霊的史実 主として 活躍した年代 西暦年 |
精神世界的、歴史・政治史的見地からみた重要史実 地球環境的見地からみた重要史実 経済史的見地からみた重要史実 紛争・内戦・戦争からみた重要史実 その他の歴史的史実 内容 ■1848年 ■2000年 ■2010年1月 ■2011年1月 ■2012年1月 ■2013 ■2022年2月 |
書籍 その他資料 |
|||||||||
霊的見地からみた史実とは 霊界通信=霊界から地上界へ通信が届けられる方法やメッセージが存在する (1) スピリットが語る。 霊言現象 スピリットが霊媒に乗り移ってしゃべる場合で、日本で「お告げ」とか「口寄せ」と呼ばれているもの。変性意識、変性意識状態は「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い、この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われる。トランス状態(変性意識状態の一種)、トランスパーソナル心理学、アデプトプログラム(意識の成長を促進するプログラム。) 自動言語・直接談話現象 霊媒から出るエクトプラズムという特殊物質で人間の発声器官と同じものをこしらえて、スピリットがしゃべるもの。霊媒から離れた空中から直接声がする。 (2) スピリットが書く。⇒エリザベス・キューブラー・ロスと死亡した元患者のエピソード、『スピリットランド』 自動書記現象 通信霊が霊媒に乗り移って、われわれと同じ要領で綴る場合。「おふでさき」。『波動の法則』 直接書記現象 神と鉛筆を用意しておくと、いきなり文章が綴られるもの。絵画や記号、暗号などの場合もある。 (3) 人間の幽体離脱(体外離脱)による次元や時間を超えた探索体験がある。 音響現象、物体の出現・消失・物体を通り抜ける、物品引寄せ、化学的現象(発光・芳香・心霊写真)、耐火現象、浮揚現象、物質化現象、塑型、人体の変化、心理的心霊現象 写真撮影、テープレコーダーでの録音等による記録、モンロー研究所 ・治療中に自身の過去世体験を語る⇒前世療法。臨死、幽体離脱中に過去生や未来を体験する。 アクシデントによる体験(臨死体験) ⇒ 実験的・訓練的体験 ⇒ 日常的な体験へ =幽体・体外離脱 ⇒ 死後(霊的)世界探索、探求へ (4) チャネリング 常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(何か高次の霊的存在・神・死者(霊界人)・宇宙人・未来人など)とコミュニケーションをすること。 1980年代以降米国でさかんにこの意味で使われるようになり広まった。チャネリングを行う人をchannel(チャネル、チャンネル )、あるいはchanneler(チャネラー) と呼ぶ。 |
人生の意味とは? 過去生、現生、来生はあるのか? この現生をどう生きるのか?? 私は一体何をしに生まれて来たのか? 本当に「皆仲良く暮らす」とはどんな暮らし方?? 「楽しく」生きるとは?? 本当に人生に必要なものとは? そして、私たちはこれからどこへ行き着こうとしているのか? 計らずも こんな情報に出会っていったのもひとえに 「勝手にソウルメイト」との会話がきっかけです。 まとめ「12の救い」 は当ページ最後へ いよいよ行動・実践へ!! 特に出典がないものはwikipediaを中心にネットからの情報収集メモです。 |
||||||||||
46億年前 | 地球誕生 | ||||||||||
45億年前 | 月誕生? | |
|||||||||
|
太陽系は星間ガスの渦から始まった。重たい物質だけが渦の中心に集まり太陽のもととなった。太陽に近い場所では、比較的重い物質、鉱物や岩石などがぶつかり合いながら大きな結晶に成長していく。太陽を中心にさまざまな重さの物質の塊が惑星となり、軌道を描くようになっていった。 ・太陽系で生命が誕生したのは地球だけ。太陽からの距離、惑星を構成する成分、その他さまざまな条件が奇跡的な確率で積み重ねられた結果だった。… 水が液体の状態を保っていられるのにちょうどよい距離に位置していたのが地球だった。 ・原初の海で最初の生命が生まれた。藻のような植物性プランクトン、光合成により酸素⇒。動物性の微生物⇒循環 ・植物が海岸から少しずつ陸上に進出、地球誕生から地表の大部分が植物によって覆われるまでに要した時間は8億年 ・生命体は「地球の環境バランスを整える。生命体はよりよい循環を地球上にもたらすため存在する」というたった一つの目的のもとに増えていった。 ・太古の地球は植物中心の生態系。適度な死が必要。肉食獣は体内に植物を栄養化する酵素を持っていないため、草食獣の内臓を食べることによって生命を保っている。⇒進化論では生命体は自らの種をより繁殖させることが可能なように、厳しい自然環境に適応していくかたちで自らの肉体を進化させていったという言い方をするが、私が見てきた世界は、自らの種を繁栄させるためではなく、地球環境のバランスを整え、より長く生命が循環し続けられることを目的に進化していた。そして、種々雑多な生命のバランスを管理するものとして、進化の最終段階で生まれてきたのが人間だった。自ら学習し、物事を考え、発想し創造する能力をもつ生命体がどうしても必要となってきたのだ。それはちょうど縁のないお盆の上に置かれたビー玉を落とさないようにバランスをとりつづけるビー玉に似ている。たえずそのときの状況や変化に合わせてバランスをとりつづけなければならない。 地球の歴史を見ることによって、膨大な意識のなかからこのことを読み取った。⇒こうして「人は何のために存在しているのか」という問いに対する答えを手に入れた。 『生き方は星空が教えてくれる』より |
『生き方は星空が教えてくれる』 木内鶴彦より2003年3月 |
|||||||||
40億年前 | 宇宙の奇跡である生命誕生? | ||||||||||
|
|||||||||||
2億8900万年前 |
人類創世 |
||||||||||
6500万年前 | 恐竜絶滅。1億数千万年もの間繁栄 | ||||||||||
1850万年前 | 第3根本人種レムリア時代の中期 ・サナット・クマラは、地球の惑星ロゴス(地球の創造主、神)の、物質界における反映の任を司るために、「大いなる犠牲」として、1850万年前に金星からやって来たとされる。 ・サナット・クマラは、当時から現在までも、エーテル体を纏っている。 ・サナット・クマラは、104人のクマラ方と共に地球に到来された。クマラ方は、炎の天主方などとも呼ばれる。 ・105人のクマラ方の内、現在では4人だけが地球に留まっている。即ち、サナット・クマラと、「活動の仏陀 (プラチエカ仏陀)」などと呼ばれるクマラ方の3人とである。 ・サナット・クマラは、モンゴルのゴビ砂漠上空の、エーテル界の上位亜界に、地球のエネルギー・センター(中心)、人間における頭頂チャクラに相応する「シャンバラ」を発生させ、そこに住む。 ・サナット・クマラが地球にやって来た当時、1850万年前は第3根本人種レムリア時代の中期であった。 ・当時の人類は、動物状態におけるは完成していたが、まだ本当の人間ではなかった。即ち、動物としての魂が宿る器に過ぎず、人間としての魂が宿る器ではなかった。 ・サナット・クマラは炎の主方と共に、人間としての進化の道にいる魂を、人間として転生させるために、動物人間であった地上人類の進化を促進したとされる。これにより、地上人類は本当の意味で人間となったのである。Wikipedia「不朽の知恵におけるサナト・クマーラ」より |
||||||||||
800~900万年前 | 第4根本人種アトランティス時代の中期 ・サナット・クマラは、第4根本人種アトランティス時代の中期(800~900万年前)、地上人類の進化を更に促進するために、秘教的イニシエーションのプロセスを地上人類を授ける。Wikipedia「不朽の知恵におけるサナト・クマーラ」より |
||||||||||
300万年前 | 人類誕生 | ||||||||||
45万年前 | アヌンナキ、地球に飛来⇒そのことが書き記されたのがほんの数千年前。『大いなる秘密(上)』 P76 | ||||||||||
40~ 30万年前 |
旧石器時代のベトナム ・最古の人類 - 約40~30万年前の地層からタムハイのタムクエン洞窟(ランソン省)で最古の人類(原人)の歯が発見された。 ・クアンイエンのド山(タインホア省)、スアンロク(ドンナイ省)など多くの場所で打製石器や剥片石器が発見されている。 ・約30,000 - 20,000年前 - ホモ・サピエンス(新人)の段階では、グオム石窟(タイグエン省)、ソンヴィー(フート省)、ライチャウ省、ソンラ省、バクザン省、タインホア省、ゲアン省で遺跡が発見されている。打製石器を使用し、移動しながら生活をしていた時代であったと推定される。Wikipedia |
||||||||||
20万年前? | 人間誕生 ・20~30万年前、レプテリアンの遺伝子交配プログラムによって、同じく爬虫類型異星人であったアヌンナキと人間との混血種が創り出された?『大いなる秘密(上)』 P133 ⇒「この地球上におけるレプテリアン以外の異星人が人類と交配する可能性」? |
||||||||||
Y染色体アダム(Yせんしょくたいアダム) |
|||||||||||
約5万年前 | ムー(レムリア)の人々の多くが北アメリカへ⇒南アメリカへ | 『バシャール×坂本政道』 | |||||||||
4万年前 | 最古の笛 初期の楽器 ドイツ南西部のホーレ・フェルス洞窟の遺跡で人類がハゲワシの骨やマンモスの牙を彫って作った”フルート”をドイツの大学の研究チームが発掘し、ネイチャー電子版に発表。アフリカから欧州に到着したばかりのクロマニョン人による最も初期の楽器とみられる。3万5000年前のものか? 確実に最古の笛と考えられているものはドイツ、ウルム近郊の洞窟から出てきた骨の笛で約36000年前のものであり、現生人類が使用したと考えられている。Wikipedia「世界最古の笛」 ネイチャー電子版新聞2009.6.25付けより 英オックスフォード大学は、同校と独テュービンゲン大学の研究者が、世界最古の楽器と見られるマンモスの牙とトリ[ハゲワシ]の骨によるフルートのコレクションについて、時代を特定したと発表した。同じ深さの採掘で見つかったほかの骨が、放射性炭素年代測定で40,000年前のものであることがわかったのだ。.livedoornews2012.5.31 http://news.livedoor.com/article/image_detail/6612240/?img_id=3331595 |
||||||||||
3万5千年から4万年ほど前 | ホーレ・フェルスのヴィーナス は2008年にドイツのシェルクリンゲン近郊で発見された後期旧石器時代のヴィーナス像。 この時代はじめの初期オーリニャック文化でつくられたと考えられ、年代的にはおよそ3万5千年から4万年ほど前にあたる。描かれているのはおそらくヨーロッパにかつて分布した新人であるクロマニヨン人の姿である。疑いようもなく旧石器時代では最古の美術品であり、あるいはより一般的な先史時代の造形美術としても最も古い。Wikipedia |
||||||||||
3万5千年前 | ライオンマン(ライオンレディー) この獅子頭の象牙彫刻は、まずライオンマン(直訳すると "ライオン人")、次いでライオンレディ()と呼ばれた。これは世界最古の動物形象の彫刻であると同時に、いわゆる彫刻として知られる最古のもののひとつである。この彫刻は、動物に人間の性質を擬した擬人化であると解釈されているが、神の表現である可能性もある。発見されたのと同じ地層の放射性炭素年代測定により、この小立像は約32,000年前のものとされている。これは考古学上、オーリニャック文化のものとされている。Wikipedia |
||||||||||
約3万2000年前 | 洞窟壁画 有史以前の、洞窟や岩壁の壁面および天井部に描かれた絵の総称。 現存する人類最古の絵画である。壁画は4万年前の後期旧石器時代より製作されている。これらは社会的に敬われていた年長者や、シャーマンによる作品であると広く一般に信じられている。 ・約3万2000年前―ショーヴェ洞窟、現存する人類最古の絵画。バロン・ポン・ダルク近郊、フランス ・約18,500年前頃のもの、約16,500年前~14,000年前頃のものが含まれる―アルタミラ洞窟、カンタブリア州サンティジャーナ・デル・マル近郊、スペイン ・ラ・マルシュ洞窟、リュサック・レ・シャトー近郊、フランス ・15,000年前―ラスコー洞窟、旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれた。、フランス ・コスキュール海底洞窟、マルセイユ近郊にある入り口が海面下にある洞窟、フランス |
||||||||||
約3万2000年前 | ショーヴェ洞窟(フランス) 現存する人類最古の絵画。 バロン・ポン・ダルク近郊。ハイエナの絵もある。 Wikipedia |
||||||||||
約3~2万年前 | 約30,000 - 20,000年前のベトナム ホモ・サピエンス(新人)の段階では、グオム石窟(タイグエン省)、ソンヴィー(フート省)、ライチャウ省、ソンラ省、バクザン省、タインホア省、ゲアン省で遺跡が発見されている。打製石器を使用し、移動しながら生活をしていた時代であったと推定される。Wikipedia |
||||||||||
3万年前~ 1万2000年前 |
ムー(レムリア)の人々、アトランティスへ? ・アメリカの東海岸、キューバ、プエルトリコ、フロリダの一部、バハマ ・アトランティス時代、地球は氷河期⇒海面は約300フィート低かった。 ・科学技術は約2万年前~1万5000年前にピーク ・空中浮揚について理解。クリスタルを振動させて電力や光をつくる方法 ・空気よりも軽い船、長距離コミュニケ―ションの手段 ・ポジティブなエネルギーとネガティブなエネルギーに分裂⇒軍事的征服者⇒崩壊 |
『バシャール×坂本政道』 | |||||||||
25000年前 | ローセルのヴィーナス(角を持つヴィーナス) 旧石器時代の数々のヴィーナス像の中でもその造形性によって名高いこのレリーフ(浅浮彫り)は、20世紀初頭(1911年)にフランス、ローセルの岩陰で発掘されました。この女性像が意味するところは謎のままですが、その豊満な体つきや手にした角は、豊穣や多産と関係するとも考えられます。 25,000年前頃 石灰岩 縦54cm 横36cm 厚さ15cm アキテーヌ博物館 TBS |
||||||||||
紀元前22,000年から20,000年 (約24,000年から22,000年前) |
ヴィレンドルフのヴィーナス |
Wikipedia |
|||||||||
2万2000年前 | ブラッサンプイの貴婦人像 マンモスの牙に女性の顔が彫刻された2万2000年も前の驚くべき例のひとつです。マンモスの牙に彫った高さ4センチもない小さな像。 フードをかぶった婦人ともよばれ、人間の顔を精緻に表現したもっとも古い作品といわれる。国立考古学博物館 |
||||||||||
1万9000年前 | レスピューグのヴィーナス(フランス) 旧石器時代。1922年フランス南西部洞窟より発見。現物はマンモスの牙製。 人類学博物館蔵 |
||||||||||
18,500年前~13,000年前 | アルタミラの洞窟壁画(スペイン) 壁画は、ソリュトレ期に属する約18,500年前頃のものと、マドレーヌ期前期頃の約16,500年前~14,000年前頃のものが含まれる。約13,000年前に落石によって洞窟の入り口が閉ざされたと考えられ、これにより幸運にも壁画は外気から遮断され、理想状態に保存がされている。Wikipedia 写真は複製 |
||||||||||
16,500年前~ 3,000年前 |
縄文時代 子ども向けの本だったが、『縄文人の智恵』に感動 約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、 地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、 世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。=土器時代 草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。 縄文人 旧石器時代後の、約1万6,500年前の紀元前145世紀から約3,000年前の紀元前10世紀にわたる縄文時代の文化は、概ね現在の日本に分布していた。そのため、この地域に居住していた縄文土器を作る新石器時代人を縄文人と見ることが出来る。 この縄文人は時期によって異なるが地域ごとに4-9のいくつかの諸集団に別れていたと考えられている。日本列島(旧石器時代のこの海域は後述のように、現在とは相当に異なった海岸線を持っていた)に居住していた後期旧石器時代の人々が、後に縄文文化と総称される文化形式を生み出し、日本における縄文人諸集団が出現したと推測されている。Wikipedia 縄文人-父系のルーツ 崎谷満の分析では、日本人は主にY染色体ハプログループD1bの縄文系とハプログループO1b2の弥生系を起源とする事が明らかになった。 |
『縄文人の智恵』 | |||||||||
旧石器の存在が確認され、縄文時代に先行し土器や石鏃を伴わない石器文化の存在が確実な事実となり、旧石器時代の存在が証明されることとなった。また、日本列島の人類史の始まりを一挙に万をもって数えられる更新世に遡らせた | |||||||||||
15000年前 | 月の誕生? 月誕生は15000年前、すでに人類は誕生し、文化的な生活を営んでいた。 大量に増えた水は地球の質量を変化させ重力を増加させた。 月の誕生により、地球は月の引力の干渉を受けることにもなった。 海の潮の干満もこのときから始まった。 『生き方は星空が教えてくれる』(木内鶴彦) |
『生き方は星空が教えてくれる』 木内鶴彦より2003年3月 |
|||||||||
15000年前 | 人類誕生と最初の試練 当時は海対陸の比は1:3⇒現在は3:7(月は存在していなかった?)。 質量が少ないため、重力も弱かった。水圧から解放された動物は重力の弱い陸上で巨大化していった。 最初の試練が訪れた。大量の水を含んだ巨大彗星が地球に大接近した。火星付近まで到達したとき、水分が気化して太陽よりも巨大なガス状の天体に変化した。ガスは地表に近づくにしたがい冷え、雨となって降り注ぎ、大地の三分の一が水底に沈むほどの大雨が地球に降り注いだ。 ⇒人類は避難するも大多数が死亡。恐竜は絶滅。 ⇒月誕生後にわずかに生き残った人類は山を下り、再び文明を築く努力を重ねたが文字通り、ゼロからのスタートだった。『生き方は星空が教えてくれる』(木内鶴彦) |
『生き方は星空が教えてくれる』 木内鶴彦より2003年3月 |
|||||||||
15,000年前 | ラスコー洞窟壁画 アルタミラ洞窟壁画と並ぶ先史時代(フランコ・カンタブリア美術)の美術作品。 1940年9月、ラスコー洞窟近くで遊んでいた近くの村の子供たちによって発見された。 洞窟の側面と天井面(つまり洞窟の上半部一帯)には、数百の馬・山羊・羊・野牛・鹿・かもしか・人間・幾何学模様の彩画、刻線画、顔料を吹き付けて刻印した人間の手形が500点もあった。これらは15,000年前の旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれていた。Wikipedia |
||||||||||
12000~19000年前 | 粥見井尻遺跡(かゆみいじりいせき)と日本最古の土偶 三重県松阪市飯南町粥見字井尻で1996年(平成8年)に発見された縄文時代草創期の遺跡。 県指定史跡。日本最古級の土偶が出土した。現在は「粥見井尻遺跡公園」として残されている。 平成8年9月、松阪市飯南町の粥見井尻遺跡で縄文時代草創期の土偶が、ほぼ完全な形で発見された。Wikipedia 今から時代をさかのぼること約1万2千年から9千年。土器や弓矢が使われ始めた縄文時代草創期のもので日本最古のものとみられています。 女性の上半身を形どった、全長6.8cm、幅4.2cm、厚さ2.6cmの小さな土偶ですが、縄文時代の精神文化誕生をひもとき、その時代の人々の暮し、 社会の様子などを解明していく上で大きなヒントになるものと全国から注目されました。観光三重HP 粥見井尻遺跡から2つの土偶が発見され、そのうち1つはほぼ完全な形で、もう1つは頭だけのものが別々の竪穴住居跡から発見されました。2点とも同じ大きさ、形で、砂粒の混じりの少ない粘土が使われ、明るい黄土色をしています。まさかのまつさか |
日本最古の土偶 |
|||||||||
14000年前 | 北海道帯広市の大正遺跡群「大正3」遺跡で発掘された約1万4000年前の縄文土器片から、海産物を煮炊きした焦げかすが見つかったと、日欧研究チームが10日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。土器を煮炊きに使った証拠としては世界最古で、海産物は川をさかのぼったサケ・マス類の可能性があるという。。(時事通信) | ||||||||||
13000年前 |
国内最古級の土偶出土―「相谷熊原遺跡」 |
指先大のふくよか土偶 |
|||||||||
12000年前 | 鳥浜貝塚 福井県若狭町に所在する縄文時代草創期から前期にかけて(今から約12,000~5,000年前)の集落遺跡。保存良好な木製遺物等1376点が国の重要文化財に指定されている。 放射性炭素年代測定法によると、地下7メートルで今から約1万2000年前(縄文時代草創期)、約6メートルで約8000年前(縄文時代早期)、約3メートル下で約5500年前(縄文時代前期)であり、ムラは縄文時代前期の6000年~5500年前が最盛期であったことが分かった。 世界最古のウルシ 1984年に出土した木片を2011年に東北大学が調査したところ、およそ1万2600年前のウルシの枝であることが判った。ウルシは奈良時代以前に大陸から持ち込まれたとこれまで考えられていたが、さらにかなりさかのぼった縄文時代初期の可能性もあるが、日本国内に元々自生していた可能性も考えられる。 丸木舟 1981年7月と1982年に丸木船が1隻ずつ出土した。前者は縄文時代前期のもので、当時この期の丸木舟としては日本最古であったので第一号丸木舟と名付けられた。 |
||||||||||
11000年前 | 高度な技術を持った文明が地球的大変動によって壊滅し、「黄金時代」はその幕を閉じた。『大いなる秘密(上)』P76 | ||||||||||
10,000年前 (紀元前8000年) |
集合意識ハトホル 古代エジプト文明が存在していた。集合意識ハトホルは地球と関わりを持っていた。ピラミッド建造に関与はない。 ピラミッドには埋葬室を備えたものも少なくないが、第一の目的はエネルギー発振装置としての機能にあった。当時の秘儀参入者たちは特定の数学的比率で地取りされた指定場所に入った。そのようなエネルギー生成母体に入ることでそうでなければとうてい不可能な「大いなる宇宙」や「大いなる神秘」の知識の伝授を成し遂げられた。 ・エネルギー網、すなわちグリッドの創造を促進させることができた。地球上のこのグリッド構造は新たなグリッドを支えるという明確な目的ですえられた。今日ではキリスト意識のグリッドと呼ばれ、ナザレのイエスとして知られるあなたがたの師が献身的努力を手向けたおりに顕在化したもの。 ・この大いなる存在が務めに着手したとき、複数のピラミッドからなるグリッドが、その新しい波動を支援した。そして、そのキリスト意識の波動をもつグリッドは今日まで継続的に強化をされてきている。ピラミッドはいくつもの意識レベルにまたがる多目的な機能をもつ装置だった。(P31~) Q:中央アメリカとメキシコ全域には何百基ものピラミッドが散在しているいに関わらずまだ、存在さえ知られていないといいますが。 ・ジャングルにすっかり覆われていますからもっともな話です。 Q:ピラミッドは地球全域にわたり、あらゆる場所に建てられていたのでしょうか。 ・そうです。一つの文明によってではなく、多くの様々な文明によって造られました。それでも建造にたずさわった存在ないし文明は、直観と「大いなる神秘」に関する知識によって、みな深い意識レベルでつながっていた。そして自分たちのしていることをエネルギーという見地からきちんと理解していた。特定の指導的な建築家によってすべての施工が行われたわけでもなく、3次元的時空間で特定の指導者たちのあいだに示し合わせがあったわけでもない。ピラミッドはすべてそれぞれの場所ごとに建造されたが、明らかに同じ源を共有し、いずれの場合も外部からの支援を受けていたのです。 Q:惑星外からの支援ということでしょうか。 ・そうです。プレアデス人やシリウス人などから支援を受けていました。 『ハトホルの書』より |
『ハトホルの書』 | |||||||||
シュメール文明、メソポタミア文明 メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。 |
|||||||||||
紀元前6000年~ 紀元前5000年頃 |
エジプト文明 牧畜(古代)、それに、農耕(古代)による交換経済は、紀元前6000年~紀元前5000年頃には、既に定着していた。そして灌漑農業が創始したときには、ファラオによる公共事業が行われた。また、周辺文明であるメソポタミアそれにヒクソスとの対立は、交易の範囲が拡大していたことを示してい |
(巨石と太陽)ギザの3大ピラミッド | |||||||||
紀元前5500年~紀元前3500年 | ウバイド文化(Ubaid culture, 紀元前5500年ごろ - 紀元前3500年ごろ)はメソポタミアに誕生した先史文化。イラク南部ジーカール県のウル遺跡の西6キロメートルにあるテル・アル=ウバイド(al-`Ubaid, العبيد)という遺丘(テル)で発見された、新石器時代から銅器時代の遺跡が、この文化を代表する。この文化はメソポタミア南部の沖積平野での最古の文化で、紀元前6500年ごろからメソポタミアに広がり始め、紀元前4000年ごろから始まるウルク文化へと引き継がれた。灌漑農業の導入による農業の飛躍的発展、車輪の導入、銅器時代などがウバイド期に始まっている。 | 銅器時代 | |||||||||
紀元前5000年代 | P85紀元前5000年代に形成された西ヨーロッパの村落社会では,先祖を敬う確固とした宗教が形作られていった。この宗教は,巨石建造物が発明されたことによって,明確な形をとるようになった。こうした建造物は,生前に強い影響力を持っていた死者たちを守り,その記憶を維持するために,象徴として考え出されたものである。巨石建造物の永遠性や,その築造に注ぎ込まれた途方もないエネルギー。それは,この建造物を造る際に用いられた技術や,そこで行われた儀式を知ることで明らかになる。 | 『巨石文化の謎』紀元前5000年代 | |||||||||
紀元前4800年 | 縄文人-勾玉(まがたま)の分布 遅くともBC5,000年頃(縄文時代中期)には勾玉が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の「長者ヶ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されており、蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが判明しており、縄文人が海を渡って広い範囲でお互いに交易をしていたことが考えられている。後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。Wikipediaより |
||||||||||
紀元前4000~3500年 | 巨石遺構、巨石記念物 ・研究史―20世紀に発明された放射性炭素年代測定で、この技術によれば巨石記念物の多く(※カルナック列石、ストーンヘンジ、マルタ島など)は、ケルト人はおろか、ピラミッドすら建っていない紀元前4000年から3500年ごろに着工されたものであると判明した。こうしてこれらは現在おおよそ新石器時代のものであるとみなされている。 ・担い手―ヨーロッパにおける巨石記念物の分布は、ハプログループR1b (Y染色体)の高頻度域と見事に一致している。このグループは新石器時代にヨーロッパに農耕をもたらした集団と考えられる。現在はバスク人に90%以上に見られることから、バスク語に近い言語(バスコン語)を話していたことが想定される。 Wikipediaより |
||||||||||
約5300年前 | アイスマン (英語: Iceman)は、1991年にアルプスにあるイタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷(海抜3,210メートル)の氷河で見つかった、約5300年前の男性のミイラである。 エッツィ(Ötzi)の愛称で知られる他、英語圏ではエッツィ・ジ・アイスマン(Ötzi the Iceman)、ハウスラプヨッホの男(Man from Hauslabjoch)などとも呼ばれる。 2012年に初めて実施された解凍調査の結果、瞳、髪の色は茶色、肌の色は白色、身長160cm、体重50kg、骨からのデータにより年齢47才前後、筋肉質な体型だと解明された。血液型はO型、乳糖不耐症の因子を持ち牛乳が苦手だった可能性が高い(そもそも、古代人の多くは乳糖不耐症の因子を持っており、ヨーロッパにおいて乳製品の飲食が広まったのは古代ローマ時代以降である)。腰椎すべり症を患っており、腰痛持ちであった事が考えられる。…Wikipedia |
||||||||||
紀元前 3650~1400年頃 |
ミノア文明(クレタ文明) 紀元前1600年頃の後期ミノア期には、各都市国家の中央集権化、階層化が進み、クノッソス、ファイストスが島中央部を、マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退を招き、紀元前1400年ごろにミュケナイのアカイア人がクレタ島に侵入、略奪されミノア文明は崩壊した。 クレタの宮殿建築は非対称性・有機的・機能的な構成で、中庭は外部から直接に進入することができ、かつ建物の各部分への動線の起点となっている。建物は常に外部に対して開放されており、当時のクレタが非常に平和であったことが推察される。 初期の宮殿建築では、宮殿に接して市民の公共空間が設けられていたが、後期ミノア時代に社会体制が中央集権化・階層化するとともに次第に公共空間は廃れ、他の建築物が建てられた。祭政を一体として行っていたために、独立した祭儀場を持たない。 ミノア文明は、紀元前15世紀半ばに突然崩壊した。その原因を、イギリスの考古学者アーサー・エバンスらは、サントリーニ島の巨大爆発(ミノア噴火)に巻き込まれたとする説を唱えた。しかし、アクロティリ遺跡の調査によってミノア文明が滅んだのは、ミノア噴火より50年後ほど経た後であり、サントリーニ島の噴火が直接の原因ではないことがほぼ確定している。Wikipedia |
青銅器文明 (巨石)ミケーネの獅子門 |
|||||||||
5000年 ~4000年前 縄文中期 |
土偶-縄文のビーナス(じょうもんのビーナス) 縄文時代中期に製作されたと見られる土偶。妊婦を象っており、高さは27cm、重さ2.14kgである。「土偶」の名称で国宝に指定されている。茅野市尖石縄文考古館所蔵。 Wikipedia |
縄文のビーナス 国宝 |
|||||||||
約4,500年前縄文時代中期 |
土偶-縄文の女神 |
縄文の女神 国宝 山形県立博物館 |
|||||||||
紀元前3100年~2900年 | アイルランド、ニューグレンジと太陽光 紀元前3100年から紀元前2900年の間に建設された。つまり約5000年前のものである。放射性炭素年代測定によれば、エジプトのギザの大ピラミッドよりも500年ほど古く、ストーンヘンジよりも約1000年先行している。 アイルランド・ミース州のブルー・ナ・ボーニャ遺跡群にある羨道墳の1つ。世界的にも有名な先史時代の遺跡の1つであり、アイルランド島で最も有名な先史時代の遺跡である。1年で最も日が短い冬至の明け方、太陽光が長い羨道に真っ直ぐ入射し、部屋の床を短時間だけ照らすように建設されている。 ロッホクル、ニューグレンジなどは、天体観測も行っていたダーナ神族とかかわりがあり、ひとつのレイラインを形成していてラインはフランスにある巨石群にまでつながっている、ともされる(Wikipedia) |
||||||||||
紀元前 3100~2000年頃 |
ストーンヘンジと太陽礼拝 ・ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)のこと。現在のイギリス人、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでに存在していた。 円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。 ・遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない。 ・ストーンヘンジの名声は、その考古学的重要性や、古代の天文学的役割によるものだけではなく、訪れた人々に無形の影響、クリストファー・チッペンデールが「この場所の肉体的感覚」と記した、合理的・科学的な観点を超越した何かを与えるところにある。このことが、古代人の大いなる業績の象徴として、そして考古学の主流を今なお打ち負かしている何かの象徴としてのこの遺跡の霊的な役割、および単なる科学的な説明ではそれを正当化できないという信条をさまざまなグループに示した。 ・アルフレッド・アトキンスは、この遺跡から他の遺跡へつながる3本のレイ・ラインを発見した。 Wikipedia |
(巨石と太陽) |
|||||||||
5000年前 紀元前3000年 |
ラス・シクラス遺跡 2006年6月20と21日の朝日新聞にペルーで発見された「シクラス遺跡」が大きく記載されました。 中南米にはマヤ、アステカ、インカ文明が有名ですが、今回判明したシクラス遺跡は、それらをはるかに超え、4800年も前にさかのぼる文明です。エジプトやメソポタミアなど四大文明と並び、今までの歴史を覆すほどの大発見です。ペルーの有名なマチュピチュやナスカの地上絵より、歴史的重大さを持っている。 シクラ 石のかわりに紙を詰めてあります。 石と石を繋ぐ植物のネットがほどよいクッションになって、優れた耐震構造をもつ強固な壁を作ることができた、という。 http://www.latenamerica.com/andes.html |
||||||||||
紀元前2500年 縄文時代中期 |
土偶―十字形板状土偶 北日本の円筒土器文化に属する土偶。北日本では、中期以降も板状の土偶が造られつづけた。 ※ ・なぜこの形? ・顔が縄文人ぽくないのでは。 ・なぜ下ばきは三角のショートブリーフ? ・胸には乳房というより、…とにかく女性には見えない。 |
||||||||||
縄文時代 後期 |
大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき) ・秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。国の特別史跡に指定されている。環状石籬(かんじょうせきり)やストーンサークルとも呼ばれる。 ・大湯環状列石には日時計状組石があり、この日時計中心部から環状列石中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっている。このような組石は北秋田市の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡にもある。 |
||||||||||
4000年前 紀元前2000年 縄文時代後期前半 |
土偶- 「仮面の女神」 このの愛称をもつこの土偶は、長野県茅野(ちの)市湖東の中ッ原遺跡から出土した、全身がほぼ完存する大形土偶。全長は34センチメートル、重量は2.7キログラムあります。(※国内最大級) 顔に仮面をつけた姿を思わせる形であることから、一般に仮面土偶と呼ばれるタイプの土偶です。今から約4000年前の縄文時代後期前半に作られました。 遺跡のほぼ中央にある、お墓と考えられる穴が密集する場所で、穴の中に横たわるように埋められた状態で出土しました。右足が壊れて胴体から外れていましたが、これは人為的に取り外したことが明らかになりました。お墓に一緒に埋納されたものか、あるいはこの土偶だけが単独で埋められたものかは、今後の研究を待たねばなりません。 「仮面の女神」の顔面は逆三角形の仮面がつけられた表現になっています。茅野市尖石縄文考古館 |
仮面の女神 (大型) 平成26年に国宝指定 |
|||||||||
土偶―筒形土偶 注目される遺物としては土偶があります。筒形土偶やハート型土偶が出土しており、二個体の筒形土偶が隣接して出土した例は、全国的にも珍しいものです 西ヶ原貝塚から出土した、「筒形土偶の顔」「注口土器」などが発掘された日本列島2009で展示される予定です。 平成21年5月現在 東京都スポーツ文化事業団 |
|||||||||||
縄文時代後期 | 土偶-ハート形土偶 縄文時代後期の前半の関東地方及び東北地方南部で多く造られた。 ハート形の顔については、仮面をかぶった姿とも、顔そのものをデフォルメしたものとも考えられているが、いずれであるかは判明していない。 1)群馬県吾妻郡岩島村(現在の東吾妻町)出土 縄文時代後期の作と思われる土偶。高さは約30.5cm。第二次世界大戦中の1941年、群馬県吾妻郡岩島村(現在の東吾妻町)大字郷原で行われた国鉄長野原線郷原駅(現在のJR吾妻線郷原駅)建設工事に際し、調査を行ったところ発見された(郷原古墳)。戦後の1951年に公式発表され、一大センセーションを巻き起こした。 女性像であるといわれ、妊娠線・産道が表現されている。ハート形の顔は考古学界のみならず美術界でも評価が高い。1965年に国の重要文化財に指定された。Wikipedia 2)長野県富士見町坂上遺跡出土 八ヶ岳の南西麓の坂上(さかうえ)遺跡から出土した、全身がほぼ完存する中実の立像土偶。 文化遺産オンライン |
1)群馬県 2)長野県 文化遺産オンライン |
|||||||||
土偶―山形土偶 頭が山形であるため分類上つけられた |
千葉県 加曾利貝塚ギャラリー 茨城県 椎塚貝塚 |
||||||||||
縄文時代後期後半から晩期前半 縄文時代晩期 |
土偶-みみずく土偶 縄文時代後期後半から晩期前半の関東地方でみられるみみずく土偶と呼ばれる土偶である。 顔は刻み目を施した隆帯で輪郭が縁取られ、円板を貼り付けて目と口が表現される。このユーモラスな顔が鳥のみみずくに似ていることから、その名が付けられた。 埼玉県さいたま市岩槻区真福寺出土、重要文化財 本例もその名に違わず、ハート形の顔の輪郭に大きく丸い目と口がかわいらしく表現されている。頭から突き出たたくさんの突起は櫛や髪型が表現されているともいわれ、また耳に貼り付けた円板は耳飾りが表されたとも考えられている。大きく立体的に作られた頭と比較して胴部は扁平で、肩から伸びる短い両腕と対照的に両脚は長く作られる。全身は赤彩がよく残り、胴部には胸と肩からへそへかけて隆帯が貼り付けられ、腰部には鋸歯文を描かれ、脚部には縄文が施文される。 土偶の造形表現は、縄文人の造形力の豊かさを知るだけではなく、髪型や装身具、さらには服飾といった風俗を考えるための大切な材料である。 埼玉県、赤城遺跡より出土 祭祀遺物集中地点より出土している。 後期後葉から晩期前葉にかけて関東地方を中心に作られる木菟(みみずく)土偶の系譜を引く土偶で、中空・大型化したも のである。同様の土偶は埼玉、千葉、茨城県下に分布するが、出土例は多くない。桶川市の後谷(うしろや)遺跡からは、そっくりな土偶が出土しており、両遺 跡間の交流を物語っている。文様や施文の手法などから安行(あんぎょう)文化の中から派生した土偶と考えられる。埼玉県埋蔵文化財調査事業団 |
||||||||||
2600年前 紀元前600年頃 |
マヤ文明-太陽崇拝 中央アメリカ南部で誕生し、それから数千年にわたってメキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄え、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到達する前に、大密林の中に忽然と姿を消した「謎の古代文明」 ―― それがマヤ文明。 ではなぜ、マヤは「謎の古代文明」と言われるのか。 ・1つはマヤ文明がどのように誕生し、熱帯ジャングルの中で栄え、なぜ繁栄の絶頂で突然この地上から消え失せてしまったのか、いまもってわからないこと。 ・2つめはマヤ文明が「考古学の常識を超えた古代文明」だったこと。 ・3つめは、最も重要なのですが、古代マヤ人たちが高等数学と高度な天文学によって作り上げた暦(マヤ・カレンダー)を使って「予言のテクノロジー」を操っていたこと。 ・巨大ピラミッドの建造、華麗で壮大な神殿都市、ゼロの発見に代表される高等数学、20世紀の科学水準に匹敵する高度な天文学など、マヤが発明したテクノロジーの数々はいずれも、四大文明以上の科学水準を誇っていた。 ・マヤ文明がどれほど壮大で華麗なものだったかは、その古代遺跡からも明らか。 たとえば、グアテマラの熱帯密林の中にいまなお雄姿を残すティカル遺跡。 紀元前600年、いまから2600年前から人が住み始め、紀元8世紀に絶頂期を迎えたマヤ最高の神聖都市ティカルは、その規模でも華麗さでも当時のヨーロッパ文明をはるかにしのいでいました。ティカルは都市と郊外と田園の3層からなり、その総面積は130平方キロ。周囲を濠と土塁で守り、10万人にものぼる人が暮らしていたと考えられています。これはルネッサンス期(15世紀)のヨーロッパ大都市をしのぐ規模です。 ティカルは湖からも河からも遠かったので、この人口を賄うために13個もの人口貯水池がつくられました。その中心に華麗な都があった。大小3000個もの真紅のピラミッド群と石像建築群が林立する都市。壮大な球技場とそれを囲む3つの高層アクロポリス。ピラミッドの石段の数も巨大建築物の色も形も、すべてマヤ的宇宙の法則によって決められていました。その都市の真ん中に、ひときわ巨大な5基のピラミッドが天を突くようにそびえ立っていた。その第四ピラミッドの高さは70メートル。巨大地震の多発地帯として知られるグアテマラでは、地震と火山噴火によって過去に何度も首都が破壊され、耐震構造の関係から、高さ30メートル以上のビルがない。そのため、21世紀を目の前にしたいまでも、7~8世紀ごろに造られたこの第四ピラミッドがグアテマラでもっとも高い建築物である。このピラミッド建造技術を見ただけでも、マヤがいかに優れた文明だったかわかる。 ・メキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄えていたマヤ文明には、このような大都市がいくつもあった。考古学者の推定では、その総人口はメキシコのユカタン半島に住んでいたマヤ低地族だけで500万人。マヤ文明が支配していた地域全体では最盛期には1000万人以上。2000万人から6000万人の人々が暮らしていた、と主張する考古学者さえいる。 こんな人類史の奇跡としか思えないほどの素晴らしさゆえ、マヤ文明の誕生の謎については様々な見解が述べられてきた。 ・「マヤ文明は、古代ムー大陸の一部だったのだ」 ・「マヤ文明は、アトランティス大陸の生き残りがつくり上げたのだ」 ・「マヤ文明は、旧約聖書に記されているソロモン王の11人の使徒たちがつくり上げたのだ」 ・「マヤ文明のような奇跡的文明は、遠い宇宙から飛来した宇宙人にしかつくりだせない」など ・古代マヤの予言者たちはすでに9世紀の時点で、それから600年以上も未来の歴史的大事件、西暦1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見と、それに続くマヤ・アステカ文明の崩壊を正確に予言していた。 ・古代マヤの地で「白人の到来」が予言されていたことについては様々な証拠資料が存在し、世界中すべての考古学者が認めている歴史学的に証明されている事実。 ・古代マヤの予言者たちはこうも予言。「この世界は13バクトゥンが完了する日に滅び去るだろう」バクトゥンとはマヤの暦で使われた時間の単位で、1バクトゥン=14万4000日です。その計算にしたがうと、右記の言葉はこうなる。 「この世界は西暦2012年12月21日の金曜日に滅び去るだろう」⇒物質文明の崩壊 予言の基となっている『カレンダー・ラウンド(マヤの暦)』とは、いったいどんなものだったのか。答えはすべて、古代マヤ文明そのものに隠されている。 |
オーパーツ クリスタル・スカル 『謎のクリスタルスカル』 ボブ・フィクス著 |
|||||||||
紀元前2500年~2000年 |
リング・オブ・ブロッガー(the Ring of Brodgar / Brogar) |
||||||||||
土偶-巳を戴く神子 藤内遺跡より出土 正面からの写真ではわかりづらいが、この土偶を背面からみると、頭の上にとぐろを巻いた蛇が載っている。頭頂で螺旋をなす造形の先端には、土器に表された蛇の口と同じような深い切れ込みがある。それゆえ、とぐろを巻いた蛇だと認められる。 この時代の人面深鉢の造形のなかには頭上に蛇を戴いた作がみられるが、土偶では他に類例をみない。井戸尻考古館 ⇒※さて、この土偶の真価は? サンデー毎日 |
|
||||||||||
メソポタミアと古代メソポタミア文明 ギリシャ語で「複数の河の間」の意)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野であり、現在のイラクの一部にあたる。 古代メソポタミア文明 は、メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名で、世界最古の文明であるとされてきた。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。 ゼカリア・シッチンと惑星「ニビル」の仮説 学術的には認められていない。 |
|||||||||||
紀元前2000年 | ミノア文明(ミノア文明・クレタ文明)とアトランティス (ミノアぶんめい)は、エーゲ文明のうち、クレタ島で栄えた青銅器文明のことである。伝説上のミノス王にちなみ、ミノア文明ともよばれるが、クレタ文明と呼ばれる事もある。 紀元前1600年頃の後期ミノア期 各都市国家の中央集権化、階層化が進み、クノッソス、ファイストスが島中央部を、マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退化を招き、紀元前1400年ごろにミュケナイのアカイア人がクレタ島に侵入、略奪されミノア文明は崩壊した。 紀元前15世紀半ばに突然崩壊した。その原因を、イギリスの考古学者アーサー・エバンスらは、サントリーニ島の巨大爆発に巻き込まれたとする説を唱えた。 軍事的になったアトランティスとの衝突 |
||||||||||
紀元前1500年頃 |
ヒンドゥー教 神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。 |
||||||||||
3,500年前 紀元前1500年 縄文時代後期後半 |
土偶-中空土偶-茅空(かっくう) 出土地周辺には縄文時代後期の墳墓群の可能性があることが判明し、著保内野(ちょぼないの)遺跡として登録された。出土した土偶は1979年(昭和54年)重要文化財に指定された。しかしながら、当時の調査は調査期間とその範囲に限界があり、遺跡の調査としては決して十分なものではなかった。 発見された土偶は、高さ41.5cm、幅20.1cm、重さ1,745gで、中空土偶としては国内最大級である。出土した南茅部の「茅」と、中空土偶の「空」をとって「茅空(かっくう)」という愛称がつけられている。 Wikipedia 北海道初の国宝「中空土偶」を常設展示しているのは、道の駅機能を併せもつ博物館「縄文文化交流センター」 |
中空土偶 国宝 |
|||||||||
3,500年前 紀元前1500年 縄文時代後期後半 |
土偶-合掌土偶 東北北部では、縄文時代前・中期に十字形板状土偶(両腕を左右に突き出した十字形の土偶)が多く出土している。縄文時代後期前半に入ると、前・中期で顔が扁平に表現されていたものが、立体的となり前方に突出し、両足も表わされるようになる。後期後半はお腹を膨らませ、妊婦を表現しているものや蹲踞姿勢でポーズをとる土偶が出現する。 蹲踞(そんきょ)注1 姿勢の土偶は、腕組みをするものが多いが、手を合わせ合掌しているポーズをとるものは、本遺跡出土の土偶と青森県つがる市石神遺跡の土偶だけである。ただし、石神遺跡の土偶は頭部と胴体が別々のものが接合され、全体像を捉えることが出来ない。土偶は一般に、完全な形をしているものは非常に少なく、どこかの部分が欠損しているものが多い。 |
合掌土偶 国宝 |
|||||||||
紀元前1450年 ~1150年頃 |
ミケーネ文明 ・紀元前1450年頃、アルゴリス地方で興り、ミノア文明と同じく地中海交易によって発展した。ミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入し、ついにはクレタ島に侵攻、征服したと考えられる。このころ、ミケーネはトローアスのイリオスを滅ぼし(トロイア戦争)、後にこれをホメーロスが叙事詩『イーリアス』の題材としたが、イリオスで大規模な破壊があったことは認められるものの、これが事実かどうかは推察の域を出ない。 紀元前1150年頃、突如勃興した海の民によって、ミケーネ、ティリンスが破壊され、ミケーネ文明は崩壊した。これは後にスパルタを形成するドーリア人の手による。 ・ミケーネ文明の建築は模倣的で巨石を用い、円頂墓を作る等、堅牢な城壁で囲まれ閉鎖的 Wikipediaより |
||||||||||
紀元前14世紀 |
アメンホテプ4世とアテン・アメン信仰 アメンホテプ4世の治世に於いて、アメン信仰は全盛期を迎える。 事実をありのままにさらけ出す太陽光線を崇めるため、美術においてもリアリスティックな表現が行われ、この時代の美術様式は「アマルナ様式」と呼ばれ、他の時代のエジプト美術とは一線を画したものとなっている。 ちなみにアクエンアテンの治世年と、出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤハウェ(ヤーウェ)の原形とする異説も存在する。 |
||||||||||
太陽崇拝 太陽崇拝は、単一神教から始まり唯一神教に終わるとされる。 古代エジプト第18王朝のアメンホテプ4世(アクエンアテン)は、伝統的な太陽神アメンを中心とした多神崇拝を廃止し古の太陽神アテンの一神崇拝を行った。太陽神の乗り物としては、古代エジプトにおいては空を海に見立てた「太陽の舟」(ラーやホルス)や、インド・ヨーロッパ語族圏では空を大地に見立てた「日輪の戦車」(ローマ神話のソル、『リグ・ヴェーダ』のスーリヤ、ギリシア神話のヘーリオス)がある。メソポタミア神話のシャマシュは、青銅器時代の間、重要な役割を果たす。南アメリカにはインカ神話のインティを代表とする強い太陽崇拝があった。 |
|||||||||||
紀元前13世紀頃 | バラモン教 ・紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる。 ・紀元前10世紀頃、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まる。 ・紀元前5世紀頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して宗教としての形がまとめられ、バラモンの特別性がはっきりと示される。 ・しかしそれに反発して、多くの新しい宗教や思想が生まれることになる。現在も残っている仏教やジャイナ教もこの時期に成立した。 ・新思想が生まれてきた理由として、経済力が発展しバラモン以外の階級が豊かになってきた事などが考えられる。カースト、特にバラモンの特殊性を否定したこれらの教えは、特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持されていく。 ・1世紀前後、地域の民族宗教・民間信仰を取り込んで行く形でシヴァ神やヴィシュヌ神の地位が高まっていく。 ・1世紀頃にはバラモン教の勢力は失われていった。 ・4世紀になり他のインドの民族宗教などを取り込み再構成され、ヒンドゥー教へと発展・継承された。 |
||||||||||
紀元前1300年頃 | 第19王朝のファラオ、セティ1世と巫女、オンム・セティ(ドロシー・イーディー) 1903年生まれ 考古学者。古代エジプトのファラオ「セティ1世」の寵愛を受けた巫女の記憶を持つ不思議な女性。 オンムセティの言う通りに掘って嘘だった事が無いというほど、そこから古代エジプトの遺物が出てきている。 |
オンム・セティの生涯について 『転生』(新潮社) 『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(学研) |
|||||||||
旧約聖書と創世記 | |||||||||||
紀元前13世紀頃 |
モーセ
カトリック教会・ルーテル教会の場合 わたしはあなたの主なる神である。
・1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目(同時に刑法の根幹)である。 |
||||||||||
ニムロド (ヘブライ語: נמרוד)は旧約聖書の登場人物で、『創世記』の10章においてクシュの息子として紹介されている。クシュの父はハム、その父はノアである。 |
|||||||||||
ダビデ王とソロモン ダビデ(ヘブライ語: דוד Dāwīḏ (ダーウィーズ), ギリシア語: Δαβίδ, ラテン語: David, アラビア語: داود Dāʾūd)は、古代イスラエルの王(在位:前1000年 - 前961年頃)。ダヴィデ、ダヴィドとも。 ・羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に着くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となった。旧約聖書の『サムエル記』および『列王記』に登場し、… イスラム教においても預言者の一人に位置づけられている。 英語の男性名デイヴィッド(David)などは彼の名に由来する。 詳細は不明 |
|||||||||||
紀元前1280年頃 |
ユダヤ教の成立・モーセがヘブル人(これは、民族・人種ではなく、社会的下層の人々を示す)を中心とした集団をエジプトから脱出させ(出エジプト)、シナイ山で神ヤハウェと契約を結ぶ(十戒、律法)。 紀元前1020年頃 紀元前587年、ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされ、バビロンに捕囚される。 紀元前539年 |
||||||||||
3,000年前 紀元前1000年 (紀元前10世紀)、 |
約10000年前、人類は農耕とともに母系制から父系制へと移行したと言われる。 (高群逸枝 『女性の歴史』) 約6000年前、急激な乾燥化による飢饉が引き金となって、ついに人類初の略奪闘争=戦争が始まった。(河合隼雄説?) |
||||||||||
約3,000年前 (紀元前10世紀)頃~3世紀中頃まで |
弥生時代 北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つ |
||||||||||
縄文時代には戦争がなかったと言う説とあったという説があります。たしかに、縄文時代のはじめのころ(草創期)の愛媛県上黒岩洞窟からは、骨製先の尖った道具が刺さった男性の腰の骨が出土しています。そして、以後、縄文時代の各時期に矢尻が刺さった人骨が見つかっています。しかし、縄文人骨の全体からは、極少数であり、これを争いとするか、事故と考えるかは研究者によって違いがあります。つまり、戦争と考えるほどの証拠は不十分なのが縄文時代です。 ところが、弥生時代に入ると、戦いの証拠が格段に増加します。特に弥生時代のはじめの頃の北部九州では、武器で殺された多くの人骨が、一箇所にまとまって見つかったりします。弥生時代を戦争のはじまりの時代と言う人もいます。 その戦争の原因は、人口増加にともなう開発によるもので、土地や水などの資源をめぐる争いと考える研究者は多いようです。これは言いかえれば、食料争いです。直接的に今日の晩ご飯を食べるというものではなく、今後、何年分の食料を蓄えるというのも、結局は食料確保の問題ですから、戦いの理由のひとつには、間違いなく食べ物の争いがあったと言えます。totigikenn maizou |
|||||||||||
(前1000年~前400年) 縄文時代晩期 |
土偶-遮光器土偶 遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。 一方で遮光器土偶を模倣した土偶は、北海道南部から関東・中部地方、更に近畿地方まで広がりがある。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていることである。また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。大型のものは中が空洞になっている。これは焼く際にひび割れをしないようにするためだと考えられている。 完全な状態で発見されることは稀で足や腕など体の一部が欠損していたり、切断された状態で発見されることが多い。多産や豊穣を祈願するための儀式において土偶の体の一部を切断したのではないかと考えられている。また、切断面に接着剤としてアスファルトが付着しているものも多く、切断した部分を修理して繰り返し使用していたと考えられている。 1)亀ヶ岡(青森県つがる市)重要文化財 縄文時代晩期には、この亀ヶ岡出土品に代表される様式の土器が北海道から中部・近畿の広い地区にわたって流行する。これを亀ヶ岡文化とも言う。 2)手代(てしろ)森遺跡(岩手県盛岡市)重要文化財-文化遺産オンライン 3)恵比須田遺跡(宮城県田尻町重要文化財-文化遺産オンライン 4)泉沢貝塚(宮城県石巻市)県指定有形文化財 Wikipedia 大きな特徴的な目の表現が遮光器(スノーゴーグル)に似ていたことから遮光器土偶と呼ばれるようになりました。 遮光器土偶の見どころは、極端にデフォルメされた体の表現とともに、全身に施された文様です。 東京国立博物館 5)山形県飽海郡遊佐町杉沢遺跡 右の頭髪部などを若干欠損するほかは、ほぼ完形の中空の土偶である。目はいわゆる遮光器(しゃこうき)状に表現され、肩や腰の文様は縄目文様を施した後に部分的に縄目をすりけす、磨消縄文(すりけしじょうもん)の手法で飾られ、腹部を縦に貫く線は、2重の隆線で強調されている。また臍(へそ)の部分は内部に連なり、腰部の文様も巧みに強調して表現されている。 出土状況は特異で、北側と東西に、約20センチメートルの川原石を置いて作った石囲の中に、頭部を北に向けて仰臥した状態で埋納され、その上に長径約30センチの蓋石が被せられていた。あたかも人間が埋納されたかのように置かれ、土偶の性格を考える上に貴重な出土例である。 6)その他 月刊ムー |
1)亀ヶ岡 3)恵比須田 |
|||||||||
土偶-宮城県、鍛冶沢遺跡 完成形 |
|||||||||||
土偶-北海道室蘭市輪西町 中空の全身立像。北海道における完成形の土偶の出土例は少ない。東北地方の晩期亀ヶ岡文化期に特徴的な「遮光器土偶」をまねたものと考えられるが,形や文様にかなり変容した様相がうかがえる。両腕,両足の下面,および股間部に小孔があけられている。 |
|||||||||||
土偶-日本出土の土偶 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の調査によれば、日本全国の出土総数は15000体ほどである。武藤、譽田(2014)は、18,000点程度としている。出土分布は(※沖縄以外の全県から出してはいるものの)東日本に偏っており、西日本での出土はまれである。千葉県佐倉市にある吉見台遺跡からは、600個以上の土偶が出土している。Wikipedia ⇒1992年3月 八重樫純樹氏を中心に 第37集 「土偶とその情報」として出土した土偶とそれらにまつわる情報ががデータベース化された。国立歴史民俗博物館 |
|||||||||||
紀元前10世紀 | 古代核戦争説 ・核爆弾が空中で爆発すると、数百万度という超高温の火球が出現し、超高温の熱線と致死量の放射線が周囲に放射される。同時に空気が一気に加熱されることで爆発的に膨張し、衝撃波が発生する。この衝撃波が地表に達すると、地表の土や埃が舞い上がるため、地表ではあたり一面が暗くなる。さらに、爆発時の放射線により土壌等が汚染され、放射能を持つようになる。・紀元前10世紀頃に起きた大戦争を語り伝えた「バラタ族の戦争を物語る大叙事詩」を意味する『マハーバーラタ』をはじめ、古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』、『リグ・ヴェーダ』には、この大気圏内核爆発を想像させる記述が見つかっている。 ・超高温の火球=太陽が一万個集まった光り輝く柱 ・強烈な熱線=池の水が蒸発、猛火に焼かれた木々のように倒れる戦士たち、火傷で逃げまどう戦象(軍事用の象)、灰と化す住民 ・衝撃波=恐ろしい風、うなる雲、揺れ動く太陽 ・衝撃波で舞い上がる土埃=方向感覚を見失うほどの濃い闇 ・放射能汚染=髪の毛や爪が抜け落ちた死体、毒された食物、鎧を脱ぎ捨てて体を水で洗う生存者 以上のように、記述は具体的で、広島での被爆体験談とも酷似しており、とても想像だけで書いたとは考えにくいというのが肯定論者の主張である。(Wikipedia) |
『バシャール×坂本政道』 ⇒核兵器の使用はアトランティスよりももっと以前にあった。 ガラス化した遺物、核シェルター |
|||||||||
キリスト生誕は太陽暦4月7日であるとの研究結果がある。 仏教の開祖とされる釈迦も、その誕生日は4月8日であるとされるが、これも歴史的に裏付けがない。 |
仏陀(ブッダ、buddha) ・釈迦は紀元前5世紀頃、現在のネパールにいた釈迦族に生まれ、王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。 ・35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となった。これを成道という。 ・仏陀は自らの覚りを人々に説いて廻り、一説において2月15日安祥として80歳で入滅(死去)。 ・仏ともいい、インドのサンスクリット語で「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味で悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人の事を言う。 ・釈迦の一切経では、釈迦自身以外にも数多くの仏陀が大宇宙に存在している事を説かれている。(たとえば、阿弥陀経) ・この地球上には釈迦以外に仏の悟りを開いた人はいない。 ・近年になって仏教が欧米に広く受け入れられるようになって、禅やマニ教の影響を受けてニューエイジと呼ばれる宗教的哲学的な運動が広まり、光明を得た存在をブッダと呼ぶ伝統が一部に広まった。 |
||||||||||
紀元前550~ | ゾロアスター教(祆教(けんきょう)、マズダー教) ・記録で確認できる世界最古の創唱宗教 ・開祖はゾロアスター、聖典は『アヴェスター』 ・「ヨハネの黙示録」と『アヴェスター』の「ザームヤズド・ヤスト」の記述と酷似 ・紀元前7世紀頃に成立。人類史上初めて明確に「終末」を未来の出来事として語るようになった。「聖戦」「世界の終末」「死者の復活」「最後の審判」「最終戦争」「神の勝利」「永遠の王国」といったセム系宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)に共通する終末イメージのほとんどのパターンが含まれている。⇒このイメージは3000年近く人類の終末論に影響を与えつづけてきた。 ・ゾロアスター教は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と言われることもあるが、これは正しくはない。ゾロアスター教の中では、アムシャ・スプンタなど多くの神々が登場する。 ・開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)である。その根本教典より、アヴェスターの宗教であるともいえ、イラン古代の宗教的伝統の上に立って、ザラスシュトラが合理化したものと考えられる。 ・光の象徴としての純粋な「火」を尊んだため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれ、また祆教(けんきょう)ともいう。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。 (小松左京『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』) |
(小松左京『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』) | |||||||||
数秘術 ・数秘術の創始者は一般的にピタゴラスの定理で有名なピタゴラスと言われている。 彼は「数秘術の父」として知られているが、その数千年前のギリシャや中国、エジプトやローマでも数秘術が使われていた事を示す証拠が存在している。当時は、許された者にのみ、口頭でその情報が伝えられていたようである。 ・西洋占星術や易学等と並ぶ占術の一つで、ピタゴラス式やカバラ等が有名である。「数秘学」とも言う。 一般的な占術の方法は「命術」で、占う対象の生年月日(西暦)や姓名などから、固有の計算式に基づいて運勢傾向や先天的な宿命を占う方法である。 |
|||||||||||
前469~ 前399.4.27 |
ソクラテス ・古代ギリシアの哲学者。 ・ソクラテス自身は著述を行っていないので、その思想は、弟子の哲学者プラトンや歴史家クセノポン、アリストテレスなどの著作を通じ紹介されている。 ・「汝自身を知れ」(古代ギリシアの賢人の中でこの格言の作者と言われたことがあるのはソクラテスを含み、少なくとも6人いるといわれている。) ・ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自分の行為を反省したりすることを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に死刑を言い渡される。 ・神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正をおこなうよりも、死を恐れずに殉ずる道を選んだ。「悪法もまた法なり」 ・紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わして毒ニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。 ・著述をしなかった理由-ソクラテスは、書記言語が野放しの状態の普及を激しく非難していた。話し言葉、つまり「生きている言葉」は、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。書き留められた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスにはそぐわなかったのである。 ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからだという。ソクラテスは、読字を恐れていたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、表面的な理解しかできないことを恐れていた。 ・後に弟子のプラトンがオルペウス教(ピタゴラス教団)的な輪廻転生説に嵌っていくのとは対照的に)死後のことについては一切わからないという不可知論の立場を採る (死刑確定前の弁明においても、「死後のことを知っている者など誰もいないのに、人々はそれを最大の悪であるかのように恐れる。それは自ら知らざることを知れりと信ずる無知であり、賢くないのに賢人を気取ることに他ならない。私は死後のことについては何も知らない代わりに、知っていると妄信もしない。」といった趣旨の発言をしており、ソクラテスがここに相当のこだわりを持っていたことが伺える)。 ・一方で、彼は死は自身にとって、禍ではなく、一種の幸福であると言う。なぜなら、死後については二説あって、唯物論者たちの言うように、死が虚無に帰することであり、全ての感覚の消失であるならば、それは人生において他の昼夜より快適だった夢一つ見ない熟睡した夜のごときものであろうし、他方で冥府(ハデス)があるとしたならば、そこで真誠な半神たちによる裁判を受けることができるし、ホメロスやヘシオドスと交わったり、オデュッセウスやシシュフォスと問答することもできる、どちらにしろ幸福である、というわけである。であるがゆえに、死を恐れて不正な裁判に屈することなどなく、善き生を貫徹できるし、善き生を貫徹した者は、死に際しても幸福である。 ・このように、死後については「知らない」が、それを自覚しているがゆえに、それについての諸説を冷静に「知る」ことができるし、ひいてはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にとって幸福であることも「知る」ことができ、だから死を恐れずに善き生をまっとうできる、対照的に、知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまづき、知りもしないことに踊らされ、翻弄され、そうはならない、といった具合に、「善き生」と「無知の知」はひとつの円環を成し、「無知の知」は「善き生」にとっての必須条件となっている。 ・無知の知、ソクラテスの弁証法、産婆術(助産術)、 ・名言-「結婚してもしなくても、どのみち君は後悔することになる」「だが、良妻を持てば幸福になれるし、悪妻を持てば哲学者になれる」 |
||||||||||
紀元前246~221年頃 | 秦の始皇帝の兵馬傭坑出土のクロムメッキの剣 西欧においてクロムメッキが開発されたのは近代。 それより遙か以前の古代中国においてどのような方法でメッキされたかは不明。 |
||||||||||
紀元前150~100年 | アンティキティラ島の機械 ギリシャ人によって作られた世界最古の歯車式アナログコンピュータが発見された。 |
アンティキティラ島の機械 | |||||||||
紀元1世紀中頃 |
キリスト教 |
||||||||||
紀元前60年 |
ミトラス教 |
||||||||||
紀元前4年頃 ~ 紀元後28年頃 | イエス・キリストとキリスト教 ・キリスト教においては、カトリック、正教会、プロテスタントの多くにおいて三位一体の教義(キリスト教で、父と子と聖霊が一体(唯一の神)であるとする教理。 大多数のキリスト教が受け入れる中心的教義・教理。 )の元に、神の子である救世主として信仰の対象となっており、他の宗派でも最高の預言者、開祖とされている。 ・イスラム教においてはマルヤムの子イーサ(マリアの子イエス)として、ムハンマドに先立つ偉大な預言者の一人とされる。 ・現在では消滅した世界宗教マニ教においても、釈迦、ザラスシュトラ(ゾロアスター)と並んで、マニに先行する真理の開示者・神から派遣された預言者として崇拝されていた。 ・西方グノーシス主義においては、イエスはアイオーンであり、悪であるこの世に落ちて苦しむ霊を救うため、プレーローマの永遠世界より訪れた真実開示者(救世主)とされた。 ・バハーイー教やシーク教においても、偉大な預言者であり聖者として高い尊敬を集めている。 ・イスラム教においても、ユダヤ教の預言者とともにイエスを預言者(ナビー)のひとりとして受け入れている。 ・イスラム教では、「マルヤムの子イーサー」(マリアの子イエス、 (??s? ibn Maryam))と呼ばれるが、『クルアーン』の記述によればアッラーフの奇蹟によってマリアの体内に創造された特殊な出自であるが、他の預言者同様「アーダムの子=人間」のひとりであって、決して「アッラーフの子キリスト」とは認められていない。 ・『クルアーン』はイーサー(イエス)をたびたび記載しており、死者蘇生や誕生直後に口を利いたといった奇蹟の数々が明言されている。 ・一方でアッラーフは人類を含め一切の被造物を超越した存在でありかつ創造主であり、アッラーフ自身が「子を産みもしなければ産まれもしない」ために、イーサーが「アッラーフ」であることも「アッラーフの子」であることも明確に否定している。 |
||||||||||
1世紀頃 | ヒンドゥー教とバガヴァッド・ギータ バガヴァド・ギーター、神の詩) はインドの宗教書の一つで、ヒンドゥー教の重要な聖典の一つ。一部に『神の詩』。18章の叙事詩『マハーバーラタ』の一部であり、サンスクリットで書かれた詩編。クリシュナと主人公のアルジュナ王子の対話形。クリシュナ(=ヴィシュヌ、インドに生まれた人物は最高神の化身)と一体化し、我を捨て持って生まれた義務(ダルマ)を遂行することを説いた。インドにおいては『バガヴァッド・ギーター』の占める地位は大きく、時にヴェーダより重要とされることもある。(Wikipediaより) |
||||||||||
三大預言書と諸書の一つ、「ダニエル書」「イザヤ書」 ・アモツの子イザヤは神に幻を見せられる。神からの預言はほとんどが明確なヴィジョンをともなった幻として示される。 「さあ、わがわが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ。激しい憤りが過ぎ去るまで、見よ、主はその御座を出て、地に住むものにその罪を問われる。」(「イザヤ書」26章) 「エレミヤ書」「エゼキエル書」 『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』より |
|||||||||||
210年(~275年)ごろ |
マニ教(摩尼教、英: Manichaeism) |
||||||||||
234年 8月23日 |
諸葛孔明-「誡子書」-「その時歴史は動いた」タイトル-死せる孔明・中国を動かす ・蜀(しょく)の丞相だった諸葛孔明(しょかつこうめい)が子孫に残した家訓。その家訓は「誡子書(かいししょ)」-「子を誡(いまし)める書」として、今も諸葛孔明の子孫が住む諸葛鎮という村の大公堂に保管されている。
・中国南部に孔明の子孫が暮らす諸葛鎮という村が見つかった。 ・住民はほとんどが「諸葛」姓で、村は迷路として作られている。 ・路地の奥の不思議な文様に秘められた孔明の教えとは何か。 1)優れた人は静かに身を修め、徳を養う。 2)無欲でなければ志は立たず 3)おだやかでなければ道は遠い。 4)学問は静から、才能は学から生まれる。 5)学ぶことで才能は開花する。 6)志がなければ学問の完成はない。 「世界ふしぎ発見」より ・Q孔明は、長期遠征(戦)になる際、兵士に戦場で農業をさせ、食糧を自給自足していた。中でも、必ず畑に植えるように指導したといわれるその野菜は、胃腸によく、痩せた土地でもよく育ち、捨てるところがないので兵士が育てるのに適した野菜だった。中国では今でも”諸葛菜”と呼ばれている。その野菜とは? ⇒A蕪(かぶ) ・Q孔明の教えで、諸葛村の人たちが代々受け継いでいる職業とは? ⇒A”良き宰相(政治家)になれなければ、良き医者になれ”。 現在もそれが守られ、諸葛村の人々は漢方薬などの輸入も仕切っているとか。 ・9世紀、忽然と消えてしまった諸葛一族が1000年後の1992年に発見された。それは諸葛村(諸葛孔明の子孫の村)と呼ばれる八卦の陣形をした村で、 村の周囲にある八つの山(外八卦)に隠れていたため、長期間発見されなかった。八卦の陣形の村の設計図や諸葛家の系図が公開され、諸葛孔明の子孫と認められたとか。現在、人口4,000人。 →村全体が八卦の陣形に設計されており、初めての者は迷子になる。 |
||||||||||
紀元前200年~200年までの約400年間 | 銅鐸の謎 2015.5月、淡路島で銅鐸7個新大発見!! |
謎の青銅器『銅鐸』淡路島で新発見!! (NHK解説アーカイブス) |
|||||||||
3世紀半ばすぎ~7世紀末までの約400年間 | 古墳時代 卑弥呼(ひみこ、175年頃? - 248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。 封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したとされる。 本来の表記は「卑(上部の「ノ」が無い)彌呼」である。 姫・彦制―霊能を活用した政治(高群逸枝説) 東北地方で三角縁神獣鏡出土全国では540面以上出土-239年~頃か? 会津大塚山古墳(福島県会津若松市、東北地方最古級、古墳時代前期[4世紀]、1972年(昭和47年)国の史跡に指定された。Wikipedia |
三角縁神獣鏡は魔鏡!! (NHK解説アーカイブス) 三角縁神獣鏡は陽光鏡 (NHK解説アーカイブス) |
|||||||||
4世紀~ |
サンマリノ(San Marino) |
||||||||||
574.2.7 ~ 622.4.8 |
聖徳太子と仏教 |
||||||||||
610~ | イスラム教 ・唯一神、アッラー(一般名詞。日本語で「神さまー」)という。 ・神様の名前はあえて言えば「ヤハウェ」。キリスト教徒が信じているのと同じ神様をイスラム教は信仰している。 ・イエスはユダヤ教を改革しようとし、キリスト教の神様はユダヤ教と同じ「ヤハウェ」。 ・同じ神をイスラム教も信じ、人類はアダムとイブからはじまったとイスラム教徒も考えている。 ・ムハンマド(マホメッド)が神がかり状態になるときに、神の言葉を授かるが、神はずっと昔からムハンマド以外の人にも言葉を与えてきた。それが、「ノアの箱船」のノア、「出エジプト」のモーセなど、旧約聖書の登場人物たちだ。ムハンマドはそれらの人物を預言者として認め、さらに、イエスも預言者の一人だった、とムハンマドは言う。 ・ただし、神はこれまでの預言者たちにすべてのことを伝えたわけではなく、言い残した言葉がたくさんあったという。人間たちに言い残した言葉を伝えるために選ばれたのがムハンマドで、イスラム教でのムハンマドの位置づけは「最後にして最大の預言者」。神さまは今まで言い残していたすべてをムハンマドにしゃべってしまったので、もう何も人類に伝えることはないという。 ムハンマドが他の人間と違うのはそこだけで、他に奇跡を起こしたりとか特別な能力を持っていたりということはない。 ・イスラムとは「神への帰依」という意味。帰依とは「深く信仰し、その教えに従う」という意味。「イスラム教」とは「神を信仰する宗教」という意味。 ・イスラム教徒のことを「ムスリム」といい、意味は「神に帰依した人々」。 ・神がかり状態のムハンマドの言葉を集めたイスラム教の聖典が「コーラン」。この「コーラン」は、神の言葉そのもので、神がムハンマドの肉体を通じて語りかけ、それをリアルタイムで聞いていた信者たちが、書き留めてまとめたもの(アラビア語)。 ・「啓典の民」とは、イスラム教徒が同じ神を信仰しているユダヤ教徒、キリスト教徒を呼ぶ言い方。 イスラム教徒の義務---ムスリムの「おつとめ」は「六信五行(ろくしんごぎょう)」 ・「六信」とは「神」「天使」「啓典(コーラン)」「預言者」「来世」「天命」の六つ。 ・イスラムでも最後の審判はあり、人々は天国と地獄に振り分けられる。「来世」。 ・「五行」は、「信仰告白」「礼拝」「断食」「喜捨」「巡礼」の五つ。 ・「信仰告白」というのは、「アラーの他に神なし。ムハンマドはその使徒なり。」と唱えること。声に出さなければダメ。この「信仰告白」というのは、次の「礼拝」と一緒におこなわれる。 ・630年、ムハンマドはメッカを占領したときに、これらの神々の像を全部破壊した。イスラム教の特徴の一つに偶像崇拝の徹底的な否定というのがある。ユダヤ教でもキリスト教でも偶像崇拝は否定しているのだが、イスラム教はもっとも徹底して否定する。唯一の神以外の神像は、当然破壊するし、唯一神は偉大なものだからそれを人間が描くなんてもってのほかだ。しかも、神像を拝むと言うことは神そのもの以外のものを拝むことになるから、一神教の教義に反することになる。 聖職者の存在を認めない ・イスラム教ではお坊さん、聖職者はいない。信者はすべて対等で牧師や神父のように、神と人間をつなぐ一般信者以上の存在は認めていない。 ・商人の倫理を重視。商人が正しい契約によって利益を得ることを積極的に肯定している。 ・ムハンマド時代、そしてムハンマド死後のしばらくの間は、イスラム世界には国家はなくて「イスラム」だけで人々は生活していた。ムスリムの共同体=ウンマがしっかりしていれば国家などなくてもよい。 ・人間は意志が弱いという前提でイスラムの倫理は組み立てられている。結婚の前に離婚の条件を決めておく。夫婦の愛も永遠に続かないかもしれないという、非常に冷静な判断をはじめにしている。人は弱いから決して、永遠の愛は誓わない。同様に、男の理性は性欲に打ち勝てないかもしれない、という前提に立つので、弱い男の理性を崩壊させないように、女は肌を隠す。 ・ムハンマドは「すべての妻を平等に愛せるならば」四人まで持ってよいと、条件を付けている。だから、現実には一夫一婦制に限りなく近い。【参考図書】片倉もとこ著『イスラームの日常世界』(岩波新書) ・ムハンマドは預言者であった。彼は世間からあざけられ、精神病患者と決めつけられてしまった。10年間にわたる彼の布教の報酬は追放と貧困と嘲笑だけだった。 ・それから10年後には彼は全アラブの指導者となり、メッカを支配し、…広大な地域に強い影響力を持つ世界的宗教のリーダーになっていた。この宗教の教えは基本的に「言葉の力」「祈りの力」「神と人間との触れ合い」、この三つの要素から成り立っていた。 ・610年のある夜(当時四十才)ムハンマドは、ヒラーの洞穴で祈りや瞑想していた時、「読め(アラビア語の〈イクラア〉」という耳にした。ムハンマドは、驚いて平伏し、「私は読むことが、できないのです」とその声に答えるも、ムハンマドが最後に「私は何を読んだら、よいのでしょうか」と震えながらたずねるまで、その「読め」という命令はくり返された。 ・「読め、創造したまえる方、なんじの主のみ名によって。一凝血から、人間をつくりたもうた。読め、なんじの主は、こよなく尊貴であられ、筆によって教えたもうた方、何も知らなかった人間に、教えたもう方であられる。」(クルアーン第九六章 第一-五節) ・これは、ガブリエル大天使が目前に現れ「ムハンマドよ。汝は神の使いである」と告げた。上記コーランの冒頭の言葉によるとガブリエルが現れ、巻物で彼の喉首を押さえるようにして「これを誦め」と言ったという。これが最初の啓示だった。 ・その後まもなく彼の妻ハディージャは、イスラームに帰依した最初の人になった。 ・この最初の啓示があってから、アッラーは天使ガブリエルを通してムハンマドに啓示を与え、彼がアッラーの教えを広め、誤った人々に正道を伝えるためにアッラーの使徒として選ばれたことを告げられた。 ・この時からムハンマドはイスラームの布教活動をはじめ、神の唯一性、アッラーへの帰依、偶像崇拝のおろかさ、及び現世での行為がアッラーの前で裁かれる最後の審判の日の到来を人々に説きはじめた。その当時の宗教はただ単に信心だけでしたが、イスラームは、行動を伴わない単なる信心は全く無意味で人間生活には無益なものであることを人々に強く説いた。 ・クルアーンは、神の唯一性について次のように宣言している。「言え、かれはアッラー、唯一者であられる。アッラーは、自存者であられ、かれは産みたまわず、また産まれたまわぬ、かれに比べ得る何ものもない。」(クルアーン第一-二章 第一-四節) ・アッラーからのお告げはきわめて簡単で基本的なものだったが、メッカの多くの偶像崇拝者たちには、きわめて危険な挑戦と脅威に感じられた。彼等はこれまでの自分達の生活様式変えたくはなく、また偶像をすててしまっては自分達の力も失われるものと心配して、ついにきわめて残酷で執拗なやり方でムハンマドを迫害しはじめた。しかし、アッラーに守られている人を実際に傷つけることは誰もできなかった ・630年1月カーバの神殿にある360個の偶像をすべて破壊。 ・ムハンマドはユダヤ教徒やキリスト教徒にも門を開き、唯一の神を信ずる人なら誰でも迎えいれた。 しかし、彼らはムハンマドの説く「人は皆平等」という信念すら受け入れようとはしなかった。それゆえ、ムハンマドの信念のために殺された人間は一人だけではなかった。 ・その後何世紀も過ぎてから、十字軍がエルサレムを侵略し、男女を問わずイスラム教徒を殺戮した。しかし、キリスト教徒は一つのイスラムの教えを受け継がなければならなかった。それは学問の場、すなわち「大学」を作る必要性についてである。『思考は現実化する-携帯版』 「最後の預言者 トーマス・サグリュー」P315~319より一部抜粋 |
||||||||||
天武天皇(第40代、631~686年) |
殺生肉食禁断の詔勅の公布 |
||||||||||
751~753 |
鑑真来日 |
||||||||||
988~ | ロシア正教会の歴史 まとまった形を伴ったルーシの正教会の歴史は、988年、キエフ大公ウラジーミル1世が、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世の妹アンナを妃とし、公式に東ローマ帝国の国教である正教会の洗礼を受けた時から始まるとされ、この年がロシア正教会の歴史の基点とされることが多い。府主教座は当時ルーシ[注 3]の中心都市であり、キエフ大公国の首都であったキエフにおかれた |
||||||||||
13~15世紀 | ナン・マドール遺跡(ナン・マトール遺跡・Nan Madol) ミクロネシア連邦のポンペイ島にある13世紀~15世紀の巨石構築物群である。ナン・マトールとは「天と地の間」「神々と人間との間に広がる空間」という意味。総面積40m2の92の人工島からなり、伝承によると行政、儀礼、埋葬などそれぞれの島で機能分担していたと言われる。伝承や遺物の検証からすると政治・宗教の拠点となった水城であったと考えられる。 |
||||||||||
1128~1307 |
テンプル騎士団 |
||||||||||
1210 |
聖フランチェスコ |
||||||||||
聖フランチェスコと聖クララ 修道生活に入る前の若いフランチェスコは、友達におごるのが好きで、派手に騒ぐことが多かったのですが、酒宴の最中に独り道に出て、星を眺めていることもあったそうです。その彼が「何を考えているのか」と問われると、「神のことを考えている」と答えます。「嫁さんのことでも考えたらどうか」とからかわれると、「結婚か、おれは神とめあわされることを思っていたのだよ」と言ったというのです。そんな彼の前にクララという娘が現れます。 クララはアッシジの貴族の娘ですから、ブルジョワの息子フランチェスコよりも高い身分であったと思われます。ところが彼女は気まぐれな青年、時には狂気の青年とさえ見られたこともあるみすぼらしい修道士フランチェスコに心から傾倒し、彼と理想を分かち合うことを決意します。 そして、フランチェスコに「私もあなたのようにひたすらキリストを慕って生きたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と相談します。フランチェスコは忠言を与えて、「あなたの抱いている夢を捨てなさい、世の中の喜びをすべてあきらめなさい、そして、できるだけ貧しい生活に入り、祈りと禁欲を続けなさい」と言います。彼女は感動し、1212年3月のある日、日曜日のミサに参列した際に両親や兄弟に申し出て、裕福な生活と訣別することを宣言します。 そして、全くフランチェスコに倣って生涯を終えるのです。フランチェスコ会が西欧キリスト教世界に歴史的な影響を及ぼし、後世大修道会になったように、聖クララ会も代表的な女子修道会になります。この両巨頭とでも呼ぶべき2人はアッシジの隣人同士でした。 |
|||||||||||
1310.61 | マルグリット・ポレート著作 「単純な魂の鏡」 数世紀にわたって著者不明のまま世に現れた、「単純な魂の鏡」 ( Mirouer des simples ames ) は、フランス語で書かれた原典から、14,15世紀には、ラテン語、イタリア語、英語に翻訳され啓示を受けた正統な信仰の証しによる信心書としてヨーロッパ中で広く読み継がれていた。 この著作の著者が、マルグリット・ポレート ( Marguerite Porete 1310年6月1日没 )であることを最初に指摘したのは、イタリアの学者 R.グァルニエーリによる1946年の論文だった。 マルグリットの生涯とその悲劇的死を知る手がかりは、宗教裁判の記録と、この事件の経過を略述する数種の年代記が残されている。 異端審問の裁判記録によれば、マルグリットは、エノー ( Hainaut ) 出身のべギンであり、彼女の著書は、1306年、カンブレ ( Canmbrai )の司教によって異端の有罪宣告を受け、ヴァランシエンヌ ( Valenciennes ) 広場で焼かれた。 1309年4月、マルグリットの著作が、二度目の検閲対象となったた。フランス管区総審問官パリのギョーム ( Guillaume de Paris 1314年没 ) の管轄下、12名のソルボンヌ神学者によって、彼女の著作から異端の疑いのある15項目が、審理された。 マルグリットは、逮捕されて以来、宣誓することを拒み、審問官の質問にも答えなかった。 5月31日、再背教者 ( relapse ) として有罪の宣告を受け、1310年6月1日、パリのグレーヴ広場の火刑台上で焚刑が、執行された。 ある年代記は、彼女の毅然とした態度が、群衆の涙を誘ったと伝えている。 |
||||||||||
1300? | マルコ・ポーロと東方見聞録 (『まるこぽろ紀行』)前4巻 1271年にマルコは、父ニコロと叔父マッフェオに同伴する形で旅行へ出発。 1295年に始まったピサとジェノヴァ共和国との戦いのうち、1298年のメロリアの戦いで捕虜となったルスティケロと同じ牢獄にいた縁で知り合い、この書を口述したという[8]。 ・日本では、ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」(Cipangu) として紹介したという点で特によく知られている。しかし、実際はマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話として収録されている。 ・ジパングは、カタイ(中国北部)(書籍によっては、マンジ(中国南部)と書かれているものもある)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。 |
||||||||||
1346 | 黒死病=ペストの流行 ・黒海に面する通商都市カッファでペストの流行はじまる。 ・古くは542年ユスティニアヌス大帝在位中に地中海をおそった疫病はペストとされている。 |
帝国書院のHP 大阪市立大学大学院経済学研究科教授 脇村 孝平 |
|||||||||
1401~1549 | 日明貿易(にちみんぼうえき)開始 室町時代に日本(室町幕府)が明朝と行った貿易。 特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。 ただし、勘合はあくまで外交使節に発給された通行証であり、貿易許可証ではないため「勘合貿易」と言う呼称は使用するべきではない、という意見が通説となっている |
||||||||||
15~18世紀 | 魔女狩り かつて魔女狩りといえば「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かったが、このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、もともと民衆の間から起こった魔女狩りはこの間にかけてみられ、全ヨーロッパで最大4万人が処刑されたと考えられている。 |
||||||||||
1425~1428 |
ジャンヌ・ダルク |
||||||||||
1371~1434 |
鄭和(ていわ) |
||||||||||
1467~1615 | 戦国時代始まる 応仁の乱が始まり大阪夏の陣が終わるまでの約150年間 |
||||||||||
8世紀初頭 ~1492 |
イベリア半島のレコンキスタ(スペイン語で再征服、国土回復戦争。北のキリスト教スペインと南のアル・アンダレス【イスラム教スペイン】との間に展開された対立抗争状態のこと)終焉 レコンキスタはスペイン語で「再征服」の意。8世紀初頭から1492年のグラナダ開城までの約800年間、イベリア半島で北のキリスト教スペインと南のアル・アンダルス(イスラム教スペイン)との間に展開された対立抗争状態をさし、国土回復戦争と訳される。 711年イベリアに侵攻したイスラム軍は短期間でほぼその全域を支配下に置いたが、有力な都市がなく多分に未開の地である半島北辺の山岳部の掌握は、かならずしも十分ではなかった。このために南から避難してきた西ゴートの残存勢力と山岳部先住民が結束し、反イスラムを標榜(ひょうぼう)する抵抗運動の拠点がいくつか生まれた。 やがて、西ゴート貴族ペラージョが722年にイスラムの討伐軍を迎え撃ち、大きな損害を与えて退けた。のちにコバドンガCovadongaの戦いとよばれ、今日一般にレコンキスタの起点とされるこの事件は、時とともにキリスト教徒による半島支配の復活を目的とするイデオロギーをはぐくみ、これの実現に向けての戦いの象徴となった。 初期レコンキスタの弱小な拠点が生き長らえたのは、イスラム教徒が事態を軽視したためであった。とはいえ、コルドバ・ウマイヤ朝がアル・アンダルスの統一を維持する間は、キリスト教スペインはドゥエロ川(ポルトガル語ではドーロ川)とエブロ川を結ぶ線の北側に押し止められた。この均衡は11世紀の前半、後(こう)ウマイヤ朝の崩壊(1031)とカスティーリャとアラゴンの台頭(1035)によって破れ、事態は流動化した。トレド、サラゴサ、リスボンの三都市が相次いでキリスト教徒の手に落ちると、イスラム教徒は北アフリカからの強力な援軍を得て反撃した。だが、これもナバス・デ・トロサの戦い(1212)を境に勝敗が決し、13世紀中葉には西のポルトガルと東のアラゴンはレコンキスタを完了、アル・アンダルスはカスティーリャの属国と化したグラナダ一国に追い詰められた。それでもイベリア全土のレコンキスタ終了(1492)までには、さらに2世紀半余の時間を要した。 長期に及んだレコンキスタは、その後のスペインとポルトガルの近代史によくもあしくも決定的な影響を与えた。不断の臨戦体制は、これら二国の政治、経済、宗教、文化、人々の価値観などあらゆる領域に深い影響を与えた。15世紀末から本格化する両国のアジアと新世界への進出、とくに一気に強大化したスペインのヨーロッパ政治への関与、その黄金の世紀における文化の繁栄、そして経済の破綻(はたん)による17世紀中葉以降の衰退などは、いずれもレコンキスタとのかかわりのなかで初めて説明される。[小林一宏] コトバンク 『J・ビセンス・ビーベス著、小林一宏訳『スペイン――歴史的省察』(1975・岩波書店)』…等 |
||||||||||
15~16世紀 | 大航海時代の幕開けとスペインとポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化へ | ||||||||||
1492.10. 12 |
コロンブス(イタリア生まれ⇒ポルトガル⇒スペイン)と新大陸発見 最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディアンたちから歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。しかしコロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残している。
インディアンへの大虐殺・1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。 ・これに対し、コロンブス率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的虐殺弾圧 ・インディアンたちはゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが、スペイン軍の軍事力と彼らがばらまく疫病はインディアンの想像をはるかに超えていた。最終的に彼らは最善の策は「逃亡」であると決めた。 置き去りにされた作物は腐るにまかされ、やがてインディアンたちを飢餓が襲ったのだった。 ・コロンブスが何か月も病に臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。コロンブスが快復するまでに、5万人以上のインディアンの死が報告されている。やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。 1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった。 |
||||||||||
1494 | トルデリシャス条約締結(スペイン・ポルトガルの世界分割協議書?) | ||||||||||
1515.3.28 ~1582.10.4 |
アラブのテレジア |
||||||||||
1517.11.1 ⇒1534年へ |
マルティン・ルターと免罪符 |
||||||||||
1452年4月15~ 1519年5月2日 | レオナルド・ダ・ビンチとダビンチコード ルネッサンス(文芸復興運動)-三大発明は印刷・火薬・羅針盤。 宗教以前の時代に回帰する必要があった。ダビンチの魔方陣とは?? ⇒蒸気機関車の発明により産業革命へ |
||||||||||
1521 | エルナン・コルテス(スペイン)、アスティカを滅ぼす | ||||||||||
1531~ | 聖母予言 聖母マリアが、ある特定の選ばれた人物の前に現れてメッセージを告げる「聖母預言」が始まったのは、残っている記録によれば、5、6世紀ころからである。 このような聖母出現は記録に残っているだけでも数千に及ぶ。 聖母預言抜粋 1531年 メキシコ 、ホアン・ディエゴの前に聖母出現の事件 1830年 フランス パリ 、ゾエ・チャサリン・ラブレの前に聖母出現の事件 1846年 フランス ラ・サット、マキシマン・ジローとメラニー・マシューの前に聖母出現の事件 「ラサッ(レ)ト36の告知」 終末預言⇒ 1858年 フランス ルルド、ベルナデッド前に聖母出現の事件 有名な「ルルドの奇跡」 「ルルドの聖泉」 |
||||||||||
1533 | ピサロ(スペイン)、インカ(王の意味。)帝国を滅ぼす エル・ドラード(黄金郷)を探して |
||||||||||
1534 |
マルティン・ルターと聖書 |
||||||||||
1539~ | マルティン・ルターと地動説 最初に宗教的な問題として地動説を批判した。 ルターは旧約聖書のヨシュア記でのイスラエル人とアモリ人が戦ったときに神が太陽の動きを止めたという奇跡の記述と矛盾すると指摘した。 |
||||||||||
~1543 |
ニコラウス・コペルニクスと地動説 |
||||||||||
1543 | 種子島に流れ着いたポルトガル人によって、日本に鉄砲伝来⇒内戦に影響 | ||||||||||
1545 | ボリビアで銀が見つかる | ||||||||||
1549~ | フランシスコ・ザビエルと日本人、ヤジロウ(ヤジロー) ・弥次郎。または当時の音韻からアンジロウ[アンジロー]、洋風にアンジェロ[天使の意]という。 1511年(永正8年)頃? - 1550年(天文19年)頃?)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される。 ・ザビエルの通訳者、神(デウス)概念や聖句などの翻訳者として活躍し、日本(西日本)で布教・宣教活動に従事した。 ・ザビエルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、日本人として初めて洗礼を受けた。霊名は「パウロ・デ・サンタ・フェ」(聖信のパウロ)。また、同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学んだ。 ・日本でキリスト教の布教をした場合についてザビエルに問われ、スムーズに進むだろうと答えた。ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。 ・1549年4月19日、ザビエルに従いゴアを離れ8月15日に鹿児島に上陸。ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。 ・島津貴久と薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の ・比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。 ・1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。…献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった。ザビエルは、初めて日本に眼鏡を持ち込んだといわれる。 これらの品々に喜んだ大内義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。 |
||||||||||
1555 |
ルターと宗教改革 |
||||||||||
1571 | 織田信長による比叡山延暦寺焼き討ち事件 織田信長とキリスト教 1543年に、 種子島に流れ着いたポルトガル人によって、日本に鉄砲が伝来 1549年には、スペイン人宣教師ザビエルが、鹿児島に上陸 この ころから、 南蛮(スペイン・ポルトガルや、東南アジアの国々)の品々が、日本に 入ってくるようになりました。織田信長は、ポルトガル人宣教師フロイスから、南蛮のことを聞き、南蛮の品々を贈られて南蛮文化を取り入れたい、と思うよう になりました。 そして、フロイスらの求めに応じて、キリスト教を保護し、教会の 建設に協力したりしました。しかし、信長自身は、キリスト教を信仰しなかったのです。つまり、信長は、南蛮文化の取り入れに、宣教師が大きな役割を果たしてい ることを認めていたから、キリスト教を保護して、宣教師を大切にあつかっただけ のようです。 信長が京都に入ると、これに反発する武田・浅井・朝倉・三好などの大名や、 石山本願寺・比叡山延暦寺などの仏教徒集団が、協力し合って、信長をたおそうとし ました。信長は、これらの敵を、次々につぶしていきました。しかし、石山本願寺 や、 伊勢(三重県)長島の一向一揆には、長い間苦しめられ、たくさんの家来が戦死しました。そのため、信長は、仏教をにくむようになりました。信長がキリスト 教を保護したのは、仏教へのにくしみの うらがえ 裏返しではないか、ともいわれています。 |
学研 B026109050.pdf (gakken.co.jp) |
|||||||||
~1572 | インカ帝国滅亡 南北4000km、人口1000万人にも及ぶ強大な国として繁栄。 ・1533年、侵略を企てた、わずか168人のスペイン人たちによって、アッサリと滅ぼされた。 ・時は、アタワルパ王の時代、インカ帝国は天然痘などの病気が流行り、内戦が勃発するなど治安が不安定になっていた。インカの預言者によると、「顔の色が白くて、アゴひげを生やした人間」が、救世主として現われるとされていた。 その予言通りに、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン人たちが現われ、フランシスコ・ピサロは、王を捕らえる。囚われの身となったアタワルパは、言われたとおり部屋一杯の「金製品」を身代金としてスペイン人たちに差し出すが、処刑されてしまう。 |
||||||||||
1573 | 室町時代終わる 織田信長が足利義昭追放した |
||||||||||
16~17世紀 | 魔女狩り ・16世紀から17世紀、さらに限定すると1590年代、1630年ごろ、1660年代などが魔女狩りのピークであり、それ以外の時期にはそれほどひどい魔女狩りは見られなかった。 当時のヨーロッパを覆った宗教的・社会的大変動が人々を精神的な不安に落としいれ、庶民のパワーと権力者の意向が一致したことで魔女狩りが発生したということである。 ・ローマ・カトリックは女性が生来持っていると言われる霊的能力、霊視や輪廻転生などに関する直感と教義と相違に対する不安から女性を迫害したのではないか? |
||||||||||
1587.7.24 | 豊臣秀吉とバテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令) 1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。 バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreに由来し、英語のfatherとともに、「父親」を意味する印欧祖語に由来する。 豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。 しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られているとの讒言を天台宗の元僧侶である施薬院全宗から受けたとされる。このときに『天正十五年六月十八日付覚』が施薬院全宗と見られる人物によって起草された。 |
||||||||||
1592~1598 | 秀吉の2度にわたる朝鮮出兵の真相 ・その原因-名誉のためか、土地が欲しかったのか 最新説、それは、東シナ海貿易の権益を握ろうとしていたのではないか。これは東北大学名誉教授の平川新先生が出された解釈なのですが、僕はこちらが今のところ、いちばん納得できる説だと思います。 当時はいわゆる大航海時代。ヨーロッパ諸国の船が東シナ海まで来て、貿易を行っていた。その貿易の主導権を握りたい。そうした織田信長以来の思惑が秀吉にもあったのではないでしょうか。 |
東洋経済 本郷和人 東京大学史料編纂所教授 「戦国最大のナゾ 豊臣秀吉が朝鮮出兵した真相」 |
|||||||||
1600 |
イギリスインドに東インド会社設立 しかし1623年、オランダ領東インド(現在のインドネシア)のアンボイナ島にて、オランダがイギリス商館を襲撃して職員全員が殺される「アンボイナ事件」が発生しました。殺害されたなかには、傭兵として雇われていた日本人も含まれていたようです。 これによってイギリス東インド会社による香辛料貿易は挫折。アジアからの撤退を余儀なくされることとなりました。活動の拠点をインドに移すことにします。 インドではカルカッタ・マドラス・ボンベイなどを中心に、今度はフランスの東インド会社と争います。 そしてこれ以降、単なる貿易会社にとどまらず、政治的にもインドを支配するようになっていくのです。 |
||||||||||
1600.10.21 | 関ヶ原の戦いがおこる | ||||||||||
1602 | オランダ東インド会社設立 今までの諸会社を合同してオランダ東インド会社(羊毛工業⇒木綿工業⇒産業革命へ)を設立し、これに貿易・軍事・外交・行政の独占権を与えて、諸外国と戦争して積極的にアジアへ進出を開始 |
||||||||||
1603 | 徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く | ||||||||||
1612 | 徳川家康、幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令 ・豊臣秀吉の後を継いだ徳川家康は、当初キリスト教の布教に寛容だった。 家康は、征夷大将軍になったとき、イエズス会やキリスト教勢力と和解している。「秀吉が壊した外交関係は一旦、修復させてみる」というのが家康の方針だったようだ。 ・家康がキリスト教を禁止したのは、慶長14(1609)年に起きたポルトガルとのトラブルが契機になっていた。日本の朱印船が、マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまったのだ。その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈させた。この一連の出来事では、幕府の役人と肥前日野江藩(長崎県)主の有馬晴信とのあいだの贈収賄事件なども絡み、江戸幕府草創期の大不祥事となった。この事件により、慶長17(1612)年に、家康は幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令した。 ・しかし、この事件は、単なるきっかけに過ぎず、家康はキリスト教禁教の機会をうかがっていたのである。戦国時代当時、キリスト教は、我々が思っている以上に普及していた。キリシタン大名の追放が始まった慶長19(1614)年の時点で、日本人の信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られている。当時、日本の人口は1200万人程度だったとされているので、人口の2〜4%がキリスト教徒だったことになる。長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があり、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に100〜200人程度いて、教会は200か所あった。長崎などは、一時、イエズス会の領地のようになっていたこともあった。 |
東洋経済 徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 元国税調査官 大村大治郎 『家康の経営戦略』より一部抜粋 |
|||||||||
なぜキリスト教が世界を席巻したか? ・ローマ教皇は、ポルトガルとスペインに対し、キリスト教を布教することと引き換えに、世界をポルトガルとスペインで二分する許可を与えた。 ・この命により、両国は世界中に植民地を持つ代償として、各地に宣教師を派遣し、教会を建設する義務を負ったのである。ポルトガルとスペインの交易船には、宣教師も乗っており、新しく交易を始める土地では、必ず布教の許可を求めた。布教を許可した土地のみと、交易を開始したのである。彼らが日本に来たときも、取引をおこなう条件として、キリスト教の布教許可を求めた。 ・諸大名たちは、南蛮船と交易をするために、キリスト教の布教を認めた。そのため、戦国時代にキリスト教が爆発的に広がるのである。 ・当時の南蛮貿易は、西洋の珍しい文物を運んでくるだけのものではなかった。というのも、日本に来る南蛮船のほとんどは、マカオや中国の港で積んだ物資を持ってきていたからだ。 すでに鉄砲の製造は日本でもおこなわれていたが、鉄砲の弾丸に使われる鉛や、弾薬の原料となる硝石などは、当時の日本では生産できず、海外からの輸入に頼るしかなかった。南蛮貿易を介さなければ、鉄砲の弾薬や火薬の原料などは手に入らなかったのだ。つまり、南蛮貿易の隆盛やキリスト教の普及というのは、諸大名の軍需物資輸入がいかに大きかったかを裏づけるものでもあったのだ。 ・またキリスト教徒たちが、日本各地の寺社を破壊することもたびたび起こっていた。 ・スペインにいたっては、日本への武力侵攻を検討したこともあった。当時の日本は戦国時代で、大名たちの戦力が充実していたために、侵攻を断念しただけだったのだ。 ・もし、日本が戦国時代ではなかったら、ほかの東南アジア諸国のように、ポルトガルやスペインから侵攻されていた可能性もあるのだ。 |
東洋経済 徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 元国税調査官 大村大治郎 『家康の経営戦略』より一部抜粋 |
||||||||||
家康が、キリスト教を完全に禁じたのは「キリスト教の危険性」と、もう1つの大きな理由 ・家康がまだ征夷大将軍になる前の慶長5(1600)年4月、大分の臼杵(うすき)にオランダ船のリーフデ号が漂着した。臼杵藩の藩主・太田一吉は、乗組員を保護し、長崎奉行に報告した。リーフデ号は大坂に回航されることになった(「関ヶ原の戦い」の少し前、豊臣政権だったときのこと)。 この時期、豊臣政権の番頭格だった石田三成は、失脚して領国に戻っており、事実上、家康が政務を取り仕切っていた。そのため、家康が、リーフデ号の検査、尋問などをすることになった。 ・日本にいたスペインのイエズス会の宣教師たちは、リーフデ号のことを聞きつけ、家康に処刑するように注進した。イエズス会は、カトリック・キリスト教の修道会であり、当時はプロテスタント・キリスト教と激しく対立していた。 ・リーフデ号の母国オランダは、プロテスタントの国である。だから、日本在住のイエズス会としては、プロテスタントの勢力が日本に及ぶことを非常に恐れていたのだ。しかし、家康は、イエズス会の宣教師たちの注進は聞き入れず、リーフデ号を浦賀に回航し、乗組員を江戸に招いた。 ・家康は、リーフデ号の乗組員から海外情報などを仕入れ、一部の乗組員は家臣として取り立てた。幕府の要人となったオランダ人のヤン・ヨーステンや、三浦按針(イギリス人のウィリアム・アダムス)は、このリーフデ号の乗組員だった。 ・当時のキリスト教世界では、ルターの宗教改革から生まれたプロテスタントが、急激に勢力を拡大している時期だった。プロテスタントは、免罪符に象徴されるような教会の権威主義、金権主義を批判し、純粋な信仰に戻ろうという宗派である。そのため、旧来の教会であるカトリックと、新興宗派であるプロテスタントは、激しく対立していたのである。 ・ポルトガルやスペインは、カトリックの国だった。彼らが、大航海をして世界中に侵攻していたのも、じつはカトリックとプロテスタントの対立が影響していたのである。プロテスタントに押されていたカトリックは、少しでも多くの信者を獲得するために、積極的に世界布教に乗り出したのだ。戦国時代に日本にやってきたポルトガル、スペインの宣教師たちは、皆この流れに沿ったものなのである。 ・一方、オランダはプロテスタントの国だった。オランダは、新興海洋国でもあり、ポルトガルやスペインに続いて、世界中に進出し、貿易や侵攻をおこなっていた。オランダも、キリスト教の布教もおこなっていたが、それはメインの目的ではなく、金儲けが最大の目的だった。日本に対しても、キリスト教の布教を強く求めることはなく、貿易だけを求めてきた。 ・家康はこの事情を知り、オランダとだけ貿易をすることにしたのだ。しかも、幕府が独占的にオランダと交易をおこなえば、貿易における旨みを幕府だけが享受することができる。そのため、江戸時代を通じて、オランダが唯一の西洋文明の窓口となった。オランダからの文物を学ぶ「蘭学」は、日本の最先端の学問となったのである |
東洋経済 徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 元国税調査官 大村大治郎 『家康の経営戦略』より一部抜粋 |
||||||||||
1631~ | サンマリノ共和国の独立 1631年、ローマ教皇が独立を承認し、世界最古の独立共和国となった。その後、1815年には、ナポレオン戦争後のウィーン会議でサンマリノの独立が再確認されている。 19世紀半ばのイタリア独立運動(リソルジメント)でも義勇軍を派遣して独立国として残った[3]。1862年、統一されたイタリア王国とのあいだに関税同盟を結ぶ一方、友好善隣条約を結んで近代国家としての主権と独立を獲得し、それ以来イタリアとは密接な関係を維持している。イタリアとの間では1897年に友好条約を締結、1953年にはこれを更新した。冷戦終結後の1992年には国際連合と国際通貨基金(IMF)に加盟した。 人口は3万人 |
||||||||||
1631年 | 姦淫聖書 英国で出版された聖書で、「not」を書き漏らし、「汝、姦淫すべし」との版が流通したためこれをそう呼ぶ。 |
||||||||||
1639~ 1854 |
鎖国状態となる 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、 1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」 (英closed country) と呼ぶ。 |
||||||||||
1650 | クエーカー教徒(友会)とジョージ・フォックス 初期のクエーカーは自らを背教の時代の後の真のキリスト教会を回復するものと考えていた。その為、この時期自らを単に聖者または光の子と呼んでいた。もう一つの公の名称は、真理の友であり、真の状態を示す「内なる光」として初期のクエーカーの教義の中心点を反映していた。 「クエーカー」という名称は、ジョージ・フォックス師がダービーのベネット判事に神名冒涜罪で裁かれた1650年に初めて使われた。フォックスの手記に依ると、ベネットは「私たちが神の言葉でわが身を震わせた故にクエーカーと呼んだ」。 |
||||||||||
1564年 ~1615~1642 | ガリレオ・ガリレイと地動説 1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。 ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。 1616年に、ローマ教皇庁はコペルニクス説を禁ずる布告を出した。 1616年と1633年の2度、地動説を唱えたガリレイは、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた。 しかし現在、ガリレオは昇進などをめぐるトラブルから罠にはめられ、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている |
||||||||||
1665年 | アイザック・ニュートンと万有引力の法則 「リンゴに対して働いている力が、月や惑星に対しても働いているのではないか」と着想した。 地上では物体に対して地面(地球)に引きよせる方向で外力が働くことは、(ガリレオなどの貢献もあり)ニュートンの時代には理解されていた。ニュートンが行った変革というのは、同様のことが天の世界でも起きている、つまり宇宙ならばどこでも働いている、という形で提示したことにある(そして同時に、地球が物体を一方的に引くのではなく、全ての質量を持つ物体が相互に引き合っている事と、天体もまた質量を持つ物体のひとつに過ぎない事)。「law of universal gravitation 万有引力の法則」という表現は、それを表している。 |
||||||||||
1678~ 1681 |
カトリック陰謀事件(カトリックいんぼうじけん、Popish Plot) イングランドのカトリック教徒が国家転覆の陰謀を企てているという陰謀の捏造と、それに伴う集団ヒステリーの事件・社会現象である。捏造されたテロ計画が本当に存在していると信じられ、イングランドの反カトリック感情をあおって国全体がパニックに陥った。 |
||||||||||
1686~ 1768 |
白隠 慧鶴(はくいん えかく)禅師と健康法、内観法と軟酥なんその法 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて悟りを開くも満足せず、修行を続け、のちに病となるも、内観法(放下着と数息観(すそくかん)と丹田呼吸の姿勢。)を授かって回復し、信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させた。 また、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。 彼は初めて悟りの後の修行(悟後の修行)の重要性を説き、生涯に三六回の悟りを開いたと自称した。また、これまでの語録を再編して公案を洗練させ、体系化した。中でも自らの悟りの機縁となった「隻手音声」と「趙州無字」の問いを、公案の第一に位置づけ、以後の修行者に必ず参究するようにさせた。 軟酥の法(自己暗示によって潜在意識を変えさせる精神療法)を確立。 |
||||||||||
1690年ごろ | アイザック・ニュートンの科学革命とキリスト教 ・地球と天体の運動を初めて実験的に示し、太陽系の構造について言及した。 ・また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に解明した一人であり、天体の軌道(楕円、放物線など)について示した。 ・また、光の粒子説を唱えたことでも知られている。 ・また、白色光がプリズム混合色であるとして色とスペクトルの関係について唱えた。虹の色数を7色だとしたのも彼である。 ・ニュートン以前の正統な自然哲学は、物事の発生する原因(目的)を明らかにするという、哲学で言えば目的論に力点が置かれていた。たとえば、ルネ・デカルトは惑星の運動や重力の原因を、空間に充満しているエーテルの圧力差や渦動によるものとする「渦動説」で説明を試みた。 ・また、ヨハネス・ケプラーは地磁気が惑星の運動の原因であるとする重力理論を展開した。 ・これに対し、ニュートンは主著『プリンキピア』においてラテン語: "Hypotheses non fingo"(和訳 われ仮説を立てず)と宣言した。 ・あくまで観測できる物事の因果関係を示すという哲学、解釈を展開した。これは、「作り話」的な説明もあるデカルトの自然学を批判したものだとされる。 ・万有引力の法則を提示するにあたっても、引力がなぜ発生するか、あるいは引力が何のために存在するのかということではなく、引力がどのような法則によって機能するのかという説明のみに終始し、それをもたらす原因については仮説を立てる必要はないとし、新しい方法論を提示した、ともされる。 ・後の時代に、科学者らは上記のような方法論が、「実証主義による近代科学の礎になった]」「科学的方法論の礎となった」などと評するようになった。 ・これは「神の行いについて、人間の持つ理性では理解不能であるという思想を背景としたものであった」とも言う。 ・ニュートンは生涯を通じてキリスト教研究にも打ち込んでいた。 その結果は、1690年頃に執筆された『ダニエル書と聖ヨハネの黙示録の預言についての研究』と、死後の1728年に刊行された『改訂古代王国年代学』に纏められた。 この中でニュートンは、聖書や伝説にある出来事の年代確定に天文学手法を導入しながらキリスト教的歴史観である普遍史をプロテスタント的史観で再構築し、また「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」を解釈した独自の終末論を展開している。 ・絶対的時間や絶対的空間などを確立したニュートンではあるが、彼自身はそれらがキリスト教の教義と矛盾するとは考えておらず、『プリンキピア』一般注にて宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、それは万物の主だと述べている。 ・ニュートンは、キリスト教研究の中でカトリックを激しく攻撃している。 「ヨハネの黙示録」解釈では、神に楯突く側である「大淫婦」を世俗に堕落したローマ教皇だと断罪した。 またアタナシウスら正統派教父をも批判し、三位一体説はヒエロニムスによる改竄だと主張し事実上否定している。この三位一体説否定はニュートンが異端と断罪され公職から排除されていたアリウス派に属していた事を示し、ケインズは「恐ろしい秘密」とコメントしている。 |
||||||||||
1692.3.1~ | セイラム魔女裁判と集団ヒステリー ・アメリカ合衆国ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で200名近い村人が魔女として告発され,無実の人々が次々と告発され、裁判にかけられたその経緯は、集団心理の暴走の例として著名 |
||||||||||
1694 |
イングランド銀行(イングランドぎんこう、英: Bank of England) |
||||||||||
アーミッシュ |
|||||||||||
~1714 | 貝原 益軒(かいばら えきけん) 江戸時代の本草学者、儒学者。明治時代に西洋の生物学や農学の分野がもたらされるまでは、日本史上最高の生物学者であり農学者である。 益軒といえば『養生訓』。これは江戸時代に出版された本のなかでロングセラー第一位であり、現在でも買える凄い本で、85歳で亡くなるすこし前(1713年頃)に書かれたという。 今から約300年前の江戸時代に、心身相関を説いている。 益軒はこの本の執筆態度として、「古典にある説を簡単に解説したもので、一方自分で試みて効果のあったことを記した」との旨を語っている。 生き方を説く場合には避けて通ることの出来ない基本となっている本だと言える。 ⇒中村天風にも影響。 |
||||||||||
1736.1.19~1819.8.25 | ジェームズ・ワットと産業革命 スコットランドの発明家、エンジニアであり、トーマス・ニューコメンの蒸気機関へ施した改良を通じてイギリスのみならず世界中で産業革命の推進に貢献した。 |
||||||||||
~1744~ | 安藤昌益(あんどう しょうえき)-八戸で講演。身分・階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきであると主張。平等思想。 『自然真営道』の内容は、共産主義・農本主義・エコロジーに通じるとされている。 日本の権力が封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたとみなし、孔子と儒教を徹底的に批判。 発見者・狩野亨吉(こうきち)をして「狂人の書」と言わしめ、レーニンをもうならせたという。 |
安藤昌益 『自然真営道』 |
|||||||||
1756~1763 (江戸時代 9代将軍家重) |
ヨーロッパを中心にした世界規模の七年戦争とパリ和約 ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因であったが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。 イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドではムガル帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。 この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ(外交革命)。しかし戦争の結果、墺(オーストリア)仏の外交努力は英普(プロイセン王国)側が勝利したことで水泡と化し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。 |
||||||||||
~1772 1744.4 83歳没 |
エマヌエル・スウェーデンボルグ(イギリス) ・最初のスピリチュアリスト ・アンドリュー・ジャクソン・ディビスが師と仰いだ。 ・多彩な科学者だったが、55歳で科学者であることを断念した。 ・父はスウェーデン王室の祈祷所の牧師で、生まれながらにしてキリスト教と深いかかわりがあった。 ・幼くして霊的な素質を持っていた。神がかりになったことも… 1759.9.19(71歳)のときに旅先で自宅近くの火災を霊視した。 (『近代スピリチュアリズムの歴史』 三浦清宏 P49~) ・83・4年の生涯の前半を科学者、後半を神学者として過ごす。 (・科学者時代には多々の不思議なインスピレーションも??) ・52?54?56?歳ごろから幻視体験(幽体離脱、自らは「死ぬ方法」と名付けた)をいくどとなく体験。百回以上とも。 ・1744年4月、ロンドンで最初のキリストの幻視を体験する。 キリストが現れ、「人々に聖書の霊的内容を啓示するためにあなたを選びました。この主題に関して何を書くべきかを示しましょう」と語った。 ・1743.7月~1年以上体験した「夢日記」を記録。 (※・1745年の4月にもキリストの再来。今までの世間向きの学問をいっさい捨てて霊的な仕事に専念するように命じられたという. 『近代スピリチュアリズムの歴史』 三浦清宏 P47) ・それ以来彼は霊界の探訪者・神秘主義者へと転身し、一切の世俗的な著作活動を放棄して霊的な研究へと進み、霊界探訪に基づく膨大な量の神学的著作を残す。 ・神学者への転向は彼の科学者としての名声を曇らせるものであったことは間違いない。転向後の彼を精神的な病にかかったものと見る人もいるが、霊界探訪に基づく膨大な著作には終始科学者としての理性的で冷静な目が貫かれ、緻密な整合性が見られる。カントが「それが霊界についてであるという点を除けば、これ以上理性的な本はないくらいである」と述べたほど、その内容からうかがえる著者の精神は健全そのものである。 すでに人望厚い科学者として、押しも押されもしない専門的地位と社会的名声を築いていた。 ・晩年こうした体験に基づき16冊の大著を書き記した。 『天界と地獄』 ・科学者としての丹念な分析と論理性をもった死後の世界観は、それまでのキリスト教の考えを根本から覆すような画期的なものであった。 死後の世界をはじめて科学者の目を通して研究したもので、人類思想史上大きな足跡を残した。 ・その内容は、今日のスピリチュアリズムと比較しても大枠で一致する。ただ時代の影響で、その貴重な体験とみごとな分析にもかかわらず、キリスト教の影響がかなり残っており、今一つ正確さに欠けるきらいがあることも事実である。 ・キリストが肉体を通じて人間と繋がっていることは認めるものの、あくまでも神の現れとしてキリストを見、キリストに帰依する以外に人間の持つ汚れを清める方法はないと考える。 ・キリストは肉体という地上の部分を持ち、聖霊はキリストの「働き」。「神」は「愛」に対応、「子」は「叡智」、「聖霊」は「働き」に対応。 この「愛、叡智、働き」の三位一体は人間レベルにおける「魂、心、体」に対応する。 ・照応の理論 ・地上にあるもので天上にないものは何もない。自然界に存在するものはすべて天上(霊界)に本の姿を宿している。 ・人間が考えることはすべて天界にその因子を有する。 ・天界の主はキリスト。… ・霊界には時間も空間も無い。すべては心の状態の変化のみ。 (『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P55~) ・1772.3.29、83歳で、メソジスト派の創始者ジョン・ウェスレーに手紙を送り、予告通りの日にこの世を去る。 エマニュエル・スウェデンボルグ Emanuel Swedenbolg 1688-1772 スウェーデン人。自然科学、数学、物理学、哲学、心理学など20もの学問分野で、多くの業績を上げた天才であると同時に、巨大な霊能力の所有者としても世界中に知られる。1747年、いっさいの科学的研究の活動を放棄し、後半生の約30年間、心霊的な生活と霊界の研究に没頭した。生きながら霊界に出入りする「霊的生涯」を送り、ヨーロッパ中の大きな話題を集めた。彼が霊界で見聞、実体験してきたことを書き記した膨大な著書は、現在もロンドンの大英博物館に保管されている。1772年3月29日、自分が予言した日に没し、いまなお人類史上最大の不思議な人物とされる。(Wikipedia) ・スウェーデンボルグについてはその巨人的な才能や霊界探訪者としての側面ばかりが強調されがちだが、人物としては愛の人であったことを多くの人は知らない。その神学的な反対者たちでさえ、彼の誠実で勤勉で親切な人柄を攻撃することはできなかったという。 ・ただ時代的影響は免れえず、その貴重な体験と見事な分析にもかかわらず、キリスト教思想の影響がかなり残っており、今一つ正確さに欠けるきらいがあります。霊性進化の道より |
カントが『ある霊視者の夢』発行 ※カントは調査のため会見を申し込んだが断られたとも言われている。 |
|||||||||
~1758~ |
ブードゥー(あるいは「ヴードゥー」)教 |
||||||||||
1771~ 1776~ |
フリーメイソンとイルミナティとグラントリアン ・フリーメーソンーは大別して、英米系と大陸系に二分される。ドイツでは、インゴルシュタット大学の教員アダム・ヴァイスハウプトによって1776年にイルミナティという秘密結社(「啓明結社」とも「光明回」とも訳される。渋澤龍彦は著書『秘密結社の手帳』のなかで「バヴァリア幻想教団」と呼んでいる)が創設された。 この結社はイギリス系のフリーメーソンリーとは違って、超越的存在(神)を認めず、君主制を妥当し、急進的に共和制の政権を樹立しようとする純然たる政治的秘密結社であった。このイルミナティをフリーメーソンリーの一つとみなす論者は少なくないが、メンバーが重複していただけで、別の結社であると考えるのが適切なようである。 「バヴァリア幻想教団とフリーメーソンとを混同する歴史家もいるが、両者はまったく別のものである。ただ、フリーメーソンの非政治主義にあきたらず、メーソンのなかから幻想球団へ加入した者も、大勢いたらしい」と、渋澤龍彦も前掲書のなかで述べている。結局、このイルミナティは1785年に、バヴァリア選挙候カール・テオドールによって禁止令が出され、90年にはほぼ消滅したといわれている。 グランド・ロッジが成立したフランスのメーソンリー 世界史の展開に深く、しかも劇的に関わったという点では、フランスのメーソンたちは、本家イギリスのメーソンをしのぐ。オルレアン公フィリップ、ヴォルテール、ミラボー、ロベスピエール、ラファイエット、モンテスキュー、ディドロ等々、フランス革命の名だたる立役者がフリーメーソンであったことはまぎれもない史実である。 ここで注意を要するのは、1771年(73年という説もある)にフランス・グランド・ロッジから独立する形で創設されたグラントリアン(大東社)である。 日本において公刊されているフリーメーソンリーの研究書は、ほとんどがこのグラントリアンと、イギリスに誕生した「正統」フリーメーソンリーとを並列するか、あるいは曖昧に混同して記述している。しかし、イギリス系はすでに述べてきたように、教会と王権の支配を相対化したものの、「至高存在」と王政を否定しはしなかった。それに対し、グラントリアンは実際、急進的な啓蒙主義の影響を受けて、「至高存在」に対する尊崇を排し、無神論的な政治結社になっていく。明らかに両者は、ある時期から別種の思想を報じる別種の団体となっていったのである。もっとも、英米系と大陸系メーソンリーが混同されがちなのは、仕方がないところもある。本家のイギリス系メーソンリーが、グラントリアンに対する承認を取り消し、絶縁を宣告したのは、フランス革命勃発から約80年後の1868年のことである。言い換えるならば、イギリス系の「正統」フリーメーソンリーは、一世紀近くもの間、グラントリアンを「承認」し続けてきたわけである(その後、フランス・グランド・ロッジとグラントリアンが再統合して1914年にグランド・ロッジ・ナツィオナルが創設され、イギリス系メーソンリーとの間に承認関係が復活した)。一時絶縁したとはいえ、歴史的にこの無神論的政治結社と「まったく無関係」とは言い切れないだろう。 |
||||||||||
1773 | フランツ・アントン・メスメルとメスメリズム 「動物引力」による治療を開始。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 メスメルは患者たちを、個別療法と集団療法の両方で治療した。 1780年までに、メスメルには個別治療が可能な数以上の患者がいて、それで「baquet(バケツ)」として知られる集団治療法を確立。その治療を見たあるイギリス人医者は、次のように記述している。 「部屋の中央に約1フィート半(45cm)の高さの器が置かれていて、ここではそれを「baquet(バケツ)」と呼んでいる。回りに20人の人々が楽に座れるくらいの大きさである。それを覆う蓋の端近くに、それを囲む人々と同じ数の穴が開けられている。その穴の中に、患者に適用されることになっている体の部分に応えるために、右側に曲がった、高さの異なる鉄棒を挿し込む。鉄棒の他にbaquetと患者の1人を繋ぐロープもあり、その患者から他の患者に次々と手渡されて、ロープは円になる。最も著しい効果はメスメルが近づいたことで生み出される。メスメルは患者に触れることなく、手または目の決まった動きだけで「流体」を伝達すると言われる。私はその効果を目撃したという人、手の動きで痙攣が引き起こされ、除去されたという人の何人かと以前話したことがある……。 |
||||||||||
1774~1778 | クリミア・ハン国 1774年、露土戦争(1768年-1774年)に敗れたオスマン帝国は、キュチュク・カイナルジ条約でクリミア・ハン国の宗主権を放棄させられ、名目上独立したクリミア・ハン国はロシア帝国の影響下に入った。1778年にはロシアによって正教徒の住民がクリミアからアゾフ海北岸のマリウポリ周辺に強制移住させられた。そして1783年、ロシア帝国はキュチュク・カイナルジ条約を破棄してクリミア・ハン国を併合した。⇒アゾフ大隊 当時の皇帝エカテリーナ2世の寵臣グリゴリー・ポチョムキンの主導でクリミア半島とその北のノヴォロシアと呼ばれる地域の開発が推し進められた。このときには開発のために移住させられたものの多くはウクライナ・コサックであった。 |
||||||||||
1776~1849 | 調所 広郷(ずしょ ひろさと)と『薩摩燃ゆ!』 薩摩藩の財政立て直し。安永5年(1776年) - 嘉永元年(1849年)⇒村田清風(長州藩) |
||||||||||
1789~ | サミュエル・ハーネマンとホメオパシー (1755年ドイツ、マイセンに生まれる)によって始められた。 ハーネマンは科学に関する多くの書物を著した。中でも最も有名なものは、砒素中毒に関する専門書。批評家達は後に、あんなインチキ医者にさえならなければハーネマンは偉大な科学者になっただろうにと言ったとされている。 1789年に彼はライプチヒに引っ越し、梅毒に関する専門書を出版。同種療法、同毒療法、同病療法)を確立。 |
||||||||||
1783 |
イギリスでの奴隷制度廃止運動とクエーカー教徒 |
||||||||||
1795 |
葛飾北斎 北斎宗理の号も |
『ライフ誌-この1000年で最も重要な業績を残した世界の人物100人』-に選ばれた唯一の日本人 | |||||||||
1807 |
オラウダ・イクイアーノ(オローダ・エキアーノ)(グスタヴス・ヴァッサ)(1745-1797)と奴隷貿易法の制定 1789年に自伝、『The Interesting Narrative of the Life of Olaudah Equiano:アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語』を出版。この書は、イギリスとその植民地のアフリカ貿易を終結させた奴隷貿易法の制定(1807年)の後押しとなった。⇒1834年ジャマイカ(イギリス連邦)完全撤廃 チャールズ皇太子、ウィリアム王子お詫び(2022.3) 目次 紀伊國屋書店著者の故郷、その慣習としきたり、その他 |
Googleロゴマーク 2017.10.16、 生誕272周年 |
|||||||||
1744~ 1812没 |
ロスチャイルド家と金融業 初代のアシュケナージ・タルムードのユダヤ系ドイツ人であるマイアー・アムシェル・ロートシルト(1744-1812年)がドイツのフランクフルト・アム・マインで開いた古銭商・両替商に端を発し、ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世との結びつきで経営の基礎を築いた。ヨーロッパに支店網を築き、彼の5人の息子がフランクフルト・ロンドン・パリ・ウィーン・ナポリの各支店を担当、相互に助け合いながら現在のロスチャイルドの基盤を築いた。 |
||||||||||
1807 | ヘーゲル-精神現象学、ヘーゲルの体系は神の体系に代わる物。「われは人間なり」 カント、デカルト、ルソーら近代西欧思想の祖 神に対して人間一般を対置。 近代(西欧)合理主義により労働は報酬を出来高払い制に。 労働⇒国家⇒世界 賃金のために働き、生き甲斐は他のところで⇒レジャー、サービス業の発展⇒人は機械にあらず |
||||||||||
1820~ | フローレンス・ナイチンゲール(イギリス) イギリスの看護婦、統計学者、看護教育学者、近代看護教育の生みの親。 本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。⇒後述 |
||||||||||
1760年~1834年 |
水野 南北 |
||||||||||
1769~1814 | ナポレオンの欧州席巻とロンドンのネイサン、パリのジェームス、ロスチャイルド 特にロンドンのネイサン(1777-1836年)とパリのジェームスが成功を収めた。ネイサンはナポレオンが欧州を席巻する中で金融取引で活躍し、各国に戦争の資金を融通した。 ジェームスは当時の成長産業だった鉄道に着目し、パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を基盤に事業を拡大していった。 |
||||||||||
1783 |
塙保己一と群書類従 |
||||||||||
伊能忠敬(ただたか)、地図作りのために江戸を出発
・江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的状態。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直した。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域窮民を救済。 ・こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。 ・50歳を迎えた忠敬は、家督を長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出る。 ・浅草に星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があった。暦局に着いた忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)32歳の門下生となった。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われ、メンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだった。 ・至時は昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、彼を“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。 ・この頃、暦局の人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。 当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった。外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのだ。結果、幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのだった。(ただ幕府の援助はなく、すべて自費。)忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」と。 ・1800年(55歳)、忠敬は江戸を出発。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。目撃者の記録には「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあり、雨、風、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいった。 昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。江戸にいた至時は手紙を書いて忠敬を励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。 忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった。(しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠。)
・半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。彼の測量は多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった。 ・1805年(60歳)、再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上になることもあった。忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。
だが西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずだった。ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。また、ずっと相棒だった測量隊の副隊長がチフスで死んでしまう悲劇もあった--。
・1815年2月19日!最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる。あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。そのまま忠敬は回復することなく、1818年、73歳で病没。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。
・1821年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。
・忠敬の死から43年後の1861年、来訪したイギリス測量艦隊が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府の役人が忠敬の地図の一部を携帯していたのを船長が見てびっくり仰天し、“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにも関わらず正確に描かれている。こんな地図があるなら今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまったという。そしてイギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と書き記した。鎖国状態にあった日本を、西洋の知識人は未開の文明後進国だと決め付けていたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き、見下すことを改めたという。
・忠敬は、遺言にこう残した--「私が大事を成し遂げられたのは、至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」。その願いは聞き届けられ、上野の源空寺の墓地で、彼は既に200年近くも恩師の傍らで幸せな時を過ごしている。忠敬の墓石の側面には、こんな文面が彫られている“忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った”と。 「地球の大きさを知りたい」、このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになった忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。第一、200年前の海岸線を徒歩で一周という偉業。彼は地図と共に人間の底知れぬ可能性を後世の私たちに残した。
・地図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。シーボルトは“世界地図と交換したい”と働きかけ、その写しを国外に持ち出した。この流出事件で景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した--「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」(高橋景保) NHK「その時歴史が動いた」、エンカルタ総合大百科、世界人物事典(旺文社)より |
214枚の日本大図 ※’04年、名古屋ドームにて (撮影kooichi.ikaiさん) |
||||||||||
1803~1815 | ナポレオン戦争 ナポレオン率いるフランス帝国軍対イギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどが戦った。 |
||||||||||
1805 | スイス4ヵ国から永世中立を保証 ウィーン会議でフランス、プロイセン、ロシア、イギリスなどからスイスの永世中立が保証される。以来、スイスの中立は非常に厳格に守られ、2002年まで国連への加盟すら拒否された。 |
||||||||||
1806 |
ルイス・クラーク探検隊(発見隊) |
||||||||||
1780~ 1814~ 1850 |
黒住宗忠-黒住教(くろずみきょう) |
||||||||||
1820 |
仙童 寅吉 文政3年(1820年)の秋、天狗小僧と呼ばれたひとりの少年が脚光を浴びた。天狗の世界に誘われ、何年もの間そこで過ごした少年が戻ってきたというのだ。その少年、寅吉の語る異界の様子は驚くべきものであり、多くの人々がその情報を求めて彼の話を聞きにやってきた。平田篤胤もそのひとりだった。寅吉15歳、平田45歳のことだった。 勝五郎再生記聞 文政5年(1822年)、武蔵国多摩の百姓の倅、勝五郎(当時8歳)が何気なく発した問いがこの事件のきっかけだった。勝五郎は生まれる前のことを誰もが記憶しているものとそのときまで信じていたのだ。自分が人と違っていることに気付いた勝五郎は誰にもいわないよう懇願するのだが、やがて家族にも知られるところとなり、前世での出来事、命を落としたときのこと、死後に出会った謎の人物のこと、この家に生まれたいきさつ等をとつとつと、しかし詳細に語る。 半信半疑の祖母に手を引かれ、とうとう前世に住んでいたという村へ出かけたところ、そこには勝五郎が語ったとおりの風景があり、家族が暮らしていたのだった……。江戸の世を騒がせた輪廻転生の話。http://d.hatena.ne.jp/supernil/20091210/1260352735 |
『仙境異聞・ 勝五郎再生記聞』 平田篤胤 |
|||||||||
1822~ |
平田篤胤と『仙境異聞』 |
||||||||||
1823 | モンロー主義 アメリカ合衆国がヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱したことを指す。 第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが、1823年に議会で行った7番目の年次教書演説で発表した。モンロー宣言と訳されることもあるが、実際に何らかの宣言があったわけではないので、モンロー教書と訳されることも多い。この教書で示された外交姿勢がその後のアメリカ外交の基本方針となった。原案はアメリカ合衆国国務長官ジョン・クィンシー・アダムズが起草した。 目的と狙い 19世紀前半、ラテンアメリカ各地で独立運動が起こった。 19世紀初頭のナポレオン戦争(特に半島戦争)は、スペインのアメリカ植民地に対する支配力を弱め、中南米諸国は次々に独立へと動き出していった。これに対しスペイン本国は、中南米植民地での独立運動を鎮圧しようとした。 しかし、ナポレオン失脚後のヨーロッパは自由主義、ナショナリズムを敵視する保守反動的なウィーン体制下にあったため、この体制を主導していたオーストリアの政治家メッテルニヒは、独立運動への干渉を図った。 また、独立運動を支持する姿勢をみせていたイギリス(おもに自由党)の狙いは、ラテンアメリカに工業製品を輸出し、農産物や資源を輸入して経済力を高めることであった。こうした動きを牽制するため、モンローが年次教書において、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉を示すに至ったのである。 南北アメリカは将来ヨーロッパ諸国に植民地化されず、主権国家としてヨーロッパの干渉を受けるべきでない旨を宣言した。 それはさらにヨーロッパの戦争と、ヨーロッパ勢力と植民地間の戦争に対してアメリカ合衆国は中立を保つが、植民地の新設あるいはアメリカ大陸の独立国家に対するいかなる干渉もアメリカ合衆国への敵対行為とみなすという意図を述べたものであった。 合衆国にとって、もう一つの大きな懸念材料は、アラスカ(当時はロシア領)からロシアが太平洋沿いに南下政策を図ることであった。そのため、この教書はロシアのアメリカ大陸進出に対する牽制という狙いも含んでいた。 この宣言は欧州に対するアメリカ合衆国による「アメリカ大陸縄張り宣言」でもある。それに沿って1830年にインディアン移住法を定め、国家として先住民掃討を進め、また米墨(メキシコ)戦争で領土を割譲させるなど、アメリカ大陸内での勢力拡大を推し進めた。 「1833年、イギリスがフォークランド諸島を占領したが、特に措置を講じておらず、このときにモンロー主義は放棄されたと見ることができる。イギリス資本の進出が背景にあると見られる。」とする意見もあるが、アメリカ合衆国はそれ以前からフォークランド諸島を領有するアルゼンチンの勢力とはフォークランド諸島寄港問題で対立しており、アメリカ合衆国はフォークランド諸島については不干渉の立場をとっていた。 つまり「モンロー主義の放棄」とは「アメリカ合衆国の縄張りはアメリカ大陸に限らない」ということである。そこで、先住民掃討完了を意味する「フロンティア消滅宣言」のあった1890年頃から太平洋進出を進め始め、1898年の米西(スペイン)戦争⇒スペイン帝国崩壊、ハワイ併合が続く。その後さらに米比(フィリピン)戦争、中南米各国に介入する「棍棒外交(棍棒を携え、穏やかに話す)」へと続いていく。 セオドア・ルーズベルトが主張したことは、米国は西半球に、欧州諸国が介入するのを妨げる権利のみならず、砲艦外交をちらつかせる権利を持つということである。この外交方針によりアメリカ合衆国海軍が拡張され、米国は積極外交を仕掛けることとなった。 |
||||||||||
1828.11~ 1829.12 |
シーボルト事件とシーボルト国外へ追放 出航の延期によって、当時、国外への持ち出しが禁止されていた日本地図(伊能忠敬地図)やその他の禁制品を多数、シーボルトがオランダに持ち帰ろうとしていたことが発覚した。 1828年11月、長崎奉行所はシーボルトが所持していたそれらの禁制品を没収。シーボルト自身も出島に拘禁。 1829年12月、シーボルトは国外追放を申し渡されたため、滝や娘のイネと別れ帰国 シーボルトの功績 シーボルトは帰国後、日本での研究成果を『日本(ニッポン)』学術的な評価が高いシーボルトの日本研究の集大成として知られ、日本の地理、歴史、宗教、工業、商業など多分野にわたる調査・収集資料と、日欧の既存資料をまとめたもの、『日本植物誌』、『日本動物誌』などの著書にまとめ、西洋諸国に広く日本のことを紹介した。 とりわけ植物への関心が高かったシーボルトは、1万点以上の植物標本を収集し、絵師の川原慶賀による植物画なども残している。さらに単にコレクターとしてだけでなく、研究者として日本植物の分類にも貢献したほか、ユリやアジサイ、ツバキなどを持ち帰り、ヨーロッパの園芸植物に多様化をもたらす先駆けとなった。⇒品種改良へ |
長崎市観光協会公式 日本近代医学の父・シーボルト|長崎で活躍した外国人 〜シーボルトとグラバー〜|特集|長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」 (at-nagasaki.jp) |
|||||||||
1830 |
モルモン教 |
||||||||||
1833.8.23 | イギリス議会で奴隷制廃止法を成立 ※・モーリタニア:1980年7月(1905年にフランスにより公式に廃止。暗黙のうちに1961年の新憲法で、およびその年の10月に国際連合加入の時に表明、現実には存在。2007年8月に犯罪となった。 ・ニジェール:2003年廃止。フランスの植民地時代に奴隷市場は閉鎖されたが、2003年に奴隷制度が違法となった。 ・ネパール:1921年廃止 実際には現在も世襲的な債務奴隷「カマイヤ(カマラリ)」が存在する。 ・スーダン:公式には1924年廃止、実際には今日も継続 |
||||||||||
1837~1851 | パックス・ブリタニカ 英国によるビクトリア女王の治世と世界平和の時代 |
||||||||||
1838年(江戸-天保9年)~ | 中山 みきと天理教 金光教・黒住教とともに日本三大新宗教の一つに数えられる。 「みき31才(文政11年)の頃のこと、みきは、近所の子を預かり育てるうち、預かり子が、当時絶体絶命と云われたほうそうにかかるという事件に遭遇することとなった。 計らずもみきの子二人と預かり子が、当時の流行病であったほうそうに罹かるという事件がおこった。どうしたわけか、みきの子供はどの子も快癒に向い無事となったのに対し、預かり子の方は熱気がずっと続き、一心込めての看病にも拘らず、回復の気配を見せず、みきの大いに慌てることとなった。「無理な願いでは御座いますが、預かり子の身の上難しいところ、どうかお助け下さいませ。その代わりに、この子の命を助けてもらうためには、願わくば世継の男の子一人を残して頂けさえ致しますれば、娘二人の命まで召されるとも厭いません。更にご無理を云わして頂けますなら、この預かり子に80迄の寿命を授かり下されませ。このようなお願いをお聞き届け頂きますにつき、もし娘二人の命にて不足で御座いますなら、願満ちました暁には私の命をも差しだします。私の身命を差し上げます以上、爾来、お召しまされようとも御用にお使いあそばされましょうとも不足を申しません」。と、概ねこのように誓ったと云う。 他人の預かり子を助けたさに、自身の命と愛娘二人の命を差し出すというのである。みきは、この預かり子救済の過程で、各地の神仏にすがり又一心不乱に祈り、この預かり子の命さえ助かるならば、爾後一身を神仏の御用に託すことを誓約する身となった。こうしたみきの献身的な願いが神仏に聞き入れたられたのか、預かり子の命は奇跡的に助かることとなった。 長男秀司が足痛で苦しんだとき、修験者市兵衛を招き祈祷をおこない、みきみずから加持代となり、このとき、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに乗り移り、天啓を受けたとされている。 (天理教では、この日を「立教の元一日」としている) みきは、天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民におしみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかった。 教祖中山みき亡き後、本席という立場の飯降伊蔵に同じ霊が降霊、自動筆記による教典有り。 世界(鎖国の世において)一列皆兄弟、他人というはさらにないぞやといい、心の埃を取れという。 神がかりとなる前の逸話、教祖となってからも天理にのっとった生き方、人々の規範となりうる生き方が示されている。 |
||||||||||
1840~1842 | アヘン戦争 もともと清は1757年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行(中国語版)という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)。 一方ヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのはイギリス東インド会社であり、同社は現地に「管貨人委員会」(Select Committee of Supercargoes)という代表機関を設置していた。しかし北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」と認識していたため、直接の貿易交渉には応じようとしなかった。そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書を広東地方当局に提出できるだけであった。 このような広東貿易制度は中国市場開拓を目指すイギリスにとっては満足のいくものではなかった。広東貿易制度の廃止、すなわち北京政府による貿易や居住の制限や北京政府の朝貢意識を是正することによって英中自由貿易を確立することが課題になっていった。 イギリス東インド会社は1773年にベンガル阿片の専売権を獲得しており、ついで1797年にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は中国への組織的な阿片売り込みを開始していた。 北京政府は阿片貿易を禁止していたが、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、阿片貿易は拡大していく一方だった。 1823年には阿片がインド綿花に代わって中国向け輸出の最大の商品となり、収入の20%が阿片になった。広東貿易の枠外での阿片貿易の拡大は、広東貿易制度の崩壊につながることとなる。 清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。 イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。 アヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。 イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 |
||||||||||
1842年 | フランツ・アントン・メスメルとジェームズブライド ドイツの医師。動物磁気と呼ばれるものの提唱者。メスメルは動物磁気と呼んだが、他の人たちはそれをメスメリズム(mesmerism)と呼んだ。 メスメルの概念と実践の発展が、1842年のジェームズ・ブライドによる催眠術の開発をもたらした。メスメルの名前はmesmerize(催眠術をかける)の由来となった。 |
||||||||||
1846 |
アンドリュー・ジャクソン・デービス(Andrew Jackson Davis) |
『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P38にて補足 デ-ビスの著述がすすむにつれて、協力者だったブッシュ教授の態度が一変。敬虔なキリスト教徒である教授がスピリチュアリスト的な考え方についていけなくなったためだと言われている。 |
|||||||||
1846.9.19 | フランス、ラ・サレット他各地で予言を託す聖母 ・聖母マリアの顕現は5世紀までさかのぼる。 ・初期は主に正しい信仰の在り方と指針を人々に教戒していた。 ・フランス南東部の、ラ・サレットに聖母マリアが出現。 ラ・サレットは標高 1,000~2400メートルの高地にあり、現在でも人口わずか 70人ほどの小村ながら、ルルドに次ぐフランスの聖母マリア巡礼地となっている。 ・二人の子どもがサレットの山中で、見慣れない服装をし、輝く光に包まれた貴婦人に出会った。貴婦人は岩に腰掛け、顔を手で覆って泣いていた。 ・人々の犯しつづける罪があまりに重く、もう支えきれないと嘆いた。 このままでは世界は破滅する、…他36の預言を残した。←1531年へ ・転換点となり、もっぱら終末預言的な内容が増え始めた。 その後も聖母の出現は続き、現在も世界各地から報告されている。 この200年間聖母マリアは一貫して言いつづけているのだ。「悔い改めよ」と。『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』 |
||||||||||
1848.2. | 1848年革命 フランス2月革命はヨーロッパ各地へ伝播し、この内、特にドイツ連邦、オーストリアで起こった運動を3月革命と言う。 1848年にヨーロッパ各地で起こった革命。 ウィーン体制の事実上の崩壊へと突き進んだ。 |
||||||||||
1848.2.24 | 『共産党宣言』 ・カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスによる弁証法的唯物論『共産党宣言』 |
||||||||||
物理的心霊現象の時代の幕開け | |||||||||||
1848.3.31~ 現代スピリチュアリズム元年 |
近代心霊研究の始まり-一般霊との交霊 アメリカのニューヨーク北部の小さな村ハイズビルで起こったフォックス家事件(=ハイズビル事件とも言う)に始まる。 ハイズビルに住むフォックス夫妻には、マーガレット(11歳)とケート(9歳)という二人の娘がいた。いつの頃からか、夫人と二人の娘は夜になると不思議な物音がすることに気づくようになる。やがてラップ音やノック音がしたり家具が動いたりするようになる。 1848年の3月31日の晩、前夜の騒音で家中の者が不眠になっていたので、その日は早くから床に入った。するとまたコツコツと窓を叩く音がする。はじめは怖がっていたが、今ではもうすっかり慣れた娘の一人が、パチンパチンと指を鳴らして、「お化けさん、真似をしてごらん」と言うと、同じ数だけ叩く音がする。娘たちは面白がって遊び始めたので、夫人が試しに、その場の誰にも答えられないような質問をしてみようと思いつき、「私の子ども全員(前夫との子供も含めて)の年齢を上から順番にラップ音で答えてください」と言った。すると即座にすべての子どもの年齢が正確に返ってきた。そこで夫人は、「正しい答えをしていますが、あなたは人間ですか?」と尋ねてみた。ラップ音はない。「あなたは霊ですか? もしそうならラップ音を二回鳴らしてください」ラップ音二回。さらに質問を続け、「もし傷ついた霊ならラップ音を二回鳴らしてください」と言うと、即座にラップ音が二回鳴って家全体が振動した。 それで驚いて近所の人達を呼び集め大騒ぎになった。ドゥラスという人が中心になって、アルファベットを早口で言って、霊に望みの箇所で音を鳴らしてもらうといった繰り返しで、とうとう一つの通信文を獲得する。 それによると、音を鳴らした霊は、五年前にこの家に泊まって殺されたチャールズ・ロズマと言う名前の31歳の行商人で、五百ドル奪われ地下室に埋められた、というのである。 それで翌日、皆で地下室を掘ったら水が出ていったん作業を中止したが、その年の夏、水が引いたので再掘したら本当に毛髪と歯と骨が出てきたという。 (この事件に自作自演説もある。)(ニューヨークでも新聞はこぞって姉妹を嘲弄した。…『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏 P18) フォックス家の知人であるアイザック・ポストは、ロチェスターのリーの家でアルファベット表を使って交霊実験を行ったところ次のような霊界からのメッセージを受信した。 「友よ。あなた方はこの真理を世に広めなければならないのだ。これは新時代の曙光なのである。それを、あなた方はもはや圧し隠そうとしてはならないのだ。あなた方がその義務を行うとき、神はあなた方を護り、善き霊たちがあなた方を見守るであろう」(「新霊交思想の研究」田中千代松著、37頁) その後このメセージを実行しようとする人が増えていき、1849年11月14日、ロチェスターのコリンシアン・ホールで最初の公開交霊会が開かれた。 地球上のあまりの惨状を前にして、霊界では高級霊達が結集し、一致団結して「地球人類救済」に乗り出すことになりました。そのための大プロジェクトが立案され、計画にそって綿密な準備が進められました。 |
||||||||||
1848 | ・米国史上初の男女平等、婦人の投票権を求める運動 ・女性が霊能に気付き、神からの贈り物と思い、社会での独立や地位向上のために最大限に利用しようとしたとしても不思議ではない。 ・社会の良識に背く新しい女たち 『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P29 |
||||||||||
1850年代 | パリの上流社会では「お宅のテーブルの具合はどうですか? (降霊会における招霊実験をテーブル・ターニング)」というのうが挨拶代わりとなった。 |
||||||||||
1853 | ペリー、浦賀に来航 | ||||||||||
1853~1856 | クリミア戦争 1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争。 フランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍およびサルデーニャと、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまでおよんだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。 この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まり、その影響は中国や日本にまで波及した。 |
||||||||||
1854~1856 の2年間 |
フローレンス・ナイチンゲール(イギリス)と看護学と赤十字(一部前述) |
||||||||||
1851~1879 |
ダーウィンと種の起源と宗教観 |
||||||||||
1852~ | W.R.ハイデン夫人の渡英により英国にスピリチュアリズムが飛び火 ・メスメリズムの講師とともに渡英 ・優れたサイコメトリスト ・叩音によってアルファベットを確かめながら、霊と交信 ・数学者のオーガスタス・ド・モーガンと社会主義者のロバート・オーエンに影響 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P68 |
||||||||||
1853~ (3年間) 1856 |
クリミア戦争 1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争である。 フランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍およびサルデーニャ(イタリアとフランス)と、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまでおよんだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。 この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。 この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まりその影響は中国や日本にまで波及した。Wikipedia ⇒※プチャーチン長崎へ来航 日露和親条約 ⇒日露修好通商条約等へ |
ロシア帝国 | |||||||||
~1853 1854~ |
アメリカのペリー来航、日米和親条約締結と開国 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、 1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」 (英closed country) と呼ぶ。 「鎖国」という語は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄(1760年〜1806年)が、1801年成立の『鎖国論』(写本)において初めて使用した。 1690年から1692年にかけて来日したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが、帰郷後にアジア諸国に関する体系的な著作『廻国奇観』の中で日本についても論じ、死後『日本誌』(1727年刊)が編集され英訳出版された。そのオランダ語第二版(1733年刊)中の巻末附録の最終章に当たる『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』という論文を、1800年頃に長崎の元阿蘭陀稽古通詞であった志筑忠雄が訳出した。その際、あまりに論文の題名が長いことから、翻訳本文中の適当な語を捜し、『鎖国論』と題した。この「鎖国」はその際に新造された語だが、本は出版されず写本として一部に伝わっただけで、「鎖国」という語も広まらなかった。したがって、いわゆる「鎖国令」という語は明治以降の研究者による講学上の名称で、実際にそのような名称の禁令が江戸時代に発せられたことはなかった。 |
||||||||||
1854 | スピリチュアリズム究明の建議書が米国国会に提出される。13,000人が署名。 | ||||||||||
1855 | シアトル首長の手紙-「父は空 母は大地」 1854年アメリカの第14代大統領フランクリン・ピアスはインディアンたちの土地を買収し、居留地を与えると申し出た。 翌年それに対しインディアンの首長シアトルはこの条例に署名し、大統領に宛て手紙を出した。 |
「父は空 母は大地」 | |||||||||
1855~ | 霊媒の王、ダニエル・ダングラス・ホーム(D・D・ホーム) ・少年の頃から透視能力。 ・22歳でアメリカから渡英、ロンドンへ。 ・「食客」となり、次第に時代の寵児となる。 ・彼の降霊会と知識人によるその反応をコナン・ドイルが報告 ・離れたところに置いたアコーディオンを手を触れずに演奏、物品や自身を浮遊させた。著名人に大々的な浮揚を証言させた。 ・潔白、オープンな態度で人気。 ・自分の霊能に対してもてなしとか個人的な贈り物以外、報酬はいっさい受け取らなかったと言われる。1857年にパリのユニオンクラブで公開実験が行なわれたとき、5万フランという巨額な謝礼を、自分は生命が永遠であるということを知らせる使命のために来ているのだからと言って断った。そのときもその日暮らしの風来坊で健康に不安があったのである。 ・ナポレオン三世とアレクサンドル2世に贔屓を受けた。 ・霊能が1年間停止される、というメッセージが霊界から届き、ローマ・カトリック教に改宗するなど受難の後半生が待っていたが、最後まで霊能を飯のタネにせず、潔癖な暮らしぶりで53歳で亡くなった。『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P81~ |
||||||||||
1856(7年は改定版) 10年間 |
アラン・カル(ー)デック(イポリット・レオン・デニザール・リヴェイユ)と『霊の書』 フランスの心霊運動の基礎を築く。 スピリティズムという用語はフランスからラテン系諸国に広まった。 ・天体には全て生物がいる。各天体の物理的構造は皆違っている。 ・地球は、その居住者の肉体的・精神的資質の点では、この太陽系の惑星の中でも、最低のものの一つである。 火星は、ある点では、地球の人類よりも低い。 ・木星は、あらゆる点で、地球人よりはるかに優れている。 ・太陽は肉体をもつ者の住む世界ではないが、高級霊達の集まる場所である。天体の大きさ、太陽からの距離は、その天体の進歩程度とは必ずしも関係はない。即ち、金星は地球よりも進歩しており、土星は木星よりは進歩していない。 ・再生はすべて地球上とは限らない。多くの天体で再生が行われる。現在我々が生きているこの地球は、我々にとって最初の地上生活でもないし、また最後でもない。しかし、最も物質的な生活の中の一つであり、完全からは最も遠いものである。 「アラン」も「カルディック」も彼の前世のときの名前として降霊会のときに示されたもの。 高級霊たちがカルディックに重要な宗教的役割を与え、指導するとのメッセージを送ってきた。カルディックはさまざまな質問を用意して霊との対話を繰り返し、2年後に新しい宗教観とそれを伝道すべき自分の使命とを確信するに至った。 1856年に『霊の書』、翌年に改訂版を刊行 「スピリティスム」と名乗った。 フランスはもとより、南米にも伝播、とくにブラジルに信奉者が多い。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P187 |
アラン・カルディック 『霊の書』 |
|||||||||
~1856~ | エマ・ハーディング・ブリテン(Emma Hardinge Britten, イギリスの霊媒兼作家、編集者、音楽家。精力的な講演活動や出版でスピリチュアリズムの普及に大きく貢献した。 幼い頃から音楽の才能があり、劇場にも出演し、11歳で人に教えるほどだった。 宗教的にはオルペウス教の結社などに親しんで育ち、スピリチュアリストとして活動するようになってからも古代のシンボルや秘儀に関する発言がみられる。また、子供の頃に夢遊病でメスメリズムによる「磁気治療」を受けたことがあり、これは後のスピリチュアリズム信奉の基礎になったという。 直接のきっかけとなった事件は1856年に起こった。エマは米国の劇場に出演するため、母と共に汽船「パシフィック号」に乗って海を渡った。 後日、エマはパシフィック号が運んでくる予定の小荷物を受け取りに港に行ったが、「嵐のため船の到着が遅れている」と知らされ、手ぶらで宿に帰った。その晩エマは霊の存在を感じて驚き、母に相談した。すでにハイズビル事件(1848年)を知っていた母はテーブルの上にアルファベットを書いた紙を置き、エマに霊と交信させた。得られたメッセージは、 「パシフィック号のフィリップ・スミスだ。エマ、私が死んだことを知らせに来た。パシフィック号は遭難して、乗員は全員死亡した。船と乗員の行方については、今後いっさい何の手がかりも得られないだろう」というものだった。エマはメッセージを疑ったまま眠れぬ一夜を過ごし、翌朝霊媒のケロッグ夫人のところに行ってみた。夫人はエマに会うなりトランス状態になり、同じメッセージを語った。パシフィック号の遭難は後に確認されたという。 この事件の後、エマはスピリチュアリズム運動に身を投じ、霊媒能力とパフォーマンスの才能を生かして積極的に交霊会や講演旅行を行った。(※「スピリチュアリズムの女パウロ」と言われるほどの第一流の伝道師となる『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P189) なお一時期、神智学の創始者ヘレナ・ブラバッキー夫人にも接近するが、すぐに疎遠になっている。 やがて米国の保守的な地域を中心にスピリチュアリズムに対する反対運動が起き、嫌がらせや脅迫で危険を感じた母の勧めで英国に戻った。 1890年には数多いスピリチュアリスト・チャーチの連帯を目指してNational Spiritualists' Federation(後のSpiritualist's National Union, SNU)を創設。旗印として掲げられた7ヶ条は、エマが理想的社会主義哲学者のロバート・オーエンから自動書記で得たものであるという。 1890年「スピリチュアリスト国民連合(NFS)」設立とその綱領で今日に至るまで「スピリチュアリズムの七綱領」として認められている。 キリスト教国以外に広まるにつれて全部を容認できないスピリチュアリストも出てきたために、現在では以下の最も基本的な二つの綱領を認めることとなっている。 1892年にアメリカで「全米スピリチュアリスト連合」設立 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P189 -*-*-*-*- 国際スピリチュアリスト連合(The Spiritualists’ National Union)がエ(ン)マ・ハーディング・ブリテン夫人の霊界通信により、スピリチュアリストとはなにかの定義となるスピリチュアリスト七大綱領を発表しました。その内容は以下の通りです。 1.神は全人類の父である 2.人類はみな兄弟姉妹である 3.霊的世界と地上界との間には霊的交わりがあり、人類は天使の支配を受ける 4.人間の魂は死後も存続する 5.自分の行為には自分が責任を取らねばならない 6.地上での行為は死後、善悪それぞれに報いが生じる 7.いかなる人間にも永遠の向上進化の道が開かれている しかし、この綱領は(※キリスト教国以外では)誤解を生じる表現などがあり、シルバーバーチなどの霊界通信(『シルバーバーチの霊訓』)でも、その問題点が指摘されています。 私(一般財団法人日本スピリチュアリズム協会理事 江原啓之)がその誤謬を正し、より理解しやすい表現に訂正したものが「スピリチュアリズム八つの法則」です。 1、霊魂の法則 2、階層の法則 3、波長の法則 4、守護の法則 5、類魂の法則 6、因果の法則 7、運命の法則 8、幸福の法則 私は以上のように新たなる綱領を提示し、スピリチュアリズムまたスピリチュアリストの生き方を日本で伝えて参りました。 スピリチュアリズム(霊的真理)こそ、人類に伝えられた幸福の生き方であり福音であると確信いたします。かつてカントが述べたように、現世を物質的価値観として捉える生き方では、正直者が馬鹿を見る生き方となり、不条理な世界観に心を曇らせるばかりで刹那的人生観しか見いだせません。 しかし、霊的価値観の視点は、正義に希望の光を与えるものであり、前向きな人生観へと変えて行くものです。心の乱世といえる混沌とした今の時代、スピリチュアリズムは大いなる幸福への福音であると確信いたします。 日本では「スピリチュアル」という言葉をどう訳すか議論されています。なぜなら、一番的確と思われる「霊性」という言葉を用いれば「霊(たましい)」を認めざるをえなくなるからです。WHO(世界保健機構)でも1998年に、人間の健康の条件の中に「スピリチュアリティー」という言葉を加えることが、議論された事もあるのです。 |
||||||||||
グレート・ホワイト・ブラザーフッド(Great White Brotherhood) |
|||||||||||
「原罪」「人間の堕落」「永遠の劫火」などの教会のドグマに強い敵意 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P79 |
|||||||||||
1858 |
フランス ルルド、ベルナデッド前に聖母出現の事件 有名な「ルルドの奇跡」 「ルルドの聖泉」 南フランスのスペイン国境に近いピレネー山脈の麓に、人口一万五千人のルルド(Lourdes)という町がある。 そこの洞窟から湧き出す「聖なる水」で病気や身体の障害が治るというので、非キリスト教徒を含めて毎年数百万人にのぼる巡礼者が世界中からこの地を訪れる。 (1972年の統計では三百五十万人でしたが、そのうち八万人が、身体障害者や病人) 洞窟の内部には有名なマリアの聖堂があり、重病人や松葉杖をつきながらやって来た人達が泉の「聖なる水」を飲み、「聖水浴」をして、聖母マリア様に祈りを捧げると奇跡が起こって病気が治り、また歩けるようになって松葉杖を残して国に帰るのだそうです。 ・ルルドが名高い巡礼地になったきっかけは、1858年2月11日に当時十四才の貧しい粉屋の娘マリー・ベルナデットが、薪拾いに行ったマッサビエル洞窟の中で聖母マリアを見たことから始まります。 2月25日に聖母は娘に「泉の水を飲み、その水で顔を洗えば奇跡が起きる」と告げました。 翌日ある盲人がこの泉で水を飲み、顔を洗うと目が見えるようになり、その事実が知れ渡ると、大勢の病人がこの洞窟を訪れるようになりました。これがルルド巡礼の起源ですが、聖母マリアはベルナデットの眼前に、合計18回出現したと言われています。 この泉の水を科学的に調査したところ、特別な成分は含まれておらず、山から流れ出る清水と全く変わらぬ成分なのだそうです。にもかかわらず、多くの重病人の奇跡的治癒が実際に起きるといわれています。 この現象はカトリック信者と医者を含む科学者との間で、またカトリック教会とフランス政府との間でそれ以後、論争の種となりました。 |
||||||||||
1859~ |
金光大神(こんこう だいじん) - 明治16年(1883年)10月10日)は宗教家・金光教教祖。戸籍名は金光大陣。 備中国浅口郡占見村字香取(現岡山県浅口市金光町)の農家・香取十平(かんどり じゅうへい)・しもの次男として生まれる。 幼名は源七(げんしち)。1825年11月26日、同郡大谷村(現浅口市金光町)の農家・養嗣子に迎えられ、川手文治郎(かわて ぶんじろう)と改名した。 1831年(天保2年)、浅尾藩主に蒔田広運が就任し、藩主の幼名(荘次郎)と同一音の「次郎名」が禁止されたため、文治郎も川手国太郎(くにたろう)と改名した。 1836年(天保7年)8月6日、養父が死去した。臨終に際しての養父の遺言により、赤沢姓に改め赤沢国太郎となった。 1844年(天保15年)、赤沢文治(あかざわ ぶんじ)に改名した。 他の村人から「信心文さ」と呼ばれるぐらい、当時の民間信仰に手厚く丁寧で、人望もあり、田畑も増やし村の自作農家では十指に入るほどの成功を収めたが、三度の自宅建築のたびに家族や飼牛を亡くし、村人等は金神の祟り「金神七殺」と恐れたという。 1855年(安政2年)年、当時厄年といわれた数え年42歳の時、年頭に厄除け祈願を多方面の寺社にて行ったにもかかわらず、喉の大病に患り、医師には「九死に一生」といわれ治療法はないといわれる。親族が集まり、この病気平癒の祈祷を行った時の体験で神仏の救いを実感し、信心を深めた。後に、この闘病のときに「天地金乃神」(てんちかねのかみ)の声を聞いたとしている。 1857年(安政4年)、実弟の香取繁右衛門(かんどり しげえもん)に金神の神懸かりがあり、その後金神の祈祷者となったことから弟を通じて金神を主として信仰しはじめ、次第に自らも金神の啓示が分かるようになり、数々の不思議な体験をした。 1859年(安政6年)10月21日、神示(立教神伝)により農業をやめて「取次」業に専念するようになった。 1868年(明治元年)、神から「生神金光大神」という神号を受けたとされる。明治新政府が戸籍を編成する際、名前を「金光大神」と届け出たが、戸籍には「神」の代わりに同音の「陣」を用い「金光大陣」と記載された。1883年(明治16年)10月10日に死去した。 なお、篤信者に与えられる神号としての金光大神は他にも、斉藤重右衛門(笠岡金光大神)、片岡次郎四郎(才崎金光大神)に与えられており、区別して教祖金光大神または生神金光大神と呼ぶ場合がある。 |
||||||||||
1859~ |
赤沢文治(川手文治郎)と金光教 現在の本拠地は岡山県浅口市金光町大谷である。(金光町の町名は金光教の本部があることから付けられた。) 従来の金神思想では日柄方位の吉凶を重視し、厳密な日柄方位の遵守を求めたが、金光教祖は自身の体験から、そういう凶事は人間の勝手気ままから生じる神への無礼が原因であり、神への願いにかなう生き方や行動を行いさえさえすれば、すべてが神に守られた中での生活が行えると説いた。そして、神と人とは「あいよかけよ」の関係であるとした(人が助かるには神に願い、神の助けが必要だが、神もまた人が助かって欲しいという願いを持ち、人を助けることで神としての働きが出来るので助かっているという関係)。また、人はみな神のいとしご(氏子)であり、それぞれの宗教の開祖も、神のいとしごであるという教えから、他の全ての宗教を否定しないという特徴を持つ。信者は、本部および各教会の広前に設けられた結界の場において、生神金光大神の代理(てがわり)となる取次者を通じて、各人それぞれの願い・詫び・断り・お礼を天地金乃神に伝えることにより、その願い・祈りを神に届け、また神からの助かりを受ける。これを「取次」といい、金光教の特徴とされる。 (本部広前の結界の場で金光教主は、年間を通して、一日の大半を取次業に専念している。) |
||||||||||
1860~ | 国安 仙人 11歳のとき、聖良仙人が来訪。それを転機として12年、岩木山、八甲田山、開聞岳、国見山などを渡り歩き、五穀断ちをはじめとする仙界修行をし、海上歩行をはじめ、物品引き寄せ、千里眼、念力、テレポーテーションと、神仙家随一の神通力を発揮した。― 『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研) 著者の不二龍彦氏が、「この章で扱う神仙家(①~④の4人)のなかでも、真に神通力第一と呼ぶにふさわしいのは、明治期の大仙人・国安仙人である」と述べているほどの人物。 その国安仙人の生活ぶりは、ある意味では今日の日本人と正反対の内容となっている。 彼のふだんの生活ぶりをザッと紹介しておこう。そこには、なるほどそれでこそ仙人といったエピソードが充ち満ちている。 中国の神仙関係の書物を読むと、仙人修行者は肉や魚の類はもちろん、穀物を断って心身を浄化するということが必ず書かれている。そして、仙人になると、ほとんどものを食べる必要がなくなるというのだが、国安仙人もまさにそうだった。魚介鳥獣を食わず、穀類・野菜類も食わず、もっぱら木の実を常食としていて、それも、あれば食し、無ければ自分から買って食べることはなかった。 しかも国安仙人の買い物というのは、すべて売り手のいいなりで、決して値切るということがない。そのため高く売りつけられることもあったが、仙人はまるで意に介することはなかった。 そもそも国安仙人には、物欲というものがまるでなかった。自分を飾るとか、うまいものを食うとか、神仏のためと称して豪壮な家を構えるといった俗情は完全に欠落しており、寄進にしても、信者が惜しんで出す金は受けつけなかった。信者がそのそぶりを毛筋ほども見せない場合でも、仙人には相手の心の内が手に取るように見えていたらしく、黙って返してよこしたという。 ―― 『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研) この国安仙人は幼名を米太郎といい、万延元年(1860年)に江戸深川に生まれています。そして明治3年、11歳の年に人生の転機が訪れるのです。米太郎の前に聖良仙人と名乗る白髪の老人が忽然と現れて、「我は前世からの約束で、今日、汝を訪れたのである。これより行を積み徳を積んで、人助けをせよ。そのために汝を時々仙界に呼んで修行をさせるであろう」と告げたのです。以下は本文を引用してご紹介します。 こう語り終えるやいなや、聖良仙人はためらう米太郎の襟首をつかみ、あっという間にいずこかの山中に連れ去った。かくして米太郎の仙界修行が始まったのである。 仙童寅吉や宮地水位も語っていたことだが、仙人に導かれて仙境に入るという場合、それは霊体や幽体を飛ばすとか、意識だけを飛ばすというのとは違う。そうしたケースもあるにはあるが、多くは体ごと異境に参入してしまうらしいのである。 合理的に解釈したいタイプは、こうした異境へのトリップを、何らかの特殊な意識体験だろうということで片づける。麻薬などのトリップと同じ体験と見なすわけである。しかし、実際に仙境に遊んだという者は、そんな合理的解釈を拒絶する。水位も体ごと移行するといっているし、寅吉も杉山僧正のもとに出向くときには旅支度をしている。 のちに国安仙人は、弟子の前でトリップの現場を何度も実地に見せているが、そのときには必ず「体ごと消え失せた」と弟子や信者は報告している。今流にいうと、テレポートしてしまうらしいのである。 ―― 『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研) 実はこれと同じ出来事が、『ヒマラヤ聖者の生活研究(第一巻)』(ベアード・T・スポールディング著/霞ヶ関書房)の中に載っている。 この本の第3章「肉体の自由自在なる出現・消滅」のなかで、エミール師という人物が、著者をはじめとする調査団の目の前で、自由に肉体を消したり、現したりした事実が述べられています。その「肉体の出現・消滅の原理」を、エミール師は次のように述べています。 ‥‥わたしは自分の肉体を「普遍なるもの」の中に置き、肉体の波動を高めることによって「普遍なるもの」に戻した。わたしたちの言い方をすれば、一切の質料が存在する「普遍なるもの」の中にいったん奉還したのです。 それから私の神我(実相)、すなわちキリスト意識を通して、肉体を心の中に置くとそのバイブレーションが下がり、ついにこの部屋の此処で具体化し再現して、皆さんにも見えるようになる――というわけです。 この過程のいったいどこに神秘があるのでしょうか。神の「愛(め)ぐし子」を通じて父なる神がわたしに与えたもうた力、別言すれば、法則を使っただけではないでしょうか。この「神の子」というのが、あなた方であり、わたしであり、人類全体ではないでしょうか。 ―― 『ヒマラヤ聖者の生活研究(第一巻)』(霞ヶ関書房) http://www001.upp.so-net.ne.jp/apocalypse2012/karma24.html |
||||||||||
1861~63 | ウィリアム・マムラーと心霊写真 ボストンで彫金仕事をしていたマムラーが友人の写真スタジオで自分の写真を撮ったところ、12年前に死んだ従妹が写っていた。 このことが評判になり、やがて、心霊写真に専念するようになった。 「門前市を成す」ありさまとなり、ほかにも心霊写真家たちが輩出するようになったが、いわゆる生き霊が写るようになって風向きが変わった。 1868年にはニューヨークに移住し、仕事は繁盛したが、やがてある新聞記者に訴えられ、長い裁判沙汰となり1884年に貧困の中で死を迎えるに至った。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P177 |
||||||||||
1862.8.21 | 生麦事件(なまむぎじけん) は、江戸時代末期(幕末)の文久2年8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。 尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから、文久3年7月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が勃発した。 講和 10月5日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。 薩摩藩は幕府から借りた2万5000ポンドに相当する6万300両をイギリス側に支払い、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。 |
生麦事件 - Wikipedia | |||||||||
1860年代 |
ウィリアム・クルックスと心霊研究とケイティ・キング(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏) |
||||||||||
19世紀半ば~ |
ニューソート(New Thought、新思考) 近年ではニューソート思想にニューエイジ(「チャネリング」と呼ばれるシャーマン的な入神行為によってもたらされる「神からの啓示」を教義とする神秘主義思想)の概念を付与した形の自己啓発団体も欧米を中心に数々存在している。 |
『マーフィーの法則』 |
|||||||||
『超意識』坂本政道 神との対話シリーズ |
|||||||||||
186011.6~ 1865.4.15 |
エイブラハム」・リンカーン、アメリカ合衆国第16代大統領となる 学者たちが論じるリンカーンの信仰と哲学について たとえば、リンカーンがしばしば宗教的なイメージや言葉を用いたのはその個人的信仰を反映したのか、あるいは聴衆に対するアピールの道具だったのか、である。彼は聖書批判の論文を記したことがあり、無宗派を生涯貫いたが、聖書には親しみ、そこから多くを引用し、内容を賞賛した。 1840年代、リンカーンは「宿命論」を信じた。これは人の心は高い力によって制御されることを主張する信念だった。学者の中には1850年代にリンカーンが一般的方法における「神の摂理」を認め、福音主義の言葉やイメージをめったに使わなかったと主張する者がいる。その代わりに建国の父達の共和制をほとんど宗教的な畏敬の対象にした。また歴史家の中には息子のエドワードに死なれたとき(1850年)、神に縋すがる必要性をより多く認めたとする者もいる。 リンカーンが年を取るにつれて、人との関わりがその信条や公の表現に影響を与えるようになったのは神の意思という観念であった可能性がある。個人レベルでは1862年2月に息子ウィリーが死んだことが答や慰めを求めて宗教に傾かせた可能性がある。ウィリーの死後、1862年夏あるいは秋に、リンカーンは神の見地から戦争の厳しさが必要である理由について個人の考えを文書に記そうとした。このとき、「神は人間の争いなしに連邦を救い、あるいは破壊できただろう。しかし争いが始まった。始まってしまえば、神はいつかはどちらかに勝利をもたらす。しかし、戦いは進んでいる」と記した。1864年4月、奴隷解放を検討する中でリンカーンは「私は事態を制御していなかったと主張するが、事態は私を制御していたと明白に白状する。今、3年間の闘争の果てに、この国の状態はどちらの側も、あるいはいかなる人も考えあるいは予測したものではない。神のみがそれを主張できる。」と記していた。 なお、リンカーンは、どの宗教を信仰しているかを公表していない。自らの信仰を公表しなかったアメリカ大統領は、数人のみである。 Wikipedia |
||||||||||
1861~1863 | アメリカ大統領リンカーン-霊界通信に大変関心をもち、霊媒を通して交霊会 フォックス家事件後約十年の1861年(南北戦争が始まった年)から三年間、リンカーンは、ネティ・コルバーンという若い女性霊媒と交流している。 交霊会には常に大勢の同席者がいた。はじめての交霊会で、霊側は一時間以上国事についてのアドバイスをするが、霊媒ネティに意識が戻ってから、リンカーンは彼女に次のように言っている。 「あなたは大変非凡な才能をお持ちのようだが、それが神から与えられたものであることに、わたしは一点の疑いも抱いていない。わたしはおそらく、ここにいる誰よりも、いま伝えられたことの重要性を理解しているつもりですよ……」 霊側がリンカーンに勧めたアドバイスの一つは、奴隷解放の実施を遅らせないことであった。 彼は結果的に霊界通信に従って六百万人の奴隷を解放した。 また霊側は、南北戦争で士気の低下した北軍兵士を元気づける一番の方法は、大統領自らフレデリックスバーグの前線に赴くことであると説得した。リンカーンがそれを実行すると、兵士たちの戦意が驚くほど向上したという。 ⇒映画「ナショナル・トレジャー」-リンカーン暗殺者の日記 -目と脳が痺れる、ものすごい映画だ!リンカーン暗殺事件も自由の女神像の秘密も歴代大統領までも暗号の共犯者だと知らせ、人類最大のミステリーの真相を明かしたのだから…荒俣 宏 歴史学者であり冒険家のベン・ゲイツは、テンプル騎士団の秘宝の秘密を受け継ぐ一族の末裔。秘宝は、当時のフリーメイソンらによってイギリスの手に渡らないようにアメリカ建国時に封印されたという。 |
『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏 P19 |
|||||||||
映画 『ナショナル・トレジャー』 |
|||||||||||
1862 | アンリ・デュナンと国際支援組織・赤十字国際委員会 アンリ・デュナンはソルフェリーノでイタリア統一戦争に遭遇し、自ら救援活動を行った。 1862年、彼はその体験を「ソルフェリーノの思い出」に書いて出版し、国際的な救援組織の必要性を説きました。この本がきっかけとなり、ヨーロッパ各国は史上はじめての国際支援組織・赤十字国際委員会を設立。 「ソルフェリーノの思い出」の中で、デュナンは「平和愛好者団体が抱く希望や期待は実現し難いだろう」と書いています。デュナンがその平和愛好者の1人として文中に記したサン・ピエール師は、ヨーロッパの戦争を防ぐには国家連合が最善だと主張した作家でした。デュナンは戦争が避けがたいものならば、せめてその被害を少しでも防ぐための組織が必要だと主張した。⇒EUへ |
||||||||||
1865 | アメリカでの奴隷制度の終焉 1863年1月1日の奴隷解放宣言後に、活動家は奴隷状態に残ったままの奴隷の自由と黒人の生活状態の改善を追求した。 1865年のアメリカ合衆国憲法修正第十三条の成立が公式に奴隷制度を終わらせた。 実際には1995年ミシシッピ州憲法での承認をもって、制度は完全に終わった。 |
||||||||||
1852~ ~1852 ~1904 |
宮地水位
1852年(嘉永5年)12月18日土佐国潮江村(現高知市土居町)で潮江天満宮の祠官(しかん)の家に生まれる。父は常磐、母は熊沢弥平の次女。幼名は政衛(まさえ)。本名は堅磐(かきわ)。 862年(10歳)父常磐の影響で、この頃より異界に出入りする 1864年(12歳)潮江天満宮の神主となる。以降、神職の身でありながら、高野山や法隆寺に住み込み、仏学などの見聞を広める。 1869年(17歳)手箱山、石鎚山、金比羅を巡拝。途中鉱山を発見。
1873年(21歳)東京下谷の学舎で一時期講授補役を勤める。
1882年(30歳)皇典講究所の委員に任じられる。
1892年(40歳)この頃顕微鏡を入手して昆虫や粘菌類を研究
1904年(53歳)晩年の5年は病床に伏す。明治37年3月2日帰天。
<後世に与えた影響> * 異界と現界を往来し、道教の神仙思想と古神道を融合させた宮地神仙道の祖。神格概念の骨格は平田篤胤の“仙境異聞”の世界に負っているが、神集岳神界、万霊岳神界の概念は先人未発のもの。本来、機密である神界の情報を書物で公にしたのは、人間界にも神界を知らしめるべきとの使命によるものでその意義は大きい。 <特筆すべき生活>
* 10歳の頃から53歳で帰幽するまで数百回にわたって肉身のまま異界を往来し、その記録を「異境備忘録」に残す。死去の際は、棺が大音響とともに閃光を発し、その棺は軽く、尸解(しか)の特徴がでていたという。(尸解とは、肉体の死を待たずに法術により肉身を消し、自己の本体たる霊物を神仙界に遷すという)
* 幽界交信者には無学や独断的傾向の人が多いが、水位は和漢洋の学問を修めた博識多才の人で、門人は3,000人以上いたという。 友清歓真によると、1922年(大正11年)から宮地水位からの霊啓が始まったという。 |
||||||||||
~1867 |
江戸幕府終焉、大政奉還 |
||||||||||
徳川 家達(とくがわ いえさと) ・徳川宗家16代当主で、もと田安徳川家7代当主 ・幼名は「亀之助」。号は「静岳」。従一位大勲位公爵。第4代貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権大使、第6代日本赤十字社社長などを歴任するほどの優秀なる人材だった。 ・「天璋院篤姫」の英才教育を受け続けただけのことはある、素晴らしい人生であった。 |
|||||||||||
1867.11 | 大政奉還(たいせいほうかん) 江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が統治権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇が上奏を勅許した政治的事件。 |
||||||||||
明治維新 1867~1872 |
開始時期については諸説あるが、狭義では |
||||||||||
1868 9/ 8~ |
明治元年 | ||||||||||
福沢諭吉 ・文明の本質を「人間交際」にあると考えており、多様な要素の共存が文明の原動力だとし、これを自身の哲学の中心に据えた。 ・福澤の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)。 |
|||||||||||
五代友厚 | |||||||||||
大隈重信 | |||||||||||
渋沢栄一 | |||||||||||
安政6年 明治3年 1870 |
中村正直とサミュエル・スマイルズと「天は自ら助くるものを助く」 スマイルズは自立した個人の勤労倫理を説いた。その主張は「天は自ら助くるものを助く」という格言に要約される。『セルフ・ヘルプ=Self-Help (西国立志編 原名 自助論)』はこの格言を引くことで始まるが、産業革命後に登場した中産階級の人々に向けて、市民社会を生きる上で大切な市民道徳とその実践を、平明な言葉と実例で説き、19世紀の後半から20世紀の初めにかけて世界的に読まれた。日本人はその影響感化をもっとも深く受けた国民である。 「天は自ら助くるものを助く」は中村がスマイルズの『セルフ・ヘルプ=Self-Help (自助論)』として日本語に訳したとき巻頭に掲げた。 朗々たる響きも手伝ってこの格言は明治日本の人口に膾炙した。日本語の諺と化したといってよい。それというのも、この自助の教えこそ、明治日本に高らかにこだました時代精神ともなったからである 「余を作りし者はこの書なり」とは国木田独歩の短編『非凡なる凡人』の主人公が『西国立志編』に対して感謝の念をこめて発した言葉である。(『天ハ自ラ助クルモノヲ助ク 中村正直と西国立志編』平川祐弘 P3~) 今では二人とも忘れられた啓蒙思想家、19世紀のベストセラーとなってしまった。日本で官学の諸学校が整備される以前は中村の私塾同人社は福沢の慶応義塾と並んで日本で最も評判の高い学校であった。 人口3000千万の頃に出版部数は100万部に達した(〃) |
||||||||||
1870 |
パリのロスチャイルドとバチカン |
||||||||||
ハンフリー・デービー |
|||||||||||
1864~1912 | ジェームズ・アレン(イギリス)-『考えるヒント・生きるヒント』『原因と結果の法則』4部作 (聖書につぐロングセラーの一つ) ①原因と結果の法則②幸福への道③困難を超えて④輝かしい人生へ 「私たちは、自分が考えたとおりの人間になる」 「思考は現実化する」 「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」 自分の心をしっかりと管理し、人格の向上に努めている人たちは、「環境は思いから生まれ出るものである」ということを熟知しています。 -喜びは正しい思いの結果であり、苦悩は誤った思いの結果 アレンにとって、彼の哲学はもはや哲学ではなく、真実そのもの、つまり明確な経験的知識であった。 彼の妻リリーによれば、アレンは、「人々への何らかのメッセージがあるときにだけ書き、それがメッセージであるためには、彼が人生の中で実際に試してみて、良いものであることを確認したものでなくてはならなかった」という。彼自身、『As a Man Thinketh』の前書きの中で、「この小冊子は、私の瞑想と体験の結果である」と明言してもいる。 イングランド南岸の静かな保養地、イルフラクームに住み、毎朝夜明け前に、近くの小高い丘の中腹までゆっくりと登っていく。それが、アレンの一日の始まりだった。その丘からは、自宅と海が一望できたという。そこに一時間ほどとどまり瞑想した後で、家に戻り、午前中を執筆活動にあて、午後になると家庭菜園での農作業に精を出す、というのが彼の日課だったようだ。 夕方以降は、知人や友人たちとの会話に興じることが多かったらしい。彼の哲学に興味を持った人たちの訪問を、頻繁に受けていたようである 「アレンは、夜になるといつも、黒のビロード地のスーツを着ていた。そして、彼の家を訪れた我々小グループに、瞑想や哲学、トルストイや仏陀について、また、どんな生き物をも絶対に殺すべきではない(筆者注=おそらく、食用にする生き物は除いて)、といったようなことを、静かに語って聞かせたものだった。我々の誰もが、彼のキリストを思わせるような風貌と、穏やかな語り口、そして特に、毎朝夜明け前に丘に登って神と交信していたという事実に、若干、ある種の恐れのようなものを感じていた」。 成功哲学の祖、ナポレオン・ヒル、デール・カーネギー、アール・ナイチンゲールなどに強い影響を与えた。
|
『考えるヒント・生きるヒント』 | |||||||||
『原因と結果の法則』 『As a Man Thinketh』 |
|||||||||||
1867 | |||||||||||
1870~ | 九鬼 盛隆 日本における断易(五行易)の中興の祖。 九鬼盛隆は1870年(明治3年)、三重県の熊野九鬼の浦に生まれた。 彼の一族は、戦国時代に活躍したあの九鬼水軍の子孫であり、彼自身23代目の嫡流であった。 幼児期から漢文を学び、中国の思想に強い関心を持った。 青年時代には仏教、神道、キリスト教を学んだが、これに満足せず、最も真理に近い思想は中国哲学、特に「易経」にあると考えるに至る。そして、大陸に渡り、研究を深めた。 1904年、漢学の大家で、明治天皇に「易経」の講義をしたことでも知られる碩学、東京帝国大学教授の根本通明に師事し、内弟子となる。 そして、「易経」すなわち「周易」の研究に全霊を注ぎ込み、独自の理論を築いて行く。そして、国学院大學の講師として教鞭をとった。根元教授の著書とされる「周易講義」も、実は多忙な教授に代わり、彼がゴーストライターを勤めて書いたものらしい。 しかし、当初彼は「易経」すなわち「周易」の研究が中心であり、「断易」(五行易)の類は、「古来多くの儒者等の排斥論に気触れ」まったく興味をもっていなかったという。 だが、ある日、ふとしたきっかけから、断易の書を読み、その魅力に取り付かれたという。そして、周易から断易へと倉変えをする。そして、後半生を断易の研究に捧げることになるのである。 彼の最大の業績は2冊の名著、「断易精温」と「断易真義」を著したことであろう。 当時の断易は、江戸時代の誤訳の多い本や中国であっても内容の混乱した本などが参考にされ、混乱状態にあった。九鬼以前にも優れた研究者は居たが、正確な占法は普及するには至らなかった。 彼は、そんな中、中国の書籍の中でも理論的に優れた書物を選抜し、これを整理統合し、上記の大冊にまとめあげたのである。 現代の断易の研究者達は、彼の著書にも暦などには若干のミスがあるとしながらも、彼を「断易の中興の祖」、「正確な断易の普及のきっかけを作った大恩人」と、その業績は高く評価している。 (が、初心者向けには、今ではもっと親切な本が出ており、ある程度慣れるまでは、彼の著書は読まない方が良いという。これには私も同感である。) 彼は、易とは「神からの託宣」であると考えた。この点においては、周易の高島嘉右衛門と同意見であった。実際、嘉右衛門も、彼を高く評価しており、彼に卦の解釈を依頼したケースからも明らかだ。 しかし、九鬼は、「神」に関しては、高島嘉右衛門以上に、深く関わった。 彼は「神がかり」を経験し、それに深く耽溺してゆくのである。 きっかけは、大本教である。それ以前にも、彼は神と感応する機会はあったらしい。だが、それはさほど深いものではなかった。しかし、大正8年頃、大本教の機関紙「神霊界」を読み、それが真実であるかを占ったところ、「魔の眷属である」との結果を得て、これを退けたが、これは彼が鎮魂帰神やお筆先に関心を持つきっかけとなった。 翌年、隣家で起こったポルターガイスト現象がきっかけとなり、霊現象の存在を確信する。 劇的な事件が起こるのは、その年の10月である。 宇都宮に松川勇という敬神家が居て、本田亀次という霊媒を通じて神がかりを行っていた。しかし、松川は古典や神道に関する知識が少なく、審神者(さにわ)をうまく勤められずにいた。 すると、突然、本田にかかった神は、「静岡市に住む友清歓真を呼べ」と託宣した。この時、松川は友清のことは全く知らなかったという。 こうして、古神道の大家、友清が呼ばれると、続いて神は、友清に対して「九鬼盛隆を呼び、ここに参列させよ」と託宣した。 かくして、面識の無い友清と九鬼が、そこに呼び出されたわけであるが、二人は本田の語る託宣の内容に感動し、驚愕する。そして、これは本物であると確信するに至る。 そして、神は霊媒の本田を九鬼にゆだね、審神者(さにわ)の役を務めるように命じたのである。 こうした九鬼の古神道関係の記録は、「惟神本道」という著書に書かれている。 さらに、夏目漱石や平田篤胤の霊も降り、この交霊記録は「未耕地の開拓者」や「本道真義」などにまとめられた。 彼は一種の終末論にも近い思想を持っていた。彼は、「使命を忘れ、迷妄に陥った日本はその報いを受ける。」と。既に大正14年に日米開戦と日本が壊滅的打撃を蒙った後、敗戦することを予言していたと言われる。 しかし、本田との共同作業も大正15年をもって終わる。 その後、各地を転々とした後、自分の娘に霊媒の才能を見て、彼女を霊媒として育てようとしたが、本田ほどの成果を挙げることはできなかったらしい。 その後、彼は多少の門人を育てながら、静かに余生をすごした。 彼もまた、高島(※嘉右衛門)同様に、他人から乞われて易を立てても、報酬を要求することは一切なかった。 昭和16年に、彼は予言していた日本の敗戦を見ることも無く世を去った。 「断易精温」 九鬼盛隆 八幡書店、「断易真義」 九鬼盛隆、「日本神人伝」 不二龍彦 学研 「断易入門」 菅原壮 東洋書店 http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/uranai/kuki.htm |
||||||||||
1851 | D.D.ヒューム(ホーム)-前述- ・1851年 叔母の家を出て、熱狂的信奉者の支援を受けるようになる。ハーバード大学の調査グループがヒュームを調べ、現象が本物であることを証言。 ・1855年 22歳で渡英し、一大センセーションを巻き起こす。 |
||||||||||
1853.8~ 1855.2.7~ (安政) |
日魯通好条約と国境問題 1853年8月(嘉永6年7月)、国境の画定と開国・通商を要請する国書を携えたプチャーチン(Putiatin, E. V.)ロシア艦隊司令長官がパルラダ号で長崎に来航し、日本とロシアとの条約締結交渉が開始された。 その後、長崎での数次にわたる交渉を経て、ディアナ号で再び下田に来航したプチャーチンと日本側全権・筒井政憲(まさのり)、川路聖謨(としあきら)との間で、1854年の日露和親条約に続き、1855年2月7日(安政元年12月21日)に調印されたのが、日魯通好条約(日露和親条約)、(批准書交換が行われたのは1856年12月7日)。 ・第1条で今後両国が「末永く真実懇」にすることが謳われるとともに、第2条において、日露間の国境を択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間とすること、樺太(カラフト)島には国境を設けずに、これまでどおり両国民の混住の地とすることが定められた。 箱館、下田、長崎の3港の開港(第3条)のほか、双務的な領事裁判権が規定されていることもこの条約の特徴である(第8条)。 なお、この条約は、日本語、ロシア語、中国語などで書かれた。(外務省) |
江戸幕府と ロシア帝国 |
|||||||||
1850年代~ 1874 |
クルックス博士と物質化したケーティ・キング霊の研究-前述- 彼は一八六三年、英国学士院会員に選ばれ、一八九七年にはサーの称号を受け、後には英国学士院をはじめ、化学協会・電気技師協会・英国学術協会の会長を歴任。 その間、タリウム元素の発見、クルックス放電管の発明などで世界的な名声を博しました。文字どおり英国科学界だけでなく、世界科学界のトップの立場にいた人物でした。 (一)空中浮遊――霊媒者ホームとクルックス博士 (二)物体移動・物体浮遊――エクトプラズムの存在 (三)物質化現象(幽霊現象) ・そのクルックス博士が、本格的に心霊研究に乗り出す際に出した声明文 ――「まだ何ひとつ理解していない問題について、見解だの意見だのといったものを持ち合わせてはいない……一切の先入観を持たずに研究に入りたい。この研究の結果、間違いないと確信した情報はいつでも提供しよう……」そしてこの声明文は、「科学によってスピリチュアリズムの愚にもつかない現象を追放しよう!」。 ・クルックス博士は――「信じがたいことだが事実である」との霊魂の存在を認める声明を出した。これが出版されると、英国中に大センセーションを巻き起こした。 http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-1_03.htm |
||||||||||
幕末 | 会津・庄内両藩が蝦夷地の売却をプロイセンに提案。 ビスマルクからの返書が届く前に、板垣退助、伊地知正治らが、会津城を攻略したため売却計画は阻止された。在府の大村益次郎は周囲の敵対勢力を徐々に陥落させていく長期戦を指示したが、戦地の板垣退助、伊地知正治らは、これに反対し一気呵成に敵本陣を攻める短期決戦を提案。長期戦となっておれば、日本の国境線は大いに変わっていたと言われる。 |
||||||||||
1872~1892 約20年間 『霊訓』の受信は1873~1883の10年間。 |
スティントン・モーゼス(イギリス)『霊訓』(『The Spirit Teachings』) 『霊訓』の受信は1873~1883の10年間。 アラン・カーデック(カルデック)の『霊の書』、モーリス・バーバネルの『シルバー・バーチの霊言』と並んで世界の三大通信と言われている。 特長は(1)大小の敲音、(2)種々の光、(3)種々の香気、(4)種々の楽声、(5)直接書記-文字が直接現れた(6) スティントン・モーゼスを霊媒とした霊界通信 『霊訓』 HPで解説しているのはどういいう立場の誰?? 解説 第一章 幽明の交通とその目途 第二章 健全な生活 第三章 幽明間の交渉 第四章 各種の霊媒能力 われ等が求むる所は、右にのぶるが如き人物である。慈悲心にとみ、熱情にとみ、自己を忘れて真理を求め、神業一つを睨みつめて、現世的欲求を棄てて顧みない人物がほしいのである。そんな人格が 第五章 幽明交通と環境 交霊には『肉体が健全で、感覚が鋭敏で、その上心が受動的』な人が選ばれる。 第六章 夫婦関係 第七章 真の宗教 第八章 神霊主義
第九章 啓示の真意義 主としてキリスト教を中心としての言説であるが、無論これは仏教にも、神道にも、又儒教、道教等にも、 第十章 進歩的啓示 第十一章 審神の要訣 ※キリスト教の牧師であると同時に強力な霊媒だった。 さまざまなメッセージの送り手が現れ、その数は49名になったが、それを統括するのは「インペレーター」と名乗るものだった。いわゆる「背後霊団」がこの事業を組織的に行なっていたということになる。 署名に添えて十字の印を残した。現在は「心霊研究大学」に1冊欠けて24冊のノートブックのうちの23冊が残っている。 送られてきた内容は牧師として自分の意志にまったく反するものであり、しばしば反対意見を述べたが、それに対してさらに強い意見が送られてきた。…対話体で書かれている。 重要な主題は現存するキリスト教の錯誤や迷妄を正そうとするところにあり、まさにモーゼスのような熱心なキリスト教徒なら飛び上がりかねないような内容であった。 「…われわれの仕事は、イエスがユダヤ教に対してしたと同じことをキリスト教に対してすることである。形骸化した内容を精神的なものとし、新しい生命を吹き込むのだ。」というのが霊団の賢人たちの趣旨である。 あらゆる行為は絶対不変の因果律の支配を受けるが故に「地獄」とは自分の行為がもたらす魂の苦悩の状態であり、それがすなわち「罰」なのであって、神が下す復讐の鞭などではない。 日常の幸福は… 宗教的信条とは関わりのないものである。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P191~ |
||||||||||
1875 |
スエズ運河と英国 |
||||||||||
1875 | 樺太千島交換条約と榎本武揚 榎本武揚は伊能忠敬の元弟子であった幕臣榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、蝦夷共和国の総裁となる。箱館戦争で敗北し降伏後、東京の牢獄に2年半投獄されたが(獄中でも海洋法の書を携帯して研鑽に励んでいたという)、敵将黒田清隆の尽力により助命され、釈放後明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結 |
||||||||||
1877(明治10年) | ライブツィヒ大学物理・天文学教授ヨハン・ツェルナー、ヘンリー・スレードの霊能を調査 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 |
||||||||||
1879.3.14~1955.4.18 | アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein) | ||||||||||
1879 | 琉球王朝、日本に帰属 | ||||||||||
1882(明治15年) | 心霊研究協会(SPR)設立。 初代会長ヘンリー・シジウイック。現在に残る世界最古の心霊研究機関(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表) |
||||||||||
1863~ 1888~ 1907 |
長南 年恵(ちょうなん としえ) |
||||||||||
1884 | ヘンリー・セイバートとセイバート委員会 遺言により、ペンシルベニア大学に寄付された6万ドルを資金として、スピリチュアリズム調査研究を目的として出来た委員会 トーマス・ハザードが顧問として加わった。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P148 |
||||||||||
1884 | 井上円了「妖怪学」を始める。 日本の心霊研究の先駆け 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 |
||||||||||
1856.7.9~ 1884~ 1943 |
ニコラ・テスラ |
||||||||||
1885 | ボストンにアメリカ心霊研究協会(ASPR)設立。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 |
||||||||||
1886 (明治19年) |
自由の女神(正式名称:世界を照らす自由)ニューヨーク港内リバティ島に立つ アメリカ合衆国の独立(1776.7.4)100周年を記念して、独立運動を支援したフランス人(フランス共和国、西ヨーロッパ、カリブ、太平洋およびインド洋に位置する共和制国家の人)の募金によって贈呈され1886年に完成した。アメリカ合衆国の自由と民主主義の象徴であるとともに、19世紀以来絶えることなく世界各地から観光客が訪れている。 なお、自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物であった。Wikipedia |
||||||||||
1885~ 1887~ |
ホジソンとパイパー夫人 |
||||||||||
1888~ 1952 |
友清 歓真(ともきよ よしさね) |
||||||||||
1889 |
ドイツの美学者あるいは心理学者マックス・デソワール (en:Max Dessoir)により「超心理学」という言葉が造語された。 |
||||||||||
1856~ 1939 |
ジークムント・フロイトと精神分析 |
||||||||||
1875~1961 | カール・グスタフ・ユングの治療法 精神科医であったユングは、当時の精神医学ではほとんど治癒できなかった各種の精神疾患に対する療法の確立を目指し、ピエール・ジャネやウィリアム・ジェームズらの理論を元にした心理理論を模索していた。 フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近し、一時期は蜜月状態(1906-13年)となるが、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。 フロイトは無神論を支持したが、ユングは神の存在に関する判断には保留を設けた。 またユングはフロイトとアルフレッド・アドラーの心理学を比較・吟味し、両者の心理学は双方の心性の反映であるとし、外的な対象を必要とする「性」を掲げるフロイトは「外向的」、自身に関心が集中する「権力」に言及するアドラーは「内向的」であるといった考察をし、別の視点からの判断を考慮に入れた。 ・ユングは歴史や宗教にも関心を向けるようになり、やがてフロイトが「リビドー」を全て「性」に還元することに異議を唱え、はるかに広大な意味をもつものとして「リビドー」を再定義し、ついに決別することとなった。 ユングは後に、フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであるが、自分の言う無意識とは「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものである、と例えている。 ユングの患者であった精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点があること、また、それらは、世界各地の神話・伝承とも一致する点が多いことを見出したユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通するイメージを想起させる力動を「元型」と名付けた。 晩年、物理学者のウォルフガング・パウリとともに共時性(シンクロニシティー=意味のある偶然の一致)に関する共著を発表した。 ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの精神分析学と共通しているが、個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通しているとされる集合的無意識(普遍的無意識)の分析も含まれる。 ユング心理学による心理療法では能動的想像法も取り入れられている。 能動的想像法とは、無意識からのイメージが意識に表れるのを待つ心理療法的手法である。また、ユング心理学は、他派よりも心理臨床において夢分析を重視している。 夢は集合的無意識としての「元型イメージが日常的に表出している唯一の現象」でもあり、また個人的無意識の発露でもあるとされる。 夢の分析はフロイトが既に重視していたことであったが、フロイトの精神分析と異なる点は、無意識を一方的に杓子定規で解釈するのではなく、クライアントとセラピストが対等な立場で夢について話し合い、その多義的な意味・目的を考えることによって、クライアントの心の中で巻き起こっていることを治癒的に生かそうとする点にある。 ユングはフロイトとの決別以後も治療を続けた。ただ、彼は人生の方向を決めるのは治療者ではなく、クライアントであるとし、クライアントの無意識的創造力を信頼した。 また、日本のユング心理学はその心理臨床において箱庭療法を積極的に取り入れたことでも知られている。 ユングの自伝 「私は存在したものの、成就したものの束である」 ユングも、その晩年にの臨死体験をしている。彼の場合は、「宇宙との一体感」を語っているわけではないが、自己への囚われや執着からの解放という点ではかなりはっきりとした自覚を持っている。 自伝『ユング自伝―思い出・夢・思想 』のなかで、69歳でのその体験をつぎのように語る。 (自伝は、全二巻に分かれており、この体験が語られるのは二巻目である ユングは幼少期からかなり特異な体験をしています。牧師の子として生まれながら、伝統に染まったキリスト教徒としての生活には違和感を覚えていました。 また、霊的な要素を強く有しており、そうした側面がユング心理学を形づくっていったことは間違いありません。子どものときから自分の中に二人の人格(スイス人の少年としてのNo.1と老賢者としてのNo.2)がいることを自覚しています。 幼少期からたびたび象徴的な夢を見ており、それを詳細に記憶しています。自伝を書いたときすでにユングは80歳を超えていたわけですから、これほど鮮明にそれらの夢を覚えているのは驚くべきことです。 ユングの霊的な素養は母方から受け継いだもののようです。両親の結婚生活はあまりうまくいっていなかったと書いていますが、父は牧師でありながら、本当の意味での霊的な生活や信仰を体験として持っていたとは言い難かったようです。 ユングが精神医学者になることを決意する契機となったのは、自宅で起こった霊的な現象でした。母の隣にあったテーブルがいきなり大きな音を発して割れたり、自宅の棚にしまわれていた鋼のナイフが砕けるという事件があったのです。こうした素養が彼を優秀な精神分析家にした面は少なくないと思われます。 69歳のときに心筋梗塞と脚の骨折によって臨死体験と思える経験をしています。地球をはなれ高みから見下ろしているユングを連れ戻すために、主治医が原初的形態としてやってきます。これで彼は生き返るのですが、そのことに不満を抱くと同時に主治医の命が危ないと危惧します。そして、間もなくその心配どおり主治医は亡くなるのです。 「死後の生命」という章をもうけてそのことについても考察しています。死後の生活について、そういうものがあると欲しているわけではないが、それらは存在し、偏見によって抑圧しなければ、表現力を与えられると述べ、次のように言っています。 ----批判的な合理性は、死後の世界についての考えを多くの神秘的な考えと共に、除去してしまったようである。これは、現代では殆どの人が、自分と意識を同一視し、自分について自ら知っていることのみが自分であると考えているためにこそ、生じたことである。 しかし、このような知識がいかに限定されたものであるかは、心理学を生かじりしたものでさえ明らかである。合理主義と教条主義は現代の病である。つまり、それらはすべてのことについて答えをもっているかのように見せかける。 しかし、多くのことが未だに見出されるだろうに、それを、われわれの現在の限定された見方によって、不可能なこととして除外してしまっているのだ |
||||||||||
1875~1965 |
アルベルト・シュヴァイツァー |
||||||||||
19~20世紀 |
チャネリング (channeling) とは、常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(何か高次の存在・神・死者(霊界人)・未来人・宇宙人など)から、特別な能力によって情報を交信すること。チャネリングを行う霊媒者をチャネラーと呼ぶ。シャーマニズムの一種。 |
||||||||||
1891 | 二宮 尊徳(にのみや そんとく) 天明7年(1787年) - 安政3年1856年)没後の1891年に従4位が追贈された。 |
||||||||||
精神的心霊現象の時代へ | |||||||||||
1891~1892 | ユーサピア・パラディーノとダミアニ夫人とキアイア博士とチェザーレ・ロンブローゾ ユーサピア・パラディーノはナポリ在住の女性霊媒 それまでに著名になったのは主としてイギリスとアメリカだった。 キアイア博士から手紙をもらった犯罪心理学者のチェザーレ・ロンブローゾが数人の科学者と共にナポリを訪れ、ユーサピアの霊能を調査。 「彼女はインドのゴム人形のように奇妙な人体部分を作り出す新種の自動創生装置です。いったい彼女には幾つ手足があるのでしょう。…」 彼女をめぐって17回にも及ぶさらに大掛かりな実験が行なわれた。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P149~ |
||||||||||
1849~ ~1892~ ~1912 |
ウィリアム・トーマス・ステッド ステッドは、イギリスの著名なジャーナリスト。 その彼が1892年、自分に自動書記の能力があることに気がつく。 その後、彼はスピリチュアリストとしての人生を歩むようになる。 霊媒としての彼の傑作は、死去した仕事仲間の友人ジュリア・エイムスからの霊界通信を編集した著書、『ジュリアからの音信』がよく知られている。 1893年、彼は自分がスピリチュアリズムを信奉していることを公の場で告白した。 それに先立つ1883年、彼は自身で創刊した『レビュー・オブ・レビュー』誌の中で、大西洋の氷山に大型定期船が衝突して沈没するという作品を書いている。 1909年、故ジュリアからの要望として、霊界通信のための事務局「ジュリア顕幽連絡局」を設立し、肉親と死別した人々のため無償で通信を試みる。 その29年後の1912年、その記事がまさに予言となったようなタイタニック号の沈没事故が起きた。ステッドはニューヨークのカーネギーホールへ招かれて講演するためにタイタニック号に乗船していた。そしてタイタニック号とともに大西洋に没することになった。 「ジュリア顕幽連絡局」は資金難で一時中断するが、1914年にステッドの友人の支援で「ステッド局」として再開した。 死後、ステッドは複数の交霊会に現れたとされており、さまざまな手段で通信を送ってきたことになっている。苦しんでいる霊を救済する仕事もし、1916年、精神科医ウィックランド博士の交霊会にもステッドが現れたとされており、タイタニック号事件で水死した人の霊を連れて来たとして、博士のカウンセリングを受けさせたことがあるという。 その後、ステッドは霊界から、ウッドマンという霊能者を通じて娘のエステルに通信(自動書記)を送ってきた。彼自身の他界直後の状況や幽界の様子がリアルに伝えられている。それが『ブルーアイランド』として出版され大反響を巻き起こした。 1936年に故ステッドの要望により「ステッド局」を廃止。 スピリチュアリズム普及会(旧・心の道場)第1公式サイトより |
『ジュリアからの音信』 『レビュー・オブ・レビュー』誌 『ブルーアイランド』 |
|||||||||
1892~ | 地質学者のアルベルト・ハイムと臨死体験の研究 というのは、欧米では登山時の事故で自身が臨死体験したことをきっかけに研究を行い1892年に発表し先鞭をつけた。 その後、アメリカ心霊研究協会(ASPR)のジェームズ・ヒスロップが1918年に、 イタリアの医師ボッツァーノ(it:Ernesto Bozzano)が1923年に、 イギリスの物理学者のウィリアム・フレッチャー・バレットが1926年に、 それぞれ無関係に研究を発表したものの、その後1970年代までは(ごくわずかの例外を除いて)研究は途絶えた。 ⇒エリザベス・キューブラー・ロスやレイモンド・ムーディへ |
||||||||||
本居宣長と山岡鉄舟 晴れてよし、くもりてもよし 富士の山 もとの姿はかわらざりけり |
|||||||||||
1890年代 ~1900年代 |
『シオン賢者の議定書』(シオンけんじゃのぎていしょ、The Protocols of the Elders of Zion)⇒1910年代へ |
||||||||||
1892年(明治25年)~ | 出口なおと大本(おおもと)教 出口なおに降りた国祖・国之常立神の神示を立教の原点とする教派神道系の教団⇒出口王仁三郎へ 明治25年(1892年)2月、帰神(神懸かり)状態で13日間の断食となる。帰神状態となって大声の金切り声で叫ぶなどの奇行を行なうようになると、周囲の人々からの理解はなくなり、座敷牢に押し込まれるなどの虐待にあうが、入牢中に落ちていた釘で神の言葉を文字に刻むようになり、これが後年の「おふでさき」と呼ばれるものへとなって行く。 大正5年(1916年)10月の神島参拝で、出口なおの筆先に「未申の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が五六七神の御霊・・・」という神示があり、これによって出口なおは、婿養子の上田こそ、本当の「みろく様」であったという確信に至る。 教団では、この時を境に未見真実から見真実となったと言われているが、なかでも重要なことは、なおの神業的役割が王仁三郎に懸かっている神霊を正確に審神者することであり、大正5年の神島参拝において、王仁三郎への審神者を完了したことにある。 出口王仁三郎-『伊都能売神諭』 大本神諭(おおもとしんゆ) |
||||||||||
~1893 | フォックス姉妹晩年のスキャンダルと3姉妹の死、そして『スピリチュアリズムに対する死の一撃』 長女リーをはじめとしてケイト、マーガレットと続いて他界した。 ナンダ・フォダーによれば死の床にあったマーガレットを看取った女性医師の証言が1905年のニューヨーク法医学会の会合であったそうで、手も足ももはや動かすことのできぬマーガレットの霊界への問いかけに対して天井から、壁から、叩音が鳴り続けたという。『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P199~ |
||||||||||
1894.7~ | 日清戦争 1875(明治8)年9月の江華島事件を契機として、 翌1876年2月26日江華島条約(日朝 修好江華条約)が締結され、65年ぶりに日朝修好が復活した。この条約は、朝鮮の独立を確認 し両国の友好を約したものである。 これはすなわち清国の宗主権を否認したものであり、ここに 日清戦争の直接的原因が芽生えた。その後、1894(明治27)年2月に朝鮮で起こった農民反乱の甲午農民戦争(東学党の乱)は、 李王朝への反発から日本や欧米の侵入に対する反対へと発展した。朝鮮政府は、鎮圧のため、清国に救援を求めた。 清国から出兵の通告を受けた日本政府は、直ちに出兵し、清国政府に共同し て朝鮮の内乱を鎮圧し、内政改革をすすめさせようと申し入れたが、清国はこれを拒否すると、 日本軍は朝鮮王宮を占領し、朝鮮政府に清国軍を撤退させるよう求めた。こうして7月25日の 日本軍による清国艦隊への奇襲攻撃(豊島沖海戦)、成歓・牙山の戦闘が行われ、日清両国は戦争状態に入り、8月1日、両国とも宣戦布告して日清戦争が始まった。 日清戦争(にっしんせんそう) 1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日であり、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。 李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島と遼東半島および黄海で両国は交戦し、日本側の勝利と見なせる日清講和条約(下関条約)の調印によって終結した。壬午軍乱以後、閔妃によって清国は李氏朝鮮に対する宗主権を一方的に主張していたため、講和条約の中で日本帝国は、李氏朝鮮に対する清国の一方的な宗主権の放棄とその独立を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、また巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費となった。 ウイキペディア |
日清戦争、もう一つの側面 | |||||||||
1896 | 宮沢賢治と三度の大地震 宮沢賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」(理科年表No.281)が発生して岩手県に多くの災害をもたらした。 誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」(理科年表No.282)が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で大きな災害が生じた。この地震の際に母は賢治の入ったえじこ(乳幼児を入れる籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという。 1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。 法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。 死の前日農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。 この年3月3日に「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。 誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している。 地震直後に詩人の大木実へあてた見舞いの礼状には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている。 |
||||||||||
1879.12.30~ 1896.6.17 ~1950.4.14 |
ラマナ・マハルシ |
||||||||||
189712.4~1963 |
岡本天明と日月神示(ひつきしんじ) |
中矢伸一 | |||||||||
1900 心霊研究の黄金時代終わる |
SPR初代会長ヘンリー・シジウイック死去 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 |
||||||||||
心霊研究の黄金時代終わる | |||||||||||
1900 | 北シベリアのベレゾフカ川岸でマンモス発見!! されたという通報を受け、1901年5月3日、ロシア科学アカデミーの動物学者オットー・ヘルツとオイゲン・ピッツェンマイヤーらはペテルブルク(現・サンクトペテルブルク)を出発した。鉄道で5月14日にイルクーツク、6月14日に馬車と舟でヤクーツクに、9月9日に現地に到着した。 マンモスは腐敗するも残存した頭蓋骨と地中に埋没した下半身という半ば立ち上がった姿勢をしていた。これを運搬用に解体し、1902年2月18日に帰還した。復元された標本はベレゾフカのマンモスと呼ばれ、皇帝・ニコライ2世とアレクサンドラ皇后も見学した。 |
⇒2012.10月へ | |||||||||
1900 | ヘレン・ケラー ラドクリフ大学(現ハーバード大学)へ入学。 Life is either a daring adventure or nothing.「人生は恐れを知らぬ冒険か、無か」 ・ヘレン・ケラーにスウェーデンボルグを紹介したのは「ジョン・ヒッツ」という人物である(故鳥田四郎牧師はジョン・ヒッツを「牧師」と呼んでおられるが、彼が牧師であったかどうかは定かでないことから、敬称を省略する)。ちなみに、このヒッツという人物、ヘレン・ケラーの伝記類のほとんどに登場してこない。唯一『世界の伝記42 ヘレン・ケラー』(山主敏子著 ぎょうせい)にその関係が書かれていた。本書を参考にヘレン・ケラーがスウェーデンボルグを知る経緯について要約して紹介する。 |
『天国と地獄』 | |||||||||
~ 1900~ 1945 |
カール・オーガスト・ウィックランド博士と心霊治療 スウェーデン生まれの米国精神科医。妻アンナを霊媒とし、霊界の医療団(Mercy Band マーシーバンド)とともに精神病の治療を行った。 ・ダラム医科大学で精神医学を専攻して1900年に卒業。 1909-18年には国立シカゴ精神病学会の会長を務め、その後ロサンジェルスに移住し、国立精神病学会の研究機関で精神科医として働いた。 ・ウィックランド博士が心霊現象に興味を持つようになったきっかけは患者だった。 ・心霊現象を調べるため交霊会に出席するうちに、妻のアンナに優れた霊媒能力があることがわかり、やがて妻を通して、霊界の医療団から治療に協力するよう要請を受ける。 人間に憑依した霊は混乱した精神状態にあり、感覚的にも地上人に近く、霊界の医療団を見たり声を聞いたりできず、治療を受けることもできない。そのため、一度博士の妻の体を借りて霊を説得する必要があるという。 ・治療ではまずアンナが霊の憑依を確認し、博士たちが患者に軽い電気ショックを与えて、憑依している霊をアンナに乗り移らせた。次に博士が霊に状況を説明し、自分の肉体の死を認めるようにもっていった。 ・次に、霊の生前の様子を聞いて問題点をはっきりさせ、それを乗り越えて霊界に行くよう説得する。 ・霊が納得して霊界に向かう気が起きると、霊界の医療団の協力で家族が迎えに来たり、霊が自ら離れて行ったりして「除霊」が完了する。(⇒※モンロー研で学んだ人々と魂の救出の方法と酷似) ・治療が終了し、霊が離れると、患者は生来の人格を取り戻した。患者によっては多数の霊が憑依しているため、数回にわたる治療が行われた。また、どうしても説得に応じない霊は、霊界の医療団が隔離し、特別に治療したらしい。 ・狂信的な宗教者に間違った信仰を教え込まれた者や、わがまま一杯に育った青年、麻薬中毒患者などの例が挙げられている。 |
⇒『神科医ウィックランド博士の迷える霊との対話―精神病を除霊で治した医師の30年 スピリチュアリズムによる人類への警告』1993/8 | |||||||||
1877~ 1901~ (明治34) 1945 |
エドガー・ケーシー(アメリカ) ・7・8歳の頃-両親に”人の姿をした幻”を見たり、彼らと話したりすることができると話している。最近死んだばかりの親戚が現れて彼の生まれる前に起こった事柄を教えてくれたと言って両親を面食らわせることもあった(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P22~) ・9歳の頃、ついに父親は息子に新品の聖書を買い与えた。… 祈る機会さえあれば「病人を癒す機会が与えられますように」と少年は神に訴えかけた。(『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P22) ・13.4才のころに「神がもし自分のことをちゃんと見守ってくれているのなら、その証を示してください。」「これこそ神の愛の表れにほかならないというようなことを、人々のために、自分ができるようになりますように」と祈っていたという。⇒この祈りの最中に最初の不思議が起きる。 いつもの隠れ家で聖書の「マノアの夢想」を読んでいると、突然ハミングが聞こえ、…光輝く姿(※女性)が見えた。「汝の祈りは聞き届けられた。汝は何を欲するのか」 敬虔な気持ちで答えた。 「病気の人々、とりわけ病気の子どもたちの助けとなることを。また、仲間たち、人々を愛することを……」 後に彼は「汝が正しく力を使う限り、人助けをするための力が与えられるだろうと、そのとき告げられた」 (『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P24~) ・1901年3月31日父母の見守る中で催眠術の暗示を受けて自分の声を取り戻すための治療法を試した。アラン・レインという催眠術師も立会い、声が戻った。このことがホプキンスビルの新聞に報道された。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P28~) ・彼の得意とする手法はリーディング。 まず、彼は他者による催眠状態において第三者からの質問により、アカシックレコード(アカシャ記録)と言われる宇宙意識から宇宙の知識を引き出す。 次に、それに基づいて個人の体を神経の状態や各臓器の状態また体の状態なども透かしたように話し病気の治療法などを口述する。彼のリーディングの(速記等の)記録は約14000件(1901~1944年の間に全16000件以上)にもおよび、米国のAssociation for Research and Enlightenmentで利用可能な状態で保管されている。彼の表層意識が答えているわけではないので、予言者というより、治療者・回答者であるとされる。 そして、未来のことは確定しているわけではなく、人の意思にかかっているときっぱり言い切っている。「眠れる心霊診断家」。 第二次世界大戦の勃発と終戦をズバリ予告 「もし人々が祈り、また祈ったように生きるならば、無事に過ぎるだろう」という神の声であったが、その声は人々には届かなかった。 (『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P34~) 1910.8.10娘を助けてもらったもののお金を受け取らないケイシーに対し、C.H.ディートリッヒは感謝の気持ちを公証人作成の口述書にすることにした。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P69~) この仕事(リーディングのこと)の動機が邪悪な場合は、逆にエドガー・ケイシーの肉体は危険にさらされることになるというのだった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P74) ケイシーはリーディングが本当に神の意志に従うことなのか、自分が本当に神の意志を伝えるに相応しい人物なのか、という問題について、生涯、疑問や不安を持ち続けていたが、家族にふりかかった問題を解決したときには、無条件に自分の幸運に感謝した。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P77) 近年彼の方法でALS、リウマチ、MS、エイズ、パーキンソン病、がんなど難病を治癒した人が何人も出てきている。また、彼の方法を利用しがんなどの手当てをしている療法に、ホクシー療法がある。この彼が言った心、体、魂を治し健康な体と精神をこの世に存在させる療法をケイシー療法と呼び、それを応用しているクリニックも米国にある(AREクリニック)。 ケンタッキー州ホプキンスビル出身。 幼少期より予言を行い始める。 保険のセールスをしていたが、咽頭をこわし、会話がままならなくなり写真家に転向。 ノストラダムスやジーン・ディクソンとともに世界三大予言者と言われているようだが、彼の予言者的な部分は一部分であり、半数以上が病気治療のフィジカル・リーディングと呼ばれるもので自己治療に貢献している。 ケイシーの勧める物理療法は大きく分けて4つ。ケイシーの死後もレイリーがそのリーディングを研究。 循環作用、排泄作用、同化作用、食事法。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P140~) 1923年にオハイオ州に住む裕福な印刷会社の経営者アーサー・ラマーズが「人生の意味はそもそも何なのか?個人の才能や欠陥、罪や徳は一体どうして現れるのか?生まれたときから死ぬときまで、人間に不平等がついて回るのはどうしてなのか?…」これがのちの2500件にのぼるライフ・リーディングとよばれるものの始まりとなった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P88~) 1923.8.10アーサー・ラマーズの依頼を受け、「生まれ変わり」の事実を語っている。 リーディングができるようになったのは”神の意志”によると考える以上、それぞれの時点ではどんなに”常識”に反するように感じられたとしても、謙虚な気持ちで受け止めるべきであるという結論を彼は出していた。このエドガー・ケイシーの大決心によってわれわれは人類誕生の謎も、現代の人類が抱える危機をも知ることができたわけである。 リーディングによれば、すべての人間は、利己的な心を捨て、自分より不幸な人を助けたいという気持ちを持ち続けることによってのみ、自分の可能性をフルに開花させることができるというのである。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P145~) 1936.6庭園を耕していて真昼の幻影を見、書斎にこもり、何時間も後に姿を見せたケイシーは第二次世界大戦が近づき、何百万人もの死者が出る兆候があったと説明した。それは、意識のある彼に対する神からの緊急メッセージだった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P102~) 1936年 「地球が神の地上として真理で満たされた時代に、この肉体、エドガー・ケイシーは復活され、浄化され、解放されよう。」つまり、この時こそケイシーはこの物質現象界へ輪廻転生してくる必要性から解放される。 ケイシーと妻と秘書の3人が医師の資格がないのに医療行為をしたとしてデトロイト警察に逮捕され、判決が出た夜に夢を見た。 「汝の同胞になすことは、汝が汝の神と汝自身になすことであるゆえ、汝が自我を捨てて他人に尽くすなら、神は汝に栄光を与え、汝の行為と汝の同胞との関係において『解放者』としての資格を与えるだろう。忘れぬように心せよ。どんな裁きの時も、誘惑の時も、神は常に汝の側におられることを。また、汝が滅びることを望んではおられないことを。意志を強く持て。神は常に汝とともにおられる。恐れてはならない」 すべての結果には原因がある。 もし、人が現在の自分の考えや行為は、前世の代償を払わされているのだと感じたとしたら、カルマの法則に諦めを感じるのではなく、将来(来世)のために正しい生き方をしようという勇気が湧いてくるに違いない。 カルマの法則の目的は、モラルを高め、精神的な成長を助けることにある。 カルマは”生きる条件”を作り出しはするが、そこから自分に相応しいものを選択して行動に移すのは人間の意志である。その意志の力によって、その霊魂が前世で作り出したカルマ的パターンも変えることができる。 カルマには各集団に共通なものがある。民族・人種にもカルマがある。 (『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P158~) 宇宙に最初に存在したのは唯一の精神(スピリット)であった。心の力、生命のエネルギーの巨大な海が全宇宙のすみずみにまでいきわたっていた。それは全知全能で、すべての根源であった。「宇宙の力」「すべてのもの」「生命のエッセンス」--こうした言葉で表されるものが永遠の神であり宇宙と人間生成の「第一原因」(※意識)であった。 「第二原因」は願望(※意思)であった。精神は活動し、自分自身を自分の外へ発展させることで個々の生命のうごめきを示し、いろいろな形に自分を現す。この生命の震えの中にアミリウス=光が生まれた。光こそ、精神が最初に形をとって自己を現したものである。… 最初の創造物は”考え”である。 光は自由な意志と理性を付与されていた。 (『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P168~) すべての物質は精神を持ち、その精神は、創造者と別だとはいえ、創造者の意志を体現したものであった。 創造の力は宇宙全体に及んでいる。 第一の法則は愛。 第二の法則は繁殖。 第三の法則は進化、成長、発展 意識のレベルとして3つのものを生み出した。 第一の意識 第二に潜在意識⇒記憶の貯蔵庫、第一と第三の意識の架け橋となる。 第三に超意識⇒魂そのものとつながる (『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P171~) 現代にはこれからアトランティス人たちが大量に生まれ変わってくる。 核爆弾と核エネルギー、…科学の氾濫。地球温暖化、化学肥料や農薬の残留、水資源の汚染、これらは確実に悪い方向に進行している。加えて自然の反逆が大きくなってきている。頻発する地震は不気味であるがそれは一つの結果である。…。日の下に新しきものなし、歴史は繰り返す。アトランティスの悲劇は今や、我々にとって現実のものなのである。 人類のカルマ、神のカルマ 「…。神が障害を取り除いてくださるかもしれない。それはあなたが信仰、愛、忍耐、親切、柔和を持った時である」 (『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P184~) 1944.9.17自分自身についてのものが生涯最後となった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』H2.8.15五十嵐康彦P105~) 「ライフ・リーディング」と呼ばれる、人生について悩める人々に与えた助言の数々がある。 彼の「ライフ・リーディング」は、人の魂は死後も永遠に存在し続け、転生を繰り返すという、自身が信教していたキリスト教の教義や現在の常識ではにわかには受け入れがたい概念を根幹としており、人生において存在する一見不可解な問題や様々な悩みは、前世との因果関係を知ることによって、その存在理由を明確にすることができるというものである。 ライフ・リーディングは2500件を数え…、…ありとあらゆるテーマについてリーディングを与え、トータルでおよそ50000ページ近くの資料が今に残されている。(『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P29) ・宇宙について ケイシーの説く輪廻転生によると、私たちは死後、それまでの霊的成長に応じて、また次回の転生に必要な精神的特性を培うために、ほとんどの人は太陽系内のいくつかの惑星に霊的次元において滞在する。これは太陽系内のそれぞれの惑星が、魂の成長にとって必要な学びの場を提供してくれるためである。 現代に生きる私たちは、平均すると数十年から数百年の周期で生まれ変わっている。 この転生期に、私たちは平均して4つくらいの惑星に滞在するという。 ただし、この惑星滞在はあくまで霊的次元の話であって、肉体をもって各惑星で生活しているわけではない。 『眠れる預言者 エドガー・ケイシー』より |
エドガー・ケーシー 『奇跡の生涯 』 エドガー・ケーシーとキリスト教と聖書と「輪廻転生」について |
|||||||||
1901.10.2 | 明治34年I.A.メモリアルデー | ||||||||||
1901 | マイヤース、病死 人間の意識を顕在と潜在(サブリミナル)とに分けて考察した最初の一人。 複数潜在意識説⇒1903年に遺著『人間個性とその死後の存在』出版 |
『人間個性とその死後の存在』 | |||||||||
1901 |
ミルトン・エリクソン(Milton H〔yland〕 Erickson, |
||||||||||
1902~1925 | ルドルフ・シュタイナー-神秘学など(ドイツ) 20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びた。 アントロポゾフィー(人智学)発展の第一段階 1902~1909 1900年代からは神秘的な結社「神智学協会」に所属し、ドイツ支部を任され、一転して物質世界を超えた“超感覚的”(霊的)世界に関する深遠な事柄を語るようになった。 「神智学協会」幹部との方向性の違いにより1912年に同会を脱退。 自ら「人智学協会」を設立した。「アントロポゾフィー」(人智学)という独自の世界観に基づいてヨーロッパ各地で行った講義は生涯6千回にも及び、多くの人々に影響を与えた。また教育、芸術、医学、農業、建築など、多方面に渡って語った内容は、弟子や賛同者たちにより様々に展開され、実践された。 シュタイナー教育、バイオダイナミック農法 アントロポゾフィー発展の第二段階 1910-1916 アントロポゾフィー発展の第三段階 1917-1923 晩年 1924-1925 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』では具体的な霊的体験を得るための修行法を描いているが、二部を作る前に世を去った。 また自身が40歳になるまでは霊的な指導を引き受けなかったのは、40歳までに霊的な指導を引き受けると誤謬に陥り易くなるためだとも言う。(発明は40歳までのは人類の道徳を退行させ、40歳以後のは人類の道徳に貢献するものにもなる、と主張されている。)⇒いかにして高次の世界を認識するか |
『いかにして超感覚的世界の 認識を獲得するか』 『いかにして高次の世界を認識するか』 |
|||||||||
1904~1905 | 日露戦争 1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国と南下政策を行うロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の斡旋の下で、ポーツマス条約を締結した。 講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を割譲させ、またロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権を獲得した。同様に東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も得るに至った。しかし交渉の末、賠償金を得るには至らず戦後外務省に対する不満が軍民などから高まった。 戦争の性格 日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また2国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。このことから、横手慎二は日露戦争は第0次世界大戦(World War Zero)であったとしている。Wikipedia |
||||||||||
1904.2.8~1905.9.5 日露戦争 |
日露戦争とロスチャイルド家 大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争 日本が戦争を行う際、膨大な戦費をまかなうため日英同盟を根拠にして外貨建て国債をロンドンで発行した。当時世界最大の石油産出量を誇っていたカスピ海のバクー油田の利権を持つロスチャイルド家は購入を断わったが、ニューヨークの銀行家でユダヤ人のジェイコブ・シフを紹介した。そして、氏が支援を申し出たため、外債募集に成功した。 日本は戦争に勝ったがロシアから賠償金を獲得できず、ジェイコブ・シフに金利を払い続けた。この為に、「日露戦争で最も利益を得たのはジェイコブ・シフ」と言われ、一時はジョン・モルガンのモルガン財閥と並立する存在になった。 バクー油田 一方で、ロスチャイルド家はロシアの石油開発に巨額の投資を行っていた。 バクーで大掛かりに油井が掘削されたのは1846年である。 1872年にロシアが石油産業の国家独占を廃止し、油井を売却すると、ロスチャイルド家など欧米諸国から石油資本が流入して急速に発展を遂げ、未だペルシア湾の油田が開発されていなかった20世紀初頭には、世界の石油生産の過半を占めた。 この時代のバクーは石油産業から近代的工業都市へと発展を遂げ、流入してきたアゼルバイジャン人やアルメニア人の政治・経済・文化活動の中心となった。 アルフレッド・ノーベルは、二人の兄と1878年に『ノーベル兄弟石油会社』を設立して油田開発、ナフサ精製、輸送などを受け持って巨万の富を築いた。 この活況は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧まで続いた。 |
||||||||||
1905 | ポーツマス条約と小村寿太郎 1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議、ポーツマス会議、ポーツマス講和会議と呼ぶ。 |
||||||||||
1905 |
シャルル・ロベール・リシェ(Charles Robert Richet)はフランスの生理学者。 |
||||||||||
1905 | 特殊相対性理論 アルベルト・アインシュタインが発表 慣性系に対する電磁気学および力学の理論である。特殊相対論と呼ばれる事もある。 |
||||||||||
1906 | 地球の平均気温上昇問題が始まっていた。 http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0220a/start.html |
||||||||||
1904~81 | オンム・セティ 本名をドロシー・ルイーズ・イーディーというイギリス人白人女性。 オンム・セティとは、「セティの母」という意味である。彼女は一度結婚し、セティという名の一人息子がいた。その息子の名は、3千年前の恋人、セティ1世からとられたものである。 彼女は、3歳の時に自宅の階段で転げ落ちて意識を失うという事故に見舞われた。かけつけた医師は、両親にドロシーの死亡を告げたが、奇跡的に息を吹き返したという。 この事故を契機に、古代エジプトのヴィジョンを見るようになる。 やがて自分が三千年前に、エジプトのアビドスの神殿の巫女であったこと、そして時のファラオのセティ1世と道ならぬ恋に落ち、彼の子を身ごもってしまい、巫女の身でありながら妊娠したことを追及され、相手の名前を告げることなく自殺したという事実を知ることになる。 さらに、三千年前の恋人であったファラオのセティ1世の霊と交友、対話するといった前世体験を、その死の時まで持ち続けたのである。 また、古代エジプトの宗教を信じ、三千年前と同じように、神殿に香や供物を捧げ続けたのである。 その晩年は、収入も財産もほとんどなく、質素な服をまとって、掘っ立て小屋でネコやガチョウと同居しながら送った オンム・セティの表の顔は、エジプト考古局の職員であり、ヒエログリフを解し、高度なドローイング技術を持ち、セティ一世神殿のレリーフの理解度の深さにおいて、エジプト学者たちから一目置かれる存在であった、という。 とはいえ、その生涯は、傍目には、決して幸福といえるものではなかったようだ。 |
オンム・セティの生涯について 『転生』(新潮社) 『転生者オンム・セティと 古代エジプトの謎』(学研) |
|||||||||
1910 | 福来友吉が念写発見 四国、丸亀にて長尾郁子念写事件 |
||||||||||
1910 (明治43) |
韓国併合条約、日韓(大日本帝国・大韓帝国)併合 | ||||||||||
1911 | モーリス・メーテルリンクと『青い鳥』 最も大きな成功作は『青い鳥 (L'Oiseau bleu)』だった。 ※2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語。 1911年にノーベル文学賞を受賞。作品の主題は「死と生命の意味」だった。 |
||||||||||
1912~ | ウッドロウ・ウィルソン 第28代アメリカ合衆国大統領 後に、「果たしてウィルソンか?」http://www.books.x0.com/bunko/b14/b14t01.shtml |
||||||||||
1912.4.14 |
タイタニック号 |
||||||||||
1912 7/30~ |
大正元年 | ||||||||||
1914 | ウィリアム・トーマス・ステッドと『邦題 ジュリアからの便り』 1914年、生前ステッドが受け取ったとしていた、ジュリアからの1895-1912年までの通信を After Death or Letters from Julia (邦題 死後-ジュリアからの便り)として娘のエステルが発表。 死後、ステッドは複数の交霊会に現れたとされており、さまざまな手段で通信を送ってきたことになっている。苦しんでいる霊を救済する仕事もしていたとされている。 1916年、精神科医ウィックランド博士の交霊会にもステッドが現れたとされており、タイタニック号事件で水死した人の霊を連れて来たとして、博士のカウンセリングを受けさせたことがある。 |
『ジュリアの音信』 | |||||||||
1912?~ 10年~ 1922年9月 |
エステル・ステッドが『ブルーアイランド』出版 スピリチュアリズムが明かす死後の世界 エステル・ステッド著 1912年4月15日、英国の豪華客船“タイタニック号”が、その処女航海において北大西洋上で氷山と激突、2000余名の乗客のうち1500余名の生命とともに海の藻屑と消えました。父・ウィリアム・ステッドからの自動書記による霊界通信。 ☆ 父から通信が届けられるまでの経緯 ☆ まえがき(霊界のウィリアム・ステッドから) 1 章 タイタニック号の沈没直後 2 章 ブルーアイランドに到着 3 章 ブルーアイランドの建造物 4 章 ブルーアイランドの生活 5 章 良心の声 6 章 初めての地上界との交信 7 章 思念の力 8 章 霊界から要求したい条件 9 章 自由と摂理 10 章 予知現象の原理 11 章 実相の世界 12 章 “無限”への旅の始まり 13 章 個人的存在の彼方へ ☆ おしまいに http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/blue-island.html |
『ブルーアイランド』 |
|||||||||
1912~1995 83才没 |
スティリアノス・アテシュリス(ダスカロス=ギリシャ語で先生) ・元キプロス政府印刷局の労働者だった男性 ・スピリチュアリズムに関わる人々の間では「ザ・ヒーラー(世界一のヒーラー)」 ・「20世紀における最も偉大な霊性の教師」と呼ばれ、最大限の尊敬を集めている人物。 ・彼は生涯を通じて無償で多くの人々を癒し、無条件の愛を示し続けたヒーラーであり、霊的な真理を教え続けた教師でした。 ・ダスカロスは1912年、キプロスという島国に生まれ、95年に亡くなるまで首都ニコシアにほど近い、ストロヴォロスで生活 ・自分の名前が知られないように努めていた彼は生前から、周囲の人々にただ「ダスカロス」 ( ギリシャ語で「先生」を意味する ) と呼ばれていました。 ・幼少期から目に見えないガイドと会話し、またごく自然に他人の考えていることがわかった。卓越した意見を述べて大人を驚かせることも多く、小学校ですでに先生たちの学問上の問題を助けることもあった。 ・すべての過去生を覚えていて現代ギリシャ語、古代ギリシャ語、トルコ語、ラテン語、ロシア語、英語、フランス語、イタリア語、サンスクリット語、アラム語、そして古代エジプトの象形文字など数多くの言語に通じ、イギリスに留学した際には、哲学博士と神学博士その他の学位も取得している。 ・キリストであるジョシュア・イマヌエルが生きていた時代に最年少の弟子だったダスカロスには、生涯を通じてヨハナン (福音書の著者であるヨハネ) が霊的なガイドとして連れ添っていた。 ・立つことすらできなかった小児マヒの子どもを歩かせたり、再起不能なまでに変形した背骨を再生するなど、奇跡のようなヒーリングを行なうこともできた。しかし、ヒーリングは聖霊によってなされるもので自分はそのチャンネルにすぎないと考えるダスカロスは、大勢の人を癒しながら決して謝礼や治療費を受け取ることがなかったといいます。 ・彼の家はそんな噂を聞きつけた人であふれ、時には一日に80人以上の人々が癒しを求めてやって来ることもありましたが、ダスカロスはどんな時も拒むことなく人々を受け入れ、“神聖なる計画”の一部である本人のカルマが許す限り、その人は必ず癒されたそうです。 彼が行なう驚異的なヒーリングを目にして「奇跡だ!」と騒ぎ立てる人も少なくありませんでしたが、そんな時、決まってダスカロスは「奇跡でも何でもない。自然の法則を知っていれば、誰にでもできることなんだ」と語り、また人々が感謝しようとすると、いつもこう言って遮りました。 「私ではなく、神に感謝してください」と。 ・世界中から様々な人々が教えを求めて訪れました(多くの著名な霊的リーダーたちが欧米から彼のもとを訪れました)。しかし、こうした“教え”に関しても、ダスカロスは「自分は単にヨハナンや他のマスターたちのチャンネルに過ぎない」と強調していました。 ・また口ぐせのように「真理の探究者にとって、名声とは罠なんだ」と語り誰にも自分のことを書かせず、インタビューも受けつけませんでした。こうして彼は細心の注意を払って脚光を浴びる危険性を避けながら、83年の生涯を他者への愛に捧げ、市井の人として生きたのです。 ・そんなダスカロスが、取材の申し出に「(ヒーリングや教えについて)私の手柄にしないという条件を守るなら」と名前を伏せて書くことを許可した唯一の相手、それが過去生からの縁があったキリアコス・マルキデスでした。アメリカのメイン大学社会学教授であるマルキデスのルポルタージュ(邦題『メッセンジャー』太陽出版刊行)は85年に出版されると欧米でミリオンセラーになり、ダスカロスのもとを訪れる人はいっそう増えました。 ・ダスカロスは第一級の覚者であり、真のヒーラー、魂の医師でしたが、中でも人生の関心事は周りの人々の痛みを和らげることと、自己発見の旅に関心を持っていて、旅立つ準備のある人々の手助けをすることだったといいます。 ・そのため、彼は定期的に「サークル」と呼ばれる勉強会を開き、“旅立つ準備のある人々”を対象に、自由な雰囲気の中で真理について、聖霊との共同作業であるヒーリングや精神修養の具体的な方法について、やはり無償で教えていたのです。 ・このサークルは彼が亡くなった今も世界的に広がり、欧米を中心にたくさんのサークルが、ダスカロスの遺した著作や講義のテープやビデオを使っての自主学習を続けています(ヒーリング同様、天から受け取ったものは無償で与えるべき…、というダスカロスの教えに従って、これらのサークルも無償で運営されています)。 ・また、生前から、教えを宗教にすること、サークルを組織化することは決して認めませんでした。それはダスカロスが「無批判に信仰する者より、理性的な無神論者のほうが神に近い」と考え、また組織化することによって、教えが欲望や権威主義といった人間のエゴイズムに利用されることを危惧したからでしょう。 ・ダスカロスは矮小化された、特定の宗教的イメージがつきまとう「神」という言葉も極力避け、“絶対無限の存在”という表現を好んで使っていました。真理の探究には宗教や民族の違いはもちろんのこと、時間や場所さえも超越した愛と理性、そして“神聖なる計画”を理解することが重要だと、彼は考えていたのです。 ・ダスカロスはよく、自分の語る言葉であっても決して鵜呑みにしてはいけないと、生徒たちを戒めました。何であれ鵜呑みにせず疑問をもち、すべてを実際に体験して試し、自己修養によって得られた指針から主体的に判断しなくてはならないと教えたのは、他者を崇拝し盲目的に自らを委ねてしまいがちな人間の危うさを知っていたからだと思います。 ・ダスカロスは人間の心にジャングルのように巣くうエゴイズムからの脱却という、厳しい課題の実践を生徒たちに求めました。多くの人々にアピールする意識の覚醒、ヒーリングや霊的能力の修得といった華やかな表の部分ではなく、奥深く地道な ― だからこそ確かな力となる ― 真の霊的教えの実践を説いた教師、それがダスカロスだったのです。 ・ダスカロスは7歳のときにヨハナンから<7つの約束>を授けられ、その導きによって自分の学校の先生たちを相手にサークルを始めたといいます。 <7つの約束>を読むと厳しい戒律のような印象を受ける人がいるかもしれませんが、これは戒律でも、破ることが許されない誓いでもありません。ダスカロスはサークルに入門する生徒たちを「真理の探究者」(Researchers of Truth)と呼んで、7歳のときに自分が授けられたものを、彼らと分かち合いました。それは、真理の探究者ならば心に刻むべき“約束”、それが<7つの約束>だと考えたからなのでしょう。 ダスカロスは7歳の時に、指導霊であるヨハネから7つの約束をさせられます。 彼はその約束を生涯守り抜いたそうです。 7つの約束とは 1、いつどこにいても、私もその一部である絶対無限の存在に、心をこめて奉仕します。 2、いつどこにいても、私には神聖なる計画に奉仕する準備ができています。 3、いつどこにいても、またどのような状況にあっても、私は「神聖な贈り物」である思考と言葉を正しく使います。 4、最も賢明なる神聖なる法則が与えてくれる、あらゆる試練と苦難に対して、私は不平不満を言うことなく、忍耐を持って受け入れます。 5、私に対する人々の行動がどのようなものであっても、私は心と魂の奥底から、誠意を持って兄弟姉妹である隣人を愛し、彼らに奉仕します。 6、私のあらゆる思考、願望、言葉、行動が神聖なる法則と完全に一致することを目的にして、毎日絶対無限の存在について瞑想し、熟考します。 7、私のあらゆる思考、願望、言葉、行動が神聖なる法則と完全に調和したものであるかどうか毎晩、確認します。 <7つの約束>の中でも、とりわけダスカロスが重要性を強調したのが、7つめの約束である「内省」です。一日の終わりに、自らの感情・思考・行動を顧みて、自分を裁くことも賞賛することもなく、第三者として客観的に点検する。不足があれば、より良い感情・思考・行動をシュミレーションしてみる。これを習慣化することによって、 「感情と思考をコントロールしてエゴイズムを減らし、兄弟姉妹であるすべての人々を愛する」ようになること、 それこそ真理の探究者にとって最も大切な修養だと、ダスカロスは考えていたのです。 7番目のエクササイズ 日々の内省は毎晩、眠りにつく前の、潜在意識に入りやすいタイミングで行います。 ベッドに座ってもいいし、眠ってしまわなければ、横になっても構いません。 完全にリラックスして、まず、朝起きた時から順を追って、今日一日にあったことをすべて思い出します。 一つひとつの出会い、出来事をもう一度見つめなおしてください。 この時、自分自身や誰かを責めることなく、客観的な第三者の目で見つめることが大切です。 そして、慈悲と寛大な心を持って、自分自身に次のように質問します。 思ったり感じたりすべきでなかったことで、思ったり感じたりしてしまったことは何か? 思ったり感じたりすべきだったことで、思ったり感じたりしなかったことは何か? 言うべきでなかったことで、言ってしまったことは何か? 言うべきだったことで、言わなかったことは何か? すべきではなかったことで、してしまったことは何か? すべきだったことで、しなかったことは何か? 内省の目的は、自分自身や他の人々を責めることではなく (ましてや賞賛することではなく)ただ公平な目で、自らの思考や行動を観察することにあります。 その上で、気付いた点から自らの言動を改めるように努力しましょう。 こうして内省を続けていくと、だんだんと自分自身を観察することに熟達していきます。 そしてやがて、道徳面においても、霊的、神秘的な人生の側面においても成長を加速していることにづくはずです。 ダスカロスの教えの多くは、かつてキリストが12人の弟子に与えたものと同じ、<エソテリック・ティーチング>(秘儀的な教え)と呼ばれる内容だといいます。 <エソテリック・ティーチング>とは、 古代エジプトの時代から高位の僧だけに脈々と伝えられた秘儀・秘教です。なぜ、こうした教えが一般の人々に長く隠されてきたというと、霊的知識や能力について学び、修養を重ねることには、常に大きな責任と危険がつきまとうからだとダスカロスは語っていました。 (どれほど霊的に成長しようと、人間には最後まで欲望、慢心といったエゴイズムの誘惑がつきまといます。そして知識や能力を持つほどに自他への影響力は高まり、間違って悪用した場合のダメージや“負債”はいっそう大きくなってしまうのです) 自身も、修養を重ね、着実に意識の覚醒に向かいながら大きく階段を踏み外した人々を、実際にたくさん見てきたのだと思います。 そして、そんな彼らの姿に胸を痛めていたからこそ、「内省」の重要性を説き、<7つの約束>によって日々エゴイズムを減らしながら、急がず一歩ずつ確実に意識の階段を昇っていくように警笛を鳴らし続けたのでしょう。 ……戦争の世紀と呼ばれた20世紀を超えてなお、今も地球では無慈悲な破壊や殺戮が続き、この世の地獄に泣き叫び、飢えや渇きに苦しむ兄弟姉妹は増える一方です。このように色濃く物質文明の闇が翳を落とす時代に、気づいた者から物質世界の“酔い”から覚め、周囲を照らし、兄弟姉妹を助ける愛の灯台となりなさい と優しく囁き続ける人、それがダスカロスであり、彼は暖かな炎を静かに燃やして明るく輝いていた、ひときわ大きな愛の灯台だったのです。 |
『メッセンジャー』 | |||||||||
1913~ | ジョージ・ヴェール・オーエン牧師と『ベールの彼方の生活(全4巻)』 キリスト教の牧師であるジョージ・ヴェール・オーエンは聖職者で「霊団」の指示による自動書記によってこの本を書いたことなど、モーゼスとよく似ている。 最初は亡くなった母からメッセージが伝えられたが、そのうち母に代わって何人もの「霊」が通信してくるようになり、1913年にはオーエンの守護霊の「ザブディール」と名乗る人物がメッセージを送ってきた。高級霊たちの一大階層があり、自分は彼らの代表者としてオーエンに霊界の真実を伝えるのだという。 新聞王のノースクリフ卿が感銘を受け、日曜週刊紙『ウィークリー・ディスパッチ』に連載(1920年)売り上げを急速に伸ばしたが、いっさい原稿料を受け取らなかった。 この大反響を快く思わなかった英国国教会はこれを快く思わず圧力を加えた。オーエンはついに、自らその職(イングランド北西部のウォーリントン近郊の町の副司祭)を辞した。その後スピリチュアリスト教会の牧師として生活するようになった。 この『ベールの彼方の生活』でモーゼスの『霊訓』と違う点は、 各層に分かれている霊界の構造とそれぞれの状況が詳しく色彩豊かに目の前に浮かぶように書かれていることだ。 それと共に宇宙創造の過程を視野に入れた想像力の広さや鉱物界、植物界、動物界、人間界などに関する知識の豊富さ等の点でスウェーデンボルグの記述が彷彿され、この巨人の霊的な影響下で書かれたのではないかという憶測を生んでいる。古典的な文章の美しさも第一級のものだ。 読者は 全宇宙が各界における高級霊団によって組織され運営されていること、 至高の界からの霊的エネルギーによって各界が創造され、統一されていること、 存在の原理である「光」と「波動」が物質や霊にどのように作用し、その進歩にどのように関わっているか、等を知ることができる。また、地獄や極楽の様相についても、実際にその場にいるかのように生き生きと書かれている。さらに霊界の上には光も届かぬほどの遥かな高みがあり、個々の霊の無限の進歩が続いていることを知るのである。 |
『ベールの彼方の生活(全4巻)』 | |||||||||
1832.12.24~ ~1914.10.17 |
高島嘉右衛門 ~1914年(大正3年)10月16日)は横浜の実業家および易断家。 伊藤博文に指南。暗殺も予言 占いは売らない 易と横浜港第二次工事の資金調達のエピソード 明治18年、請われて皇典講究所で行った「神道実用論」と題する講演の中で、嘉右衛門はこう語っている。易を「神と人をつなぐ電信機」と見、「占告神示説」(卦(け)を神のお告げとする説)の立場を貫き通した嘉右衛門の、生涯変わることのない信念だった。 明治21年7月21日の大雨の話 「日本神人伝」不二龍彦著 「学研」より 自らの死期を予言して位牌を作らせ、持っていた。観相学の大家桜井大路とのやりとりのエピソードが残っている。 高島嘉右衛門 「日本神人伝」不二龍彦著より |
『高島易断』 「日本神人伝」不二龍彦著 「学研」 |
|||||||||
1914(大正3年) | アルバート・シュレンク・ノティング『物質化の諸現象』を出版 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表 |
||||||||||
1914 | エヴァンジェリン・アダムズとホロスコープ ・1914年に運勢の占いを禁じていたニューヨーク州の法令違反で告訴されたが、裁判で占星術の正しさを証明し、撤回させたという逸話を持つ。『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』 ・当時開業していたニューヨークの町の「まじないを禁止する」と法律に違反するとして逮捕されたが、裁判所で裁判官にホロスコープを渡され、それを読み解くように言われたという。 ・それを、何の予備知識もなしに、ホロスコープを読み解き(裁判官の息子の物で、見事にその性格と人物像について述べた)、これを契機に、占星学はでたらめではないという認識が成立し、裁判で見事勝利を勝ち取った。この実績により、アメリカでは、占星術をいかがわしい占いの類とは一線を画した科学的なものという見解がひろまった。 |
||||||||||
1914 | 宮沢賢治と法華経 1914年(大正3年)、盛岡中学卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。 退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける。 |
||||||||||
1914.7.28~1918.11.11 約30年後に 第二次 世界大戦 |
第一次世界大戦( World War I) |
||||||||||
1915 | 浅野和三郎と三男の病 3男が原因不明の病に⇒女行者に11.4日に完治するとのお告げ 妻の多慶子に霊能、昭和4年には二男新樹の死をきっかけに霊言現象がおきるようになった。⇒『新樹の通信』(約6年間に及ぶ) 英文学者を止めて大本教に入信。 1923.3発起人となって東京に「心霊科学研究会」設立 1925.7大本教脱退 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P276~ |
『新樹の通信』 | |||||||||
1915~16 |
一般相対性理論 |
||||||||||
1916 | 第一次世界大戦の影響と『レイモンド』ベストセラーに スピリチュアリズムは一部の社会的に余裕のある人間や好事家や研究者の対象ではなくなり、生活上の必要事となっていた。 戦争で家族のメンバーを失った人々が戦死した肉親と交流したいと願い、霊能者の許を訪れるようになった。 その傾向に拍車をかけ象徴的な出来事となったのがオリヴァー・ロッジの『レイモンド、または生と死』の出版だった。 ロッジは英国を代表する物理学者だった。理論物理学の功績で「サー」の称号を授与され英国における心霊研究の重鎮だった。 『レイモンド』は戦死した陸軍少尉だった彼の息子のレイモンドとの霊媒を通じての対話を柱として書かれたものである。霊界におけるレイモンドの身元証明と霊界で彼が見聞したことを父に伝えるというもので、それを通じてロッジ自身が信ずる死後の世界の存在の具体的な証拠を示そうとするものである。通信を媒介したのはレナード夫人やパイパー夫人という当時最高と言われた霊媒たちだった。 …。霊界にあるシガーや…があまりにも具体的に書いてあるために、ロッジは世間から嘲笑され非難を受けた。親子の情がこういうものを書かせる免罪符となっていいものだろうか、と皮肉る科学者もいた。 ロッジはしかし、自分の心霊研究は長い経歴を持つものであり、以前は他人の経験を対象としたのだが、今回は自分自身の経験に代わっただけに過ぎない、自分の立場に変わりはない、と述べている。実際『レイモンド』によって、彼は霊魂説を受け入れる立場を今までになく明確にしたのである。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P202~ |
オリヴァー・ロッジ 『レイモンド、または生と死』 |
|||||||||
1917 | バルフォア宣言とイスラエル建国 ロスチャイルド家は第一次世界大戦の際にユダヤ人国家の建国を約束させる(バルフォア宣言:後のイスラエル建国につながる)など、政治にも多大な影響力を持った。 |
||||||||||
1917.10~ (7年間) 1924 |
ウラジーミル・イリイチ・レーニンのロシア統治 1870年4月22日 – 1924年1月21日)は、ロシアの革命家、政治家、哲学者。ロシア・ソビエト共和国およびソビエト連邦の初代指導者(人民委員会議議長)。「レーニン」は筆名(#筆名も参照)であり、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派の指導者として活動し、1917年に十月革命を成功させた後、史上初の社会主義国家であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を樹立し、その行政府である人民委員会議の議長に就任した。1919年には第二インターナショナルに代わる共産主義政党の国際組織としてコミンテルンの創設を主導、その後1922年にはソビエト連邦の成立を指導し、1924年に死去するまで同連邦の首脳を務めた。マルクス主義者として政治、経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、その思想はレーニン主義として継承された。 |
||||||||||
1917 | ルシア他3人の幼女とファチマ(ポルトガルの中央部)の大予言 コンノケンイチ-今野健一『月のUFOとファティマ第3の秘密』 縄文人(なわふみひと)解説 2012年の黙示録 7/13以降毎月ポルトガルの一寒村、ファチマに住む3人の幼女の前に聖母マリアが6回にわたって出現し、最後の日には10万人の大観衆の前で大奇跡を現出させ、当時のヨーロッパ全土に一大センセーションを巻き起こした。 しかもその際に「人類の未来にかかわる3つのメッセージ」が託された。これが有名な「ファチマ予言」である。 ・第一と第二のメッセージ(予言)は、25年後の1942年にバチカンから発表された。 第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発に関するもので、いずれも細部にいたることまであまりにもピタリと的中していた。 ・第三の予言は、1960年まで公表してはいけないとメッセージされていたからである。 だが、予言は1960年になっても発表されなかった。 第三の予言を読んだ法王パウロ六世が、内容の重大さにショックを受けて卒倒し、「これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持っていく」といって、発表を差し止めてしまったからである。 その後も第三の予言は秘密文書として、バチカン宮殿の奥深く、今も厳重に秘匿されており、そのため「ファティマ第三の秘密」ともいわれている。 私たちは一体何のためにこの世に生まれてきたのか? 私達のこの生の目的は何なのか? 私達はなぜ今ここにいるのか? 私達の存在する理由は何なのか? 聖母はすぐにそれを教える。 私達は天主を知り、天主を愛し、天主に仕え、そうすることによって、天主と共なる永遠の福楽を得るために創造された。 私達は永遠の生命を得るために生まれてきた。 この地上の生活においてただ一つのことだけが本当に重要だ。 つまり、永遠の生命を勝ちうるか否か、ということだ。 私たちの主はこう言われた。 「たとえ全世界を儲けても、魂を失ったら何の益になるだろうか?」と。 そして第三の予言とは。今はそれが明らかにされたが、その中に教皇の暗殺も含まれていた。 現教皇は1981年5月13日の暗殺未遂事件ががそれに当たると話しておられる。教皇様は聖母の御保護で、凶弾がわずかに急所を外れたと言っておられる。 |
『月のUFOと ファティマ第3の秘密』 |
|||||||||
1917~ | ロシア、革命後の宗教弾圧 ロシア革命によって無神論を奉じるソヴィエト政権が成立すると、多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。後に世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。 聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され致命した。日本正教会の京都主教を務めていたことのあるペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされた上で銃殺されるという特異な致命を遂げたことで知られている。 1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑されたが、1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2千人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5千の司祭が銃殺もしくは投獄された。 1937年と1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された。 |
||||||||||
1918~ 1919~ 2004 |
『シオン賢者の議定書』(シオンけんじゃのぎていしょ、The Protocols of the Elders of Zion)の日本への影響 ← 前述は1800~1900年代 (⇒シオニズム(ヘブライ語: ציונות, Zionism 英:ザイオニズム)とはは、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的運動。) ・1918年日本はシベリア出兵を行うが、日本兵と接触した白軍兵士には全員この本が配布されていた。 ・シベリアから帰った久保田栄吉が1919年初めて日本にこの本を紹介した。 ・後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げ、日本に帰ってくると友人の酒井勝軍にこの本を紹介し訳本を出版させた ・自らも1924年包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した。 ・海軍の犬塚惟重も独自に訳本を出版している。 ・安江と犬塚は満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。酒井勝軍も日ユ同祖論の本を出しているが、安江らの影響とも思われている。 ・また、安江仙弘が全文を紹介する以前の1923年『マッソン結社の陰謀』および『シオン議定書』と題するパンフレットが全国中学校校長協会の名前で教育界に配布されている。さらに、戦争が激しくなると旧制の中高等学校で「ユダヤ問題」が盛んに論議されるようになった。戦前戦中は少年向け小説にもユダヤの陰謀をネタに使った物が多数あり、一般に広がっていた。 ・1986年宇野正美が『ユダヤが解ると世界が見えてくる』という本を出版し一大ブームとなる。その後この本のオカルト的要素に惹かれた人たちが延々と類書の出版を続けた。 ・近年でも、太田龍の補訳による『シオン長老の議定書』(2004年)が出版され、反ユダヤ主義者の根強さを語る。 |
||||||||||
1918 | ジェームズ・ヒスロップと臨死体験の研究 アメリカ心霊研究協会(ASPR)のジェームズ・ヒスロップが発表 |
||||||||||
1918 | ギュスターブ・ジュレー-フランス もともとは内科の医師だったが、若くして生命界を支配する“魂の力”とでもいうべき未知の原動力の存在を確信し、生物の発生や進化の現象は、すべてこの神秘的な力のなせるわざにほかならないと主張した(すでに31歳のときに、このテーマについて著書を発表している)。 ジュレーはやがて自説を裏づける心霊現象の研究に没頭するようになり、1910年代にエバ・Cによる物質化現象を目のあたりにすると、医者の道にキッパリ別れを告げて、心霊研究の道一筋にうちこむようになった。 そして1918年にパリで公の設立をみた「国際心霊科学研究所」の初代所長に迎えられてからは、深い学識に裏打ちされた思想性豊かな心霊研究家として、国際的にエネルギッシュな活動を続けたが、1924年に惜しくも飛行機事故で急逝した。 |
||||||||||
1918~19 | スペインかぜ 全世界的に流行したインフルエンザのパンデミックである。 感染者6億人、死者4000~5000万人。 発生源は1918年3月米国のデトロイトやサウスカロライナ州付近。 その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。CDC によれば、既に1915年にインフルエンザと肺炎による死亡率が米国で増加しているが、発生源は依然不明としている。 新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。 米国発であるにもかかわらずスペインかぜと呼ぶのは情報がスペイン発であったためである。当時は第一次世界大戦中で、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であり大戦とは無関係だった。 一説によると、この大流行により多くの死者が出たため、第一次世界大戦終結が早まったと言われている。 |
||||||||||
1918~1922 | シベリア出兵 1918年から1922年までの間に、第一次世界大戦の連合国(イギリス・日本・フランス・イタリア・アメリカ・カナダ・中華民国)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」を名目にシベリアに共同出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。共産主義の封じ込めという目的のほかに帝政時代の外債と、露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いもあった。 日本は8月12日のウラジオストク上陸以来、増兵を繰り返して協定兵力を大きく超える兵力7万3,000人を派兵。ハバロフスクや東シベリア一帯を占領したが、日本の反ボルシェヴィキ政権樹立工作は酷寒とパルチザンの抵抗にあって不成功に終った。 1919年秋には白軍のアレクサンドル・コルチャーク政権が崩壊したことで英仏による革命政権圧殺の計画は不可能に陥り、ヨーロッパ革命情勢への危惧もあって両国はシベリア撤兵を決定した。アメリカもチェコ軍団の引揚げ完了で出兵目的は達成されたとして1920年1月にシベリア撤退を決定した。 しかし日本の原敬内閣は、列国の撤兵後も出兵目的を居留民保護とロシア過激派が朝鮮や満州に影響力を伸ばすことの防止に変更することで駐兵を継続しようとした。そのためアメリカなどから日本への不信感が高まり、日本国内でも批判が高まった結果、1922年10月に日本も撤兵となった。この出兵で日本は3500名の死傷者を出し、10億円に上る戦費を消費したうえ、日米関係の悪化を招き、日ソ国交回復の妨げにもなったとされる。 |
||||||||||
1919 1920.1.10 |
国際連盟設立 平和維持のための国際機構という構想は古代ギリシア以来繰り返し提唱されてきた。さまざまな分野の国際協力は国際関係の緊密化とともに19世紀後半以来発展したが,戦争と平和という高度に政治的な問題には及ばなかった。大規模な常設の国際平和維持機構の必要は,第1次大戦の惨禍によって初めて痛感され,1918年1月ウィルソン・アメリカ大統領の〈平和のための14ヵ条〉の中にとりあげられた。かつてのユートピア思想はようやくここに現実の課題となった。 戦後開かれたパリ講和会議はウィルソンの主張を基礎に国際連盟憲章を作成し,これをベルサイユ条約その他の講和条約の一部とした。 連盟は従って法的には20年1月10日,ベルサイユ条約発効とともに成立した。戦勝国および招請された中立国計42ヵ国が原加盟国となったが,最大の役割を期待されたアメリカが国内における孤立主義の台頭により不参加となり,連盟の力を少なからず弱めることとなった。 なお本部所在地はジュネーブ,初代事務総長はイギリスのドラモンド |
||||||||||
近代史で習わない 人々 |
水野 広徳(ひろのり) 第一次世界大戦では2度にわたり欧米諸国を私費で視察。 戦時下である1度目の視察の後に1917年(大正6年)に東京朝日新聞に連載の紀行文『バタの臭』では、空襲を受ければ東京や大阪が灰になる可能性を早くも指摘。 戦後の2度目の際にはその惨状を目の当たりにし、一転して反戦思想家に転じ反戦・平和論を説いた。 1921年(大正10年)には東京日日新聞に文章を発表して謹慎処分を受け、この問題をきっかけに、慰留する海軍を自ら退役。 1941年(昭和16年)2月26日、遂に軍部の執筆禁止者リストに載る。 1945年(昭和20年)、腸閉塞を発症し、10月18日、遺書に「百年後の知己を待つ」と書き残し生涯を閉じた。 高群 逸枝と夫 民間での研究家。母系性、結婚の形態の研究、卑弥呼の時代の姫彦制の研究、母性我的世界観を提言 杉山 茂丸~泰道~龍丸 親子3代 1955年、インドのネール首相より協力を求められ、アジアの国民生活と生産技術を指導する為、国際文化福祉協会を興し、日本国内においてガンジー翁の弟子達の指導を行う。 インドの飢餓を救うため私財を投げ打って植林。グリーンファーザーの異名。 国際会議に出るも日本国と時の首相佐藤栄作の支援無し。友人に借金の末、大役を果たす。 |
||||||||||
1859~ 1918~1930 |
コナン・ドイル(イギリス)-『人類へのスーパーメッセージ』 1859年生まれ。 イギリスのエディンバラ大学医学部卒業。開業医となるが32歳で執筆活動に専念。『シャーロック・ホームズ』のシリーズは世界的に有名。歴史小説、科学小説でも知られる。 20代のときから心霊学に関心を抱き、研究を続ける。 1918年以降は心霊主義者として執筆、講演などに活躍。 晩年は第一次世界大戦での息子の死もあってか、心霊学に傾倒し英国心霊現象研究協会会員となるが、科学的すぎるとして脱退。 交霊会や心霊学の講演、それに関する執筆などを行ない、「心霊主義の聖パウロ」の異名を取った。 そして、コティングリー妖精事件において大失態を演じてしまった。 彼の行動は当然学者であるロッジとは大いに違っていた。「スピリチュアリズムのパウロ」と言われたほどに精力的に世界各地を行脚して回り、講演に、討論に、執筆に、 スピリチュアリズムこそは人類の福音であり、愛する者を失った人々の最大の慰めであることを説き続けた。 1916年にはすでに「死者との交流を信じる」一文を書いているが、『新しい啓示』と『生命の言葉』を出版してはっきりとスピリチュアリズムのために闘うことを明言し、伝道の行脚を始めたのは1918年息子が死の床にあった年のことである。 これ(スピリチュアリズム)が心の底から受け容れられると世界の全思想に徹底的変化を与えて練りなおすことになるとに相違ないと知った瞬間から、私は、このことのために働くのはよいことだと思い、またこれと比べれば、私の過去の仕事は無にひとしい、と知った。『ホームズ物語』 あるスピリチュアリストの名誉がSPRの機関誌によって傷つけられたことに強く反論し、SPRとの36年間の縁を断ち切る手紙を病の床から書いて送り、世間を驚かせた。 1930年7.7没。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P205~ |
コナン・ドイル 『新しい啓示』 『生命の言葉』 |
|||||||||
1919 | 山田 治朗吉 明治から大正・昭和初期にかけて活動した剣術家 1919年、雑誌『新時代 第3巻第1号p. 154』において、関東大震災の到来を予言する。 |
||||||||||
1920~ | モーリス・バーバネルとシルバーバーチ シルバーバーチは1920年にイギリスにおいてイギリス人青年モーリス・バーバネル(1902-1981、当時18歳)を霊媒として語った霊とされているものの名である。英語でシラカンバの意味。 1924年、モーリス・バーバネルはイギリス人ジャーナリストハンネン・スワッファーと出会い、以後イギリスのロンドンにある彼の自宅で霊交会を行うようになる。この霊交会をハンネン・スワッファー・ホームサークルと名づけ、モーリス・バーバネルに憑依するシルバーバーチはこの霊交会において指導霊としての地位を築き、以後60年間に渡って近代心霊主義的教訓を説いた。 バーバネルは、1932年にスワッファーらの支援を受けて心霊主義専門新聞『サイキック・ニュース』を創刊し同紙の編集の中心となり、途中で編集権を手放した時期もあったものの、後にこれを回復し、終生同紙の編集に携わった |
||||||||||
1847~1931 1920年代~ |
トーマス・エジソン と オカルト研究 エジソンはオカルト・超自然的なものに魅せられるという一面もあった。 ブラヴァツキー夫人やバート・リーズの降霊術を信じていて、ブラヴァツキー夫人の開く神智学会に出席した事もある。 来世を信じ、後半生は死者と交信する電信装置 (Spirit Phone) を研究。 エジソンは合理主義者を自負しており、1920年代を通じて常に自由思想家協会を支持していた。 エジソンは、人間の魂もエネルギーであり宇宙のエネルギーの一部であると考えていた。 エネルギーは不変なので、魂というエネルギーは人間の死後も存在し、このエネルギーの蓄積こそが記憶なのだと考えていた。 エジソンの言によれば、自分の頭で発明をしたのではなく、自分自身は自然界のメッセージの受信機で、 「宇宙という大きな存在からメッセージを受け取ってそれを記録する事で発明としていたに過ぎない」のだという。 「天才は1%のひらめきと99%の汗」の真意(真意は天才は1%の汗と99%のひらめきだった) |
||||||||||
1921.6.30 |
アルフレッド・ワトキンスとレイライン |
「Boundaries and Landmarks (大地に引かれた境界と名所旧跡)」 |
|||||||||
1921.10 (大正10年) |
第一次大本弾圧事件による検挙 |
||||||||||
1922 ~ | 友清 歓真(ともきよ よしさね)と霊啓 新興宗教「神道天行居」の創設者。神道霊学の理論家としても知られる。 友清によると、1922年(大正11年)から宮地水位からの霊啓が始まったという。 また、獣医の義兄より高知県立図書館に水位の文庫がある事を知らされた。(友清はこれも水位の霊の導きとしている) |
||||||||||
1922 |
臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)とレイキ(霊気) |
||||||||||
1923 |
関東大震災(かんとうだいしんさい) |
||||||||||
1923 | ボッツァーノと臨死体験の研究 イタリアの医師ボッツァーノ(it:Ernesto Bozzano)が1923年に研究成果を発表 |
||||||||||
1923~ 1937~ |
国際スピリチュアリスト連盟(ISFというの略称の国際組織で、二、三年に一度の割で不定期に開催)の総会開催 第一回は1923年にベルギー 第二回は1925年にパリで(名誉会長はコナン・ドイル)、 第三回は0928年にロンドンで、といったぐあいに開かれ、その後は2年に一度のペースで開催されている。 第三回総会には日本から浅野和三郎と福来友吉が出席して演説し注目を集めた。 浅野は海軍機関学校(現防衛大学校)教授。心霊体験をきっかけに大本に入信。教団内では有力な信者であり、論客として活躍するも、大正10年(1922年)の第一次大本事件による大弾圧の後、教団を離れ、大正12年(1923年)、「心霊科学研究会」を創設。 さらに、より実践的な機関として1930年1月「東京心霊科学協会」を設立した。 伴に大本を離れた人物として生長の家創始者谷口雅春氏が居る。 1937年、スコットランドのグラスゴーにて、 シルバー・バーチは特別に催された交霊会で各国の代表に次のようなメッセージを送った。 十七章 スピリチュアリズムの第一線で働く 人々への励ましのメッセージ スピリチュアリズムが地上に展開を始めてからしばらくの間(1930年頃まで)は、物理的心霊現象が頻出していました。まさに奇跡の連続と言ってもいいような状況でした。 そしてその不思議な現象を、当時の一流の科学者達が調査実験に乗り出しました。ほとんどの科学者は初めは心霊現象に懐疑的でしたが、研究を進める中で生々しい現象を突きつけられ、例外なく霊の存在を認めるようになっていきました。 より内面的な現象へ、より精神的・霊的要素の多い現象へと変化していきます。それが「スピリチュアル・ヒーリング(心霊治療)」だったのです。 1930年頃より、スピリチュアリズムの中からスピリチュアル・ヒーリングが起こされるようになりました。そしてその後、スピリチュアル・ヒーリングはスピリチュアリズムの中心的な心霊現象に発展して現在に至っています。 スピリチュアル・ヒーリング(心霊治療)の目的は、いまだに霊の存在を知らない人々にそれを教え、人間は死後も“霊”として生き続けることを示すことです。霊が霊界から地上人に働きかけることができる事実を伝え、地球人類の「霊的覚醒」を促すことにあります。これがスピリチュアル・ヒーリングの目的です。 スピリチュアル・ヒーリングは“病気治療”という医学的手段を用いて「霊的覚醒と霊的救い」をもたらそうとするものであり、病気を治すことが本来の目的ではありません。これが一般の治療(ヒーリング)と心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)の根本的な違いです。 スピリチュアリズムの初期には、物理的心霊現象という華々しい現象が演出されましたが、スピリチュアル・ヒーリングの世界でも、霊性が未熟な地域では派手な心霊治療が演出されます。それがフィリピンやブラジルなどで見られる“心霊手術”です。こうした人目を惹くようなスピリチュアル・ヒーリングは、いつまでも存在する必要はありません。 やがて手当てや軽い接触といった一般的なヒーリング形式に変化していくようになります。 |
||||||||||
1925 大正14年 |
大正14年Y.Y.メモリアルデー | ||||||||||
1925? | 「あの世」から帰ってきた英国の新聞王・ノースクリフと『ノースクリフの帰還』とハネン・スワッファー 世界的に有名な日刊紙Daily Mailを創刊し、八十種類を超える雑誌を出版したノースクリフ卿は、本名をウィリアム・ハームズワースといい、1865年にアイルランドで生まれ、1922年に57歳でロンドンで没した。 その一番弟子のような存在だったスワッファーは、後に評論家として「フリート街の法王」の異名を取る程の存在となった。 米国の「ウォール街」が金融の中心地であるように、フリート街は新聞社が軒を連ねるジャーナリズムの中心地で、そこの法王と呼ばれるということは「泣く子も黙るご意見番」といった意味が込められていた。 本書はこの二人の子弟関係を扱ったものであるが、実はそれは地上時代のことではなく、死後三年も経たないうちにデニス・ブラッドレー・ホームサークルに出現して、愛称の「スワッフ」の呼び名で語りかけた。死後の存続など全く信じていなかったスワッファーは、何度も出席してノースクリフと名乗る[霊]と対話を重ねて行くうちに、否定しようにも否定出来ない完璧な証拠を見せ付けられて、ついに人間個性の死後存続を信じるようになった。その経過を綴ったのが本書である。 http://jisatsudame.com/archives/7705869.html |
『ノースクリフの帰還』 |
|||||||||
1926 | ウィリアム・フレッチャー・バレットと臨死体験 イギリスの物理学者のウィリアム・フレッチャー・バレットが研究成果を発表 |
||||||||||
1926 | コナン・ドイル、『スピリチュアリズムの歴史』出版 念写の写真術も記述 |
『スピリチュアリズムの歴史』 | |||||||||
1857~1926 | エミール・クーエと潜在意識と自己暗示 フランス人、サジェッション(自己暗示法)の創始者、暗示で奇跡的治療を行なう。 暗示は、潜在意識へインプットするためのプログラムであり、この鍵である暗示を適切に潜在意識へインプットできれば、潜在意識はそのプログラムにしたがって、全力をあげて動き出す。 ① ある考えが精神を独占してしまった場合、その考えは実際に、肉体的もしくは精神状態となって現われる。 ② ある考えを意志の力でおさえようと努力すれば、その考えをますます強めてしまうだけである。 |
||||||||||
1926 12/25~ |
昭和元年(12月25~12月31日まで) | ||||||||||
1927 | ウィリアム・マクドゥーガルとJ.B.ライン ライン革命と超心理学。スタンフォード大学での研究 霊媒を頼るのではなく、学生などの普通の人間を使って研究 ⇒「心霊研究のアマチュア化」、霊能は万人のもの 心霊セミナー、心霊治療 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P? |
||||||||||
1927~ (4年間) 1931 |
クルド人とアララト共和国 首長やイスラム聖職者に率いられたクルド人が立ち上がり、1927年にトルコ南東部で独立を宣言したのがアララト共和国だった。独立運動にはイランのクルド人たちも加わったが、ローザンヌ条約でトルコの領土が確定したばかりだったので、アララト共和国を承認する国はなく、31年までにトルコ軍によって制圧された。 その後、トルコではクルド人に対して徹底した同化政策が進められ、政府は「クルド人という民族は存在せず、山岳トルコ人なら存在する」という立場を採った。 1980年代に入ってクルド労働者党(PKK)による独立運動が盛んになると、トルコは再び武力鎮圧を強化する一方で、トルコ国会でクルド語を使った議員を懲役刑にするなどの弾圧を強めた。 |
||||||||||
1927~ | ロバート・ハロルド・シュラー アメリカの牧師。ニューソート(米国の新しい宗教運動家)の第一人者。 では、実際に取りかかることが出来る好機や可能性とはどんなもので、どこに潜んでいるのだろうか? たとえば、明日にでも、もっと情け深くなれるではないか。 また、明日からさっそく、人を裁いたり、批判したりする悪癖を抑えることが出来るではないか。そして、そのような姿勢こそが、心の平安と愛とを、ますます豊かに与えてくれるのである。 困っているときこそ人を助けよ。なぜなら、他人のために尽くすことによって、初めて自分の運勢も好転できるのである。 人生(宇宙)には、このような見えざる真理が厳存しているのである。 |
||||||||||
1927~ 1930年代 |
W・T・パリッシュ、妻の病気治療をきっかけとして、1927年から心霊治療を開始 ①.心霊治療の理解の前提 ■普及手段としての心霊治療 スピリチュアリズムの勃興期においては、物理的心霊現象は霊魂説を証明するための手段として用いられてきた。 1927年(注)以降は心霊治療(スピリット・ヒーリング)にその座を明け渡した。 心霊治療は回復不能であると診断された病が完治したという“事実そのもの”によって、霊魂説を証明しようとするもの。 このような心霊治療は霊界側の戦略に沿って登場したものであるが、これは従来からあった“心霊治療”を、スピリチュアリズム普及の手段として霊界側が活用したもの。 ■現在では世界各地で宗教やスピリチュアリズム普及の手段として、心霊治療が行われている 心霊治療(スピリット・ヒーリング)のポイントである霊界の霊医の存在や、身体の二重構造を前提とした心霊治療のメカニズム(治癒する仕組み)などについては、ある程度の霊的知識― 「死後も人間は霊として生き続ける」「霊的世界は存在する」「霊的世界とこの世とは交流がある」― が前提になければ理解することはできない。 この霊魂説の理解が前提にあって、始めて患者は病の苦しみを通して “この世をどのように生きたら霊性向上が図れるか”、というスピリチュアリズム本来の目的にたどり着くことができる。 このような理由から、霊界の戦略転換の時期が1927年または1920年代~1930年代であったということになる。 東京シルバーバーチ読書会より ・霊界の戦略転換の時期は「生き方としてのスピリチュアリズム(霊的摂理に則った生き方)」を説いたシルバーバーチの出現時期とも連動している(1920年に出現し1935年頃に霊媒現象が軌道に乗った:4-168、語る237参照)。 パリッシュが始めた心霊治療は彼の死後(1946年)、「病気治療の使徒」と呼ばれたハリー・エドワーズによって引き継がれて1940年代後半以降、世界各地へ広まった。 |
||||||||||
1928.11.17 | マージェリ・クランドンとジョージ・ヴァリアンタインと浅野和三郎 浅野は日本の心霊研究の基礎を作った。 マージェリはハーバード大学医学校の外科教授の妻でボストン在住。夫がアイルランドの心霊研究家クロフォードの著作を読み、興味を持ち、自宅で降霊会のまねごとをし、霊能が開発されるに至った。 浅野は11.17の夜、当時有名だったもう一人の霊媒ヴァリアンタインと他の実験の証言者と共にクランドン家に招待された。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P160~ |
||||||||||
1928~ |
アンドリュー・カーネギーとナポレオン・ヒル |
ナポレオン・ヒル 『Law of Success』(16セッション)をまとめる 『成功哲学』 『心構えが奇蹟を生む』 ⇒ |
|||||||||
『思考は現実化する』 | |||||||||||
1928 | ウィリアム・ホープと福来友吉 9.19日と29日の2回心霊写真をとってもらうために訪れた。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P181~ |
||||||||||
1929 | アメリカのウォール街での株価大暴落をきっかけに「世界恐慌」始まる | ||||||||||
1893~ 1930~1985 |
谷口雅春と生長の家 1929年12月13日深夜、瞑想中に「今起て!」と神から啓示を受けたということを機に仕事の傍ら神から受けたとする啓示等をまとめて 1930年3月1日に自費で修身書として雑誌『生長の家』1000部を創刊した(生長の家ではこの日を以て「立教記念日」としている)。 「人間・神の子」「実相一元・善一元の世界」「万教帰一」の主張を雑誌で発表し、多くの購読者・賛同者を取得していく。 |
||||||||||
1931 | アーサー・フィンドレーと「直接談話」のしくみ ・実業家で経済や財務、心霊問題について数多くの著作を残した。 ・自分の館を寄贈してスピリチュアリストの活動拠点「アーサー・フィンドレー・カレッジ」を作った。 ・ジョン・C・スローン(支配霊はホワイトフェザー)という直接談話に優れた霊媒による降霊会での詳細な報告 亡くなった自分の父との関係を明かされ、彼の霊能を信ずるようになった。 クロフォードが説くように、すべての物理的心霊現象はエクトプラズムによるものだという。 叩音、テーブルの浮上、霊の物質化などみなそうだが、「ダイレクト・ヴォイス(直接談話)」にもこの物質が大きく関わっているという。 エクトプラズムは霊媒や降霊会のメンバーの人体から出るだけでなく、霊界(フィンドレーの言う「エーテル界」)からも供給されるという。その成分については地上の言語で説明することが出来ないと言う。 ①エクトプラズムが直接霊人と霊媒の発声器官とを繋いでいる場合で、霊人が話すとその振動がエクトプラズムを伝わって霊媒の器官を動かし、声となって出る。(「異言」) ②「エーテル界の化学者」が霊媒や参加者、エーテル界から集めて作ったエクトプラズムを使って、まず手を造り、次にその手によって口や舌などを持つマスクを造る。それから「直接談話」をしようと思う「エーテル界の住人」がそのマスクに顔を突っ込み、口や舌や喉が自分に合うように調整してから話し始める。『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P174~ |
『エーテル界の縁で』 アーサー・フィンドレー 年に10回以上も増刷され続け、20カ国以上に翻訳された大ベスト・ロングセラー |
|||||||||
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P174 | |||||||||||
1931 | 福来友吉、『透視と念写』をロンドンで出版 三田光一(福来が出会った日本最高の霊媒)と念写の実験-弘法大師と月の裏側の写真⇒1985年のNASA撮影の月の写真へ 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P240、P268 |
||||||||||
1931.5~ | ハロルド・J・レイリー 博士は、アメリカのマッサージセラピー分野では開拓者的存在だった。彼は、ロックフェラーセンターのレイリー健康研究所の創設者で、カイロプラクターであり、物理療法士、自然療法の先駆者として世界的に知られていた。彼の顧客には、世界的な富豪や有名人(グラディス・ディビス・ターナー、ジャネット・トーマス、ジェームス・C・ウィンドサー他)がいた。 ケイシーのリーディングにより、さまざまな患者が、1931年の5月から彼の元に送られてくるようになり、彼はそうした患者をリーディング通りに治療した。 「しばらくやっているうちに、私は治療者がなすべきことは、肉体自体が自らを治し始めるようにしてやるだけだということに気づいた。ひとたび血液やリンパや神経伝導のインパルスが組織に流れるようになると、肉体はその防衛線が打ち破られた箇所すべてで反撃を始めるのだ」 これが有史以前からの歴史を誇る東洋医学(漢方)やヨーガの思想と一致していることはまことに興味深い。 循環作用、排泄作用、同化作用、食事法、 ケイシー自身は毎朝、垂直の姿勢から立ったり座ったりを繰り返し、その後、ストレッチングに似た床運動を行なっていた。 (『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P132~) 実際にケイシ-と会ったのは、治療開始から2年後ことだった。 彼は、9000以上のケイシーメディカルリーディングを45年以上にも渡り、研究し、活用した。そして、ケイシーリーディングからのマッサージを「新しいヒーリングアート」と定義し、ケイシー・レイリーマッサージスクール(アメリカ・バージニア州)の開設に力をつくした。 レイリー博士の治療は、湿布やサウナ、入浴療法などの水治療法も含む。 |
『エドガー・ケイシーの超能力健康法』 | |||||||||
1930年代の初め頃~1979年 女史が他界するまで 約50年間 |
グレース・クック女史とホワイトイーグルの霊示 ・この霊示は、女史をチャネラー(霊媒)として約50年にわたって通信されたもの ・女史の口を通じて伝えられるイーグル霊の霊示は完璧に近いと考えられます。 ・なぜかというと、2人は太古から二度にわたり、親子として次に師弟関係として再生するという深い霊縁を作ったのです。 ・イーグル霊は太古に既にイニシエーション(魂が一段一段と目を覚まして進歩の階段を上ること)を通過している覚者です。クック女史は一つ前の前世で、イニシエーションを通過し、地上に再生する必要のない者になりました。 しかし、死の時、イーグル霊は女史の魂をはるか上方に連れて行き、地球の様子を見せました。女史はそこに渦巻く地上の混迷と苦しみの様を見て、もう一度地上転生を決意しました。これがグレース・クック女史で、この霊格の高さがホワイト・イーグルの高い霊示を伝えやすいものとしています。 ・その霊示の本質は、「人は神の子である」ということ。それをイーグルは「キリスト神霊の子」と表現します。キリスト神霊とは霊太陽(宇宙を維持して生かしている根源の光)のことで、その分霊を受けているのが人間だというのです。 この「神の子」がスピリットで、それは心臓(ハート)チャクラに鎮座すると明言しています。これが「内在の神」です。 |
光への道 ホワイト・イーグルの霊示 桑原啓善・訳 でくのぼう出版 1994年刊 光への道――ホワイト・イーグルの霊示 |
|||||||||
1931 | 昭和六年以降、漸次霊界は昼になりつつあるので、天国を造る事は容易になったのである。(『天国の礎』より) | 『天国の礎』P4より | |||||||||
1931ごろ |
長井 津(わたる)と真向法 |
||||||||||
1932~33 | ホロドモール (スターリンの政策が引き起こした人為的な大飢饉)は、何百万人ものウクライナ人が命を落とした。飢餓テロや飢餓ジェノサイド、スターリン飢饉などとも呼ばれる。 同じころ、カザフスタンでも100万人が飢餓で命を落としているWikipedia |
スターリン | |||||||||
1932 | ジェラルディン・カミンズ女史と『永遠への道』 フレディック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤースが通信霊となって、自動書記霊媒として有名なカミンズという女性の4番目の作品としてこの年に発表された。 マイヤーズはまだ知己も地上に残っているいわば新参者からのメッセージだが、 7層に及ぶ霊界の構造や各界の仕組みを説く構想力の壮大さと重厚な文章による説得力は『ヴェールの彼方の生活』に劣るものではない。 オリバー・ロッジは序文を寄せ、死後30年間(マイヤースがはっきりした通信を送れるようになるには、他の死後存続を確信していた者たちと比べると、時間がかかり、死後30年以上たってからのものだった。)にこれだけの理解に達した親友のなおも止まらぬ情熱と研鑽を讃えている。 生前彼が展開した「サマーランド」や「類魂」「複数潜在意識」説を思わせるものが記述されている。 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P197~ |
マイヤースからの死後通信( 1932 The Road to Immortarity (邦題:永遠の大道/ジェラルディン・カミンズ著、近藤千雄訳、心の道場刊) 1935 Beyond Human Personality (邦題:個人的存在の彼方/ジェラルディン・カミンズ著、E.B.ギブス編/近藤千雄訳、心の道場刊) |
|||||||||
ワード博士(フランス)と『霊界探検記』(※オリヴァー・ロッジ卿の『死後の生存』とともに『天国の礎』で紹介されている) この本が出版され、心霊研究はいよいよ盛んになったという事である。 ワード博士に到っては霊界探究がすこぶる徹底的で、同博士は一週に一回一時間位、椅子に座したまま無我の境地に入り、霊界へ赴くのである。 その際博士の伯父の霊が博士の霊を引連れ霊界のあらゆる方面に対し、つぶさに霊界の実相を指示教導されて出来た記録であるが、その際友人知己の霊も種々の指導的役割をなし、博士の霊界知識を豊富にしたという事である。 これはなかなか興味もあり、霊界生活を知る上において大いに参考になるから、読者は一度読まれん事を望むのである。 もちろん西洋の霊界は日本とは余程相違のある点はやむを得ないが、私は最後において、日本及び泰西(たいせい・西の果て・西洋)における霊界事象を種々の実例をもって解説するつもりである。 十数年前、英国よりの通信によれば同国においては数百の心霊研究会が生まれて盛んに活動しつつある事や、心霊大学まで創設されたという事を聞及んでいたが、その後大戦のためいかようになったか、今日の実状を知りたいと思っている。さて霊界の種々相について漸次説いてみよう。」 (『霊界叢談』 http://www.geocities.jp/shumeic5/RS1.htmlより) |
(『霊界叢談』http://www.geocities.jp/shumeic5/RS1.htmlより) | ||||||||||
1930年代 | チャールズ・シェリントン卿とノーベル医学生理学賞 ・人間は「心」と「脳」という二通りの基本要素で構成されているという可能性を認める考え方を正当だと考えた。 ワイルダー・ペンフィールドと脳の構造と機能、臨床神経外科的研究 ・「コンピュータ的機構」と名づけられた部分は頭頂葉に位置し、脳の運動感覚機能を司っているのに対して、「心的機構」と名づけられた部分は、脳の解釈的能力を担っている。国際臨死体験研究学会設立(アメリカ) |
||||||||||
1932.1.8 | 桜田門事件(最後の大逆事件) 昭和7年(1932年)1月8日に起きた昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件で、四事件ある大逆事件の一つ(最後)である。犯人は大韓民国臨時政府の抗日武装組織「韓人愛国団」に所属していた李奉昌で、天皇に危害を加えようとしたなどで大逆罪に問われ、死刑となった。李奉昌大逆事件とも。 |
||||||||||
1933 | ディール・カーネギー 人を動かす原則1 批判も避難もしない。苦情も言わない。 人を動かす原則2 率直で誠実な評価を与える。 人に好かれる6原則 1.誠実な関心を寄せる 2.笑顔で接する 3.名前は当人にとって、最も快い、最も大切な響きを持つことばであることを忘れない。 4.聞き手にまわる。 5.相手の関心を見抜いて話題にする。 6.重要感を与えるー誠意を込めて。 人を説得する原則10 人の美しい心情に呼びかける 人を変える9原則 |
||||||||||
1934 | 湯川秀樹と仏教?? 昭和9年に湯川博士が発表したのが、後のノーベル賞につながる「中間子論」 この理論で湯川博士は、陽子と中性子を強い力で結びつけている「中間子」という新たな粒子が存在するはずだと予測した。湯川博士が27歳で人生で初めて書いた論文だった。 論文はまず国内で発表され、その翌年には日本数学物理学会の欧文誌にも掲載されたが、当初、国際的には全く注目されなかった。 しかし、その後、実験で「中間子」の存在が確かめられて状況は一変し、湯川博士はノーベル物理学賞を受賞した。 |
||||||||||
1934 | ジョセフ・バンクス・ラインとライン革命と超感覚的知覚と超心理学 「ESPカード」を使って実験 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P229~ |
||||||||||
1934・5年ごろ | K・スチュアートとマラヤの夢理論(1951) ・スチュアート(1902-65)は1924-40年の間世界放浪 ・その間1934、5年頃マラヤ(現マレーシア)に滞在し、そこの山地民セノイ族の夢の技法の調査をしたとされる。その調査に基づくというこの論文の趣旨は、セノイ族が平和な争いのない部族で、それは彼らが夢を共有するテクニックを有しているからだ、という所にある。 ・この論文は、1969年にタートの『意識の変容した状態』という話題となった論集に掲載されたことをはじめ、1970年代以降もしばしばニューエイジャーから称賛を以て言及されている(ローザック、環境音楽のJ・ハッセル etc.)。 これに対して配布資料のドムホフは、彼の調査報告をでっちあげだと論じ、1960年代の米国の社会情勢によってこの論が注目されただけだと位置付けた。 |
『明晰夢―夢見の技法 スティーヴン ラバージ』 | |||||||||
1935.12 (昭和10年) |
第二次大本弾圧事件 12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。 王仁三郎は巡教先で検挙された。罪名は不敬罪並びに治安維持法違反。 取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、987名が検挙され、318名が検事局送致、61名が起訴された。特別高等警察の激しい拷問で起訴61名中16人が死亡している。王仁三郎の後継者と目された娘婿・出口日出麿は拷問により発狂し、王仁三郎は「日出麿は竹刀で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな」と辛い心境を詠っている。こうした厳しい取調べにも関わらず転向者は少なく、王仁三郎・澄夫妻のカリスマと人間性が信者達の抵抗を支えたと見られる。 |
||||||||||
ユダヤ人の迫害 |
|||||||||||
1935~ | ナチスのロマ(ジプシー)絶滅政策 ・ドイツにおいてはナチスが政権獲得後の1935年に、ロマを「劣等民族」と見なす法律が施行された。・ロマの選挙権は剥奪され、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学の禁止、ドイツ国内での移動禁止などが主な内容である。 ・その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマには優生学的な観点から、強制的断種手術が行われた。 ・ナチスは、ロマがアーリア系であることは知っていた。アーリア主義を掲げるナチスがロマ撲滅を図ったのは、ロマがドイツ人と相いれない生活習慣を持つため、アーリア系の面汚しであり、劣った異民族の血が混じっているに違いなく、放置すればドイツ人の血が汚されると考えたためである。 ・第二次世界大戦によりドイツの占領地域が広がると、ナチスは再び多数のロマを抱えこむことになった。ナチスが「最終解決策」と呼んだ政策で、ロマはユダヤ人のホロコーストと同様に虐殺の対象とされた。これはポライモスと呼ばれている。正確な数は不明であるが、戦争中に約50万人のロマが殺害されたとされる。強制収容所への移送を待たずに現地で殺害されたものも多かった。ナチス親衛隊特別行動部隊「アインザッツグルッペン」が東欧の占領地域に派遣され、ユダヤ人、共産党員、ソ連軍捕虜とともに、多数のロマが殺害された。ナチスの被害にともなう戦後補償について、現在もロマはユダヤ人より不利な扱いを受けている。 ・第二次大戦までの多くの国では、ロマは固定した店舗で開業することは禁止されていた。 ・第二次世界大戦のナチス迫害によって、ロマの人口は減少した。社会主義体制となった東欧とソ連圏では、ロマの労働者化を進めるために移動禁止令が制定された(ソ連1956年~ポーランド1964年)。 ・スイスでは、1926年から1972年まで政府の支援を受けた民間団体「青少年のために」が1000人以上の子供のロマを親元から誘拐し、施設に収容したり、スイス人の家庭へ養子として引き渡したりした。 ・1990年代の一連のユーゴスラビア紛争では、ロマが迫害の対象となることも少なくなかった。1999年のコソボ紛争では、彼らはセルビア人、アルバニア人の双方から迫害を受けている。 ・ルーマニアにおけるロマに対しての差別は根深く、結婚、就職、就学、転居などありとあらゆる方面にて行われている。しかしその起源はいずれの説も根拠を欠いたものが多く、現在でも定説は無い。 ・スペインではマドリードの郊外ロスフォスコスがロマの集住地域となっており、38家族、約200人のロマのバラックが立ち並んでいる。このロスフォスコスは麻薬の売人や泥棒の巣窟と目されている。 |
|
|||||||||
ヒーリングの時代 ハリー・エドワーズなどを代表とする、病気などの癒しを目的とした霊媒が注目を集め活躍する時代へ |
|||||||||||
1935 | 岡田茂吉と世界救世教 大本に入信するも、 12月のある晩、神秘体験をし、自己の使命を悟る。 昭和9年、大本を離れ、世界救世教へ 全人類の病貧争からの脱出、 すなわち健康の実現、貧苦からの脱出、安全の実現を基礎として、新文明世界(=地上天国、理想世界)を創造することを目指した。 そして、そのような新文明世界は、3つの活動理念 「生命の芸術=精神性」「美の芸術=美」「農の芸術=自然力」を培い発展させることによって達成される、と説いた。健康で幸福なライフスタイルの実現 後に分派して崇教真光、など |
||||||||||
~ 1935 ~ |
ハリー・エドワーズとスピリチュアリズムと霊的治療 ・霊的治療およびスピリチュアリズムとの接触があったのは一九三五年、この年である。・この前後のエピソードは本書にも述べられているが、スピリチュアリストのグループの交流と共に、まるで待ちかねたように生来の治療能力が開花したのである。 ・その治療実績と影響力は日を追って増加し、年と共に霊的治療の至宝と仰がれるようになり、その名は英国全土ばかりか、世界中に知られるようになった。 http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/ume-10-4.htmlより一部転載 ハリー・エドワーズ著/梅原雅隆(梅原伸太郎)訳『霊的治療の解明』(国書刊行会、1984年)に収載された「解説」 |
||||||||||
1936.7~1939.3 |
スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Española) |
||||||||||
1937.4.17 |
中村久子とヘレン・ケラー |
||||||||||
1937~ |
日本レイキの後継者、林忠次郎と高田ハワヨ |
||||||||||
霊訓の時代 ・世界中に様々な霊界通信が地上に示され、本当の生き方を模索することが注目された。 ・シルバー・バーチなどが日本では有名だが、枚挙にいとまなく世界中で霊界通信が示された。 ・人々も心霊現象への興味よりも、霊界が示す人生哲学に注目が集まった。 |
|||||||||||
1938~1993 | 『シルバーバーチの教え』刊行 世界的ジャーナリスト、ハンネン・スワッハーが交霊会に出席したことで事態が一変、毎週定期的に交霊会、速記によって記録をとり『シルバーバーチの教え』として16冊が刊行された。 |
||||||||||
1877~ 1945 |
エドガー・ケーシー(アメリカ) 主要な部分は1901年に前述 1944.9.17自分自身についてのものが生涯最後となった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』H2.8.15五十嵐康彦P105~) 「ライフ・リーディング」と呼ばれる、人生について悩める人々に与えた助言の数々がある。 彼の「ライフ・リーディング」は、 人の魂は死後も永遠に存在し続け、転生を繰り返すという、自身が信教していたキリスト教の教義や現在の常識ではにわかには受け入れがたい概念を根幹としており、人生において存在する一見不可解な問題や様々な悩みは、前世との因果関係を知ることによって、その存在理由を明確にすることができるというものである。 |
エドガー・ケーシー『奇跡の生涯 』 エドガー・ケーシーとキリスト教と聖書と「輪廻転生」について |
|||||||||
1937~1945 | 1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)まで、大日本帝国と中華民国の間で行われた戦争である。日本側では、紛争が勃発した当初は北支事変と称し、1937年(昭和12年)9月の第1次近衛内閣の閣議決定で支那事変を正式の呼称とした。 戦争でなく事変と称されたのは、盧溝橋事件後に本格的な戦闘が行われても、1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が勃発するまで両国は宣戦布告を行わなかったからである。その理由として、日中両国がアメリカの中立法の発動による経済制裁を避けたかったことが挙げられる。 日本側は事態の早期収拾も狙っており、また、戦争ともなれば天皇の許可(聖断)が必要になるからであった(昭和天皇は戦争に反対だった)。一方中国側は、国内での近代兵器の量産体制が整わないままであることから、開戦により軍需物資の輸入に問題が生ずる懸念があったことに加え、軍閥や毛沢東率いる中国共産党との内戦の行方も不透明であったことから、蒋介石は「安内攘外」政策をとり、国内の統一(共産党との決着)を優先すべき問題と捉えていた。 太平洋戦争が始まると、蔣介石の重慶政府が米英とともに日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたことを受け、日本側の東條内閣は10日の閣議で「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」ことを決定した |
||||||||||
1942.1.1~ 1945.6.26~ 1945.10.24~ |
「国際連合(United Nations:連合国)」国宣言と国際連合設立 この名称は、第二次世界大戦中にアメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領が考え出したものであった。その言葉が最初に使われたのは、26カ国政府の代表が枢軸国に対して共に戦うと誓った1942年1月1日の「連合国宣言(Declaration by United Nations)」の中であった。 中国、ソビエト連邦、イギリス、アメリカの代表が1944年にワシントンD.C.に集まって行った審議に続き、翌年の1945年、50カ国の代表が「国際機関に関する連合国会議(United Nations Conference on International Organization)」に出席するためにサンフランシスコに集まった。 会議では「戦争の惨害」を終わらせるとの強い決意のもとに国際連合憲章(Charter of the United Nations)が起草され、1945年6月26日に署名された。 国際連合は中国、フランス、ソビエト連邦、イギリス、アメリカおよびその他の署名国の過半数が批准したことを受けて1945年10月24日に正式に設立された。本部はニューヨークに置かれることになった。世界平和に対するこの歴史的誓約を記念して、毎年10月24日は「国連デー(United Nations Day)」として祝う行事が各国で行われる。第二次世界大戦が引き起こした鋭い対立や多くの審議の対象となったその後の冷戦によって世界が二分化されたにもかかわらず、国連は今後もこの誓いに忠実に、成長を続ける。今や世界では対立がより複雑になり、グローバルなテロリズムのような新たな脅威が出現してきた。こうした問題に取り組むための世界的な交渉の場がこれまで以上に必要となった。こうした状況のもとにあってはこの誓約は今まで以上に今日的な意義を持つようになった主要 機関として総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局の六つの機関を設けている。国連ファミリー全体はもっと大きく、15の専門機関と数多くの計画や基金、各種機関が含まれる。 https://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/ |
||||||||||
1938 | 「東洋のシンドラー」樋口季一郎 樋口(季一郎)に野望を挫かれたスターリンは、連合国軍に対して樋口を戦犯として引き渡すように申し入れたが、マッカーサーはこれを拒否した。米軍とのパイプもあったのだろうが、背景にはユダヤ人団体が引き渡しに反対して圧力をかけたといわれている。 樋口はハルビン陸軍特務機関長を務めていた1938年(昭和13年)、ナチスに追われてソ満国境のオトポール(現ザバイカリスク)に逃げ込んできたユダヤ系ドイツ人に食料や燃料を配給し、日本政府と軍部を説き伏せて、満州国の通過を認めさせていた。 ドイツは日本に抗議し、関東軍司令部は樋口を呼び出して査問するが、樋口は参謀長だった東条英機(1884~1948)に「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」と問いかけた。東条も樋口を不問に付し、「当然なる人道上の配慮によって行った」とドイツの抗議を一蹴したという。 この逸話から、樋口は近年「もうひとりの杉原 |
孫の樋口隆一著(明治学院大学名誉教授)「陸軍中将 樋口季一郎の遺訓-ユダヤ難民と北海道を救った将軍」 | |||||||||
1939~1945 | 第二次世界大戦(太平洋戦争) 1939年から1945年にかけて連合国と枢軸国の二つの陣営で行われた人類史上二度目の世界大戦。主な戦場はヨーロッパ戦線とアジア・太平洋戦線の二つ。両陣営合わせて、数千万人の死者を出す人類史上最大の戦争となった。戦争は連合国の勝利で終わった。第二次大戦ともいい、今日の日本では単に「戦後」といった場合、第二次世界大戦(太平洋戦争)より後を指すことが多い。 |
||||||||||
1940.7.~8月 | もう一人の「東洋のシンドラー」杉原千畝、命のビザを発行 第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ(通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くがユダヤ人系であった。「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる。彼が残した 「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」という言葉は、有名である。 |
||||||||||
1942~ 1946.1 ~ (1年間) 1946.12 |
クルド人とクルディスタン人民共和国(別名:マハバド共和国) だった。クルド人たちがイラン西北部のマハバドを中心に建国した。 第二次世界大戦でソ連軍がイラン北部に進駐すると、その後押しを受けて現地のクルド人たちは1942年にKJK(クルド建国グループ)という組織を結成した。そして戦後も続いたソ連軍の占領の下で、45年9月にカズィ・ムハンマドらKJKのリーダーたちが同じくソ連軍に占領されていたアゼリ人地区のタブリーズを訪れたところ、 アゼルバイジャン自治共和国 の独立準備が進められていることを知り、それならクルド人も続けと12月にイラン・クルド民主党(KDP-I)を結成。 翌46年1月、マハバドでクルディスタン人民共和国の独立を正式に宣言し、カズィ・ムハンマドが大統領に就任した。 独立宣言には、クルド人の自治や、公用語や教育言語としてのクルド語の採用、クルド人による民主的な議会の創設、クルド人による行政運営、アゼルバイジャン自治共和国との連携、法の確立などが盛り込まれた。しかし実際には議会は開設されず、あくまでイラン国内での自治にとどまるのかそれとも最終的に完全な独立を目指すのかがはっきり決めず、おおよそ現在の西アゼルバイジャン州一帯を支配したが領土もはっきりしなかった。しかしアゼルバイジャン自治共和国とは友好条約を結び、経済や軍事面での協力関係にあった。 領土も主権(独立か自治か)もはっきりできないままクルディスタン人民共和国の成立を急いだわけは、46年3月にソ連軍の撤退が予定されていたので、その前にとりあえず既成事実を作ろうとしたためだった。そのため同じイラン国内のクルド人居住地帯でも、南側のイギリス軍占領地域(現在のクルディスタン州)へは勢力を伸ばせなかった。 また1930年代からイラクでクルディスタン独立のためのゲリラ戦を続けてきたムスタファ・バルザニが、3000人の仲間を引き連れてKDP-Iに合流したことも独立実現のチャンスだった。バルザニは国防相に就任し、クルディスタン人民共和国の軍を率いることになった。 しかし、46年5月にソ連軍がイラン領内から撤退し、ソ連による軍事支援や経済援助の望みが絶たれると、クルディスタン人民共和国は崩壊への道を辿り始める。クルド人たちはそれまで栽培したタバコをテヘランへ出荷することで現金収入を得ていたが、それが不可能になって困窮した多くの部族が政府に叛旗を翻し、南へと去っていった。またマハバド周辺の部族は、ただでさえ痩せた土地なのにバルザニらイラクのクルド人が流入してくることに不満を抱き、南へ去った部族の土地をバルザニらが独り占めしたことも怒りをかった。 こうしてクルディスタン人民共和国はクルド人たちの支持も失い、46年12月にイラン軍が侵攻するとあえなく崩壊。「反逆罪」に問われたカズィ・ムハンマド大統領はマハバドの広場で絞首刑にされた。またマハバドを占領したイラン軍は、クルド語による学校教育を禁じ、クルド語の出版物を集めて焼き捨てたという。一方でバルザニは再び仲間を引き連れてイラクへ戻り、さらにソ連へ亡命した。 |
||||||||||
1943.3~ | シンドラー夫妻、ユダヤ人強制労働者を多数救出 シンドラー夫人の墓石に刻まれた言葉は「一人の人間を救う者は、全世界を救う」 |
Wikipedia オスカー・シンドラー |
|||||||||
1905~ 1939~ |
ヴィクトール・フランクルと『夜と霧』
フランクルは、人の主要な関心事は快楽を探すことでも苦痛を軽減することでもなく、 |
『夜と霧』 | |||||||||
1893~ 1940~1966 |
マクロビオティック(正食)の祖、桜沢如一(ゆきかず) |
||||||||||
1941 昭和16年~ |
土光 敏夫と 母 登美 明治4年8月8日生まれ。土光敏夫の母。 昭和16年、亡夫の一周忌に念願であった女学校の創設を宣言。その当時の御年70才というから驚きです! 「人間生きているうち一度は鬼の口に飛び込まねばなりません」という覚悟で、戦時中学校教育の重要性を説き、無一文から「自分が死んでも香典は要らないから生きているうちにください」とまわりの農家を口説いて回り、とうとう念願であった戦争をしない国づくり、幸せな社会づくりのための女子教育を実現すべく奔走した。 ほとんど独力で寄付集め、諸交渉をおこない、とうとう、戦争真っ只中の昭和17年 橘女学校創立 校主土光登美。17年横浜鶴見に橘学苑(現橘女子高)を開校する。戦時下、教育方針は、成績第1主義ではなく、「正しきものは強くあれ」という登美さんの言葉を校訓に掲げ、自立した女性、平和社会を築く女性の輩出を願って教育が行われ始めました。 一、 心すなおに真実を求めよう 一、 生命の貴さを自覚し、明日の社会を築くよろこびを人々とともにしよう 一、 正しく強く生きよう という三つの言葉を遺した。 しかし、女学校を設立してわずか3年後の昭和20年、73歳で他界。 夫もであったが、日蓮宗に深く帰依した女性。(温厚な夫に比べると厳しい女性であったという。親戚の土光●●さんの記憶より)。土光は母の気性を強く受け継いだ・・・ (テレビ朝日、9月4日 10時~「サンデー・フロントライン」 特集より) その他の登美の名言 ・国の滅びるは悪によらずして、その愚による。 |
||||||||||
1942.5.20 | クリッシー・ラング家での 霊媒ジョン・スローンをとおしての交霊会の記録 | ||||||||||
1944.6.10~1961 | 岡本 天明と日月神示 ・本名は信之。天明は「雅号」である。雅号とはいえ、「天明」とは!(後に「日月神示」へ) ・昭和19年-4月18日 - フーチ(扶乩)の実演会の審神者兼司会役を務める。 この際出てきた神名が「天之日月神」。後日、麻賀多神社の末社の神と判明。 ・6月10日 - 天之日津久神社に参拝した折に自動書記現象がおきる。(日月神示「上つ巻」第一帖・第二帖を書記する。 ・矢野祐太郎氏の奥さん(新(シン)女史)が大切なものと判断。 ・1961年(昭和36年)9月1日- 最後の自動書記現象。 |
||||||||||
物理霊媒レスリー・フリントの自伝『暗闇の中の声』 レスリー・フリント(Leslie Flint,1911年 - 1994年) 著名な直接談話霊媒。史上最もテストされた霊媒 |
『暗闇の中の声』 | ||||||||||
1945~15年間 | ジョージ・ウッズが物理霊媒フリントと直接談話による霊との交信、テープレコーダで録音、グリーン女史も関与 ・1938年の永井健三、五十嵐悌二による交流バイアス方式の発明で、1939年~1941年までに音質が飛躍的に改善され、実用に耐える長時間高音質録音が可能となった。 ・1945年、ジョージ・ウッズが物理霊媒フリントと直接談話による霊との交信を始める以前は、その種の交信方法はほとんど見られなかった。また交霊会の記録は、参加者の記憶や暗闇の中で書き取られたメモに頼っていた。だがそうした形での記録は、内容自体が疑わしいとか、作り話で信頼できないものとして取り扱われがちであった。 ・しかし戦争が終わって決定的な変化が訪れた。それは持ち運びのできる小型テープレコーダーが発明されたことである。ウッズは最新型のテープレコーダーを手に入れ、それを交霊会に持って行くようにした。 ・これによって初めて、霊の語るすべての声を、そっくりそのまま記録し、それを関心のある人たちに聞かせることができるようになったのである。交霊会に参加できない人でも、まるでその場にいるかのように、霊媒の話を鮮明に聞くことができるようになったのである。 「こちら(あの世)にきた人は最初、みんな同じようなことを考えます。彼らは急いで地上の友人や親戚の所に戻って、こちらの世界がいかに素晴らしいかを伝えたいと思うのです。“死は誰にでも訪れるごく自然な出来事なのです。死を怖がる必要は全くありません”と。今は地上のことをあまり気にしてはいけません。そのうちあなたが地上に戻って人々のお役に立つときがくるかもしれません」 ⇒『500に及ぶあの世からの現地報告』の資料となるテープ500本が15年間にわたって保存されていった。 ⇒1961年、1966年、1972年へ http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/life-after-death/life-after-death-03.htm |
『500に及ぶあの世からの現地報告』の資料となるテープ500本 | |||||||||
1945 |
初めての核実験 |
||||||||||
1945.2.4~ 2.8~ ~2.11 |
ヤルタ会談(クリミア会議) |