これからの教育にお金を役立て、さらに、私のように寄付をする人が全国に現れてくれれば、日本もよい国になるでしょう」
♪*♪*♪*♪*♪*♪
私は、ここまでのニュースの詳細は知らなかったが、横溝さんがご夫婦でしっかりとした事業をされて大成功し、お子さんがなかったため事業を後継者にゆずり、ご夫婦で一度、さらにご主人亡き後で二度目の高額寄附をされたというような記憶があった。
そして、寄附金の使い道は未来ある子供たちの教育に関わること。
また、日ごろの生活は質素で、もちろん節約もしているとの記憶も。
レオニー・ギルモア と イサム・ノグチ
19世紀末のニューヨーク。名門女子大ブリンマー大学を卒業したレオニー・ギルモアは、詩人か編集者になりたいという夢を捨てきれないまま教鞭をとっていた。そんなある日、日本から来た神秘的な青年詩人ヨネ・ノグチ(野口米次郎)と出会う。
二人の共同作業により生まれた英詩は米英の文壇で成功を収め、詩に魅せられたレオニーのときめきもいつしか恋愛感情へ。
しかし、レオニーが身ごもったことを知らされた途端、ヨネは日本に帰国してしまうのだった。
未婚のまま混血の子を産むレオニー。
人目を避けカリフォルニアで出産し、高まる日露戦争の黄禍を逃れるため明治後期の東京へ渡る母子。
そこで母が必死で我が子に授けたのは、豊かで美しい日本文化だった-。
しかし今度は、日本で徴兵される前に我が子をアメリカに帰さねばならない。
並外れた芸術的才能を秘めた混血の我が子が歩むべき道は一つ…。
日米の狭間で翻弄される運命を静かに受け入れ、母として潔く生き抜いた59年の生涯。
イサム・ノグチ
母が建てた茅ヶ崎の家での生活は、イサムの芸術家としての土壌をつくった。
「子供時代を、自然の変化に敏感な日本で過ごしたのは幸運だった。日本ではいつも自然が身近だった」という。
その一方で、ハーフへの差別にも苦しみ、孤独な少年時代であった。
孤独感を強めていくイサムに、母はアメリカの全寮制学校への進学を薦める。13才で単身渡米し、母の姓イサム・ギルモアと名乗り入学したが、経営上の理由から学校は1ヶ月で閉鎖。身寄りのない土地に突然一人ぼっちで放り出されてしまう。迎えにこれない母に対してさえ不信感を抱き、心の傷を深める。
しかし、1ヶ月間の学校生活でイサムは木彫りの天才少年と呼ばれていた。そんなイサムを援助してくれたエドワード.A.ラムリー氏のおかげで無事高校を卒業。コロンビア大学で医者を目指すが、母の薦めで美術学校にも通うこととなる。そこで「ミケランジェロの再来」と賞され、入学3ヶ月目には個展を開いたイサムは、彫刻家として生きることを決意。このときから「イサム・ノグチ」を名乗っていく。憎しみの反面、東洋と西洋の融合を追及した父への畏敬の念が含まれていた。
その後、イサムはグッゲンハイム奨学金を得てパリへ留学する。巨匠コンスタンティン・ブランクーシの助手をしながら抽象彫刻を学んだ。しかし若くハンサムであったイサムはつねに恋に浮かれていた。パリから帰国したイサムの抽象彫刻は、まったくといっていいほど評価を得られない。
一方、生活のため請け負った具象である頭部彫刻は絶賛され、それらを売った金で東洋への旅に出る。終着点は日本であった。ノグチ姓を名乗っての来日を許さなかった父と十三年ぶりに再会を果たす。憎しみは幾らかおさまるが、やはり理解し合えない。イサムは京都を訪れて日本の美をあらたに吸収し帰国する。日本にいればアメリカ人、アメリカにいれば日本人と見られるイサム。どこにも帰属しない孤独は増すばかりであった。
この時期、イサムは「未来の彫刻は地球そのものに刻み込まれる」と思いつく。公共空間・環境芸術などという言葉はまだ聞かれない時代に、イサムのプランは受け入れらず、模索の日々が続く。
戦後の日本で、禅の庭や伝統技術に触れたイサムは、作品によりいっそう東洋的な匂いを漂わせるようになる。ニューヨークで、日本の女優・山口淑子(李香蘭)と恋に落ち、1951年に結婚。鎌倉の北大路魯山人の敷地内にアトリエと住まいを構え、陶芸制作にも励んでいる。またこの頃に、光の彫刻「あかり」を生み出している。
1958年に離婚後、イサムはニューヨークを拠点に意欲的に活動する。彫刻よりも大きなスケールの庭園制作、空間の彫刻に熱心になる。ユネスコ本部やニューヨークの銀行などの庭園も手がけた。また「彫刻はもっと身近で、役に立つものであるべき」と考えていたイサムは、かねてから思い描いていた公園や遊園地などのランドスケープデザイン、「大地を彫刻する」という夢をさらに募らせていく。
晩年イサムはニューヨークと日本を行き来する生活を送る。日本では、庵治石の産地・香川県牟礼町に住まいを構え、和泉正敏をパートナーに、イサムは数々の彫刻を制作した。ここでの作品は「彫刻に自然を取り入れた」といわれ、傑作と呼ばれるものも多い。
1986年には、第42回ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に選ばれる。80歳になってようやく“アメリカ人の偉大な芸術家”として認められたイサム。同年日本で京都賞受賞。翌年アメリカ国民芸術勲章を受賞する。そんなイサムに札幌市から「モエレ沼公園」ランドスケープデザインの依頼が舞い込む。夢の公園のマスタープランが完成したのは1988年。プラン完成と84歳の誕生日を祝った直後の12月30日、イサム・ノグチはニューヨークで静かに逝去した。84歳であった。
現在、モエレ沼公園は完成区域から徐々にオープンしている。すべてが完成するのは2005年の予定。もうすぐイサムの夢が形になる。
ロウィーナ・ケイドとミナック・シアター(Minack Theatre)
ミナック・シアターはペンザンスからランズエンドに向かう途中の、ポースカーノ湾(Porthcurno)を見下ろす崖を切り開いた岩の中腹に築かれた野外劇場である。
アフリカのザイール(現在のコンゴ民主共和国)のジャングルへ飛び込んでいきました。
1965年、ソマリアの遊牧民の一族に生まれた。生まれた頃の家族構成は父、母、姉。姉は女子割礼の為に亡くなり、弟が1人出来るが厳しい環境に耐えられず餓死。しかし更にその後2人の弟が出来た。それ以降ワリスは親元を離れたので不明。
13歳の時、ラクダ5頭の為に60代の男性と結婚させられそうになったが、母の力を借りてソマリアの首都モガディシュに住んでいる母の妹に会うために、砂漠の中を1人逃げていった。奇跡的に母の妹に対面し、父に連れ戻されないように親戚を転々とした。
その後、母の妹の夫である駐英ソマリア大使がイギリスで4年の任期の間、ロンドンの家で働いてくれるメイドを探すためにモガディシュに訪れ、そこに居合わせていたワリスが4年間ロンドンでメイドとして働くことになった。
大使が任期を終え共に帰国せざるを得なかったが、帰国当日にパスポートを紛失したと嘘をついて時間を稼ぎ、そのままロンドンに留まった。その後カフェなどのアルバイトで生計を立てようとするが、簿給のため生活は苦しかった。最終的にはマクドナルドの店員の職を得る。
働いていたマクドナルドで、当時イギリスでファッション・フォトグラファーとして活躍していたテレンス・ドノヴァンに見いだされモデルとなる。テレンスはワリスの横顔を撮りたくて、2年間もワリスを追いかけていたという。彼は彼女が1987年のピレリカレンダーの表紙を飾るように働きかけた。それから彼女のモデルとしてのキャリアが始まった。
ロンドンからニューヨークに移り格式ある シャネル、リーバイなどのブランドの広告やショーに出演。
1987年には映画『007
リビング・デイライツ』に端役で出演。シンディ・クロフォード、ナオミ・キャンベルらと共に仕事をし、ミラノ、パリ、ロンドン、ニューヨークでショーの舞台に立った。『ELLE』『グラムール』などの雑誌にも登場した。
1995年、アメリカのテレビ局BBCで彼女に密着したドキュメンタリー番組『ノマド・イン・ニューヨーク』が放送された。
1997年、モデルとして絶頂期を迎えていた彼女は子供のときに体験した女性器切除 (FGM)
について雑誌『Marie
claire』のローラ・ジフに初めて明かした。同年、ワリスはFGM廃止のために国連大使になり、出生地であるソマリアを訪れ母親と再会した。
1998年、最初の著書『砂漠の女ディリー』を発表し国際的なベストセラーとなり、彼女は続けて自叙伝も書いた。
乗客155人全員が無事救出
異常発生
鶴岡八幡宮 大銀杏の奇跡(毎日新聞 2010/3/10)
・10日午前4時40分ごろ、神奈川県鎌倉市雪ノ下の鶴岡八幡宮(吉田茂穂宮司)の本殿前にある県指定天然記念物「大(おお)銀杏(いちょう)」が、根元付近から折れて倒れているのを警備員が見つけた。9日夕から続いた強風が原因とみられる。けが人はなかった。
・大銀杏は鎌倉幕府三代将軍、源実朝(さねとも)の暗殺事件の「隠れ銀杏」として知られる。同八幡宮関係者は「あり得ないことだ」とぼうぜんとしている。
八幡宮によると、大銀杏は幹回り6.8メートル、高さ約30メートルで樹齢は1000年とされる。午前4時15分ごろ、当直の警備員が3回ほど「ドンドン」という音を聞いた。警備員は「積もった雪が落ちる音だと思った」という。その後、落雷のような音がしたため、様子を見に行くと大銀杏が倒れていた。市消防本部によると、当時の最大瞬間風速は12メートルだった。(誰一人怪我せず、建物にも被害がなかった!)
大銀杏をみた東京農業大の浜野周泰(ちかやす)教授は、2月以降の雨で地盤が緩んでいたことに加え、9日夕からの強風が原因と指摘。雪まじりの風は、通常の数倍の力がかかるとされ、傾きを支えられずに折れたとみられる。土壌が薄い石段脇の斜面に立っていたことも影響したらしい。
・浜野教授は「根元の状態から回復は不可能」とのコメントを出した。
八幡宮では09年末から保全に向けた検討を始め、浜野教授が診断したが、生育に問題はなかった。
八幡宮側は「吉田宮司はコメントを出せる状況ではない」と話し、午前5時に駆け付けたという神職も「あり得ないことだ。驚いている」と動揺を隠さない。倒れた大銀杏に米をまいたり、酒を供える神職もいた。
大銀杏は、同八幡宮のシンボル的存在で、1219(建保7)年1月、鎌倉幕府三代将軍、源実朝が僧侶の公暁(くぎょう)に暗殺された際、公暁が潜んでいた「隠れ銀杏」とも呼ばれる。1955年に県の天然記念物に指定された。
3月に強風で倒れた鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)のご神木の大イチョウが、紅葉シーズンが終わりに近づいても、今秋はほとんど色づかず緑色の葉を茂らせている。
八幡宮は、イチョウが倒れた直後に胴切りにし、高さ4メートルの幹を近くに移植した。境内のほかのイチョウは黄葉して葉を散らしているのに、移植した幹の葉は黄色よりも緑色が勝っている。
「元気がありすぎです」と言うのは、大イチョウ再生の指導に当たる東京農業大学の浜野周泰教授。葉が黄色く色づくのは、葉緑素が分解して黄色い色素が見えるようになるためだが、大イチョウは葉の細胞がしっかりしていて、葉緑素の分解が進んでいないという。
[朝日新聞]2010年12月1日8時43分
http://www.asahi.com/national/update/1129/TKY201011290402.html
2011.3.8 テレビのニュースでは大銀杏にちなんだお土産品も好評とのこと。
めざせ、百歳現役
・木村威夫(映画監督)
・日野原重明(医師)
・室井麻耶子(ピアニスト)
森光子に近づく秘訣、
食-調理法が決め手
脳-ふけない脳
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100歳現役
しいのみ学園 曻地 三郎
嘉納 愛子
草光 澄子
黒田 久子
木村 若友
板橋ミキ
尾崎行雄
・ホルショフスキー(ピアニスト)-100歳まで現役。95歳の時に、カザルスホールの?落しに来日公演を行った)
・―『日本の議会政治150年の歴史の中で、長寿という点でも、議会主義を貫き議員生活63年というギネス世界一に認定された点でも尾崎行雄(1858-
1954)96歳の右に出る政治家はいないと思います。国会議事堂の前に尾崎の銅像が立っていますね。
「議会政治の父」、「憲政の神様」と謳われている尾崎は明治二十三年(一八九〇)七月のわが国初の総選挙で当選。以来、連続当選二十五回、昭和二十八年まで六十三年間にわたって議員生活をおくり、翌年十月、96歳で亡くなっています。
七十歳を超えても、尾崎の気力は一向に衰えず、軍部の暴走を批判し、五・一五事件で僚友の犬養毅首相がテロに倒れた後は、一人体を張ってファシズムに抵抗しています。昭和十七年、「売り家と唐模様で書く三代目」との演説によって不敬罪で起訴され、八十五歳で巣鴨刑務所に拘置されます。戦後は日本を代表する民主主義者として評価はウナギ登りで、昭和25年、九十三歳で四十日間にわたって渡米して、『ニューヨークタイムス』『ニューズウィーク』など米マスコミは尾崎を「日本の良心」と賛えています。
九十二歳のときの食生活はこうですね。「朝は太陽と共に起きる。七時頃朝食。やき餅の入った味噌汁一椀、野菜二品、タマゴ一個、トースト一片、チーズ少々。八時過ぎに新聞(朝毎読3紙)がくると書生が記事を1つ1つ読みあげ、尾崎は補聴器を用いて聞くが、二時間以上かかる。昼食は十一時半、夕食は五時。午前九時頃と午後二時すぎに、コーヒーか紅茶とチョコレートを入れた牛乳1合。昼も夕も野菜二品、麦飯ごく少し。果物はミカン、リンゴでも皮まで食べ、汁をまず目の上から顔中、手という順序でこすりつけ、目に非常に効果があった」とか、書いていますね』
八百板正 99歳(1905年4月12日~2004年4月23日)
農民運動家・政治家。東北新人会結成。小作争議を指導して度々投獄される。全国農民組合中央委員に選出。戦後、日本農民組合の農地委員、書記長、全日本農民連合会会長を歴任。社会党公認で衆院選当選11回。社会党再統一後に党中央執行副委員長・党参議院議員会長を歴任した。
唐牛敏世 99歳(1879年8月15日~1979年1月19日)
弘前相互銀行社長、みちのく銀行初代頭取。地方銀行下位の青和銀行と弘前相互銀行の合併を実現させ「みちのく銀行」を設立する。97歳での頭取は話題となった。「唐牛基金」は生活習慣病の研究助成を目的に81年創設。関連図書に「人生太く永く―みちのく銀行唐牛敏世の九十九年」がある。
中山素平 99歳(1906年3月5日~2005年11月19日
) 現みずほフィナンシャルグループ頭取、同会長。経済同友会代表幹事。「財界の鞍馬天狗」の異名を持つ一方、部下からは「そっぺいさん」と慕われた。
中東との交流に努め、「資源派財界人」とも呼ばれる。多くの企業の救済・起業に東奔西走したことでも知られる。受賞・叙勲を断り続けた。
坪内士行 99歳(1887年8月16日~1986年3月19日) 演劇評論家、早稲田大学教授。女優・坪内ミキ子の父。坪内逍遥の養子。1909年、早稲田大学英文科卒業。その後、ハーバード大学に留学して演劇を学ぶ。宝塚音楽学校創立に関与。その後も宝塚歌劇団や東宝劇団の運営に関わった。著書に「新講シェイクスピア入門」「ダンス通」などがある。
高見澤潤子 99歳(1904年6月3日~2004年5月12日) 作家。評論家。漫画家の田河水泡と結婚。矗江の筆名で戯曲などを発表。「サザエさん」作者の長谷川町子との出会いで洗礼を受ける。「信徒の友」編集委員長、荻窪教会長老会会長などを歴任。基督教関係の著作物を多数執筆した。主な著書に「兄小林秀雄」「のらくろ一代記」「愛の重さ」など。
沢
蘭子 99歳(1903年~2003年1月11日) 大正・昭和前期の美人女優として知られた。本名は志づ子。仙台市出身。宝塚歌劇団を退団して、大正時代から日活向島・帝国キネマなどで活躍。主な代表作品は「籠の鳥」「女人哀愁」「港の日本娘」「夜ごとの夢」「朝日は輝く」など多数。
鈴木鎮一 99歳(1898年10月17日~1998年1月26日) ヴァイオリニスト。スズメソードは音楽を通じて心豊かな人間を育てる教育法。この創始者。世界的には音楽教育家および教育学の理論家として著名。その教育理論は高く称揚されている。サンデー・タイムス紙「20世紀をつくった1000人」選出。「ミュージック・オブ・ハート」で映画化。
高橋荒太郎 99歳(1903年10月19日~2003年4月18日) 松下電器元会長。松下幸之助の右腕とも、番頭とも言われた。経営理念の大切さを訴えて経営が悪化した、モーター部門、蓄電池部門を再建。人材育成の面でも定評があった。頭の中で理論を知っているだけでなく体験を通じてこれを体得し、それを仕事の中に活かしていける人材を育てた。
長岡輝子 99歳(1908年1月5日
~) 女優。初出演作は「風にそよぐ葦」。パリに演劇修行に留学し、帰国後、金杉惇郎とテアトル・コメディを設立。その後文学座へ。芥川比呂志、加藤道夫、荒木道子、などと共に劇團「麦の會」発会。文学座退団後は、宮沢賢治の作品や聖書などの朗読をライフワークとしている。菊池寛賞受賞。
藤林益三 99歳(1907年8月26日~2007年4月24日) 弁護士。第7代最高裁判所長官。東京帝国大学法学部を卒業後に弁護士登録。協和銀行、日本興業銀行の顧問弁護士を務める。1970年に最高裁判事になり、ロッキード事件のさなかの1976年に第7代長官に就任。無教会派のクリスチャン。勲一等旭日大綬章受章。
中川秀恭 99歳(1908年1月1日~) 哲学者。宗教学者。大学教授。日本郵船の乗員から学問の道に進んだ。ハイデガー、ヘーゲルなどドイツ思想に優れた論考がある。北大文学部長、ICU学長、大妻女子大学長、理事長を務めた。著書多数。近著に「キエルケゴールとニーチェ」(翻訳)、「行く手遥か 航海いまだ途上にあり」など。受賞(章)多数。
品川
工 99歳(1908年6月11日~) 版画家。多彩な作家。木版のわずかの窪みで版を彫り、一版で効果を出す「一版多色刷り」や、逆に版を積み重ねる「版形式」、土に押した版画など独自の技法で版画の表現の幅を広げた。写真の印画紙を使ったネガとポジの鏡の作品は、光の特性や効果を生かした表現方法として高い評価を受けている。
高杉一郎 99歳(1908年7月17日~) 作家。翻訳家。大学卒業後、改造社の編集者。軍隊に召集されシベリア抑留となり、体験記小説「極光のかげに」がベストセラー。復員後は静岡大学で英文学の教授。スメドレーの「中国の歌声」やロバート・グレーブスの
「ギリシャ神話」、ピアスの「トムは真夜中の庭で」などの翻訳が有名。
山田恵諦 99歳(1895年12月1日
~1994年2月22日) 天台宗僧侶。10歳で出家。16歳で比叡山に入る。第253世天台座主を20年つとめ、一隅を照らす運動を推進。比叡山宗教サミットを主催、世界の七大宗教の指導者24人が比叡山に集い、世界の平和を祈願した。日本宗教代表者会議名誉議長、全日本仏教会会長などを歴任。
猪俣浩三 99歳(1894年7月20日~1993年8月21日) 社会党代議士。弁護士。日本大学法学部卒業。一貫して弱者、庶民の立場から物言う代議士として知られた。「日通事件」では予算委員会における鋭い追及が有名。著書に「抵抗の系譜」「
占領軍の犯罪 鹿地亘監禁事件とキャノン機関」「 猪俣浩三自伝 聞書き
一無産党弁護士の昭和史」など。
野上弥生子 99歳(1885年5月6日~1985年3月30日) 小説家。夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚。「ホトトギス」に『縁』を掲載して作家デビュー。「海神丸」で文壇の注目をあつめ、以降「迷路」で読売文学賞。「秀吉と利休」が女流文学賞。71年に文化勲章受章。敗戦までの日本の知識層のさまざまな生き方を重層的に描いた。
諸橋轍次 99歳(1883年6月4日~1982年12月8日) 漢学者。「大漢和辞典」や「広漢和辞典」(ともに大修館書店刊)の編者。「大漢和辞典」の製作は1929年から。43年に第1巻が完成。13巻すべてが完成したのは1960年。この功績により65年文化勲章受章。座右の銘は「行不由径」(急がず、あわてず公正明大なた大道を闊歩せよという意味)。
島田正吾 99歳(1905年12月13日~2004年11月26日) 俳優。澤田正二郎率いる新国劇に入団。澤田亡き後、辰巳柳太郎とともに新国劇の二枚看板に。代表作に「瞼の母」「一本刀土俵入り」「沓掛時次郎」など。日本における最高齢の俳優として話題に。「ひとり芝居」がライフワーク。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、菊田一夫演劇賞など受章。
松田解子 99歳(1905年7月18日~2004年12月26日) 小説家。戦前はプロレタリア文学運動に参加。戦後も新日本文学に参加。女性問題、産児制限問題、人権問題、中国人労働者の虐殺事件などをテーマとした作品を数多く発表。労働者平和と民主主義のために多方面に活動した。田村俊子賞、多喜二・百合子賞などを受賞。反骨の女性作家。
具島兼三郎 99歳(1905年11月5日~2004年11月12日) 国際政治学者。九州帝国大学法学部を卒業後、唯物論全書の一冊として「ファシズム論」を共著で著す。南満州鉄道において研究内容が軍部に批判的であったため、「満鉄調査部事件」で逮捕される。戦後は九州大学教授、長崎大学学長、長崎総合科学大学長崎平和文化研究所所長などを歴任。
神川彦松 99歳(1889年
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1988年) 国際政治学者。東京帝国大学で学ぶ。1923年から東京帝国大学法学部教授。戦後は明治大学教授などを務めた。1953年、日本学士院会員。日本国際政治学会初代理事長、日本国際問題研究所初代所長を歴任。戦前より外交文書をまとめた「日本外交文書」編纂の必要をくり返し政府に提言。初期の編纂委員。
大橋秀雄 99歳(1903年3月15日~2002年) 元特高(警視庁特別高等警察部外事係)。ロシア一班を担当。ゾルゲ事件では警部補として取り調べにあたった。その紳士的態度にゾルゲは感謝の手紙を残した。2007年、大橋氏所蔵のスパイ・ゾルゲの直筆署名文書などを含む関係資料約数千点が沖縄国際大学の南島文化研究所に寄贈された。
藤井日達 99歳(1885年8月6日~1985年1月9日) 僧侶。日本山妙法寺大僧伽の創始者。インド独立の父マハトマ・ガンジーと出会い、マハトマの非暴力主義が仏教の教えに通じることを知る。後年世界中の様々な宗教指導者を集めて世界宗教者平和会議を提唱・実現するなど、1宗派・宗教を超えた世界平和を目指す活動の礎となった
四世竹本綱吉 103歳(1905年3月18日~2008年8月8日) 女流義太夫。三世竹本綱吉に入門、綱昇と名乗る。吉本興業主催の女浄瑠璃人気投票で第一位獲得し、8年間その座を守る。昭和13年四世綱吉を襲名。若手俳優のために浄瑠璃を指導するなど浄瑠璃界のために尽力する。最高齢の弾き語りミュージッシャンとしてギネスブックから認定証が送られた。
芦原義重 102歳(1901年3月4日
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2003年7月12日) 実業家。関西電力元社長・会長。関電の中興の祖と呼ばれ関西の財界に影響力を持ち続けた。いち早く原子力発電を導入。経営全般の近代化・効率化に努める。財政制度審議委員・科学技術審議議員などの公職を歴任するとともに、関西経済同友会の代表理事や関西経済連合会会長なども務めた。
平塚運一 102歳(1895年11月17日~1997年11月18日)
版画家。石井柏亭に師事。第3回二科展で版画「出雲のそりこ舟」「雨」2点が入選、また第3回日本美術院展にも油絵「出雲風景」、水彩画「麓の小山」が入選した。戦後は「版画の技法と研究」「平塚運一名作版画集」など次々と刊行。
海外での個展多数。勲三等端宝章受章。
岡野喜太郎 101歳(1864年~1965年) スルガ銀行創設者。地方農村の窮乏を目の当たりにして貯蓄組合を発起、明治20貯蓄組合共同社を創設。明治28年根方銀行を創立して頭取。翌年駿東実業銀行、明治45年駿河銀行(現スルガ銀行)と改称。戦時下の一県一行主義の大蔵省の方針を拒否するなど、気骨ある銀行家として知られた。
曽宮一念 101歳(1893年~1994年) 画家。大下藤次郎に水彩画を学ぶ。光風会入選。仁科会樗牛賞受賞。静岡高校教師。仁科会会員。独立美術協会会員。戦後、国画会会員になるが緑内障のために退会。欧州旅行の後に失明する。晩年は静岡県富士宮市で過ごす。代表作に「裾野と愛鷹」「マルセイユのノートルダム」など。エッセイストで随筆に「海辺の溶岩」などがある。
柳生亮三 101歳(1905年10月26日~) 動物、微生物学者。広島大学名誉教授。日本原生動物学会名誉会員。専門分野はゾウリムシなど細かな体毛を持つ「繊毛虫」といわれる種類。これまで32種類の新種を発見、世界の学会に発表。百科事典に載っている繊毛虫のイラストには、今も柳生の繊細な絵が使われている。
野々村一男 101歳(1906年11月15日~) 彫刻家。東京美術学校彫刻科に入学在学中に日展初入選。日展特選受賞。日展特選受賞。総理大臣賞受賞。「物とのはざま」で日本芸術院賞受賞。愛知県立芸術大学創立と共に同大学彫刻科教授となり同大学客員教授。代表作品に名古屋駅前の「青年像」などがある。
棚橋絢子 101歳(1839年~1939年) 教育者。失明の漢学者棚橋大作と結婚,愛知県で寺子屋や私塾などを開く。その後上京,貴族の娘の家庭教師や学習院等で教師として活躍。
58歳の時,名古屋市が高等女学校(現在の菊里高等学校)の創設を依頼し,初代「おなご校長」として評判となる。その後,東京高等女学校(現東京女子学園)の初代校長。
内藤寿七郎 101歳(1906年10月23日~2007年12月12日) 医学博士。恩賜財団愛育会愛育病院名誉院長、日本小児科医会名誉会長。日本の小児科学、保健衛生学、育児学のパイオニア。日本人として初めてシュバイツアー博愛賞を受賞。著書に、「若い両親へ」「子どもの花が育つとき」ほか多数。「あたたかい心を育てる運動」提唱。内藤寿七郎国際育児賞がある。
松原泰道 101歳(1907年11月23日~2009年7月29日) 僧侶。臨在宗妙心寺派教学部長、同派東京龍源寺住職、「南無の会」会長などを歴任。全国青少年教化協議会理事。仏教伝道協会理事。1989年、第二十三回仏教伝道文化賞を受賞。また、2000年には禅文化賞を受賞。30年の間に著された130冊を越える著書はいずれもベストセラ-を記録。
鈴木貞一 100歳(1888年12月16日~1989年7月15日) 陸軍中将。国務相兼企画院総裁。戦前はひたすら立身出世に邁進したエリート軍人官僚。終戦後にA級戦犯として終身禁固刑が下されたが仮釈放。その後は軍人仲間とは一切交流を絶ち、法華経と座禅に明け暮れる生活を送る。毎日の冷水摩擦、和食中心の質素な食事で長寿を全うした。
新見吉治 100歳(1874年10月9日~1974年11月4日) 歴史学者。我が国で最初に歴史教授法を開講した。明治末年ドイツに留学しランプレヒトに師事。ドイツ文の「日本における武家政治の研究」で学位を取得。広島文理科大学教授、愛知工業大学教授。代表的著書に「下級武士の研究」「旗本」「壬申戸籍成立に関する研究」などがある。
小島政二郎 100歳(1894年1月31日~1994年3月24日) 作家。慶応大学在学中に作家たちの文章を分析した論文が森鴎外の目にとまる。「赤い鳥」「三田文学」の編集に携わる。「一枚看板」「家」で作家としての地位を確立した後、「海燕」「人妻椿」などの大衆小説で売れっ子となる。菊池寛、芥川龍之介などとも親交があった。
土屋文明 100歳(1890年9月18日~1990年12月8日) 歌人。国文学者。幼少期から俳句に親しみ、東大在学中に芥川龍之介らと第三次「新思潮」の同人となる。教師生活とともに作歌活動を続け、アララギ派の指導的存在に。万葉集の研究でも知られ「万葉集私注」などの著作がある。日本芸術院会員。文化功労者。文化勲章を受章。
丹羽文雄 100歳(1904年11月22日~2005年4月20日) 小説家。早稲田大学卒業後に書いた作品が永井龍男によって評価される。戦後は東京・銀座などを舞台とした風俗小説で流行作家の仲間入りを果たす。代表作に蛇と鳩(野間文芸賞受賞作)一路(読売文学賞受賞作)など。文壇の大御所的存在で日本文芸家協会理事を務め、文化勲章を受章。
長谷川周重 100歳(1907年8月8日~1998年1月3日) 元住友化学相談役。東大法学部を卒業し住友化学社長、会長、相談役に就任。在任中、大阪商工会議所会頭をめぐり住友金属の日向方斉との暗闘は清水一行により「小説 財界」として描かれた。経団連副会長、日経連理事を歴任。藍綬褒章、フェニックス賞、勲一等瑞宝章などを受賞。
保科善四郎 100歳(1891年3月8日~1991年12月25日) 軍人。政治家。元海軍中将。海軍省軍務局長兼運輸本部長
兼大本営戦力補給部長。戦後は自民党から出馬し衆議院議員。財団法人日本国防協会の設立に尽力し初代会長。主な著書に「大東亜戦争秘史失われた和平工作・保科善四郎回想記」など。勲一等旭日重光章受章。
弥永昌吉 100歳(1906年4月2日~
2006年6月1日) 数学者。専門は整数論。東大理学部教授、学習院大学教授。学士院会員。後進の育成に定評があり、幾何や解析など自分の専門外の分野でも優れた弟子を数多く育てた。ベトナム平和運動や核廃棄廃絶運など平和運動にもかかわる。専門内外での政治的行動も活発だった。著書多数。
大宅
昌 100歳(1906年10月19日~2007年5月24日) 評論家。ジャーナリスト大宅壮一の妻。大宅壮一文庫理事長。大宅壮一の蔵書をもとに設立された雑誌専門図書館「大宅壮一文庫」の理事長を1971年の発足以来務めていた。1981年に出版された「愉しく生きる老い」はベストセラーになった。三女は評論家の大宅映子。
牧野常蔵 100歳(1903年~2003年04月24日) 牧野フライス製作所創業者。1937年、一番立フライス盤の専門メーカー「牧野商店製作部」を創業。以来、NCフライス盤、CAD/CAMシステム、FMS等の製造・販売・輸出などを手がける国内有数の企業に育てた。
第一回型技術協会協会賞受賞。寄付により財団法人「工作機械技術振興財団」が設立。
望月百合子 100歳(1900年9月5日~2001年6月9日) 社会運動家。翻訳家。読売新聞婦人部記者を経てソルボンヌ大学に学ぶ。滞在中(アナトール・フランス「タイ-ス」)翻訳出版。帰国後アナキストとして評論翻訳、月刊「ディナミック」の発刊、女人芸術への参加など幅広く活躍。戦後も山梨県を中心に地域文化の発展にも活躍。
吉井淳二 100歳(1904年3月6日~2004年11月23日) 洋画家。少年の日より一貫して庶民の生活風景を題材に、質実かつ健康な感性を示す絵を描き続けた。代表作に「踏切風景」「帽子を被る女」「屋久の娘」「浜の女たち」「水汲」「市場にて」など。
日本芸術院賞受賞。日本芸術院会員。文化勲章受章。文化功労者。社団法人仁科会理事長。
吉行あぐり 100歳(1907年7月10日~) 美容師。作家の吉行エイスケと結婚。日本の美容師の草分け山野千枝子のもとで2年間修行、独立して山の手美容院を開店。戦後は吉行あぐり美容室を開店。90歳を過ぎても馴染みの客に限定して美容師として仕事を続けていたが2005年に閉店。長男・吉行淳之介は小説家。長女・吉行和子は女優。
豊沢豊雄 100歳(1907年6月22日~) 発明教室主宰。発明指導者。(社)発明学会前会長。門下生10余万人を数える。その間、日用品から電気製品まで大衆発明、提案等の指導にあたってきた。氏の指導によって小企業が大躍進した例は数百におよび、発明成功者は数知れない。1973年藍綬褒賞受賞。主な著書に「アイデアを買う2000社」「特許出願法」。
多田小餘綾 100歳(1907年4月27日 ~2008年4月6日 ) 阿波踊りのよしこので有名な歌手。お鯉さんとして知られている。日本コロムビア大阪支社、ポリドールレコードに所属。2006年に「お鯉~唄声は時代を超えて~」のCDが発売され、2007年には徳島県民栄誉賞を受賞。自身が目標としていた「100歳での現役よしこの歌手」という前人未到の記録を達成する。
昇地三郎 103歳(1906年8月16日~) 教育家。しいのみ学園園長。長男、次男の脳性小児まひをきっかけに「しいのみ学園」を設立。重複障害児との生活の中から新しい教育、ユニークな治療教育を確立。福岡教育大学名誉教授など。「曻地式棒体操」と「一日30回噛む」ことで体力増強。毎朝ラジオでハングル講座と中国語講座を聞くのが日課。
飯田深雪 103歳(1903年10月9日~2007年7月4日) 料理研究家・アートフラワー創始者。終戦後間もなく自宅で知人の子女等を対象に料理の講習を開始。同時に造花の講習も始め、自らの造花をアートフラワーと命名する。勲五等宝冠章受章。シラク・パリ市長から「パリ栄誉章」を贈られる。著書として129冊、随筆として6冊を著す。
大野一雄 103歳(1906年10月27日~) 舞踏家。現日本体育大学在学中にラ・アルヘンチーナの踊りに深い感銘を受ける。卒業後、体育教師をしながらモダンダンスを学び、やがて内面的な問題を扱う身体表現「舞踏」を確立、75歳にして世界デビューを果たす。「ミケランジェロ・アントニオーニ賞」など受章。車椅子で今なお踊り続ける百歳。
片岡球子 103歳(1905年1月5日~2008年1月16日) 日本画家。現女子美術大学日本画科卒。当初より型破りな構成と大胆な色使いに評価は二分したが、従来の日本画風に拘泥されない独自の表現を貫き高い評価を得る。日本芸術院会員。女子美術大学教授などを歴任。代表作に「面構え」「富士山」など。勲三等瑞宝章、文化勲章を受章。文化功労者に選出される
北村西望 102歳(1884年12月16日~1987年3月4日) 彫刻家。代表作に長崎の「平和記念像」などがある。京都市立美術工芸学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)在学中に文展入選。東京美術学校塑像部教授、日展会長などを歴任。文化勲章、文化功労者、紺綬褒章受賞。60歳で剣道を学びそれが健康、仕事の面でも計り知れない効果を生んだ。
東久邇稔彦 102歳(1887年12月3日~1990年1月20日) 皇族・軍人・第43代内閣総理大臣。久邇宮家(朝彦親王)の第九子。明治天皇の第九皇女の聡子と結婚。フランスに渡り陸大、政治法律学校に通う。帰国後陸軍軍人として大将に。終戦の二日後総理大臣として終戦処理にあたり、晩年は皇族を離れて自由奔放に暮らして百寿を全うする。
高木東六 102歳(1904年7月7日~2006年8月25日) 作曲家・ピアニスト。代表作に「空の神兵」「水色のワルツ」など。東京音楽学校ピアノ科に入学後渡仏、山田耕筰の勧めで作曲に転向。シャンソン、ポピュ作曲を数多く手がける。大の演歌・民謡嫌い。一日に40本の煙草を吸い、晩酌も欠かさず。鰻と肉が大好物だったが長寿を全うする。
岩谷直治 102歳(1903年3月7日~2005年7月19日) 岩谷産業創業者。「プロパンガスの父」と呼ばれた。国内で初めて家庭用プロパンガスを市販。またガスホースを使わないカセットボンベ式卓上型ガスコンロも開発。岩谷直治記念財団を設立して文化事業にも積極的に取り組む。著書に「負けず嫌いの人生-私の履歴書」。勲二等瑞宝章受章。
阿波根昌鴻 101歳(1901年3月3日~2002年3月21日) 平和運動家。終戦後、故郷である沖縄・伊江島の土地の約六割が米軍に強制接収された際、反対運動の先頭に立つ。「伊江島土地を守る会」の会長。沖縄本島で非暴力による「乞食行進」を行い、米軍による土地強奪の不当性を訴えた。著書に「命こそ宝―沖縄反戦の心」などがある。
奥
むめお 101歳(1895年10月24日~1997年7月7日) 婦人運動家。政治家。大正8年、日本初の婦人団体である新婦人協会に参加。平塚らいてう、市川房江らと共に理事に就任。働く婦人の地位向上を目指して職業婦人社設立。戦後、参院議員に当選し3期務める。主婦連合会を結成して会長に。勲二等宝冠章を受賞し、没後に正四位を追賜。
三浦敬三 101歳(1904年2月15日~2006年1月5日) プロスキーヤー。古希のエベレストを始め、喜寿、傘寿、白寿の節目で世界の名峰、高峰をスキーで滑る。百歳のときには息子雄一郎ら親子四代でロッキー山脈を滑る。朝夕は玄米食と具沢山の味噌汁、納豆、漬物が定番。朝の簡単体操と40分ほどのウォーキング、口開け運動で健康を維持した。
岡本文弥 101歳(1895年~1996年10月6日) 新内演奏家。俳人、エッセイスト。大正12年に江戸浄瑠璃の一派であった新内節岡本派を再興、文弥を名乗る。「西部戦線異常なし」「太陽のない町」「ぶんやアリラン」などの新作を多数発表。「味噌・人・文学」「長生きも芸のうち-岡本文弥百歳」など著書多数。勲四等旭日小綬章など。
加瀬俊一 101歳(1903年1月12日~2004年5月21日) 元外交官。外交評論家。外務省に入省後アメリカに国費留学、帰国後要職を歴任。国際連盟脱退時には松岡洋右外相に随行。日米開戦時には東郷重徳外務大臣の秘書官。戦後は国連加盟に尽力。吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘の各内閣で首相顧問。戦前戦後の日本外交史の生き字引的存在だった。
直原玉青 101歳(1904年8月1日~2005年9月30日) 画家。禅僧。南画の第一人者。南禅寺管長柴山全慶老師に師事。大阪美術学校卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。(社)日本南画院会長・理事長。守口市美術協会会長。黄檗宗国清禅寺住職。財団法人青少年文化研修道場理事など。勲四等旭日章、勲三瑞等宝章を受章。
清元志寿太夫 101歳(1898年4月25日~1999年1月2日) 大正から平成にかけて活躍した清元節太夫。天性の美声と声量の豊かさで邦楽界を代表する太夫・演奏家として知られた。得意演目は「累」「三千歳」「隅田川」など。豪放磊落な性格で酒豪。麻雀、競馬などの賭け事が趣味。大根おろしのシラスあえが毎朝の定番でこれが長寿の秘訣。
奥村土牛 101歳(1889年2月18日~1990年9月25日) 日本画家。梶田半古門下の小林古径に師事。日々の写実に徹し、代表作「鳴門」で東洋と西洋の芸術の融合を試みた。
日本美術院理事・理事長。文化勲章受章。実直な人柄で知られ、名誉欲などとは無縁の生活を送る。大の愛煙家。「好きな絵を描いていられれば幸せ」であり、これが長寿の秘訣。
有馬秀子 101歳(1902年5月15日~2003年9月25日) バー経営者兼ママ。銀座でバー「ギルビーA」を50年近く経営し、100歳になっても自らママとして接客にあたった。遠藤周作などを始めとする作家、政治家、大企業の経営者などが贔屓にした。毎朝牛乳を2本飲むのが健康法。毎週一度は美容院に通うなどお洒落にも気配りを欠かさなかった。
櫛田ふき 101歳(1899年2月17日~2001年2月5日) 女性解放運動家。平和運動家。戦後、婦人民主クラブの結成に参加し初代書記長、委員長。婦団連会長。新日本婦人の会代表委員。原水爆禁止世界大会議長団。著書に自伝「二〇世紀をまるごと生きて」をはじめ「たくさんの足音―その一つが歩んだ道」「素敵に長生き」「八度めの年おんな」など。
石井桃子 101歳(1907年3月10日~2008年4月2日) 児童文学作家・翻訳家。作家では「ノンちゃん雲に乗る」「幻の朱い実」。翻訳家では「クマのプーさん」「ヒーターラビット」などが代表的作品。戦前・戦後を通じて子供たちに夢を与え続けた。自宅の一角に「かつら文庫」を開設。第1回芸術選奨文部大臣賞、読売文学賞。日本芸術院賞を受賞。
森田
茂 101歳(1907年3月30日~2009年3月2日) 洋画家。現茨城大学を卒業後、教員を経て画家を志し上京。「白衣」が東光展で入選。原色を多用した、力強い筆致の重厚な画風が特徴。代表作に「神楽獅子の親子」「阿波人形」「黒川能」など。文化勲章受章、日本芸術院会員、日展顧問、東光会会長。黒川能を描き続けることをライフワークとしている。
松原泰道 101歳(1907年11月23日~2009年7月29日) 僧侶。早稲田大学文学部卒業。臨済宗妙心寺教学部長、同派東京龍源寺住職。「南無の会」会長、全国青少年教科協議会理事、仏教伝道協会理事などを歴任。仏教伝道文化賞、禅文化賞を受賞。30年間に130冊を超える著書を著す。代表作に「百歳で説く般若心経」「九十九歳、今日をもっと工夫して生きる」。
泉 重千代 120歳(1865年8月20日―1986年2月21日) 元世界最長寿者。フランス人女性ジャンヌ・カルマン(故人)の122歳に抜かれるまで世界最長寿だったが、男性としての記録はいまだ泉が保持で120歳。
100歳に達しても心身ともに健康、食欲も旺盛で好きな飲み物は黒砂糖から作られた焼酎。「神様と仏様とお天道様のおかげで長生きできる」が口癖。
蟹江ぎん
108歳(1892年8月1日~2001年2月28日) 長寿の双子姉妹「きんさんぎんさん」の妹。100歳になっても毎朝15分ほどの散歩を励行、自宅二階にある仏壇まで階段を昇り降りした。カレイ、ヒラメなどの白身魚が大好物。何にでも興味と関心を示した。「人間、大事なのは気力ですよ。自分から何かをする意欲を持つこと」が長寿の秘訣。
成田きん
107歳(1892年8月1日~2000年1月23日) 「きんさんぎんさん」の姉。90歳代で軽い認知症を患っていたが、元気な妹に叱咤激励されて認知症と運動不足を克服、全国的な人気者に。まぐろの刺身と鰻の蒲焼が大好物でほぼ毎日食した。妹に先立たれてから元気を無くす。「悲しいことは考えんほうがええよ。楽しいことを夢見ることだよ」。
大宮良平 107歳(1901年10月21日~) 高齢者ランナー。102歳のとき北海道マスターズ競技大会に出場し200、400メートルで100歳クラスとしては日本新記録、北海道新記録を樹立。健康を支えているのは毎朝のジョギングとラジオ体操、そして風呂上りのダンベル体操。入浴後のビール1本が楽しみでこれが食欲を増進させ快眠をもたらすという。
大西良慶 107歳(1875年12月21日~1983年2月15日) 京都清水寺の元貫主。15歳で仏門に入り奈良の興福寺、法隆寺で学ぶ。日露戦争で従軍僧として出征した後、日中仏教交流の道を開き平和運動に尽力したほか仏教界の要職を歴任。規則正しい生活を心がけて粗食に徹し、よく眠り、よく働く(人さまのために尽くす)ことが長寿の秘訣。
平櫛田中 107歳(1872年2月23日~1979年12月30日) 木彫り一筋を貫いた彫刻家。高村光雲門下。代表作は「鏡獅子」「岡倉天心胸像」「横山大観像」など。91歳で文化勲章を受章。酒も煙草もやらず規則正しい生活に徹する。98歳でアトリエを新築、30年以上も製作ができる彫刻用木材を調達、創作意欲は死の直前まで枯れることがなかった。
今岡信一良 106歳(1881年9月16日~1988年4月11日) 大正・昭和期の教育家、宗教家、翻訳家。中学時代にクリスチャンとなり、ハーバード大学で神学を学ぶ。帰国後、日大講師を経て正則学。宗教の根本は同じであると論じ、一宗一派に属さずに日本自由宗教連盟と東京帰一教会を設立する。ジョセフ・メーソン(9-1-20-14)の翻訳を多く手がけた。
犬塚
稔 106歳(1901年2月15日~2007年9月17日) 映画監督・脚本家。長谷川一夫のデビュー作「稚児の剣法」を監督。カメラマンには後に特撮の父と呼ばれる円谷英二を起用。数多くの映画を監督・脚本し、戦後はテレビの脚本も手がけた。代表作としては勝新太郎の「座頭市」(脚本)など。著作に「映画は陽炎の如く」(草思社)などがある。
物集高量 106歳(1879年4月3日~1985年10月25日) 国文学者、作家。父は国文学者の物集高見、祖父も国文学者。東大を卒業後は教師、新聞記者、編集者などを転々とする。父の「広文庫」「群書索引」の編集事業を手伝い、それが復刊されて注目が集まる。「絶望」という言葉が嫌いで、死ぬまで名誉、肩書き、金銭に執着することはなかった。
近藤康男 106歳(1899年1月1日~2005年11月12日) 農業経済学者。東京帝国大学農学部を卒業後、同大助教授、東京高等農林学校教授を兼任。昭和18年、思想弾圧により大学を追放される。戦後、東大に復職。退職後は武蔵大学学長、農文協名誉理事などを歴任。著書に「農業改革の諸問題」など多数。長寿の秘訣は就寝前の全身10分間指圧。
島津久子 106歳(1898年08月08日~2005年5月15日) 昭和天皇の五女貴子さんの義母。山階鳥類研究所理事長島津久永〈ひさなが〉さんの母。保護司として長く活動し、日本更生保護女性連盟名誉会長。エッセイストとしても知られ、著書に「梅のしるしと」「星に花に愛」「深山に白く」などがある。
宮崎奕保 106歳(1901年11月25日~2008年1月5日) 大本山永平寺副貫首・監院、札幌中央寺住職等を歴任。平成16年1月22日曹洞宗管長に就任。著書に「続編 若き仏たちへ」「また逢いましょう」など。「人間はわがままが自由やと思っておる ちゃんと型にはまったものが日常でなければならない」など、宮崎説法、講演会はいつも満員。
小倉遊亀 105歳(1895年3月1日~2000年7月23日) 女流日本画家。日本美術院の画家安田靱彦の門を叩き、岡倉天心、横山大観らの先輩後輩と深い絆を結ぶ。70歳代で「径」「舞妓」「姉妹」などの代表作を発表、80代では「天武天皇」などの歴史肖像画の代表作が制作された。上村松園に次いで女性画家としては二人目となる文化勲章を受章。
小林ハル 105歳(1900年1月24日~2005年4月25日) 最後の長岡瞽女。生後三ヶ月で白内障を患い失明。5歳に瞽女として入門。筆舌に尽くしがたい過酷な荒修行と旅放浪が、強靭な肉体と精神力を培うことになる。晩年は養護老人ホームで瞽女唄全曲録音の作業に携わる。無形文化財、黄綬褒章、第36回吉川英治文化賞を受賞。
塩谷信男 105歳(1902年3月24日~2008年3月14日)
医師。昭和6年、東京渋谷に内科医院を開設し、昭和61年84才で閉院するまで、50年以上を医療の第一線に携わってきた。この間、生命線療法と名付けた独自の治療法(真手)により、多くの患者を治療。自ら発表した「正心調息法」の普及にまい進し、執筆、講演にと全国を飛び回っている。
源
豊宗 105歳(1896年10月7日~) 美術史家。元・関西学院大学教授。美術雑誌「仏教美術」の主幹として活躍。毎号論文を発表する一方、地方美術作品の紹介などに努めた。9~18年京大文学部講師、
27~41年関西学院大文学部教授、帝塚山学院大教授などを歴任。編著書に「日本美術史年表」「大和絵の研究」「日本美術の流れ」「日本美術史論究」(全
8巻)など
中川牧三 104歳(1903年12月7日~2008年3月2日) 声楽家。日本におけるイタリア・オペラの草分け。今も現役でオペラを指導している。若い頃からヨーロッパへ留学し、戦前は世界を舞台にテナー歌手として活躍。文化庁長官表彰授受。2005年イタリア政府より日本人として初めて『連帯の星』最高位の勲章「グランデ・ウフィチャーレ勲章」授受。
加藤シズエ 104歳(1897年3月2日~2001年12月22日) 日本の女性解放運動家。日本初の女性代議士。日本産児調節婦人連盟、日本家族計画連盟、家族計画国際協力財団の会長などを歴任。戦後初の衆議院総選挙で婦人として初の当選を果たす。「一日に十回感動」し「昼寝は厳禁」。うがいと一日に三合の牛乳を飲むことが長寿の秘訣たった。
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日本抗加齢医学会の学会誌では、100歳の方へのインタビュー記事を掲載しています。 毎回長寿の秘訣を伺っていますが、その中にはたくさんのヒントがあります。 |