霊的史実
主として
活躍した年代

西暦年
精神世界的、歴史・政治史的見地からみた重要史実
地球環境的見地からみた重要史実
経済史的見地からみた重要史実
紛争・内戦・戦争からみた重要史実
その他の歴史的史実
内容
1848年 2000年 2010年1月 2011年1月 2012年1月2013 ■2022年2月
書籍
その他資料

霊的見地からみた史実とは
霊界通信=霊界から地上界へ通信が届けられる方法やメッセージが存在する

(1) スピリットが語る。

霊言現象 スピリットが霊媒に乗り移ってしゃべる場合で、日本で「
お告げ」とか「口寄せ」と呼ばれているもの。変性意識、変性意識状態は「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い、この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われる。トランス状態(変性意識状態の一種)、トランスパーソナル心理学アデプトプログラム(意識の成長を促進するプログラム。)
自動言語・直接談話現象 霊媒から出るエクトプラズムという特殊物質で人間の発声器官と同じものをこしらえて、スピリットがしゃべるもの。霊媒から離れた空中から直接声がする。

(2) スピリットが書く⇒エリザベス・キューブラー・ロスと死亡した元患者のエピソード、『スピリットランド』
自動書記現象 通信霊が霊媒に乗り移って、われわれと同じ要領で綴る場合。「おふでさき」。『波動の法則』
直接書記現象 神と鉛筆を用意しておくと、いきなり文章が綴られるもの。絵画や記号、暗号などの場合もある。

(3)
人間の幽体離脱(体外離脱)による次元や時間を超えた探索体験がある
音響現象、物体の出現・消失・物体を通り抜ける、物品引寄せ、化学的現象(発光・芳香・心霊写真)、耐火現象、浮揚現象、物質化現象、塑型、人体の変化、心理的心霊現象
写真撮影、テープレコーダーでの録音等による記録、モンロー研究所
・治療中に自身の過去世体験を語る⇒前世療法。臨死、幽体離脱中に過去生や未来を体験する。
アクシデントによる体験(臨死体験) ⇒ 実験的・訓練的体験 ⇒ 日常的な体験へ 
=幽体・体外離脱 ⇒ 死後(霊的)世界探索、探求

(4) チャネリング 常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(何か高次の霊的存在・神・死者(霊界人)・宇宙人・未来人など)とコミュニケーションをすること。
1980年代以降米国でさかんにこの意味で使われるようになり広まった。チャネリングを行う人をchannel(チャネル、チャンネル )、あるいはchanneler(チャネラー) と呼ぶ。
人生の意味とは?
過去生、現生、来生はあるのか?

この現生をどう生きるのか??
私は一体何をしに生まれて来たのか?

本当に「皆仲良く暮らす」とはどんな暮らし方??

「楽しく」生きるとは??

本当に人生に必要なものとは?

そして、私たちはこれからどこへ行き着こうとしているのか?

計らずも
こんな情報に出会っていったのもひとえに
勝手にソウルメイト」との会話がきっかけです。

まとめ「12の救い
は当ページ最後へ

いよいよ行動・実践へ!!

特に出典がないものはwikipediaを中心にネットからの情報収集メモです。
46億年前 地球誕生
45億年前 月誕生  
 
太陽系は星間ガスの渦から始まった。重たい物質だけが渦の中心に集まり太陽のもととなった。太陽に近い場所では、比較的重い物質、鉱物や岩石などがぶつかり合いながら大きな結晶に成長していく。太陽を中心にさまざまな重さの物質の塊が惑星となり、軌道を描くようになっていった。
・太陽系で生命が誕生したのは地球だけ。太陽からの距離、惑星を構成する成分、その他さまざまな条件が奇跡的な確率で積み重ねられた結果だった。

水が液体の状態を保っていられるのにちょうどよい距離に位置していたのが地球だった。
・原初の海で最初の生命が生まれた。藻のような植物性プランクトン光合成により酸素⇒。動物性の微生物循環
・植物が海岸から少しずつ陸上に進出、地球誕生から地表の大部分が植物によって覆われるまでに要した時間は8億年
生命体は地球の環境バランスを整える。生命体はよりよい循環を地球上にもたらすため存在する」
というたった一つの目的のもとに増えていった。
・太古の地球は植物中心の生態系。適度な死が必要。肉食獣は体内に植物を栄養化する酵素を持っていないため、草食獣の内臓を食べることによって生命を保っている。⇒進化論では生命体は自らの種をより繁殖させることが可能なように、厳しい自然環境に適応していくかたちで自らの肉体を進化させていったという言い方をするが、私が見てきた世界は、自らの種を繁栄させるためではなく、地球環境のバランスを整え、より長く生命が循環し続けられることを目的に進化していた。そして、種々雑多な生命のバランスを管理するものとして、進化の最終段階で生まれてきたのが人間だった自ら学習し、物事を考え、発想し創造する能力をもつ生命体がどうしても必要となってきたのだ。それはちょうど縁のないお盆の上に置かれたビー玉を落とさないようにバランスをとりつづけるビー玉に似ている。たえずそのときの状況や変化に合わせてバランスをとりつづけなければならない。
地球の歴史を見ることによって、膨大な意識のなかからこのことを読み取った。⇒こうして「人は何のために存在しているのか」という問いに対する答えを手に入れた。

『生き方は星空が教えてくれる』より
 『生き方は星空が教えてくれる』
木内鶴彦より2003年3月
40億年前 宇宙の奇跡である生命誕生?
 

 
2億8900万年前 

人類創世
・人類創成はこれが初めではなく、2億8900万年前、地球創造を計画した創造神たちによってシリウス人(おおいぬ座)、オリオン人、アルデバラン人(おうし座α星)、ケンタウルス人、プレアデス人(おうし座)が派遣され、すでにおこなわれてきた。
・初期の
水棲恐竜を遺伝子操作して、人類の原型を造ったとされている。
・かれらは勝手に人類を創造したわけではなく、かつて地球に住んでいたことがあるので
生きた図書館であるこの星に鍵となる種族を造るよう命じられたという。
・彼らは人間に悪意を持ってはいない。もちろん害をなす意図は、断じない。
・それが理由で世界各地の
原住民が、われわれはどこそこの星からきた、深い関係を持っているという神話を言い伝えている。(要調査)

 
 
 
6500万年前 恐竜絶滅。1億数千万年もの間繁栄
1850万年前  第3根本人種レムリア時代の中期
・サナット・クマラは、地球の惑星ロゴス(地球の創造主、神)の、物質界における反映の任を司るために、「大いなる犠牲」として、1850万年前に金星からやって来たとされる。
・サナット・クマラは、当時から現在までも、エーテル体を纏っている。
・サナット・クマラは、104人のクマラ方と共に地球に到来された。クマラ方は、炎の天主方などとも呼ばれる。
・105人のクマラ方の内、現在では4人だけが地球に留まっている。即ち、サナット・クマラと、「活動の仏陀 (プラチエカ仏陀)」などと呼ばれるクマラ方の3人とである。
・サナット・クマラは、モンゴルのゴビ砂漠上空の、エーテル界の上位亜界に、地球のエネルギー・センター(中心)、人間における頭頂チャクラに相応する「シャンバラ」を発生させ、そこに住む。
・サナット・クマラが地球にやって来た当時、1850万年前は第3根本人種レムリア時代の中期であった。
・当時の人類は、動物状態におけるは完成していたが、まだ本当の人間ではなかった。即ち、動物としての魂が宿る器に過ぎず、人間としての魂が宿る器ではなかった。
・サナット・クマラは炎の主方と共に、人間としての進化の道にいる魂を、人間として転生させるために、動物人間であった地上人類の進化を促進したとされる。これにより、地上人類は本当の意味で人間となったのである。Wikipedia「不朽の知恵におけるサナト・クマーラ」より
 
800~900万年前 第4根本人種アトランティス時代の中期
・サナット・クマラは、第4根本人種アトランティス時代の中期(800~900万年前)、地上人類の進化を更に促進するために、秘教的イニシエーションのプロセスを地上人類を授ける。Wikipedia「不朽の知恵におけるサナト・クマーラ」より
 
300万年前 人類誕生
45万年前 アヌンナキ、地球に飛来⇒そのことが書き記されたのがほんの数千年前。『大いなる秘密(上)』 P76  
40~
30万年前
 
旧石器時代のベトナム
・最古の人類 - 約40~30万年前の地層からタムハイのタムクエン洞窟(ランソン省)で最古の人類(原人)の歯が発見された。
・クアンイエンのド山(タインホア省)、スアンロク(ドンナイ省)など多くの場所で打製石器剥片石器が発見されている。
・約30,000 - 20,000年前 - ホモ・サピエンス新人)の段階では、グオム石窟(タイグエン省)、ソンヴィー(フート省)、ライチャウ省ソンラ省バクザン省タインホア省ゲアン省で遺跡が発見されている。打製石器を使用し、移動しながら生活をしていた時代であったと推定される。Wikipedia
 
 
20万年前 人間誕生
・20~30万年前、レプテリアンの遺伝子交配プログラムによって、同じく爬虫類型異星人であったアヌンナキと人間との混血種が創り出された?『大いなる秘密(上)』 P133
⇒「この地球上におけるレプテリアン以外の異星人が人類と交配する可能性」?
 

Y染色体アダム(Yせんしょくたいアダム)
Y染色体系譜を遡った場合に、人類共通の男系祖先とみなせる概念上の人物である。ヒトのY染色体は男性から男性へと遺伝する。通常、Y染色体は男性の細胞核中に1本単独で存在し、相同染色体対を作らず、擬似常染色体領域と呼ばれる一部の領域を除いて、染色体の乗換えは起きない。このことから、Y染色体の特異的な領域(MSY, male specific region of Y chromosome)に生じている突然変異を特定することで、「人類共通の男系祖先」が一人に収斂する年代が推定されている。
・「人類共通の男系祖先」であるY染色体アダムは、20-30万年前の一人だと推定される。これはミトコンドリア・イブの年代とおおむね一致している。これは、それ以前にY染色体がなかったということを意味するのではなく、Y染色体は何十万年も前から存在していたが、そのほとんどは、途中で絶えてしまい、今もなお存在しているもののなかで一番古いものは20-30万年前のものだ、というだけのことである。現時点のY染色体は、数万年もたてば、すべて滅びてしまう。そして未来における何らかのY染色体をもつ誰かが、数万年後の世界にとってY染色体アダムとなる。Wikipedia 

 
約5万年前 ムー(レムリア)の人々の多くが北アメリカへ⇒南アメリカへ  『バシャール×坂本政道』
4万年前  最古の笛
初期の楽器
ドイツ南西部のホーレ・フェルス洞窟の遺跡で人類がハゲワシの骨やマンモスの牙を彫って作った”
フルート”をドイツの大学の研究チームが発掘し、ネイチャー電子版に発表。アフリカから欧州に到着したばかりのクロマニョン人による最も初期の楽器とみられる。3万5000年前のものか?

確実に最古の笛と考えられているものはドイツ、ウルム近郊の洞窟から出てきた骨の笛で約36000年前のものであり、現生人類が使用したと考えられている。Wikipedia「世界最古の笛
ネイチャー電子版
新聞2009.6.25付けより

英オックスフォード大学は、同校と独テュービンゲン大学の研究者が、世界最古の楽器と見られるマンモスの牙とトリ[ハゲワシ]の骨によるフルートのコレクションについて、時代を特定したと発表した。同じ深さの採掘で見つかったほかの骨が、放射性炭素年代測定で40,000年前のものであることがわかったのだ。.livedoornews2012.5.31
http://news.livedoor.com/article/image_detail/6612240/?img_id=3331595
3万5千年から4万年ほど前  ホーレ・フェルスのヴィーナス
は2008年にドイツのシェルクリンゲン近郊で発見された後期旧石器時代のヴィーナス像
この時代はじめの初期オーリニャック文化でつくられたと考えられ、年代的にはおよそ3万5千年から4万年ほど前にあたる。描かれているのはおそらくヨーロッパにかつて分布した新人であるクロマニヨン人の姿である。疑いようもなく旧石器時代では最古の美術品であり、あるいはより一般的な先史時代の造形美術としても最も古い。Wikipedia 
3万5千年前 ライオンマン(ライオンレディー)
この獅子頭の象牙彫刻は、まずライオンマン(直訳すると "ライオン人")、次いでライオンレディ()と呼ばれた。これは世界最古の動物形象の彫刻であると同時に、いわゆる彫刻として知られる最古のもののひとつである。この彫刻は、動物に人間の性質を擬した擬人化であると解釈されているが、神の表現である可能性もある。発見されたのと同じ地層の放射性炭素年代測定により、この小立像は約32,000年前のものとされている。これは考古学上、オーリニャック文化のものとされている。Wikipedia
     
約3万2000年前   洞窟壁画
有史以前の、洞窟や岩壁の壁面および天井部に描かれた絵の総称。
現存する人類最古の絵画である。壁画は4万年前の後期旧石器時代より製作されている。これらは社会的に敬われていた年長者や、シャーマンによる作品であると広く一般に信じられている。 
・約3万2000年前ショーヴェ洞窟、現存する人類最古の絵画。バロン・ポン・ダルク近郊、フランス
・約18,500年前頃のもの、約16,500年前~14,000年前頃のものが含まれる―アルタミラ洞窟、カンタブリア州サンティジャーナ・デル・マル近郊、スペイン
ラ・マルシュ洞窟、リュサック・レ・シャトー近郊、フランス
・15,000年前―ラスコー洞窟、旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれた。、フランス
コスキュール海底洞窟、マルセイユ近郊にある入り口が海面下にある洞窟、フランス 
 
約3万2000年前  ショーヴェ洞窟(フランス)
現存する人類最古の絵画。
バロン・ポン・ダルク近郊。ハイエナの絵もある。 Wikipedia
 
約3~2万年前  約30,000 - 20,000年前のベトナム
ホモ・サピエンス新人)の段階では、グオム石窟(タイグエン省)、ソンヴィー(フート省)、ライチャウ省ソンラ省バクザン省タインホア省ゲアン省で遺跡が発見されている。打製石器を使用し、移動しながら生活をしていた時代であったと推定される。Wikipedia
 
 
3万年前~
1万2000年前
ムー(レムリア)の人々、アトランティスへ?
・アメリカの東海岸、キューバ、プエルトリコ、フロリダの一部、バハマ
・アトランティス時代、地球は氷河期⇒海面は約300フィート低かった。
・科学技術は約2万年前~1万5000年前にピーク
・空中浮揚について理解。クリスタルを振動させて電力や光をつくる方法
・空気よりも軽い船、長距離コミュニケ―ションの手段
ポジティブなエネルギーとネガティブなエネルギーに分裂⇒軍事的征服者⇒崩壊
 『バシャール×坂本政道』
25000年前  ローセルのヴィーナス(角を持つヴィーナス)
旧石器時代の数々のヴィーナス像の中でもその造形性によって名高いこのレリーフ(浅浮彫り)は、20世紀初頭(1911年)にフランス、ローセルの岩陰で発掘されました。この女性像が意味するところは謎のままですが、その豊満な体つきや手にした角は、豊穣や多産と関係するとも考えられます。

25,000年前頃
石灰岩 縦54cm 横36cm 厚さ15cm
アキテーヌ博物館
TBS
 
紀元前22,000年から20,000年
(約24,000年から22,000年前) 

ヴィレンドルフのヴィーナス
ヴィレンドルフの女」としても知られる、女性の姿をかたどった高さ 11.1cm (4-3/8インチ) のスティアトパイグス (steatopygous、臀部突出) 型小像。
ウィーン自然史博物館の蒐集品の一部。
1908年に、オーストリアのヴィレンドルフ近くの旧石器時代の遺跡で、同国出身の考古学者ヨーゼフ・ソンバティが発見した。
この小像は、その地方では産出しないウーライト (魚卵状石灰岩) を彫刻して造られており、また代赭で染められていた。
1990年時点における、遺跡の層序に関する再分析においては、前22,000年から20,000年(約24,000年から22,000年前)に彫刻されたと推定された。小像の起源や、制作方法、文化的意味などについては、ほとんど知られていない。
この小像は、写実的な肖像というより、むしろ理想化された女性の姿を表している。像の女陰、乳房、膨張した腹部は非常に顕著であり、多産・豊穣との密接な関係を示唆している。小さな腕は乳房の上でまとまっており、像には明瞭な顔面がない。頭部は、組み紐の巻いたものや、目、頭飾りの一種と考えられるもので覆われている。Wikipedia 


Wikipedia
2万2000年前  ブラッサンプイの貴婦人像
マンモスの牙に女性の顔が彫刻された2万2000年も前の驚くべき例のひとつです。マンモスの牙に彫った高さ4センチもない小さな像。
フードをかぶった婦人ともよばれ、人間の顔を精緻に表現したもっとも古い作品といわれる。
国立考古学博物館
 
1万9000年前  レスピューグのヴィーナス(フランス)
旧石器時代。1922年フランス南西部洞窟より発見。現物はマンモスの牙製。
人類学博物館蔵
 
 
18,500年前~13,000年前  アルタミラの洞窟壁画(スペイン)
壁画は、ソリュトレ期に属する約18,500年前頃のものと、マドレーヌ期前期頃の約16,500年前~14,000年前頃のものが含まれる。約13,000年前に落石によって洞窟の入り口が閉ざされたと考えられ、これにより幸運にも壁画は外気から遮断され、理想状態に保存がされている。Wikipedia 写真は複製
 
16,500年前~
3,000年前
縄文時代
子ども向けの本だったが、『縄文人の智恵』に感動
約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、
地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、
世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。=土器時代
草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。

縄文人
旧石器時代後の、約1万6,500年前の紀元前145世紀から約3,000年前の紀元前10世紀にわたる縄文時代の文化は、概ね現在の日本に分布していた。そのため、この地域に居住していた縄文土器を作る新石器時代人を縄文人と見ることが出来る。
この縄文人は時期によって異なるが地域ごとに4-9のいくつかの諸集団に別れていたと考えられている。日本列島(旧石器時代のこの海域は後述のように、現在とは相当に異なった海岸線を持っていた)に居住していた後期旧石器時代の人々が、後に縄文文化と総称される文化形式を生み出し、日本における縄文人諸集団が出現したと推測されている。Wikipedia

縄文人-父系のルーツ
父系のルーツを辿ることができるY染色体ハプログループは、数万年にわたる長期的な追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。それに伴い、現代日本人は従来考えられてきたよりも色濃く古モンゴロイド的縄文人の血を引き継いでいる事が判明してきた。

崎谷満の分析では、日本人は主にY染色体ハプログループD1bの縄文系とハプログループO1b2の弥生系を起源とする事が明らかになった。

『縄文人の智恵』
旧石器の存在が確認され、縄文時代に先行し土器や石鏃を伴わない石器文化の存在が確実な事実となり、旧石器時代の存在が証明されることとなった。また、日本列島の人類史の始まりを一挙に万をもって数えられる更新世に遡らせた  
  15000年前 月の誕生
月誕生は15000年前、すでに人類は誕生し、文化的な生活を営んでいた。
大量に増えた水は地球の質量を変化させ重力を増加させた
月の誕生により、地球は月の引力の干渉を受けることにもなった。
海の潮の干満もこのときから始まった。
『生き方は星空が教えてくれる』(木内鶴彦) 
 『生き方は星空が教えてくれる』
木内鶴彦より2003年3月
 15000年前 人類誕生と最初の試練
当時は海対陸の比は1:3⇒現在は3:7(月は存在していなかった?)。
質量が少ないため、重力も弱かった。水圧から解放された動物は重力の弱い陸上で巨大化していった。
最初の試練が訪れた。大量の水を含んだ巨大彗星が地球に大接近した。火星付近まで到達したとき、水分が気化して太陽よりも巨大なガス状の天体に変化した。ガスは地表に近づくにしたがい冷え、雨となって降り注ぎ、大地の三分の一が水底に沈むほどの大雨が地球に降り注いだ。
人類は避難するも大多数が死亡恐竜は絶滅
⇒月誕生後にわずかに生き残った人類は山を下り、再び文明を築く努力を重ねたが文字通り、ゼロからのスタートだった。『生き方は星空が教えてくれる』(木内鶴彦)
 『生き方は星空が教えてくれる』
木内鶴彦より2003年3月
15,000年前  ラスコー洞窟壁画
アルタミラ洞窟壁画と並ぶ先史時代(フランコ・カンタブリア美術)の美術作品。
1940年9月、ラスコー洞窟近くで遊んでいた近くの村の子供たちによって発見された。
洞窟の側面と天井面(つまり洞窟の上半部一帯)には、数百の馬・山羊・羊・野牛・鹿・かもしか・人間・幾何学模様の彩画、刻線画、顔料を吹き付けて刻印した人間の手形が500点もあった。これらは15,000年前の旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれていた。Wikipedia 
12000~19000年前 粥見井尻遺跡(かゆみいじりいせき)と日本最古の土偶
三重県松阪市飯南町粥見字井尻で1996年(平成8年)に発見された縄文時代草創期の遺跡。
県指定史跡。日本最古級の土偶が出土した。現在は「粥見井尻遺跡公園」として残されている。
平成8年9月、松阪市飯南町の粥見井尻遺跡で縄文時代草創期の土偶が、ほぼ完全な形で発見された。Wikipedia

今から時代をさかのぼること約1万2千年から9千年。土器や弓矢が使われ始めた縄文時代草創期のもので日本最古のものとみられています。
女性の上半身を形どった、全長6.8cm、幅4.2cm、厚さ2.6cmの小さな土偶ですが、縄文時代の精神文化誕生をひもとき、その時代の人々の暮し、 社会の様子などを解明していく上で大きなヒントになるものと全国から注目されました。観光三重HP

粥見井尻遺跡から2つの土偶が発見され、そのうち1つはほぼ完全な形で、もう1つは頭だけのものが別々の竪穴住居跡から発見されました。2点とも同じ大きさ、形で、砂粒の混じりの少ない粘土が使われ、明るい黄土色をしています。まさかのまつさか
日本最古の土偶
14000年前   北海道帯広市の大正遺跡群「大正3」遺跡で発掘された約1万4000年前の縄文土器片から、海産物を煮炊きした焦げかすが見つかったと、日欧研究チームが10日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。土器を煮炊きに使った証拠としては世界最古で、海産物は川をさかのぼったサケ・マス類の可能性があるという。。(時事通信)   
 13000年前

国内最古級の土偶出土「相谷熊原遺跡」
滋賀県東近江市永源寺相谷町の「相谷熊原遺跡」で、女性をかたどったとみられる約1万3千年前(縄文時代草創期)の国内最古級の土偶が見つかり、県文化財保護協会が29日、発表した。縄文草創期としては、三重県松阪市の粥見井尻遺跡で出土した2点に次ぎ3例目。同協会は「出現期の土偶の在り方を探る上で貴重な史料」としている。竪穴建物跡も5棟見つかり、近畿地方で縄文草創期の集落跡が見つかるのは初めて。土偶は建物跡から出てきた。
同協会によると、土偶は高さ3.1センチ、最大幅2.7センチ、重さ約15グラム。豊満な乳房と腰のくびれを表し、女性像とみられる。胴体部分だけを表現し、腕や脚はない。頭部もなかったが、首付近に深さ約2センチの穴が開けられていた。
底部は平らで、直立するように作られていたが、縄文の草創期や早期の土偶には見られない特徴という。1万3千年前という時期は、建物跡から見つかった土器に付着していた炭化物を放射性炭素年代測定法で分析。粥見井尻遺跡の土偶との共通点はほとんどないとしている。 201/5/29 日本経済新聞 

 指先大のふくよか土偶
12000年前  鳥浜貝塚
福井県若狭町に所在する縄文時代草創期から前期にかけて(今から約12,000~5,000年前)の集落遺跡。保存良好な木製遺物等1376点が国の重要文化財に指定されている。
放射性炭素年代測定法によると、地下7メートルで今から約1万2000年前(縄文時代草創期)、約6メートルで約8000年前(縄文時代早期)、約3メートル下で約5500年前(縄文時代前期)であり、ムラは縄文時代前期の6000年~5500年前が最盛期であったことが分かった。
世界最古のウルシ
1984年に出土した木片を2011年に東北大学が調査したところ、およそ1万2600年前のウルシの枝であることが判った。ウルシは奈良時代以前に大陸から持ち込まれたとこれまで考えられていたが、さらにかなりさかのぼった縄文時代初期の可能性もあるが、日本国内に元々自生していた可能性も考えられる。
丸木舟
1981年7月と1982年に丸木船が1隻ずつ出土した。前者は縄文時代前期のもので、当時この期の丸木舟としては日本最古であったので第一号丸木舟と名付けられた。
 
   
11000年前  高度な技術を持った文明が地球的大変動によって壊滅し、「黄金時代」はその幕を閉じた。『大いなる秘密(上)』P76   
 10,000年前
(紀元前8000年)
集合意識ハトホル
古代エジプト文明
が存在していた。集合意識ハトホルは地球と関わりを持っていた。ピラミッド建造に関与はない。
ピラミッドには埋葬室を備えたものも少なくないが、第一の目的はエネルギー発振装置としての機能にあった。当時の秘儀参入者たちは特定の数学的比率で地取りされた指定場所に入った。そのようなエネルギー生成母体に入ることでそうでなければとうてい不可能な「大いなる宇宙」や「大いなる神秘」の知識の伝授を成し遂げられた。
・エネルギー網、すなわちグリッドの創造を促進させることができた。地球上のこのグリッド構造は新たなグリッドを支えるという明確な目的ですえられた。今日ではキリスト意識のグリッドと呼ばれ、ナザレのイエスとして知られるあなたがたの師が献身的努力を手向けたおりに顕在化したもの。
・この大いなる存在が務めに着手したとき、複数のピラミッドからなるグリッドが、その新しい波動を支援した。そして、そのキリスト意識の波動をもつグリッドは今日まで継続的に強化をされてきている。ピラミッドはいくつもの意識レベルにまたがる多目的な機能をもつ装置だった。(P31~)
Q:中央アメリカとメキシコ全域には何百基ものピラミッドが散在しているいに関わらずまだ、存在さえ知られていないといいますが。
・ジャングルにすっかり覆われていますからもっともな話です。
Q:ピラミッドは地球全域にわたり、あらゆる場所に建てられていたのでしょうか。
・そうです。一つの文明によってではなく、多くの様々な文明によって造られました。それでも建造にたずさわった存在ないし文明は、直観と「大いなる神秘」に関する知識によって、みな深い意識レベルでつながっていた。そして自分たちのしていることをエネルギーという見地からきちんと理解していた。特定の指導的な建築家によってすべての施工が行われたわけでもなく、3次元的時空間で特定の指導者たちのあいだに示し合わせがあったわけでもない。ピラミッドはすべてそれぞれの場所ごとに建造されたが、明らかに同じ源を共有し、いずれの場合も外部からの支援を受けていたのです。
Q:惑星外からの支援ということでしょうか。
・そうです。プレアデス人やシリウス人などから支援を受けていました。
『ハトホルの書』より
 『ハトホルの書』
  シュメール文明、メソポタミア文明
メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。
 
紀元前6000年~
紀元前5000年頃
エジプト文明
牧畜(古代)、それに、農耕(古代)による交換経済は、紀元前6000年~紀元前5000年頃には、既に定着していた。そして灌漑農業が創始したときには、ファラオによる公共事業が行われた。また、周辺文明であるメソポタミアそれにヒクソスとの対立は、交易の範囲が拡大していたことを示してい
(巨石と太陽)ギザの3大ピラミッド 
紀元前5500年~紀元前3500年  ウバイド文化(Ubaid culture, 紀元前5500年ごろ - 紀元前3500年ごろ)はメソポタミアに誕生した先史文化。イラク南部ジーカール県のウル遺跡の西6キロメートルにあるテル・アル=ウバイド(al-`Ubaid, العبيد‎)という遺丘(テル)で発見された、新石器時代から銅器時代の遺跡が、この文化を代表する。この文化はメソポタミア南部の沖積平野での最古の文化で、紀元前6500年ごろからメソポタミアに広がり始め、紀元前4000年ごろから始まるウルク文化へと引き継がれた。灌漑農業の導入による農業の飛躍的発展、車輪の導入、銅器時代などがウバイド期に始まっている。  銅器時代
紀元前5000年代  P85紀元前5000年代に形成された西ヨーロッパの村落社会では,先祖を敬う確固とした宗教が形作られていった。この宗教は,巨石建造物が発明されたことによって,明確な形をとるようになった。こうした建造物は,生前に強い影響力を持っていた死者たちを守り,その記憶を維持するために,象徴として考え出されたものである。巨石建造物の永遠性や,その築造に注ぎ込まれた途方もないエネルギー。それは,この建造物を造る際に用いられた技術や,そこで行われた儀式を知ることで明らかになる。  『巨石文化の謎』紀元前5000年代 
   
   
紀元前4800年 縄文人-勾玉(まがたま)の分布
遅くともBC5,000年頃(縄文時代中期)には勾玉が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の「長者ヶ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されており、蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが判明しており、縄文人が海を渡って広い範囲でお互いに交易をしていたことが考えられている。後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。Wikipediaより
 
紀元前4000~3500年  巨石遺構巨石記念物
・研究史―20世紀に発明された放射性炭素年代測定で、この技術によれば巨石記念物の多く(※カルナック列石、ストーンヘンジ、マルタ島など)は、ケルト人はおろか、ピラミッドすら建っていない紀元前4000年から3500年ごろに着工されたものであると判明した。こうしてこれらは現在おおよそ新石器時代のものであるとみなされている。
・担い手―ヨーロッパにおける巨石記念物の分布は、ハプログループR1b (Y染色体)の高頻度域と見事に一致している。このグループは新石器時代にヨーロッパに農耕をもたらした集団と考えられる。現在はバスク人に90%以上に見られることから、バスク語に近い言語(バスコン語)を話していたことが想定される。 Wikipediaより
 
約5300年前 アイスマン
(英語: Iceman)は、1991年にアルプスにあるイタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷(海抜3,210メートル)の氷河で見つかった、約5300年前の男性のミイラである。
エッツィ(Ötzi)の愛称で知られる他、英語圏ではエッツィ・ジ・アイスマン(Ötzi the Iceman)、ハウスラプヨッホの男(Man from Hauslabjoch)などとも呼ばれる。 
2012年に初めて実施された解凍調査の結果、瞳、髪の色は茶色、肌の色は白色、身長160cm、体重50kg、骨からのデータにより年齢47才前後、筋肉質な体型だと解明された。血液型はO型、乳糖不耐症の因子を持ち牛乳が苦手だった可能性が高い(そもそも、古代人の多くは乳糖不耐症の因子を持っており、ヨーロッパにおいて乳製品の飲食が広まったのは古代ローマ時代以降である)。腰椎すべり症を患っており、腰痛持ちであった事が考えられる。…Wikipedia
 
紀元前
3650~1400年頃 

ミノア文明(クレタ文明)
紀元前2000年頃の中期ミノア期に、地中海交易によって発展し、島内各地に地域ごとの物資の貯蔵・再分配を行う宮殿が建てられた。宮殿以外にもコモスやパレカストロのような港湾都市が繁栄。また、貿易を通じてエジプトやフェニキアの芸術も流入し、高度な工芸品を生み出した。紀元前18世紀ごろには、線文字Aを使用している。

紀元前1600年頃の後期ミノア期には、各都市国家の中央集権化、階層化が進み、クノッソス、ファイストスが島中央部を、マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退を招き、紀元前1400年ごろにミュケナイのアカイア人がクレタ島に侵入、略奪されミノア文明は崩壊した。

クレタの宮殿建築は非対称性・有機的・機能的な構成で、中庭は外部から直接に進入することができ、かつ建物の各部分への動線の起点となっている。建物は常に外部に対して開放されており、当時のクレタが非常に平和であったことが推察される。

初期の宮殿建築では、宮殿に接して市民の公共空間が設けられていたが、後期ミノア時代に社会体制が中央集権化・階層化するとともに次第に公共空間は廃れ、他の建築物が建てられた。祭政を一体として行っていたために、独立した祭儀場を持たない。

ミノア文明は、紀元前15世紀半ばに突然崩壊した。その原因を、イギリスの考古学者アーサー・エバンスらは、サントリーニ島の巨大爆発(ミノア噴火)に巻き込まれたとする説を唱えた。しかし、アクロティリ遺跡の調査によってミノア文明が滅んだのは、ミノア噴火より50年後ほど経た後であり、サントリーニ島の噴火が直接の原因ではないことがほぼ確定している。Wikipedia 

青銅器文明
(巨石)ミケーネの獅子門
5000年
~4000年前
縄文中期 
土偶-縄文のビーナス(じょうもんのビーナス)
縄文時代中期に製作されたと見られる土偶。妊婦を象っており、高さは27cm、重さ2.14kgである。「土偶」の名称で国宝に指定されている。茅野市尖石縄文考古館所蔵。 Wikipedia 
縄文のビーナス 
国宝
約4,500年前縄文時代中期 

土偶-縄文の女神
平成4年年8月4日から6日にかけ、調査区内の落ち込み遺構の直径2.5m程、地下1mの範囲から左足、腰、頭、胴、右足など5つに割れた土偶が相次ぎ出土し、復元を進めた結果、45cmと日本最大の土偶であることが分かりました。
色調は、全体で淡い赤褐色で、半円形を呈し、複数の穿孔(せんこう)が見られる頭部には、顔面の表現はなく、両側には耳飾りを意識した孔があります。
腕を省略し、角ばった肩からW字に乳房が張り出し、腹部には妊産婦を表現し、突き出した個所にヘソをあらわす刺突が見られます。背中には背骨を表す正中線が臀部まで垂下し臀部は後部に突き出た「出尻形」を呈しています。脚部端部は分離しておらず、立像として自立する工夫としてパンタロン風に裾広の形状です。底面には比較的広い抉(えぐ)りが見られ、焼きむらを避ける工夫が見られます。
この立像土偶は均整のとれた八頭身の美しい容貌から、いつしか『縄文の女神』と呼ばれるようになりました。
土偶はまじないのため割られたりして投棄されるものが普通ですが、今回は、狭い範囲から全身が出土し、しかも数cmから10cm程度のもの30体ほどが周囲から見つかっています。
土偶の位置付けについて、当時山形県教育委員会文化課の職員として発掘調査を担当された佐々木洋治氏は「他の土偶が儀式が終わればすぐに壊されるのと違って、ある程度の期間、安置されるなど中心的な土偶であった可能性が高く、生命を産む女性をかたどり健康祈願やまじないなどに使ったのではないか」と評し、土偶に詳しい国学院大学、小林達雄名誉教授は「これだけ大きい土偶の発見により粘土製の土偶がすべて同じ性格をもつのではなく、土偶に役割分担があることが解明される糸口になる貴重な発見」と評価しています。 国宝縄文の女神

縄文の女神
国宝
山形県立博物館
紀元前3100年~2900年  アイルランド、ニューグレンジと太陽光
紀元前3100年から紀元前2900年の間に建設された。つまり約5000年前のものである。放射性炭素年代測定によれば、エジプトのギザの大ピラミッドよりも500年ほど古く、ストーンヘンジよりも約1000年先行している。 
アイルランド・ミース州のブルー・ナ・ボーニャ遺跡群にある羨道墳の1つ。世界的にも有名な先史時代の遺跡の1つであり、アイルランド島で最も有名な先史時代の遺跡である。1年で最も日が短い冬至の明け方、太陽光が長い羨道に真っ直ぐ入射し、部屋の床を短時間だけ照らすように建設されている。
ロッホクル、ニューグレンジなどは、天体観測も行っていたダーナ神族とかかわりがあり、ひとつのレイラインを形成していてラインはフランスにある巨石群にまでつながっている、ともされる(Wikipedia)
 
     
紀元前
3100~2000年頃
ストーンヘンジと太陽礼拝
・ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)のこと。現在のイギリス人、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでに存在していた。
円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。
・遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない。
・ストーンヘンジの名声は、その考古学的重要性や、古代の天文学的役割によるものだけではなく、訪れた人々に無形の影響、クリストファー・チッペンデールが「この場所の肉体的感覚」と記した、合理的・科学的な観点を超越した何かを与えるところにある。このことが、古代人の大いなる業績の象徴として、そして考古学の主流を今なお打ち負かしている何かの象徴としてのこの遺跡の霊的な役割、および単なる科学的な説明ではそれを正当化できないという信条をさまざまなグループに示した。
・アルフレッド・アトキンスは、この遺跡から他の遺跡へつながる3本のレイ・ラインを発見した。 Wikipedia





(巨石と太陽)
5000年前
紀元前3000年 
ラス・シクラス遺跡
2006年6月20と21日の朝日新聞にペルーで発見された「シクラス遺跡」が大きく記載されました。
中南米にはマヤ、アステカ、インカ文明が有名ですが、今回判明したシクラス遺跡は、それらをはるかに超え、4800年も前にさかのぼる文明です。エジプトやメソポタミアなど四大文明と並び、今までの歴史を覆すほどの大発見です。ペルーの有名なマチュピチュやナスカの地上絵より、歴史的重大さを持っている。

シクラ
石のかわりに紙を詰めてあります。
石と石を繋ぐ植物のネットがほどよいクッションになって、優れた耐震構造をもつ強固な壁を作ることができた、という。
http://www.latenamerica.com/andes.html 
 
紀元前2500年
縄文時代中期 
土偶―十字形板状土偶
北日本の円筒土器文化に属する土偶。北日本では、中期以降も板状の土偶が造られつづけた。

・なぜこの形?
・顔が縄文人ぽくないのでは。

・なぜ下ばきは三角のショートブリーフ?
・胸には乳房というより、…とにかく女性には見えない。 
 縄文時代
 後期 
大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)
・秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。国の特別史跡に指定されている。環状石籬(かんじょうせきり)やストーンサークルとも呼ばれる。
・大湯環状列石には日時計状組石があり、この日時計中心部から環状列石中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっている。このような組石は北秋田市の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡にもある。 
4000年前
紀元前2000年

縄文時代後期前半  
土偶- 「仮面の女神」
このの愛称をもつこの土偶は、長野県茅野(ちの)市湖東の中ッ原遺跡から出土した、全身がほぼ完存する大形土偶。全長は34センチメートル、重量は2.7キログラムあります。(※国内最大級)
顔に仮面をつけた姿を思わせる形であることから、一般に仮面土偶と呼ばれるタイプの土偶です。今から約4000年前の縄文時代後期前半に作られました。
遺跡のほぼ中央にある、お墓と考えられる穴が密集する場所で、穴の中に横たわるように埋められた状態で出土しました。右足が壊れて胴体から外れていましたが、これは人為的に取り外したことが明らかになりました。お墓に一緒に埋納されたものか、あるいはこの土偶だけが単独で埋められたものかは、今後の研究を待たねばなりません。
「仮面の女神」の顔面は逆三角形の仮面がつけられた表現になっています。茅野市尖石縄文考古館
 仮面の女神
(大型) 
平成26年に国宝指定
  土偶―筒形土偶
注目される遺物としては土偶があります。筒形土偶やハート型土偶が出土しており、二個体の筒形土偶が隣接して出土した例は、全国的にも珍しいものです
西ヶ原貝塚から出土した、「筒形土偶の顔」「注口土器」などが発掘された日本列島2009で展示される予定です。 平成21年5月現在 東京都スポーツ文化事業団 
 
縄文時代後期 土偶-ハート形土偶
縄文時代後期の前半の関東地方及び東北地方南部で多く造られた。
ハート形の顔については、仮面をかぶった姿とも、顔そのものをデフォルメしたものとも考えられているが、いずれであるかは判明していない。

1)群馬県吾妻郡岩島村(現在の東吾妻町)出土
縄文時代後期の作と思われる土偶。高さは約30.5cm。第二次世界大戦中の1941年、群馬県吾妻郡岩島村(現在の東吾妻町)大字郷原で行われた国鉄長野原線郷原駅(現在のJR吾妻線郷原駅)建設工事に際し、調査を行ったところ発見された(郷原古墳)。戦後の1951年に公式発表され、一大センセーションを巻き起こした
女性像であるといわれ、妊娠線・産道が表現されている。ハート形の顔は考古学界のみならず美術界でも評価が高い。1965年に国の重要文化財に指定された。Wikipedia

2)長野県富士見町坂上遺跡出土
八ヶ岳の南西麓の坂上(さかうえ)遺跡から出土した、全身がほぼ完存する中実の立像土偶。
文化遺産オンライン 
1)群馬県
 
2)長野県
文化遺産オンライン 
  土偶―山形土偶
頭が山形であるため分類上つけられた
千葉県
加曾利貝塚ギャラリー
 

茨城県 椎塚貝塚 
縄文時代後期後半から晩期前半




縄文時代晩期
土偶-みみずく土偶
縄文時代後期後半から晩期前半の関東地方でみられるみみずく土偶と呼ばれる土偶である。
顔は刻み目を施した隆帯で輪郭が縁取られ、円板を貼り付けて目と口が表現される。このユーモラスな顔が鳥のみみずくに似ていることから、その名が付けられた。

埼玉県さいたま市岩槻区真福寺出土、重要文化財
 本例もその名に違わず、ハート形の顔の輪郭に大きく丸い目と口がかわいらしく表現されている。頭から突き出たたくさんの突起は櫛や髪型が表現されているともいわれ、また耳に貼り付けた円板は耳飾りが表されたとも考えられている。大きく立体的に作られた頭と比較して胴部は扁平で、肩から伸びる短い両腕と対照的に両脚は長く作られる。全身は赤彩がよく残り、胴部には胸と肩からへそへかけて隆帯が貼り付けられ、腰部には鋸歯文を描かれ、脚部には縄文が施文される。
 土偶の造形表現は、縄文人の造形力の豊かさを知るだけではなく、髪型や装身具、さらには服飾といった風俗を考えるための大切な材料である。 

埼玉県、赤城遺跡より出土
祭祀遺物集中地点より出土している。
後期後葉から晩期前葉にかけて関東地方を中心に作られる木菟(みみずく)土偶の系譜を引く土偶で、中空・大型化したも のである。同様の土偶は埼玉、千葉、茨城県下に分布するが、出土例は多くない。桶川市の後谷(うしろや)遺跡からは、そっくりな土偶が出土しており、両遺 跡間の交流を物語っている。文様や施文の手法などから安行(あんぎょう)文化の中から派生した土偶と考えられる。埼玉県埋蔵文化財調査事業団









2600年前
紀元前600年頃
マヤ文明-太陽崇拝
中央アメリカ南部で誕生し、それから数千年にわたってメキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄え、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到達する前に、大密林の中に忽然と姿を消した「謎の古代文明」 ―― それがマヤ文明。
ではなぜ、マヤは「謎の古代文明」と言われるのか。
・1つはマヤ文明がどのように誕生し、熱帯ジャングルの中で栄え、なぜ繁栄の絶頂で突然この地上から消え失せてしまったのか、いまもってわからないこと。
・2つめはマヤ文明が「考古学の常識を超えた古代文明」だったこと。
・3つめは、最も重要なのですが、古代マヤ人たちが高等数学と高度な天文学によって作り上げた暦(マヤ・カレンダー)を使って「予言のテクノロジー」を操っていたこと。
・巨大ピラミッドの建造、華麗で壮大な神殿都市、ゼロの発見に代表される高等数学、20世紀の科学水準に匹敵する高度な天文学など、マヤが発明したテクノロジーの数々はいずれも、四大文明以上の科学水準を誇っていた。
・マヤ文明がどれほど壮大で華麗なものだったかは、その古代遺跡からも明らか。
たとえば、グアテマラの熱帯密林の中にいまなお雄姿を残すティカル遺跡
紀元前600年、いまから2600年前から人が住み始め、紀元8世紀に絶頂期を迎えたマヤ最高の神聖都市ティカルは、その規模でも華麗さでも当時のヨーロッパ文明をはるかにしのいでいました。ティカルは都市と郊外と田園の3層からなり、その総面積は130平方キロ。周囲を濠と土塁で守り、10万人にものぼる人が暮らしていたと考えられています。これはルネッサンス期(15世紀)のヨーロッパ大都市をしのぐ規模です。
ティカルは湖からも河からも遠かったので、この人口を賄うために13個もの人口貯水池がつくられました。その中心に華麗な都があった。大小3000個もの真紅のピラミッド群石像建築群が林立する都市。壮大な球技場とそれを囲む3つの高層アクロポリス。ピラミッドの石段の数も巨大建築物の色も形も、すべてマヤ的宇宙の法則によって決められていました。その都市の真ん中に、ひときわ巨大な5基のピラミッドが天を突くようにそびえ立っていた。その第四ピラミッドの高さは70メートル。巨大地震の多発地帯として知られるグアテマラでは、地震と火山噴火によって過去に何度も首都が破壊され、耐震構造の関係から、高さ30メートル以上のビルがない。そのため、21世紀を目の前にしたいまでも、7~8世紀ごろに造られたこの第四ピラミッドがグアテマラでもっとも高い建築物である。このピラミッド建造技術を見ただけでも、マヤがいかに優れた文明だったかわかる。
・メキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄えていたマヤ文明には、このような大都市がいくつもあった。考古学者の推定では、その総人口はメキシコのユカタン半島に住んでいたマヤ低地族だけで500万人。マヤ文明が支配していた地域全体では最盛期には1000万人以上。2000万人から6000万人の人々が暮らしていた、と主張する考古学者さえいる。
こんな人類史の奇跡としか思えないほどの素晴らしさゆえ、マヤ文明の誕生の謎については様々な見解が述べられてきた。
・「マヤ文明は、古代ムー大陸の一部だったのだ」
・「マヤ文明は、アトランティス大陸の生き残りがつくり上げたのだ」
・「マヤ文明は、旧約聖書に記されているソロモン王の11人の使徒たちがつくり上げたのだ」
・「マヤ文明のような奇跡的文明は、遠い宇宙から飛来した宇宙人にしかつくりだせない」など
・古代マヤの予言者たちはすでに9世紀の時点で、それから600年以上も未来の歴史的大事件、西暦1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見と、それに続くマヤ・アステカ文明の崩壊を正確に予言していた。
古代マヤの地で「白人の到来」が予言されていたことについては様々な証拠資料が存在し、世界中すべての考古学者が認めている歴史学的に証明されている事実。
・古代マヤの予言者たちはこうも予言。「この世界は13バクトゥンが完了する日に滅び去るだろう」バクトゥンとはマヤの暦で使われた時間の単位で、1バクトゥン=14万4000日です。その計算にしたがうと、右記の言葉はこうなる。
この世界は西暦2012年12月21日の金曜日に滅び去るだろう物質文明の崩壊
予言の基となっている『カレンダー・ラウンド(マヤの暦)』とは、いったいどんなものだったのか。答えはすべて、古代マヤ文明そのものに隠されている。
オーパーツ
クリスタル・スカル
『謎のクリスタルスカル』

ボブ・フィクス著
『時を超える聖伝説』

マヤ神話
『ポポル・ヴフ』

ククルカン
マヤカレンダー
マヤピラミッド-大小3000個もの真紅のピラミッド群と石像建築群

ティカル遺跡

紀元前2500年~2000年 

リング・オブ・ブロッガー(the Ring of Brodgar / Brogar)
スコットランドのメインランド島にある新石器時代のヘンジ(英語版)と環状列石の遺跡群である。
環状列石は、ステネス湖(英語版)ハーレー湖(英語版)という二つの入り江に挟まれた小さな地峡にある。環の中心地はいまだに考古学者たちが発掘しておらず、科学的な年代特定にも至っていない。建造物群の年代も未確定のままである。しかし、一般的には紀元前2500年から紀元前2000年に建てられたものと考えられており、それゆえネスに建てられた新石器時代の巨大建造物群の名残であったということである。環の直径は104 m で、イギリス諸島では三番目に大きなものである。ヘンジはもともと60基の石から成り立っていたが、20世紀末の段階では、立ったまま残っていたのは27基だけである。Wikipedia

 
 
  土偶-巳を戴く神子 
藤内遺跡より出土
正面からの写真ではわかりづらいが、この土偶を背面からみると、頭の上にとぐろを巻いた蛇が載っている。頭頂で螺旋をなす造形の先端には、土器に表された蛇の口と同じような深い切れ込みがある。それゆえ、とぐろを巻いた蛇だと認められる。
この時代の人面深鉢の造形のなかには頭上に蛇を戴いた作がみられるが、土偶では他に類例をみない。井戸尻考古館  
⇒※さて、この土偶の真価は?  サンデー毎日
 
  メソポタミアと古代メソポタミア文明
ギリシャ語で「複数の河の間」の意)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野であり、現在のイラクの一部にあたる。
古代メソポタミア文明 は、メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名で、世界最古の文明であるとされてきた。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。

ゼカリア・シッチンと惑星「ニビル」の仮説
学術的には認められていない。
 
紀元前2000年 ミノア文明(ミノア文明・クレタ文明)アトランティス
(ミノアぶんめい)は、エーゲ文明のうち、クレタ島で栄えた青銅器文明のことである。伝説上のミノス王にちなみ、ミノア文明ともよばれるが、クレタ文明と呼ばれる事もある。
紀元前1600年頃の後期ミノア期
各都市国家の中央集権化、階層化が進み、クノッソス、ファイストスが島中央部を、マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退化を招き、紀元前1400年ごろにミュケナイのアカイア人がクレタ島に侵入、略奪されミノア文明は崩壊した。
紀元前15世紀半ばに突然崩壊した。その原因を、イギリスの考古学者アーサー・エバンスらは、サントリーニ島の巨大爆発に巻き込まれたとする説を唱えた。
軍事的になったアトランティスとの衝突 
紀元前1500年頃 

ヒンドゥー教
バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。
紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。
彼らは前1500年頃ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。
紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛がありバラモン教は変貌を迫られた。
その結果 バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。その後インドの民族宗教として民衆に信仰され続けてきた。

神々への信仰と同時に輪廻解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制等を特徴とする宗教である。
三神一体(トリムルティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち
 ブラフマー:宇宙の創造を司る神
 ヴィシュヌ:宇宙の維持を司る神
 シヴァ:宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神  は一体をなすとされている。
・現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。
・ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えている。 

 
3,500年前
紀元前1500年
縄文時代後期後半
土偶-中空土偶-茅空(かっくう)
出土地周辺には縄文時代後期の墳墓群の可能性があることが判明し、著保内野(ちょぼないの)遺跡として登録された。出土した土偶は1979年(昭和54年)重要文化財に指定された。しかしながら、当時の調査は調査期間とその範囲に限界があり、遺跡の調査としては決して十分なものではなかった。
発見された土偶は、高さ41.5cm、幅20.1cm、重さ1,745gで、中空土偶としては国内最大級である。出土した南茅部の「茅」と、中空土偶の「空」をとって「茅空(かっくう)」という愛称がつけられている。 Wikipedia

北海道初の国宝「中空土偶」を常設展示しているのは、道の駅機能を併せもつ博物館「縄文文化交流センター」 
中空土偶
国宝
 
3,500年前
紀元前1500年
縄文時代後期後半 
土偶-合掌土偶
東北北部では、縄文時代前・中期に十字形板状土偶(両腕を左右に突き出した十字形の土偶)が多く出土している。縄文時代後期前半に入ると、前・中期で顔が扁平に表現されていたものが、立体的となり前方に突出し、両足も表わされるようになる。後期後半はお腹を膨らませ、妊婦を表現しているものや蹲踞姿勢でポーズをとる土偶が出現する。

蹲踞(そんきょ)注1 姿勢の土偶は、腕組みをするものが多いが、手を合わせ合掌しているポーズをとるものは、本遺跡出土の土偶と青森県つがる市石神遺跡の土偶だけである。ただし、石神遺跡の土偶は頭部と胴体が別々のものが接合され、全体像を捉えることが出来ない。土偶は一般に、完全な形をしているものは非常に少なく、どこかの部分が欠損しているものが多い。
風張遺跡の合掌土偶は、完全な形で残っており、他の土偶と比較してより精巧に作られている。八戸市HP 

合掌土偶
国宝

紀元前1450年
~1150年頃 
ミケーネ文明
・紀元前1450年頃、アルゴリス地方で興り、ミノア文明と同じく地中海交易によって発展した。ミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入し、ついにはクレタ島に侵攻、征服したと考えられる。このころ、ミケーネはトローアスのイリオスを滅ぼし(トロイア戦争)、後にこれをホメーロスが叙事詩『イーリアス』の題材としたが、イリオスで大規模な破壊があったことは認められるものの、これが事実かどうかは推察の域を出ない。
紀元前1150年頃、突如勃興した海の民によって、ミケーネ、ティリンスが破壊され、ミケーネ文明は崩壊した。これは後にスパルタを形成するドーリア人の手による。
・ミケーネ文明の建築は模倣的で巨石を用い、円頂墓を作る等、堅牢な城壁で囲まれ閉鎖的
Wikipediaより  
 
紀元前14世紀 

アメンホテプ4世とアテン・アメン信仰
アテン
アトン (Aten) は、エジプトの太陽神。動物的、
人間的形態である他のエジプトの神々とは異なり、先端が手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤の形で表現される。
初期には従来の太陽神ラーと同一視されるが、その後神性は薄れ、天体としての太陽を表すようになった。ツタンカーメンの父でもある、アメンホテプ4世が特に崇拝した。

アメンホテプ4世の治世に於いて、アメン信仰は全盛期を迎える。
だが、アメンを讃えていたエジプトの神官たちがファラオをも凌ぐ権勢を誇ったために、王権を強化する目的でアメンホテプ4世はアマルナ宗教改革を断行した。
妻ネフェルティティの影響もありアテンを唯一神とし、自分の名も『アクエンアテン』に改めた。
しかし他の神々の祭祀を停止したり、アメンの文字を削ったりするなど、その改革があまりにも急激だった上に神官団の抵抗が激しく、最終的に宗教改革は失敗に終わる。
アメンホテプ4世アクエンアテンが失意のうちに亡くなった後、ツタンカーメン王の時代にアメン信仰に戻り、アテン信仰は消滅した。
同時にアテンは、アマルナ改革以前の天体としての扱いに戻された。

事実をありのままにさらけ出す太陽光線を崇めるため、美術においてもリアリスティックな表現が行われ、この時代の美術様式は「アマルナ様式」と呼ばれ、他の時代のエジプト美術とは一線を画したものとなっている。

ちなみにアクエンアテンの治世年と、出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤハウェ(ヤーウェ)の原形とする異説も存在する。 

 
  太陽崇拝
太陽崇拝は、単一神教から始まり唯一神教に終わるとされる。
古代エジプト第18王朝のアメンホテプ4世(アクエンアテン)は、伝統的な太陽神アメンを中心とした多神崇拝を廃止し古の太陽神アテン一神崇拝を行った。太陽神の乗り物としては、古代エジプトにおいては空を海に見立てた「太陽の舟」(ラーホルス)や、インド・ヨーロッパ語族圏では空を大地に見立てた「日輪の戦車」(ローマ神話のソル、『リグ・ヴェーダ』のスーリヤ、ギリシア神話のヘーリオス)がある。メソポタミア神話のシャマシュは、青銅器時代の間、重要な役割を果たす。南アメリカにはインカ神話のインティを代表とする強い太陽崇拝があった。 
 
紀元前13世紀頃  バラモン教
・紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたとされる。
・紀元前10世紀頃、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まる。
・紀元前5世紀頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して宗教としての形がまとめられ、バラモンの特別性がはっきりと示される。
・しかしそれに反発して、多くの新しい宗教や思想が生まれることになる。現在も残っている仏教やジャイナ教もこの時期に成立した。
・新思想が生まれてきた理由として、経済力が発展しバラモン以外の階級が豊かになってきた事などが考えられる。カースト、特にバラモンの特殊性を否定したこれらの教えは、特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持されていく。
・1世紀前後、地域の民族宗教・民間信仰を取り込んで行く形でシヴァ神やヴィシュヌ神の地位が高まっていく。
・1世紀頃にはバラモン教の勢力は失われていった。
・4世紀になり他のインドの民族宗教などを取り込み再構成され、ヒンドゥー教へと発展・継承された。 
 
紀元前1300年頃  第19王朝のファラオ、セティ1世と巫女、オンム・セティ(ドロシー・イーディー)
1903年生まれ
考古学者。古代エジプトのファラオ「セティ1世」の寵愛を受けた巫女の記憶を持つ不思議な女性。
オンムセティの言う通りに掘って嘘だった事が無いというほど、そこから古代エジプトの遺物が出てきている。 
オンム・セティの生涯について
『転生』(新潮社)
『転生者オンム・セティと古代エジプトの謎』(学研)
  旧約聖書と創世記   
紀元前13世紀頃 

モーセ
・(ヘブライ語: מֹשֶׁה‎ Mōšeh、ギリシア語: Μωυσής、ラテン語: Moyses, Moses、アラビア語: موسىٰ‎ Mūsā)あるいはモーゼは、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者である。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教およびバハーイー教など多くの宗教において、もっとも重要な預言者の一人とされる。伝統的には旧約聖書のモーセ五書(トーラー※トーラーとは、旧約聖書の最初の5つの書である。モーゼの五書律法(りっぽう)とも呼ばれる。これらはモーセが書いたという伝承があったのでモーセ五書と言われるが、近代以降の文書仮説では異なる時代の合成文書であるという仮説を立て、モーセが直接書いたという説を否定する。)の著者であるとされてきた。
・『出エジプト記』によれば、モーセはエジプトのヘブライ人家族に生まれたが、新生児を殺害することを命じたファラオの命令を逃れるためにナイル川に流され、王族に拾われて育てられたという。長じてエジプト人を殺害し、砂漠に隠れていたが、神の命令によって奴隷状態のヘブライ人をエジプトから連れ出す使命を受けた。エジプトから民を率いて脱出したモーセは40年にわたって荒野をさまよったが、約束の土地を目前にして世を去ったという。

『旧約聖書』の『出エジプト記』によれば、モーセはイスラエル人のレビ族の父アムラムと母ヨケベドとの間に生まれ、兄と姉がいた。モーセが生まれた当時、ヘブライ人が増えすぎることを懸念したファラオはヘブライ人の男児を殺すよう命令した。出生後しばらく隠して育てられたが、やがて隠し切れなくなり、パピルスのかごに乗せてナイル川に流された。たまたま水浴びしていたファラオの王女が彼を拾い、水からひきあげたのでマーシャー(「引き上げる」の意味)にちなんで「モーセ」と名づけた。モーセの姉の機転で、実の母親を乳母として王女に雇われることができた。
・成長したモーセは、あるとき同胞であるヘブライ人がエジプト人に虐待されているのを見て、はからずもエジプト人を殺害してしまう。これが発覚し、ファラオに命を狙われたモーセは逃れてミディアンの地(アラビア半島)に住んだ。ミディアンではツィポラという羊飼いの女性と結婚し、羊飼いとして暮らしていたが、ある日燃える柴のなかから神に語り掛けられイスラエル人を約束の地(聖書中では「乳と蜜の流れる地」と言われている現在のパレスチナ周辺)へと導く使命を受ける。神は、みずからを「わたしはある者」と名乗った。
・エジプトに戻ったモーセは兄アロンとともにファラオに会い、ヘブライ人退去の許しを求めたが、ファラオは拒絶し、なかなか許そうとしなかった。そのため十の災いがエジプトにくだり、最後にはファラオの息子を含めてすべてのエジプトの初子が撃たれた。ファラオはここにいたってヘブライ人たちがエジプトから出ることを認めた。エジプト出発の夜、人々は神の指示通り、子羊の肉と酵母を入れないパンを食べた。神はこの出来事を記念として行うよう命じた。これが「過越祭」の起源である。ヘブライ人がエジプトを出ると、ファラオは心変わりして戦車と騎兵からなる軍勢を差し向けた。紅海に追い詰められ、絶体絶命の状況に陥った。これに対し、奴隷的な状態のままであってもエジプトにいた方がよかったと不平をもらす者もいたが、モーセが手にもっていた杖を振り上げると、葦の海で水が割れたため、イスラエル人たちは渡ることができた。しかし、後を追って紅海を渡ろうとしたファラオの軍勢は海に沈んだ。
・その後、モーセは民と共に苦しい荒れ野の旅を続ける。人々は水や食べ物のことでしばしばモーセに不平をいい、モーセはそのたびに水や食べ物を与えて神の力を示した。このとき、神から与えられた蜜入りのウェファースのような味の白い食料を人々は「マナ」と呼んだ。やがて人々がシナイ山に近づくと、神が山上に現れ、モーセは山に登って十戒を受けた。さらに神はヘブライ人と契約を交わした。

正教会・プロテスタント(ルーテル教会以外)の場合
主が唯一の神であること

  1. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  2. 神の名を徒らに取り上げてはならないこと
  3. 安息日を守ること
  4. を敬うこと
  5. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
  6. 姦淫をしてはいけないこと
  7. 盗んではいけないこと
  8. 偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)
  9. 隣人の家をむさぼってはいけないこと 

カトリック教会・ルーテル教会の場合  わたしはあなたの主なる神である。

  1. わたしのほかに神があってはならない。
  2. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
  3. 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
  4. あなたの父母を敬え。
  5. 殺してはならない。
  6. 姦淫してはならない。
  7. 盗んではならない。
  8. 隣人に関して偽証してはならない。
  9. 隣人の妻を欲してはならない。
  10. 隣人の財産を欲してはならない

・1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目(同時に刑法の根幹)である。
・ユダヤ教の安息日は土曜日であるが、キリスト教会ではイエスの復活の日である日曜日を主の日と呼び、日曜日を聖日として礼拝している。

『出エジプト記』のモーセに関する記述はこれで終わり、後半部(20章~40章)は守るべき掟と儀式に関する詳細な規定の記述に費やされている。
・続く『レビ記』『民数記』『申命記』ではさらに詳細な律法の内容が語られ、その合間にモーセの生涯とヘブライ人たちの歩みとについて記している。モーセは石版の破片を入れた『契約の箱』を先頭にシナイ山を出発し、約束の国を目指してカナンを進んだ。その途上ではモーセとアロンへの反逆が行われたり、不平を言う民を罰する民に神が炎の蛇を送り、多くの死者が出たため、モーセが青銅の蛇を示して民を救った出来事などがあった。
・モーセ五書の最終巻にあたる『申命記』ではモーセの最期が描かれている。「メリバの泉で神が聖なることを示さなかった」ことにより、約束の国に入ることを許されず、ヨルダン川の手前でピスガの頂ネボに登り、約束された国を目にしながらこの世を去った。120歳であった。モーセはモアブの谷に葬られたが、その場所は誰も知らないとされている。
・モーセの死後、その従者であったヌンの子ヨシュアが後継者となり、神の民を導いた。
・ムーサー(モーセ)はイスラム教においてノア(ヌーフ)、アブラハム(イブラーヒーム)イエス(イーサー)、ムハンマドと共に五大預言者のうちの一人とされる。
レビ族

 
 
  ニムロド
ヘブライ語: נמרוד‎)は旧約聖書の登場人物で、『創世記』の10章においてクシュの息子として紹介されている。クシュの父はハム、その父はノアである。  
 
  ダビデ王とソロモン
ダビデヘブライ語: דוד‎ Dāwīḏ (ダーウィーズ), ギリシア語: Δαβίδ, ラテン語: David, アラビア語: داود‎ Dāʾūd)は、古代イスラエルの王(在位:前1000年 - 前961年頃)。ダヴィデダヴィドとも。
羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に着くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となった。旧約聖書の『サムエル記』および『列王記』に登場し、…
イスラム教においても預言者の一人に位置づけられている。
英語の男性名デイヴィッド(David)などは彼の名に由来する。 詳細は不明 
 
紀元前1280年頃 

ユダヤ教の成立

・モーセがヘブル人(これは、民族・人種ではなく、社会的下層の人々を示す)を中心とした集団をエジプトから脱出させ(出エジプト)、シナイ山で神ヤハウェと契約を結ぶ(十戒、律法)。
・カナンに定着後の約200年間は、12部族からなるイスラエル民族が繁栄し、王は神ヤハウェとして人間の王を立てずに、平等な社会を形成する。

紀元前1020年頃
イスラエル王国が成立し、約400年間は外部からの防衛上必要悪として王を立てるが、平等な関係が崩壊し、支配・被支配の構造が作られ、預言者による王への批判が起こる。ダビデと子のソロモンの時代にあたる。その後ユダ王国が成立し、南北に分立する。

紀元前587年、ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされ、バビロンに捕囚される。
バビロン捕囚中の約50年間は、政治・宗教のエリート層の全員が捕囚され異郷の地バビロニアで生活を強いられ、王国もなく、神殿もない状況に置かれた。この中で今までのイスラエル民族の歩みを根本的から捉え直され、民族神・神ヤハウェに対する深刻な葛藤・省察の後に、国はなくてもユダヤ教団として生きる道を選び、大胆な宗教変更・改革が行われた。「圧倒的な政治・経済を誇る異教の地」の下にも拘わらずそれに飲み込まれずに、神ヤハウェの再理解、神との再度の関係修復を実現し、イスラエル民族のアイデンティティを確立したのである。旧約聖書の天地創造物語はこの時代に著述された。これが「神ヤハウェが、この世界を創造した神であり、唯一神である」と理解し直されたユダヤ教である。
この時期の代表的な宗教家は無名であり、旧約聖書学では第2イザヤと呼ばれている預言者である。また、創世記の天地創造の物語も、この時代に、祭司記者といわれるグループによって著述された。

紀元前539年
この捕囚されていたユダ王国の人々がユダヤに帰還した。ここで「ユダヤ」とは、イスラエル十二部族の一つユダ族の居住していた地方の名である。しかし、政治運動であるユダヤ王朝の復興は禁止されたままであったため断念し、捕囚期の宗教改革を受けたヤハウェ宗教の下で「エルサレム神殿の儀礼」と「神ヤハウェの教えであるトーラー・律法の遵守」を2本の柱とするユダヤ教団を発展させた。

死生観
ユダヤ教は死を現実的なものと捉えており、一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。
最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行(貧者の救済など)を成し遂げた者は永遠の魂(来世)を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄(来世)に落ちると考えられている。

問題点
欧人がユダヤ人を差別するのは、西欧人がローマ帝国によってキリスト教を押し付けられ、元来の民族宗教を捨てさせられ、元来の神々を悪魔とされたところに起源がある。
そこで本来ならローマ帝国とキリスト教に向くはずの恨みが、転移のメカニズムによって、強者とつながりのある弱者に向かう。強者に攻撃を向けることは危険だからである。ローマ帝国や、自分たちがどっぷりつかっているキリスト教を攻撃できず、キリスト教の母胎となってユダヤ教を攻撃するのである。
つまり反ユダヤ主義は、深層においては反キリスト主義であるという。

ユダヤ人差別の深層心理  『影の現象学 (講談社学術文庫)
ナチスドイツは、すべてをユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団のまとまり、統一性を高めた。集団の影の面をすべて、いけにえの羊に押し付け、自分たちはあくまで正しい人間として行動する、と。
ユングは、ナチスの動きをキリスト文明においてあまりに抑圧された北欧神話の神オーディンの顕現と見ていた。本能の抑制を徳とするキリスト教への、影の反逆であると理解したのである。

一神教vs多神教
一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い者に移譲しようとする(攻撃者との同一視のメカニズム)。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を慰める。
多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではないか。
その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型的に現われている。 

 
3,000年前
紀元前1000年
(紀元前10世紀)、
約10000年前、人類は農耕とともに母系制から父系制へと移行したと言われる。
(高群逸枝 『女性の歴史』)
6000年前、急激な乾燥化による飢饉が引き金となって、ついに人類初の略奪闘争=戦争が始まった。(河合隼雄説?)
 
約3,000年前
(紀元前10世紀)頃~3世紀中頃まで
弥生時代
 北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つ
 
縄文時代には戦争がなかったと言う説とあったという説があります。たしかに、縄文時代のはじめのころ(草創期)の愛媛県上黒岩洞窟からは、骨製先の尖った道具が刺さった男性の腰の骨が出土しています。そして、以後、縄文時代の各時期に矢尻が刺さった人骨が見つかっています。しかし、縄文人骨の全体からは、極少数であり、これを争いとするか、事故と考えるかは研究者によって違いがあります。つまり、戦争と考えるほどの証拠は不十分なのが縄文時代です。
 ところが、弥生時代に入ると、戦いの証拠が格段に増加します。特に弥生時代のはじめの頃の北部九州では、武器で殺された多くの人骨が、一箇所にまとまって見つかったりします。弥生時代を戦争のはじまりの時代と言う人もいます。
 その戦争の原因は、人口増加にともなう開発によるもので、土地や水などの資源をめぐる争いと考える研究者は多いようです。これは言いかえれば、食料争いです。直接的に今日の晩ご飯を食べるというものではなく、今後、何年分の食料を蓄えるというのも、結局は食料確保の問題ですから、戦いの理由のひとつには、間違いなく食べ物の争いがあったと言えます。totigikenn maizou
 
   
     
   
   
 
(前1000年~前400年) 
縄文時代晩期
土偶-遮光器土偶
遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。
一方で遮光器土偶を模倣した土偶は、北海道南部から関東・中部地方、更に近畿地方まで広がりがある。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていることである。また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。大型のものは中が空洞になっている。これは焼く際にひび割れをしないようにするためだと考えられている。
完全な状態で発見されることは稀で足や腕など体の一部が欠損していたり、切断された状態で発見されることが多い。多産や豊穣を祈願するための儀式において土偶の体の一部を切断したのではないかと考えられている。また、切断面に接着剤としてアスファルトが付着しているものも多く、切断した部分を修理して繰り返し使用していたと考えられている。
1)亀ヶ岡(青森県つがる市)重要文化財
縄文時代晩期には、この亀ヶ岡出土品に代表される様式の土器が北海道から中部・近畿の広い地区にわたって流行する。これを亀ヶ岡文化とも言う。
2)手代(てしろ)森遺跡(岩手県盛岡市)重要文化財-文化遺産オンライン
3)恵比須田遺跡(宮城県田尻町重要文化財-文化遺産オンライン
4)泉沢貝塚(宮城県石巻市)県指定有形文化財
Wikipedia

大きな特徴的な目の表現が遮光器(スノーゴーグル)に似ていたことから遮光器土偶と呼ばれるようになりました。
遮光器土偶の見どころは、極端にデフォルメされた体の表現とともに、全身に施された文様です。
東京国立博物館

5)山形県飽海郡遊佐町杉沢遺跡
 右の頭髪部などを若干欠損するほかは、ほぼ完形の中空の土偶である。目はいわゆる遮光器(しゃこうき)状に表現され、肩や腰の文様は縄目文様を施した後に部分的に縄目をすりけす、磨消縄文(すりけしじょうもん)の手法で飾られ、腹部を縦に貫く線は、2重の隆線で強調されている。また臍(へそ)の部分は内部に連なり、腰部の文様も巧みに強調して表現されている。
 出土状況は特異で、北側と東西に、約20センチメートルの川原石を置いて作った石囲の中に、頭部を北に向けて仰臥した状態で埋納され、その上に長径約30センチの蓋石が被せられていた。あたかも人間が埋納されたかのように置かれ、土偶の性格を考える上に貴重な出土例である。

6)その他  月刊ムー
1)亀ヶ岡
 

3)恵比須田

  土偶-宮城県、鍛冶沢遺跡
完成形 
 
  土偶-北海道室蘭市輪西町
中空の全身立像。北海道における完成形の土偶の出土例は少ない。東北地方の晩期亀ヶ岡文化期に特徴的な「遮光器土偶」をまねたものと考えられるが,形や文様にかなり変容した様相がうかがえる。両腕,両足の下面,および股間部に小孔があけられている。 
 
  土偶-日本出土の土偶
国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の調査によれば、日本全国の出土総数は15000体ほどである。武藤、譽田(2014)は、18,000点程度としている。出土分布は(※沖縄以外の全県から出してはいるものの東日本に偏っており、西日本での出土はまれである。千葉県佐倉市にある吉見台遺跡からは、600個以上の土偶が出土している。Wikipedia

⇒1992年3月 八重樫純樹氏を中心に 第37集 「土偶とその情報」として出土した土偶とそれらにまつわる情報ががデータベース化された。国立歴史民俗博物館
   
 紀元前10世紀  古代核戦争説
・核爆弾が空中で爆発すると、数百万度という超高温の火球が出現し、超高温の熱線と致死量の放射線が周囲に放射される。同時に空気が一気に加熱されることで爆発的に膨張し、衝撃波が発生する。この衝撃波が地表に達すると、地表の土や埃が舞い上がるため、地表ではあたり一面が暗くなる。さらに、爆発時の放射線により土壌等が汚染され、放射能を持つようになる。・紀元前10世紀頃に起きた大戦争を語り伝えた「バラタ族の戦争を物語る大叙事詩」を意味する『マハーバーラタ』をはじめ、古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』、『リグ・ヴェーダ』には、この大気圏内核爆発を想像させる記述が見つかっている。
・超高温の火球=太陽が一万個集まった光り輝く柱
・強烈な熱線=池の水が蒸発、猛火に焼かれた木々のように倒れる戦士たち、火傷で逃げまどう戦象(軍事用の象)、灰と化す住民
・衝撃波=恐ろしい風、うなる雲、揺れ動く太陽
・衝撃波で舞い上がる土埃=方向感覚を見失うほどの濃い闇
・放射能汚染=髪の毛や爪が抜け落ちた死体、毒された食物、鎧を脱ぎ捨てて体を水で洗う生存者
以上のように、記述は具体的で、広島での被爆体験談とも酷似しており、とても想像だけで書いたとは考えにくいというのが肯定論者の主張である。(Wikipedia)
 『バシャール×坂本政道』 
⇒核兵器の使用はアトランティスよりももっと以前にあった。

ガラス化した遺物、核シェルター
キリスト生誕は太陽暦4月7日であるとの研究結果がある。
仏教の開祖とされる釈迦も、その誕生日は4月8日であるとされるが、これも歴史的に裏付けがない。
仏陀(ブッダ、buddha)
・釈迦は紀元前5世紀頃、現在のネパールにいた釈迦族に生まれ、王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。
・35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となった。これを成道という。
・仏陀は自らの覚りを人々に説いて廻り、一説において2月15日安祥として80歳で入滅(死去)。
・仏ともいい、インドのサンスクリット語で「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味で悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人の事を言う。
・釈迦の一切経では、釈迦自身以外にも数多くの仏陀が大宇宙に存在している事を説かれている。(たとえば、阿弥陀経)
・この地球上には釈迦以外に仏の悟りを開いた人はいない

・近年になって仏教が欧米に広く受け入れられるようになって、禅やマニ教の影響を受けてニューエイジと呼ばれる宗教的哲学的な運動が広まり、光明を得た存在をブッダと呼ぶ伝統が一部に広まった。
紀元前550~  ゾロアスター教祆教(けんきょう)マズダー教
記録で確認できる世界最古の創唱宗教
・開祖はゾロアスター、聖典は『アヴェスター』
・「ヨハネの黙示録」と『アヴェスター』の「ザームヤズド・ヤスト」の記述と酷似
・紀元前7世紀頃に成立。人類史上初めて明確に「終末」を未来の出来事として語るようになった。「聖戦」「世界の終末」「死者の復活」「最後の審判」「最終戦争」「神の勝利」「永遠の王国」といったセム系宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)に共通する終末イメージのほとんどのパターンが含まれている。⇒このイメージは3000年近く人類の終末論に影響を与えつづけてきた。
・ゾロアスター教は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と言われることもあるが、これは正しくはない。ゾロアスター教の中では、アムシャ・スプンタなど多くの神々が登場する。
・開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)である。その根本教典より、アヴェスターの宗教であるともいえ、イラン古代の宗教的伝統の上に立って、ザラスシュトラが合理化したものと考えられる。
・光の象徴としての純粋な「」を尊んだため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれ、また祆教(けんきょう)ともいう。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。
(小松左京『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』)
 (小松左京『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』)
  数秘術
・数秘術の創始者は一般的にピタゴラスの定理で有名なピタゴラスと言われている。
彼は「数秘術の父」として知られているが、その数千年前のギリシャ中国エジプトローマでも数秘術が使われていた事を示す証拠が存在している。当時は、許された者にのみ、口頭でその情報が伝えられていたようである。 
西洋占星術易学等と並ぶ占術の一つで、ピタゴラス式やカバラ等が有名である。「数秘学」とも言う。 一般的な占術の方法は「命術」で、占う対象の生年月日西暦)や姓名などから、固有の計算式に基づいて運勢傾向や先天的な宿命を占う方法である。
 
前469~
前399.4.27
ソクラテス
・古代ギリシアの哲学者。
・ソクラテス自身は著述を行っていないので、その思想は、弟子の哲学者プラトンや歴史家クセノポン、アリストテレスなどの著作を通じ紹介されている。
・「汝自身を知れ」(古代ギリシアの賢人の中でこの格言の作者と言われたことがあるのはソクラテスを含み、少なくとも6人いるといわれている。)
・ソクラテスは自身の弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げたり自分の行為を反省したりすることを決してせず、追放の手も拒否し、結果的に死刑を言い渡される。
・神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正をおこなうよりも、死を恐れずに殉ずる道を選んだ。「悪法もまた法なり
・紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わして毒ニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。
・著述をしなかった理由-ソクラテスは、書記言語が野放しの状態の普及を激しく非難していた。話し言葉、つまり「生きている言葉」は、書き留められた言葉の「死んだ会話」とは違って、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。書き留められた言葉は反論を許さず、柔軟性に欠けた沈黙であったので、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスにはそぐわなかったのである。
ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからだという。ソクラテスは、読字を恐れていたわけではないが、過剰な知識が必然的にもたらす結果、表面的な理解しかできないことを恐れていた。
・後に弟子のプラトンがオルペウス教(ピタゴラス教団)的な輪廻転生説に嵌っていくのとは対照的に)死後のことについては一切わからないという不可知論の立場を採る (死刑確定前の弁明においても、「死後のことを知っている者など誰もいないのに、人々はそれを最大の悪であるかのように恐れる。それは自ら知らざることを知れりと信ずる無知であり、賢くないのに賢人を気取ることに他ならない。私は死後のことについては何も知らない代わりに、知っていると妄信もしない。」といった趣旨の発言をしており、ソクラテスがここに相当のこだわりを持っていたことが伺える)。
・一方で、彼は死は自身にとって、禍ではなく、一種の幸福であると言う。なぜなら、死後については二説あって、唯物論者たちの言うように、死が虚無に帰することであり、全ての感覚の消失であるならば、それは人生において他の昼夜より快適だった夢一つ見ない熟睡した夜のごときものであろうし、他方で冥府(ハデス)があるとしたならば、そこで真誠な半神たちによる裁判を受けることができるし、ホメロスやヘシオドスと交わったり、オデュッセウスやシシュフォスと問答することもできる、どちらにしろ幸福である、というわけである。であるがゆえに、死を恐れて不正な裁判に屈することなどなく、善き生を貫徹できるし、善き生を貫徹した者は、死に際しても幸福である。
・このように、死後については「知らない」が、それを自覚しているがゆえに、それについての諸説を冷静に「知る」ことができるし、ひいてはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にとって幸福であることも「知る」ことができ、だから死を恐れずに善き生をまっとうできる、対照的に、知に対する節度をわきまえない独断論者たちは、どこかでつまづき、知りもしないことに踊らされ、翻弄され、そうはならない、といった具合に、「善き生」と「無知の知」はひとつの円環を成し、「無知の知」は「善き生」にとっての必須条件となっている。
無知の知ソクラテスの弁証法、産婆術(助産術)、
・名言-「結婚してもしなくても、どのみち君は後悔することになる」「だが、良妻を持てば幸福になれるし、悪妻を持てば哲学者になれる」
紀元前246~221年頃 の始皇帝の兵馬傭坑出土のクロムメッキの
西欧においてクロムメッキが開発されたのは近代。
それより遙か以前の古代中国においてどのような方法でメッキされたかは不明。
紀元前150~100年 アンティキティラ島の機械
ギリシャ人によって作られた世界最古の歯車式アナログコンピュータが発見された。
アンティキティラ島の機械
紀元1世紀中頃

キリスト教
・「キリスト教」の発生時を決定するのは難しい。今日の学問は、イエス自身ユダヤ教と分離する意識はなかったと想定している。
イエスはキリスト教の基盤を用意した人物であり、教会の直接の起源は、イエスの死後、その復活を目撃したとされる使徒の下に集った共同体と推定される。
・教会の伝承は、自らの始点をエルサレム教会での「聖霊降臨」におく。
・今日の学問は、初期の教団がどの時点でユダヤ教と独立な宗教としての「キリスト教」の自覚をもった時点について、多くエルサレム神殿崩壊の後と推定する。
・当時はイエス自身の活動も含めて、ユダヤ教の一派とみなされていたと推定され、この見地から、当時の教会を「ユダヤ教ナザレ派」と呼ぶこともある。この最初期にすでに複数のキリスト教集団が存在していたことが、パウロ書簡などから確認できる。そこで指導的立場にあったのは、イエスの直接の弟子と親族を指導者として形成されたエルサレム教会であった。

エルサレム教会とアンティオキア教会の対立

・エルサレム教会は、禁欲主義の下に財産を共有して生活をする一種の修道的な教団で、布教活動、ましてエルサレムを離れての活動には積極的でなかったと推測される。しかし、ユダヤ教主流派による迫害を契機に各地に離散したヘレニスト(ヘレニスタイ:ギリシア語使用者)が精力的な伝道を展開し、ユダヤ人のみならず異邦人の改宗者が多数加わり、アンティオキア教会が設立されて、一定の力を持ち始めるようになると、エルサレム教会側も黙っては見過ごせず、対外的な活動を余儀なくされたと思われる。かならずしもヘレニストではないと思われる新約聖書筆者もギリシア語で著述しているのはこのためと今日では考えられている。
・アンティオキア教会の後援で宣教活動をしたパウロは、異邦人改宗者に対して割礼、食物禁忌、律法遵守を免除したため、エルサレム教会から猛反発を受け、各地のキリスト教共同体で論争や分裂が起きた。
・当初エルサレム教会の最高指導者であったペトロは、他の使徒とともに逮捕された。代わりに指導者になったのが、イエスの兄弟または親戚と考えられている「主の兄弟」ヤコブである。

ユダヤ教からのキリスト教の自立
・紀元60年代のヤコブの処刑、続くペトロやパウロの刑死、さらに第一次ユダヤ戦争(66-70年)の結果としてエルサレム神殿が崩壊した後で、(現在のユダヤ教主流派に近い)ファリサイ派ヤムニア会議で(旧約)聖書正典を決定するプロセスにおいて、ギリシア語の七十人訳聖書を主要テキストとしたキリスト教と完全に袂をわかつことになった。ここにおいてユダヤ教とキリスト教の信条の相違は決定的となる。これ以降「キリスト教」としての歴史が始まったといえる。

エルサレム教会の没落と福音書の出現
・ユダヤ戦争以前に、すでにキリスト教は「ヘレニスト」によってユダヤに隣接するサマリアを初めとする地中海沿岸の諸地方へも布教され、各地で教会が設置されていた。これら各地での信仰はエルサレム教会側からみれば逸脱に当たるものもあり、一部はパウロによって軌道修正されたようである。
・ユダヤ戦争以後は、キリスト教内のユダヤ教徒は多くが離脱し、またエルサレム教会の権威が失墜する中で、ギリシア語圏のユダヤ人や非ユダヤ人が新たな担い手となった。それがどのような過程を経て、4世紀頃に見られる古代教会組織に至るかの詳細は史料不足のため不明である。現在の教会組織と役職および称号が固定するのは6世紀である。
・新約聖書学者の多くは共観福音書ヨハネによる福音書ヨハネの黙示録公同書簡の成立をユダヤ戦争以降に見ているが、これには異論もある。
・イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源
・キリスト教の教義はユダヤ教の律法を基礎としたイエスや使徒の言行から発展した。
・理論的発展を基礎付けたのはパウロ書簡およびヨハネによる福音書である。・『新約聖書』のほか、ユダヤ教の聖典でもある『旧約聖書』を教典とする。
・新約聖書の大枠は、4世紀ごろ確立されたが、旧約聖書の範囲は教派により異なる。
・一般に旧約聖書と新約聖書のみを聖典とする宗教をキリスト教とみなすが、まれにこの両者と同等ないしそれ以上の価値をもつとされる文書を使用し、かつキリスト教を名乗る宗教も存在する。
・現在、キリスト教の教派はおもにギリシャなど東地中海沿岸諸国およびロシア、米国に広まる正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック、カトリックに対する宗教改革から発生したプロテスタントがある。ほか数は少数ながら、エチオピア・エジプト・イラク・シリア・アルメニア・インドに跨がって信者を有し、その地方では無視できない信徒人口をもつ東方諸教会と呼ばれる教派もある。

紀元前60年

ミトラス教
ミトラ教またはミスラス教(英語:Mithraism)は、古代ローマで繁栄した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教である。
牡牛を屠るミトラス神を信仰する密儀宗教。信者は下級層で、一部の例外を除けば主に男性で構成された。
・信者組織は7つの位階を持ち(大烏花嫁兵士獅子ペルシア人太陽の使者)、入信には試練をともなう入信式があった。
・ミトラス教はプルタルコスの「ポンペイウス伝」によって紀元前60年ごろにキリキアの海賊の宗教として存在したことが知られているが、ローマ帝国で確認されるミトラス教遺跡はイランでは全く確認されていないため、2世紀頃までの発展史はほとんど明らかではない。いずれにせよ、ミトラス教は2世紀頃にローマ帝国内に現在知られているのとほぼ同じ姿で現れると、キリスト教の伸長にともなって衰退するまでの約300年間、その宗教形態をほとんど変化させることなく帝国の広範囲で信仰された。

 
紀元前4年頃 ~ 紀元後28年頃 イエス・キリストとキリスト教
・キリスト教においては、カトリック、正教会、プロテスタントの多くにおいて三位一体の教義(キリスト教で、父と子と聖霊が一体(唯一の神)であるとする教理。
大多数のキリスト教が受け入れる中心的教義・教理。 )の元に、神の子である救世主として信仰の対象となっており、他の宗派でも最高の預言者、開祖とされている。
・イスラム教においてはマルヤムの子イーサ(マリアの子イエス)として、ムハンマドに先立つ偉大な預言者の一人とされる。
・現在では消滅した世界宗教マニ教においても、釈迦、ザラスシュトラ(ゾロアスター)と並んで、マニに先行する真理の開示者・神から派遣された預言者として崇拝されていた。
西方グノーシス主義においては、イエスはアイオーンであり、悪であるこの世に落ちて苦しむ霊を救うため、プレーローマの永遠世界より訪れた真実開示者(救世主)とされた。
バハーイー教シーク教においても、偉大な預言者であり聖者として高い尊敬を集めている。
・イスラム教においても、ユダヤ教の預言者とともにイエスを預言者(ナビー)のひとりとして受け入れている。
イスラム教では、「マルヤムの子イーサー」(マリアの子イエス、 (??s? ibn Maryam))と呼ばれるが、『クルアーン』の記述によればアッラーフの奇蹟によってマリアの体内に創造された特殊な出自であるが、他の預言者同様「アーダムの子=人間」のひとりであって、決して「アッラーフの子キリスト」とは認められていない。
・『クルアーン』はイーサー(イエス)をたびたび記載しており、死者蘇生や誕生直後に口を利いたといった奇蹟の数々が明言されている。
・一方でアッラーフは人類を含め一切の被造物を超越した存在でありかつ創造主であり、アッラーフ自身が「子を産みもしなければ産まれもしない」ために、イーサーが「アッラーフ」であることも「アッラーフの子」であることも明確に否定している。
 1世紀頃 ヒンドゥー教とバガヴァッド・ギータ
バガヴァド・ギーター、神の詩) はインドの宗教書の一つで、ヒンドゥー教の重要な聖典の一つ。一部に『神の詩』。18章の叙事詩『マハーバーラタ』の一部であり、サンスクリットで書かれた詩編。クリシュナと主人公のアルジュナ王子の対話形。クリシュナ(=ヴィシュヌ、インドに生まれた人物は最高神の化身)と一体化し、我を捨て持って生まれた義務(ダルマ)を遂行することを説いた。インドにおいては『バガヴァッド・ギーター』の占める地位は大きく、時にヴェーダより重要とされることもある。(Wikipediaより)
 
三大預言書と諸書の一つ、「ダニエル書」「イザヤ書」
・アモツの子イザヤは神に幻を見せられる。神からの預言はほとんどが明確なヴィジョンをともなった幻として示される。
「さあ、わがわが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ。激しい憤りが過ぎ去るまで、見よ、主はその御座を出て、地に住むものにその罪を問われる。」(「イザヤ書」26章) 「エレミヤ書」「エゼキエル書」 『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』より
 210年(~275年)ごろ

マニ教(摩尼教、英: Manichaeism
サーサーン朝ペルシャのマニ(210年 - 275年ごろ)を開祖とする宗教。
ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義などの流れを汲む。 かつてはスペイン・北アフリカから中国にかけてのユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教だったが、現在では消滅したとされる。
マニ教は、過去に興隆したが現在では滅亡した(信者が消滅した)代表的な宗教とされてきたが、中国・福建省でマニ教の寺院が複数現存していることが近年確認されている。

 
234年
8月23日
諸葛孔明「誡子書」-その時歴史は動いた」タイトル-死せる孔明・中国を動かす
・蜀(しょく)の丞相だった諸葛孔明(しょかつこうめい)が子孫に残した家訓。その家訓は「誡子書(かいししょ)」-「子を誡(いまし)める書」として、今も諸葛孔明の子孫が住む諸葛鎮という村の大公堂に保管されている。
・中国南部に孔明の子孫が暮らす諸葛鎮という村が見つかった。
・住民はほとんどが「諸葛」姓で、村は迷路として作られている。
・路地の奥の不思議な文様に秘められた孔明の教えとは何か。
1)優れた人は静かに身を修め、徳を養う。
2)無欲でなければ志は立たず
3)おだやかでなければ道は遠い。
4)学問は静から、才能は学から生まれる。
5)学ぶことで才能は開花する。
6)志がなければ学問の完成はない。


「世界ふしぎ発見」より
・Q孔明は、長期遠征(戦)になる際、兵士に戦場で農業をさせ、食糧を自給自足していた。中でも、必ず畑に植えるように指導したといわれるその野菜は、胃腸によく、痩せた土地でもよく育ち、捨てるところがないので兵士が育てるのに適した野菜だった。中国では今でも”諸葛菜”と呼ばれている。その野菜とは?
⇒A蕪(かぶ)
・Q孔明の教えで、諸葛村の人たちが代々受け継いでいる職業とは?
⇒A”良き宰相(政治家)になれなければ、良き医者になれ”。
現在もそれが守られ、諸葛村の人々は漢方薬などの輸入も仕切っているとか。

9世紀、忽然と消えてしまった諸葛一族が1000年後の1992年に発見された。それは諸葛村(諸葛孔明の子孫の村)と呼ばれる八卦の陣形をした村で、
 村の周囲にある八つの山(外八卦)に隠れていたため、長期間発見されなかった。八卦の陣形の村の設計図や諸葛家の系図が公開され、諸葛孔明の子孫と認められたとか。現在、人口4,000人。

→村全体が八卦の陣形に設計されており、初めての者は迷子になる。
紀元前200年~200年までの約400年間  銅鐸の謎
2015.5月、淡路島で銅鐸7個新大発見!! 
謎の青銅器『銅鐸』淡路島で新発見!!
(NHK解説アーカイブス)
 
3世紀半ばすぎ~7世紀末までの約400年間 古墳時代
卑弥呼(ひみこ、175年頃? - 248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。
封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したとされる。
本来の表記は「卑(上部の「ノ」が無い)彌呼」である。
姫・彦制霊能を活用した政治(高群逸枝説)

東北地方三角縁神獣鏡出土全国では540面以上出土-239年~頃か?
会津大塚山古墳福島県会津若松市、東北地方最古級、古墳時代前期[4世紀]、1972年(昭和47年)国の史跡に指定された。
Wikipedia
三角縁神獣鏡は魔鏡!!
(NHK解説アーカイブス)


三角縁神獣鏡は陽光鏡
(NHK解説アーカイブス)
4世紀~

サンマリノ(San Marino)
イタリア半島の中部に位置する国家。首都は国名と同じくサンマリノ。周囲は全てイタリアで、世界で5番目に小さな国(ミニ国家)である。また、現存する世界最古の共和国。-+*-
伝説によれば、キリスト教への迫害を逃れるために、石工マリーノによって西暦301年に建設された信徒たちの共同体が起源。
1291年に教皇によって独立を認められている。
つまりは中世~ルネッサンス期にイタリアに乱立した小国家の最後の生き残りにして、現存する最古の共和国
1862年にイタリア王国と条約を結んだことで近代主権国家としての地位を確立。1992年に国連加盟。
・周囲をイタリア共和国に囲まれた小国が、今のいままで存続してきたのは、何も偶然ではなく、建国以来のこの国の精神が今なお息づいているためということが出来る。
・何よりも平和を、そしてその平和を守るために自由と中立を志す国という方向性があるようだ。
・軍隊らしい軍隊も持たず、隣国の争い事には中立であり続け、侵入者に対しては山頂の砦で防御を固めることにより、自国を守り抜くスタイルを貫き通している。
・また、フランス革命後の混乱にあったフランスにおいて、イタリア方面担当の軍総司令官としてイタリア半島へとやってきたナポレオン・ボナパルトが、サン・マリノ共和国に共感し、食料と武器を届けたこと、平和を目指すサン・マリノは食料はもらったものの、武器は丁重に返したという。
・現在でも、ひとりの人間に権力が集中しないよう国家の代表は2人で半年交代という体制になっている。

574.2.7

622.4.8
聖徳太子と仏教
610~ イスラム教
・唯一神、アッラー(一般名詞。日本語で「神さまー」)という。
・神様の名前はあえて言えば「ヤハウェ」。キリスト教徒が信じているのと同じ神様をイスラム教は信仰している。
・イエスはユダヤ教を改革しようとし、キリスト教の神様はユダヤ教と同じ「ヤハウェ」。
・同じ神をイスラム教も信じ、人類はアダムとイブからはじまったとイスラム教徒も考えている。
ムハンマド(マホメッド)が神がかり状態になるときに、神の言葉を授かるが、神はずっと昔からムハンマド以外の人にも言葉を与えてきた。それが、「ノアの箱船」のノア、「出エジプト」のモーセなど、旧約聖書の登場人物たちだ。ムハンマドはそれらの人物を預言者として認め、さらに、イエスも預言者の一人だった、とムハンマドは言う。
・ただし、神はこれまでの預言者たちにすべてのことを伝えたわけではなく、言い残した言葉がたくさんあったという。人間たちに言い残した言葉を伝えるために選ばれたのがムハンマドで、イスラム教でのムハンマドの位置づけは「最後にして最大の預言者」。神さまは今まで言い残していたすべてをムハンマドにしゃべってしまったので、もう何も人類に伝えることはないという
ムハンマドが他の人間と違うのはそこだけで、他に奇跡を起こしたりとか特別な能力を持っていたりということはない。
・イスラムとは「神への帰依」という意味。帰依とは「深く信仰し、その教えに従う」という意味。「イスラム教」とは「神を信仰する宗教」という意味。
・イスラム教徒のことを「ムスリム」といい、意味は「神に帰依した人々」。
・神がかり状態のムハンマドの言葉を集めたイスラム教の聖典が「コーラン」。この「コーラン」は、神の言葉そのもので、神がムハンマドの肉体を通じて語りかけ、それをリアルタイムで聞いていた信者たちが、書き留めてまとめたもの(アラビア語)。
・「啓典の民」とは、イスラム教徒が同じ神を信仰しているユダヤ教徒、キリスト教徒を呼ぶ言い方。
イスラム教徒の義務---ムスリムの「おつとめ」は「六信五行(ろくしんごぎょう)」
・「六信」とは「神」「天使」「啓典(コーラン)」「預言者」「来世」「天命」の六つ。
・イスラムでも最後の審判はあり、人々は天国と地獄に振り分けられる。「来世」。
・「五行」は、「信仰告白」「礼拝」「断食」「喜捨」「巡礼」の五つ。
・「信仰告白」というのは、「アラーの他に神なし。ムハンマドはその使徒なり。」と唱えること。声に出さなければダメ。この「信仰告白」というのは、次の「礼拝」と一緒におこなわれる。
630年、ムハンマドはメッカを占領したときに、これらの神々の像を全部破壊した。イスラム教の特徴の一つに偶像崇拝の徹底的な否定というのがある。ユダヤ教でもキリスト教でも偶像崇拝は否定しているのだが、イスラム教はもっとも徹底して否定する。唯一の神以外の神像は、当然破壊するし、唯一神は偉大なものだからそれを人間が描くなんてもってのほかだ。しかも、神像を拝むと言うことは神そのもの以外のものを拝むことになるから、一神教の教義に反することになる。

聖職者の存在を認めない
・イスラム教ではお坊さん、聖職者はいない。信者はすべて対等で牧師や神父のように、神と人間をつなぐ一般信者以上の存在は認めていない。
・商人の倫理を重視。商人が正しい契約によって利益を得ることを積極的に肯定している。
・ムハンマド時代、そしてムハンマド死後のしばらくの間は、イスラム世界には国家はなくて「イスラム」だけで人々は生活していた。ムスリムの共同体=ウンマがしっかりしていれば国家などなくてもよい。
・人間は意志が弱いという前提でイスラムの倫理は組み立てられている。結婚の前に離婚の条件を決めておく。夫婦の愛も永遠に続かないかもしれないという、非常に冷静な判断をはじめにしている。人は弱いから決して、永遠の愛は誓わない。同様に、男の理性は性欲に打ち勝てないかもしれない、という前提に立つので、弱い男の理性を崩壊させないように、女は肌を隠す。
・ムハンマドは「すべての妻を平等に愛せるならば」四人まで持ってよいと、条件を付けている。だから、現実には一夫一婦制に限りなく近い。【参考図書】片倉もとこ著『イスラームの日常世界』(岩波新書)

・ムハンマドは預言者であった。彼は世間からあざけられ、精神病患者と決めつけられてしまった。10年間にわたる彼の布教の報酬は追放と貧困と嘲笑だけだった。
・それから10年後には彼は全アラブの指導者となり、メッカを支配し、…広大な地域に強い影響力を持つ世界的宗教のリーダーになっていた。この宗教の教えは基本的に「言葉の力」「祈りの力」「神と人間との触れ合い
、この三つの要素から成り立っていた。
・610年のある夜(当時四十才)ムハンマドは、ヒラーの洞穴で祈りや瞑想していた時、「読め(アラビア語の〈イクラア〉」という耳にした。ムハンマドは、驚いて平伏し、「私は読むことが、できないのです」とその声に答えるも、ムハンマドが最後に「私は何を読んだら、よいのでしょうか」と震えながらたずねるまで、その「読め」という命令はくり返された。
・「読め、創造したまえる方、なんじの主のみ名によって。一凝血から、人間をつくりたもうた。読め、なんじの主は、こよなく尊貴であられ、筆によって教えたもうた方、何も知らなかった人間に、教えたもう方であられる。」(クルアーン第九六章 第一-五節)
・これは、ガブリエル大天使が目前に現れ「ムハンマドよ。汝は神の使いである」と告げた。上記コーランの冒頭の言葉によるとガブリエルが現れ、巻物で彼の喉首を押さえるようにして「これを誦」と言ったという。これが最初の啓示だった。
・その後まもなく彼の妻ハディージャは、イスラームに帰依した最初の人になった。
・この最初の啓示があってから、アッラーは天使ガブリエルを通してムハンマドに啓示を与え、彼がアッラーの教えを広め、誤った人々に正道を伝えるためにアッラーの使徒として選ばれたことを告げられた。
・この時からムハンマドはイスラームの布教活動をはじめ、神の唯一性、アッラーへの帰依偶像崇拝のおろかさ、及び現世での行為がアッラーの前で裁かれる最後の審判の日の到来を人々に説きはじめた。その当時の宗教はただ単に信心だけでしたが、イスラームは、行動を伴わない単なる信心は全く無意味で人間生活には無益なものであることを人々に強く説いた。
・クルアーンは、神の唯一性について次のように宣言している。「言え、かれはアッラー、唯一者であられる。アッラーは、自存者であられ、かれは産みたまわず、また産まれたまわぬ、かれに比べ得る何ものもない。」(クルアーン第一-二章 第一-四節)
・アッラーからのお告げはきわめて簡単で基本的なものだったが、メッカの多くの偶像崇拝者たちには、きわめて危険な挑戦と脅威に感じられた。彼等はこれまでの自分達の生活様式変えたくはなく、また偶像をすててしまっては自分達の力も失われるものと心配して、ついにきわめて残酷で執拗なやり方でムハンマドを迫害しはじめた。しかし、アッラーに守られている人を実際に傷つけることは誰もできなかった
・630年1月カーバの神殿にある360個の偶像をすべて破壊。
・ムハンマドはユダヤ教徒やキリスト教徒にも門を開き、唯一の神を信ずる人なら誰でも迎えいれた。
しかし、彼らはムハンマドの説く「人は皆平等」という信念すら受け入れようとはしなかった。それゆえ、ムハンマドの信念のために殺された人間は一人だけではなかった。
・その後何世紀も過ぎてから、十字軍がエルサレムを侵略し、男女を問わずイスラム教徒を殺戮した。しかし、キリスト教徒は一つのイスラムの教えを受け継がなければならなかった。それは学問の場、すなわち「大学」を作る必要性についてである。『思考は現実化する-携帯版』 「最後の預言者 トーマス・サグリュー」P315~319より一部抜粋
 天武天皇(第40代、631~686年)

殺生肉食禁断の詔勅の公布
・仏教とともに、渡来人が押し寄せてきた時代である。
・縄文日本の基幹を脅かす出来事なので、国民に詔勅を出した。

その次は、大陸から非常な勢いで新しい文明とか技術とか、政治制度とか、より先進的、理知的、攻撃的、強欲的、暴力的、効率的、人為的、階級差別的なものが入ってくるでしょ。それを古墳時代といってね、大きな古墳を権力者のトップ、王とか大豪族たちの陵墓として造ったのが古墳時代。その時代には中国大陸から、縄文日本とは異質な家畜制度が入ってきたわけ。牛とか馬とか、羊は入ってないですね。主として、牛や馬ですね。
・危険な
家畜制度が入ってきて日本に定着させようという危うい絶妙の機をとらえて、天武天皇(第四十代、六三一~六八六年)が出現された。その天武天皇が、七世紀の後半に、「殺生肉食禁断の詔勅」(せっしょうにくじききんだんのしょうちょく)というのを出したわけ。殺生というのは生き物を殺すのね。それから肉を食べる。殺生と肉食を禁止する詔勅を出したんです。
・そのあと三人の天皇も最初の「殺生肉食禁断の詔勅」をより強化する方向で詔勅を出している。合計四度出しているんです。最後の四回目は京都に都を移した桓武天皇(第五十代、七三七~八〇六年)。
・だから天武天皇から桓武天皇まで四度、殺生肉食禁断の詔勅が出て。それでね、その後ずっと幕末まで、千二百年間も、世界でも稀に見るまったく正しい基本的な国是として日本はもっていきました。
・つまり野生動物を家畜として飼育して、それを基礎とした文明というのは、これは一見いいようで、非常な危険性を孕んでいるものだというふうに
直感的にみて天皇の詔勅になり、日本全体の国是として守られた。それで、なぜ家畜制度が危険かということは、…全面的に、理論的に分析してどうこうというんじゃなくて、ですよ、勘。そこでひょいと危険を回避したんです。 『まもなく日本が世界を救います』より

 
751~753

鑑真来日
奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。
栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。
その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。
751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡死去。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明。
752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使・藤原清河らに渡日を約束した。しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。
そのために753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船させた。11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流して日本に到着できなかったが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津の秋目に無事到着し、実に10年の歳月を経て(最初の渡海企図は743年夏のことだった)仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。

 
988~  ロシア正教会の歴史
まとまった形を伴ったルーシの正教会の歴史は、988年キエフ大公ウラジーミル1世が、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世の妹アンナを妃とし、公式に東ローマ帝国の国教である正教会の洗礼を受けた時から始まるとされ、この年がロシア正教会の歴史の基点とされることが多い。府主教座は当時ルーシ[注 3]の中心都市であり、キエフ大公国の首都であったキエフにおかれた
 
13~15世紀 ナン・マドール遺跡ナン・マトール遺跡・Nan Madol)
ミクロネシア連邦のポンペイ島にある13世紀~15世紀の巨石構築物群である。ナン・マトールとは「天と地の間」「神々と人間との間に広がる空間」という意味。総面積40m2の92の人工島からなり、伝承によると行政、儀礼、埋葬などそれぞれの島で機能分担していたと言われる。伝承や遺物の検証からすると政治・宗教の拠点となった水城であったと考えられる。
1128~1307

テンプル騎士団
ユーグ・ド・パイヤンは、自分たちのグループもヨハネ騎士団のような騎士修道会として認可されたいと願い、当時の宗教界の大物であったクレルヴォーのベルナルドゥスに会則の作成と教皇庁へのとりなしを依頼した。ベルナルドゥスの尽力の甲斐あって1128年1月13日、フランスのトロアで行われた教会会議において、教皇ホノリウス2世はテンプル騎士団を騎士修道会として認可した。当時のヨーロッパ貴族の間では聖地維持のためになんらかの貢献をしたいという意見が多かったため、テンプル騎士団はフランス王をはじめ多くの王侯貴族の寄進を得て入会者も増えた。1139年に教皇インノケンティウス2世がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与したことが、その勢力を拡大する契機となった。
軍事組織としての表の顔に加えて持っていたテンプル騎士団のもう一つの顔は金融機関としてのものだった。
もともとは入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。会の活動目的が聖地守護軍事活動であっても実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。ここで特筆すべきは、巡礼者の預金証を作成し、彼らの資産を預かるサービスを編み出したことである。
このような新たなビジネスモデルの構築と、多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。パリにあった支部はフランスの非公式な財務省といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する財政援助を行っている。
1307年10月13日、フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕。異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行った。異端審問において立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであった。騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定された
さらに1312年、教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意をうけて開いた会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定。
フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知したが、効果はなかった。資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために1314年、投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。ジャック・ド・モレーら最高指導者たちは処刑された。

 1210

聖フランチェスコ
以前から、若いフランチェスコは「キリストの愛は生きている、だが、どこに生きているのだろうか...」と探しあぐねていました。癩者に接吻するようにという神の促しがあったのでしょう。そして遂に、癩者のなかにキリストの愛が生きているということを知ったのです。こうして福音に確信を見出した彼は、祈祷の最中に聞こえてきた早く言って私の家を修繕しなさいという神の声に従い、それまでの裕福な生活を捨てて無一文になり、神と人々に奉仕する生活に入ることを決意します。古い教会堂を修理し、人々に神の言葉と回心を告げ、労働をして生活の糧を得、それが得られない時には托鉢をするという生活を自らが選択したのです。全ては神に対する愛ゆえになされたことでした。
 やがて、フランチェスコの周りには、彼と志を同じくする若者たちが集まるようになりました。彼らは会則に基づいて、貧しさのうちに生活をし、祈りに時を過ごし、神の言葉と回心を告げ、平和について語り、病人の看護と労働に従事するようになります。そして、この小さな共同体が12人になった1210年、当時の教皇インノセント3世から「原始会則」と呼ばれる会則の認可と修道会設立の許可を得ます。こうして、「小さき兄弟会(Ordo Fratrum Minorum)」という修道会が設立されたのでした。 

 
  聖フランチェスコと聖クララ
修道生活に入る前の若いフランチェスコは、友達におごるのが好きで、派手に騒ぐことが多かったのですが、酒宴の最中に独り道に出て、星を眺めていることもあったそうです。その彼が「何を考えているのか」と問われると、「神のことを考えている」と答えます。「嫁さんのことでも考えたらどうか」とからかわれると、「結婚か、おれは神とめあわされることを思っていたのだよ」と言ったというのです。そんな彼の前にクララという娘が現れます。
クララはアッシジの貴族の娘ですから、ブルジョワの息子フランチェスコよりも高い身分であったと思われます。ところが彼女は気まぐれな青年、時には狂気の青年とさえ見られたこともあるみすぼらしい修道士フランチェスコに心から傾倒し、彼と理想を分かち合うことを決意します。
そして、フランチェスコに「私もあなたのようにひたすらキリストを慕って生きたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と相談します。フランチェスコは忠言を与えて、「あなたの抱いている夢を捨てなさい、世の中の喜びをすべてあきらめなさい、そして、できるだけ貧しい生活に入り、祈りと禁欲を続けなさい」と言います。彼女は感動し、1212年3月のある日、日曜日のミサに参列した際に両親や兄弟に申し出て、裕福な生活と訣別することを宣言します。
そして、全くフランチェスコに倣って生涯を終えるのです。フランチェスコ会が西欧キリスト教世界に歴史的な影響を及ぼし、後世大修道会になったように、聖クララ会も代表的な女子修道会になります。この両巨頭とでも呼ぶべき2人はアッシジの隣人同士でした。  
 
1310.61 マルグリット・ポレート著作 「単純な魂の鏡」
数世紀にわたって著者不明のまま世に現れた、「単純な魂の鏡」 ( Mirouer des simples ames ) は、フランス語で書かれた原典から、14,15世紀には、ラテン語、イタリア語、英語に翻訳され啓示を受けた正統な信仰の証しによる信心書としてヨーロッパ中で広く読み継がれていた。
 この著作の著者が、マルグリット・ポレート ( Marguerite Porete 1310年6月1日没 )であることを最初に指摘したのは、イタリアの学者 R.グァルニエーリによる1946年の論文だった。
 マルグリットの生涯とその悲劇的死を知る手がかりは、宗教裁判の記録と、この事件の経過を略述する数種の年代記が残されている。
 異端審問の裁判記録によれば、マルグリットは、エノー ( Hainaut ) 出身のべギンであり、彼女の著書は、1306年、カンブレ ( Canmbrai )の司教によって異端の有罪宣告を受け、ヴァランシエンヌ ( Valenciennes ) 広場で焼かれた。
 1309年4月、マルグリットの著作が、二度目の検閲対象となったた。フランス管区総審問官パリのギョーム ( Guillaume de Paris 1314年没 ) の管轄下、12名のソルボンヌ神学者によって、彼女の著作から異端の疑いのある15項目が、審理された。
 マルグリットは、逮捕されて以来、宣誓することを拒み、審問官の質問にも答えなかった。
 5月31日、再背教者 ( relapse ) として有罪の宣告を受け、1310年6月1日、パリのグレーヴ広場の火刑台上で焚刑が、執行された。
 ある年代記は、彼女の毅然とした態度が、群衆の涙を誘ったと伝えている。
1300?  マルコ・ポーロと東方見聞録 (『まるこぽろ紀行』)前4巻

1271年にマルコは、父ニコロと叔父マッフェオに同伴する形で旅行へ出発。
ペルシャからパミール高原、ゴビ砂漠を越え、1275年に上都でフビライ・ハンに拝謁。ハンに重用され、元の各地に使節として派遣されるなど見聞を深めることとなる。
そして1292年に船で泉州を発ち、セイロン、アラビア海をへて、1295年に3人でヴェネツィアに戻るという、実に四半世紀にわたる大旅行となった。

1295年に始まったピサジェノヴァ共和国との戦いのうち、1298年のメロリアの戦いで捕虜となったルスティケロと同じ牢獄にいた縁で知り合い、この書を口述したという[8]

・日本では、ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」(Cipangu) として紹介したという点で特によく知られている。しかし、実際はマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話として収録されている。

ジパングは、カタイ(中国北部)(書籍によっては、マンジ(中国南部)と書かれているものもある)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。
・ジパングには、
偶像を崇拝する者(仏教徒)と、そうでない者とがおり、外見がよいこと、また、礼儀正しく穏やかであること、葬儀は火葬か土葬であり、火葬の際には死者の口の中に真珠を置いて弔う習慣がある。」といった記述がある。
・「莫大な金を産出し」というのは、遣隋使以降日本の中国使節はその滞在費用として砂金を持ってきたこと、
・「宮殿や民家は黄金でできている」というのは中尊寺金色堂(1142年~)の様子が誇張されて中国に伝わったこと等を核に日本の黄金伝説が形成されたのではないかという仮説も提示されている
。 Wikipediaより

 
1346  黒死病=ペストの流行
・黒海に面する通商都市カッファでペストの流行はじまる。
・古くは542年ユスティニアヌス大帝在位中に地中海をおそった疫病はペストとされている。 
帝国書院のHP
大阪市立大学大学院経済学研究科教授
脇村 孝平 
1401~1549  日明貿易(にちみんぼうえき)開始
室町時代日本室町幕府)が朝と行った貿易。
特に室町幕府大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。 ただし、勘合はあくまで外交使節に発給された通行証であり、貿易許可証ではないため「勘合貿易」と言う呼称は使用するべきではない、という意見が通説となっている 
 
15~18世紀 魔女狩り
かつて魔女狩りといえば「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かったが、このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、もともと民衆の間から起こった魔女狩りはこの間にかけてみられ、全ヨーロッパで最大4万人が処刑されたと考えられている。
1425~1428

ジャンヌ・ダルク
ジャンヌは1425年、初めて「声」を聞いたとされる
後の処刑裁判での答弁によると、聖女カトリーヌとマルグリット、そして大天使ミカエルの声であったという。「」はジャンヌにヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会い、オルレアンの包囲を解いてフランスを救うよう告げた。
ジャンヌは「」に従い、1428年5月にボードリクールの元を訪れたが追い返された。
到着直前に伝令使は、ジャンヌの手紙を持って一足先にシノンに入った。その知らせを聞いた王太子シャルルは、ジャンヌと会う際にちょっとした芝居をしたと言われている。側近たちの中に紛れて王太子らしくない服装でジャンヌを呼んだが、ジャンヌはすぐに本物のシャルルを見抜いた。ジャンヌとシャルルは幕僚たちから離れ、二人きりで話をすることになった。
そしてジャンヌはシャルルに、「」から授かったシャルルの王としての正統性を証明する秘密の話をした。これは王太子の兆候(シーニュ)に関する話であったと伝えられている。
ジャンヌは後の処刑裁判でも、この時の秘密の話についての内容を証言することをかたくなに拒み続けたため、どのような内容だったのかは不明である。いずれにせよ、王太子であったシャルルはこの話を聞き、ジャンヌを信じることになった。ジャンヌを疑っていた聖職者たちも、ポワティエでの3週間にわたる審理の結果、ジャンヌを認めた。

1371~1434

鄭和(ていわ)
中国代の武将。永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。本姓は、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。
鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。彼の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれその全長は120メートルを超えるような大型船だったとされる。
彼がイスラム教徒の出身だったことは、のちに永楽帝をして鄭和を航海の長として使おうと考えた理由の一つだと考えられる。
・歴史の教科書では、人類で初めて世界一周の航海をしたのは1522年、マゼランのスペイン艦隊だったということになっているが最近、マゼランよりも100年ほど前の14233年ごろ、中国人の艦隊が世界一周していたという調査結果をイギリス人の研究者が発表し、論争を巻き起こした

1467~1615  戦国時代始まる
応仁の乱が始まり大阪夏の陣が終わるまでの約150年間 
 
   
8世紀初頭
 ~1492
イベリア半島のレコンキスタ(スペイン語で再征服、国土回復戦争。北のキリスト教スペインと南のアル・アンダレス【イスラム教スペイン】との間に展開された対立抗争状態のこと)終焉 

レコンキスタはスペイン語で「再征服」の意。8世紀初頭から1492年のグラナダ開城までの約800年間、イベリア半島で北のキリスト教スペインと南のアル・アンダルス(イスラム教スペイン)との間に展開された対立抗争状態をさし、国土回復戦争と訳される。
711年イベリアに侵攻したイスラム軍は短期間でほぼその全域を支配下に置いたが、有力な都市がなく多分に未開の地である半島北辺の山岳部の掌握は、かならずしも十分ではなかった。このために南から避難してきた西ゴートの残存勢力と山岳部先住民が結束し、反イスラムを標榜(ひょうぼう)する抵抗運動の拠点がいくつか生まれた。
やがて、西ゴート貴族ペラージョが722年にイスラムの討伐軍を迎え撃ち、大きな損害を与えて退けた。のちにコバドンガCovadongaの戦いとよばれ、今日一般にレコンキスタの起点とされるこの事件は、時とともにキリスト教徒による半島支配の復活を目的とするイデオロギーをはぐくみ、これの実現に向けての戦いの象徴となった。
初期レコンキスタの弱小な拠点が生き長らえたのは、イスラム教徒が事態を軽視したためであった。とはいえ、コルドバ・ウマイヤ朝がアル・アンダルスの統一を維持する間は、キリスト教スペインはドゥエロ川(ポルトガル語ではドーロ川)とエブロ川を結ぶ線の北側に押し止められた。この均衡は11世紀の前半、後(こう)ウマイヤ朝の崩壊(1031)とカスティーリャとアラゴンの台頭(1035)によって破れ、事態は流動化した。トレド、サラゴサ、リスボンの三都市が相次いでキリスト教徒の手に落ちると、イスラム教徒は北アフリカからの強力な援軍を得て反撃した。だが、これもナバス・デ・トロサの戦い(1212)を境に勝敗が決し、13世紀中葉には西のポルトガルと東のアラゴンはレコンキスタを完了、アル・アンダルスはカスティーリャの属国と化したグラナダ一国に追い詰められた。それでもイベリア全土のレコンキスタ終了(1492)までには、さらに2世紀半余の時間を要した。
長期に及んだレコンキスタは、その後のスペインとポルトガルの近代史によくもあしくも決定的な影響を与えた。不断の臨戦体制は、これら二国の政治、経済、宗教、文化、人々の価値観などあらゆる領域に深い影響を与えた。15世紀末から本格化する両国のアジアと新世界への進出、とくに一気に強大化したスペインのヨーロッパ政治への関与、その黄金の世紀における文化の繁栄、そして経済の破綻(はたん)による17世紀中葉以降の衰退などは、いずれもレコンキスタとのかかわりのなかで初めて説明される。[小林一宏] コトバンク
『J・ビセンス・ビーベス著、小林一宏訳『スペイン――歴史的省察』(1975・岩波書店)』…等
 
 15~16世紀 大航海時代の幕開けとスペインとポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化へ  
1492.10. 12

コロンブス(イタリア生まれ⇒ポルトガル⇒スペイン)と新大陸発見
1492年10月11日の日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける。

最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディアンたちから歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。しかしコロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残している。

「私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワク族インディアン)たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した」
「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄をまったく持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達とともに、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた
「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した
コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見した。ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島と名づけた島に到達。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には39名の男性が残った。
国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。
「彼らが必要とするだけのありったけの黄金…彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ

インディアンへの大虐殺

・1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。
・11月にドミニカ島と名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。
・コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上がり、周辺諸島ではアラワク族タイノ族ルカヤン族カリブ族などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた

・これに対し、コロンブス率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的虐殺弾圧
・行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。
・まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。コロンブスがイスパニョーラ島でしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、窃盗殺人強姦放火拷問を駆使して、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした。

・インディアンたちはゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが、スペイン軍の軍事力と彼らがばらまく疫病はインディアンの想像をはるかに超えていた。最終的に彼らは最善の策は「逃亡」であると決めた。 置き去りにされた作物は腐るにまかされ、やがてインディアンたちを飢餓が襲ったのだった。

・コロンブスが何か月も病に臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。コロンブスが快復するまでに、5万人以上のインディアンの死が報告されている。やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。

1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった
1492年の「新大陸」へのコロンブスの上陸時に約800万人いたインディアンの人口は、1496年の末までに、その3分の1までに減った。
・さらに1496年以降、死亡率は倍加していった。量的にもスケール的にも、コロンブスはエルナン・コルテスフランシスコ・ピサロに並ぶ、虐殺目的で戦争を楽しんだもっとも悪名高いコンキスタドール、征服者の一人と言えるだろう。

クリストファー・コロンブス - Wikipedia 
 
1494  トルデリシャス条約締結(スペイン・ポルトガルの世界分割協議書?)    
1515.3.28
~1582.10.4 

アラブのテレジア
 彼女は闘病中に自分は「回想」という最も低い段階から「平和への献身」もしくは「(神との)合一への献身」という段階まで引き上げられ、それは完全なる恍惚感の一つであると告白した。これは頻繁に鮮やかな「涙の祝福」を伴うものであった。ローマ・カトリックの道徳的なと許されうる罪との区別が彼女には分かり始め、そして、罪深い不正の非常に恐ろしい秘密と原罪の先天的な性質の問題に行き当たった。このことにより、彼女は人間の生まれながらの完全な無力さを意識することが、神への絶対的服従の必要性につながるのだと考えた。
 彼女の超自然的な経験の中にある神聖ではないサタンの要素について、様々な彼女の友人たちの側では、それが彼女を自分に課した最もひどい苦行かつ禁欲へと導く暗示であり、それは彼女の普段の禁欲主義をはるかに超越したものであると捉えていた。
 (1556年頃)その状態は、彼女がフランシスコ・ボルハに告解を行い、彼からそれを許されるまで続いた。
 1559年の聖ペトロの日 (6月29日・月曜日) に、彼女はキリストは目には見えなくても、肉体を持って彼女の前に現前するのだと固く信じるようになった。このビジョンは、2年以上もの間ほとんど途切れることなく続いた。
 また別のビジョンでは、天使が彼女の心臓を繰り返し激しく槍で突き刺した。それは、前例のない、いわば霊的身体の痛みを引き起こした。このエピソードの記憶は、彼女が生涯を通じて持っていたイエスの生命と忍耐との合一の情熱が発せられたおおもとであり、また、彼女のイメージ上のモットー「主よ、私を苦しめるか殺すかしてください」として常に記されていた涙の中に集約される長い愛と苦悩の奮闘を、終わらせようと決心する原動力となった。 

 
1517.11.1

⇒1534年へ

マルティン・ルターと免罪符
煉獄の霊魂の贖宥(しょくゆう)の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。
ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、1517年11月1日、ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた(当時の大学において聖堂の扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。ルターはこの一枚がどれほどの激動をヨーロッパにもたらすかまだ知らなかった。これこそが『95ヶ条の論題』である。ルターはこれを純粋に神学的な問題として考えていたことは、論題が一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことからも明らかである。しかし、神聖ローマ帝国の諸侯たちの思惑によって徐々に政治問題化し、諸侯と民衆を巻き込む宗教改革の巨大なうねりの発端となった。⇒宗教改革へ

贖宥(しょくゆう)状とは
元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)によって許されるとしていた。
西方教会で考えられた罪のゆるしのために必要なプロセスは三段階からなる。まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)が必要であり、西方教会ではこの三段階によって初めて罪が完全にゆるされると考えられた。古代以来、告解のあり方も変遷してきたが、一般的に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。ところが、中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという思想が生まれてくる。これが「贖宥」である。⇒1534年へ

1452年4月15 1519年5月2日 レオナルド・ダ・ビンチとダビンチコード
ルネッサンス(文芸復興運動)-三大発明は印刷・火薬・羅針盤
宗教以前の時代に回帰する必要があった。ダビンチの魔方陣とは??
⇒蒸気機関車の発明により産業革命へ
1521  エルナン・コルテス(スペイン)、アスティカを滅ぼす   
1531~ 聖母予言
聖母マリアが、ある特定の選ばれた人物の前に現れてメッセージを告げる「聖母預言」が始まったのは、残っている記録によれば、5、6世紀ころからである。
このような聖母出現は記録に残っているだけでも数千に及ぶ

聖母預言抜粋
1531年 メキシコ 、ホアン・ディエゴの前に聖母出現の事件
1830年 フランス パリ 、ゾエ・チャサリン・ラブレの前に聖母出現の事件
1846年 フランス ラ・サット、マキシマン・ジローとメラニー・マシューの前に聖母出現の事件 「ラサッ(レ)ト36の告知」 終末預言⇒
1858年 フランス ルルド、ベルナデッド前に聖母出現の事件 有名な「ルルドの奇跡」 「ルルドの聖泉
1533  ピサロ(スペイン)、インカ(王の意味。)帝国を滅ぼす
 エル・ドラード(黄金郷)を探して 
 
1534

マルティン・ルターと聖書
ルターは精力的な活動の一方で聖書の翻訳事業も続けており、1534年に念願だったドイツ語旧約聖書も完成し、出版された。ルターは旧約聖書の諸書の選択において、七十人訳聖書(セプトゥアギンタ:ギリシア語旧約聖書)にあってマソラ本(ユダヤ教徒によって編纂されたヘブライ語聖書)にないものを、聖書正典でないと確認して旧約聖書から排除した。
ルターの新約聖書観については二種類の見解がある。

ルターとは
ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)の神学者、牧師、説教家。ルーテル教会の創始者。
もともと聖アウグスチノ修道会の修道司祭であったが、宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。
聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。
宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化にも大きな足跡を残した。たとえばルターの手によるドイツ語聖書が、近代ドイツ語の成立において重要な役割を果たしたことや、自ら賛美歌をつくったことなどが挙げられる。
元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における教職者牧師の結婚という伝統をつくったことでも知られる(なおプロテスタントでは万人祭司の強調から牧師は聖職者とは呼ばれない)。

1539~ マルティン・ルターと地動説
最初に宗教的な問題として地動説を批判した。
ルターは旧約聖書のヨシュア記でのイスラエル人とアモリ人が戦ったときに神が太陽の動きを止めたという奇跡の記述と矛盾すると指摘した。
~1543

ニコラウス・コペルニクスと地動説
(ラテン語名:Nicolaus Copernicus、ポーランド語名:ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者である。
当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。
これは天文学史上最も重要な再発見とされる。コペルニクスはまた、教会では律修司祭(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。

1543  種子島に流れ着いたポルトガル人によって、日本に鉄砲伝来⇒内戦に影響   
1545  ボリビアで銀が見つかる   
1549~ フランシスコ・ザビエルと日本人、ヤジロウ(ヤジロー)
・弥次郎。または当時の音韻からアンジロウ[アンジロー]、洋風にアンジェロ[天使の意]という。
1511年(永正8年)頃? - 1550年(天文19年)頃?)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される。
・ザビエルの通訳者、神(デウス)概念や聖句などの翻訳者として活躍し、日本(西日本)で布教・宣教活動に従事した。
・ザビエルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、日本人として初めて洗礼を受けた。霊名は「パウロ・デ・サンタ・フェ」(聖信のパウロ)。また、同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学んだ。
日本でキリスト教の布教をした場合についてザビエルに問われ、スムーズに進むだろうと答えた。ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。
・1549年4月19日、ザビエルに従いゴアを離れ8月15日に鹿児島に上陸。ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。
・島津貴久と薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室にんじつと好んで宗教論争を行ったとされる。
比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。
・1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。…献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった。ザビエルは、初めて日本に眼鏡を持ち込んだといわれる。
これらの品々に喜んだ大内義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。
1555

ルターと宗教改革
ルターは、1517年にローマ教会の堕落に抗議して95ヶ条の論題を打ちつけ、この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。
宗教改革は各地に拡大し、ローマ教皇の絶対主義に嫌悪していた周辺の諸侯の支持を得た。農奴制からの解放を求める農民も反乱を起こし、神学者であったトマス・ミュンツァーがこれに呼応し、闘争が激化するとルターはこれを批判するようになり、鎮圧された(ドイツ農民戦争)。カトリックを支持する神聖ローマ皇帝と、ルター派の諸侯の間で戦闘が続いたが、1555年にアウクスブルクの和議が結ばれ、諸侯はカトリックと新教(ルター派)を選択する権利が認められた。

1571  織田信長による比叡山延暦寺焼き討ち事件
織田信長とキリスト教

1543年に、 種子島に流れ着いたポルトガル人によって、日本に鉄砲が伝来
1549年には、スペイン人宣教師ザビエルが、鹿児島に上陸
この ころから、 南蛮(スペイン・ポルトガルや、東南アジアの国々)の品々が、日本に 入ってくるようになりました。織田信長は、ポルトガル人宣教師フロイスから、南蛮のことを聞き、南蛮の品々を贈られて南蛮文化を取り入れたい、と思うよう になりました。
そして、フロイスらの求めに応じて、キリスト教を保護し、教会の 建設に協力したりしました。しかし、信長自身は、キリスト教を信仰しなかったのです。つまり、信長は、南蛮文化の取り入れに、宣教師が大きな役割を果たしてい ることを認めていたから、キリスト教を保護して、宣教師を大切にあつかっただけ のようです。
信長が京都に入ると、これに反発する武田・浅井・朝倉・三好などの大名や、 石山本願寺・比叡山延暦寺などの仏教徒集団が、協力し合って、信長をたおそうとし ました。信長は、これらの敵を、次々につぶしていきました。しかし、石山本願寺 や、 伊勢(三重県)長島の一向一揆には、長い間苦しめられ、たくさんの家来が戦死しました。そのため、信長は、仏教をにくむようになりました。信長がキリスト 教を保護したのは、仏教へのにくしみの うらがえ 裏返しではないか、ともいわれています。
学研
B026109050.pdf (gakken.co.jp) 
~1572 インカ帝国滅亡
南北4000km、人口1000万人にも及ぶ強大な国として繁栄。
・1533年、侵略を企てた、わずか168人のスペイン人たちによって、アッサリと滅ぼされた。
・時は、アタワルパ王の時代、インカ帝国は天然痘などの病気が流行り、内戦が勃発するなど治安が不安定になっていた。インカの預言者によると、「顔の色が白くて、アゴひげを生やした人間」が、救世主として現われるとされていた。
その予言通りに、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン人たちが現われ、フランシスコ・ピサロは、王を捕らえる。囚われの身となったアタワルパは、言われたとおり部屋一杯の「金製品」を身代金としてスペイン人たちに差し出すが、処刑されてしまう。
1573  室町時代終わる
織田信長が足利義昭追放した 
 
16~17世紀 魔女狩り
・16世紀から17世紀、さらに限定すると1590年代、1630年ごろ、1660年代などが魔女狩りのピークであり、それ以外の時期にはそれほどひどい魔女狩りは見られなかった。
当時のヨーロッパを覆った宗教的・社会的大変動が人々を精神的な不安に落としいれ、庶民のパワーと権力者の意向が一致したことで魔女狩りが発生したということである。
・ローマ・カトリックは女性が生来持っていると言われる霊的能力霊視輪廻転生などに関する直感と教義と相違に対する不安から女性を迫害したのではないか?
1587.7.24  豊臣秀吉とバテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)
1587年7月24日天正15年6月19日)に豊臣秀吉筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。
バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreに由来し、英語のfatherとともに、「父親」を意味する印欧祖語に由来する。

豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。
1586年(天正14年)3月16日には大坂城イエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日には
イエズス会に対して布教の許可証を発給している。

しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化され、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られているとの讒言を天台宗の元僧侶である施薬院全宗から受けたとされる。このときに『天正十五年六月十八日付覚』が施薬院全宗と見られる人物によって起草された。
この翌日の6月19日7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モールドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡して
キリスト教宣教の制限を表明した。ウイキペディア 

 
1592~1598  秀吉の2度にわたる朝鮮出兵の真相
・その原因-名誉のためか、土地が欲しかったのか
最新説、それは、東シナ海貿易の権益を握ろうとしていたのではないか。これは東北大学名誉教授の平川新先生が出された解釈なのですが、僕はこちらが今のところ、いちばん納得できる説だと思います。
当時はいわゆる大航海時代。ヨーロッパ諸国の船が東シナ海まで来て、貿易を行っていた。その貿易の主導権を握りたい。そうした織田信長以来の思惑が秀吉にもあったのではないでしょうか。 
 東洋経済
本郷和人 東京大学史料編纂所教授 「戦国最大のナゾ 豊臣秀吉が朝鮮出兵した真相」
1600 

イギリスインドに東インド会社設立
複数存在する東インド会社のなかでもっとも有名なのが、イギリスのものではないでしょうか。
1600年に、女王のエリザベス1世からアジア貿易の独占権を得て設立されました。

当時は、フランシス・ドレークという人物がイギリス人として初めて世界一周を達成し、世界の海への進出を目指していた時期でした。インドネシアなどの香辛料を得ることを主な目的とし、インドのスーラトやジャワ島のバンテンに拠点を置いて、オランダなどと貿易利権を巡って激しく争います。

しかし1623年、オランダ領東インド(現在のインドネシア)のアンボイナ島にて、オランダがイギリス商館を襲撃して職員全員が殺される「アンボイナ事件」が発生しました。殺害されたなかには、傭兵として雇われていた日本人も含まれていたようです。

これによってイギリス東インド会社による香辛料貿易は挫折。アジアからの撤退を余儀なくされることとなりました。活動の拠点をインドに移すことにします。

インドではカルカッタ・マドラス・ボンベイなどを中心に、今度はフランスの東インド会社と争います。
1757年に起きた「プラッシーの戦い」でフランスを破り、インドの覇権を握ることに成功しました。

そしてこれ以降、単なる貿易会社にとどまらず、政治的にもインドを支配するようになっていくのです。 

 
1600.10.21  関ヶ原の戦いがおこる   
1602  オランダ東インド会社設立
今までの諸会社を合同してオランダ東インド会社(羊毛工業⇒木綿工業⇒産業革命へ)を設立し、これに貿易・軍事・外交・行政の独占権を与えて、諸外国と戦争して積極的にアジアへ進出を開始 
 
1603  徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く   
1612  徳川家康、幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令
豊臣秀吉の後を継いだ徳川家康は、当初キリスト教の布教に寛容だった。
家康は、征夷大将軍になったとき、イエズス会やキリスト教勢力と和解している。「
秀吉が壊した外交関係は一旦、修復させてみる」というのが家康の方針だったようだ。

・家康がキリスト教を禁止したのは、慶長14(1609)年に起きたポルトガルとのトラブルが契機になっていた。日本の朱印船が、マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまったのだ。その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈させた。この一連の出来事では、幕府の役人と肥前日野江藩(長崎県)主の有馬晴信とのあいだの贈収賄事件なども絡み、江戸幕府草創期の大不祥事となった。この事件により、慶長17(1612)年に、家康は幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令した。
・しかし、この事件は、単なるきっかけに過ぎず、家康はキリスト教禁教の機会をうかがっていたのである。戦国時代当時、キリスト教は、我々が思っている以上に普及していた。キリシタン大名の追放が始まった慶長19(1614)年の時点で、日本人の信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られている。当時、日本の人口は1200万人程度だったとされているので、人口の2〜4%がキリスト教徒だったことになる。長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があり、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に100〜200人程度いて、教会は200か所あった。長崎などは、一時、イエズス会の領地のようになっていたこともあった。 
東洋経済
徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 元国税調査官 大村大治郎
『家康の経営戦略』より一部抜粋
  なぜキリスト教が世界を席巻したか?
ローマ教皇は、ポルトガルスペインに対し、キリスト教を布教することと引き換えに、世界をポルトガルとスペインで二分する許可を与えた。
・この命により、両国は世界中に植民地を持つ代償として、各地に宣教師を派遣し、教会を建設する義務を負ったのである。ポルトガルとスペインの交易船には、宣教師も乗っており、新しく交易を始める土地では、必ず布教の許可を求めた。布教を許可した土地のみと、交易を開始したのである。彼らが日本に来たときも、取引をおこなう条件として、キリスト教の布教許可を求めた。
・諸大名たちは、南蛮船と交易をするために、キリスト教の布教を認めた。そのため、戦国時代にキリスト教が爆発的に広がるのである。 
・当時の南蛮貿易は、西洋の珍しい文物を運んでくるだけのものではなかった。というのも、日本に来る南蛮船のほとんどは、マカオや中国の港で積んだ物資を持ってきていたからだ。
すでに鉄砲の製造は日本でもおこなわれていたが、鉄砲の弾丸に使われるや、弾薬の原料となる硝石などは、当時の日本では生産できず、海外からの輸入に頼るしかなかった。南蛮貿易を介さなければ、鉄砲の弾薬や火薬の原料などは手に入らなかったのだ。つまり、南蛮貿易の隆盛やキリスト教の普及というのは、諸大名の軍需物資輸入がいかに大きかったかを裏づけるものでもあったのだ。
・またキリスト教徒たちが、日本各地の寺社を破壊することもたびたび起こっていた。
・スペインにいたっては、日本への武力侵攻を検討したこともあった。当時の日本は戦国時代で、大名たちの戦力が充実していたために、侵攻を断念しただけだったのだ。
・もし、日本が戦国時代ではなかったら、ほかの東南アジア諸国のように、ポルトガルやスペインから侵攻されていた可能性もあるのだ。
東洋経済
徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 元国税調査官 大村大治郎
『家康の経営戦略』より一部抜粋 
  家康が、キリスト教を完全に禁じたのは「キリスト教の危険性」と、もう1つの大きな理由
・家康がまだ征夷大将軍になる前の慶長5(1600)年4月、大分の臼杵(うすき)にオランダ船のリーフデ号が漂着した。臼杵藩の藩主・太田一吉は、乗組員を保護し、長崎奉行に報告した。リーフデ号は大坂に回航されることになった(「関ヶ原の戦い」の少し前、豊臣政権だったときのこと)。
この時期、豊臣政権の番頭格だった石田三成は、失脚して領国に戻っており、事実上、家康が政務を取り仕切っていた。そのため、家康が、リーフデ号の検査、尋問などをすることになった。
・日本にいたスペインのイエズス会の宣教師たちは、リーフデ号のことを聞きつけ、家康に処刑するように注進した。イエズス会は、カトリック・キリスト教の修道会であり、当時はプロテスタント・キリスト教と激しく対立していた。
・リーフデ号の母国オランダは、プロテスタントの国である。だから、日本在住のイエズス会としては、プロテスタントの勢力が日本に及ぶことを非常に恐れていたのだ。しかし、家康は、イエズス会の宣教師たちの注進は聞き入れず、リーフデ号を浦賀に回航し、乗組員を江戸に招いた。
・家康は、リーフデ号の乗組員から海外情報などを仕入れ、一部の乗組員は家臣として取り立てた。幕府の要人となったオランダ人のヤン・ヨーステンや、三浦按針(イギリス人のウィリアム・アダムス)は、このリーフデ号の乗組員だった。
・当時のキリスト教世界では、ルターの宗教改革から生まれたプロテスタントが、急激に勢力を拡大している時期だった。プロテスタントは、免罪符に象徴されるような教会の権威主義、金権主義を批判し、純粋な信仰に戻ろうという宗派である。そのため、旧来の教会であるカトリックと、新興宗派であるプロテスタントは、激しく対立していたのである。
・ポルトガルやスペインは、カトリックの国だった。彼らが、大航海をして世界中に侵攻していたのも、じつはカトリックとプロテスタントの対立が影響していたのである。プロテスタントに押されていたカトリックは、少しでも多くの信者を獲得するために、積極的に世界布教に乗り出したのだ。戦国時代に日本にやってきたポルトガル、スペインの宣教師たちは、皆この流れに沿ったものなのである。
・一方、オランダプロテスタントの国だった。オランダは、新興海洋国でもあり、ポルトガルやスペインに続いて、世界中に進出し、貿易や侵攻をおこなっていた。オランダも、キリスト教の布教もおこなっていたが、それはメインの目的ではなく、金儲けが最大の目的だった。日本に対しても、キリスト教の布教を強く求めることはなく、貿易だけを求めてきた。
・家康はこの事情を知り、オランダとだけ貿易をすることにしたのだ。しかも、幕府が独占的にオランダと交易をおこなえば、貿易における旨みを幕府だけが享受することができる。そのため、江戸時代を通じて、オランダが唯一の西洋文明の窓口となった。オランダからの文物を学ぶ「蘭学」は、日本の最先端の学問となったのである 
東洋経済
徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 元国税調査官 大村大治郎
『家康の経営戦略』より一部抜粋 
1631~  サンマリノ共和国の独立
1631年ローマ教皇が独立を承認し、世界最古の独立共和国となった。その後、1815年には、ナポレオン戦争後のウィーン会議でサンマリノの独立が再確認されている。
19世紀半ばのイタリア独立運動(リソルジメント)でも義勇軍を派遣して独立国として残った[3]1862年、統一されたイタリア王国とのあいだに関税同盟を結ぶ一方、友好善隣条約を結んで近代国家としての主権と独立を獲得し、それ以来イタリアとは密接な関係を維持している。イタリアとの間では1897年に友好条約を締結、1953年にはこれを更新した。冷戦終結後の
1992年には国際連合国際通貨基金(IMF)に加盟した。 
人口は3万人
 
1631年  姦淫聖書
英国で出版された聖書で、「not」を書き漏らし、「汝、姦淫すべし」との版が流通したためこれをそう呼ぶ。 
 

1639~   1854
 
鎖国状態となる
一般的には1639年寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、
1854年嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」 (英closed country) と呼ぶ。 
 
1650  クエーカー教徒(友会)とジョージ・フォックス
初期のクエーカーは自らを背教の時代の後の真のキリスト教会を回復するものと考えていた。その為、この時期自らを単に聖者または光の子と呼んでいた。もう一つの公の名称は、真理の友であり、真の状態を示す「内なる光」として初期のクエーカーの教義の中心点を反映していた。
「クエーカー」という名称は、ジョージ・フォックス師がダービーのベネット判事に神名冒涜罪で裁かれた1650年に初めて使われた。フォックスの手記に依ると、ベネットは「私たちが神の言葉でわが身を震わせた故にクエーカーと呼んだ」。
 
1564年 ~1615~1642 ガリレオ・ガリレイと地動説
1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。
1616年に、ローマ教皇庁はコペルニクス説を禁ずる布告を出した。
1616年と1633年の2度、地動説を唱えたガリレイは、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた。
しかし現在、ガリレオは昇進などをめぐるトラブルから罠にはめられ、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている
1665年  アイザック・ニュートンと万有引力の法則
リンゴに対して働いている力が、月や惑星に対しても働いているのではないか」と着想した。
地上では物体に対して地面(地球)に引きよせる方向で外力が働くことは、(ガリレオなどの貢献もあり)ニュートンの時代には理解されていた。ニュートンが行った変革というのは、同様のことが天の世界でも起きている、つまり宇宙ならばどこでも働いている、という形で提示したことにある(そして同時に、地球が物体を一方的に引くのではなく、全ての質量を持つ物体が相互に引き合っている事と、天体もまた質量を持つ物体のひとつに過ぎない事)。「law of universal gravitation 万有引力の法則」という表現は、それを表している。 
 
1678~
1681
カトリック陰謀事件(カトリックいんぼうじけん、Popish Plot)
イングランドのカトリック教徒が国家転覆の陰謀を企てているという陰謀の捏造と、それに伴う集団ヒステリーの事件・社会現象である。捏造されたテロ計画が本当に存在していると信じられ、イングランドの反カトリック感情をあおって国全体がパニックに陥った。
 
1686~
1768
白隠 慧鶴(はくいん えかく)禅師と健康法、内観法軟酥なんその法
駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて悟りを開くも満足せず、修行を続け、のちに病となるも、内観法(放下着と数息観(すそくかん)と丹田呼吸の姿勢。)を授かって回復し、信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させた。
また、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。
彼は初めて悟りの後の修行(悟後の修行)の重要性を説き、生涯に三六回の悟りを開いたと自称した。また、これまでの語録を再編して公案を洗練させ、体系化した。中でも自らの悟りの機縁となった「隻手音声」と「趙州無字」の問いを、公案の第一に位置づけ、以後の修行者に必ず参究するようにさせた。
軟酥の法(自己暗示によって潜在意識を変えさせる精神療法)を確立。
1690年ごろ アイザック・ニュートンの科学革命とキリスト教
・地球と天体の運動を初めて実験的に示し、太陽系の構造について言及した。
・また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に解明した一人であり、天体の軌道(楕円、放物線など)について示した。
・また、光の粒子説を唱えたことでも知られている。
・また、白色光がプリズム混合色であるとして色とスペクトルの関係について唱えた。虹の色数を7色だとしたのも彼である。
・ニュートン以前の正統な自然哲学は、物事の発生する原因(目的)を明らかにするという、哲学で言えば目的論に力点が置かれていた。たとえば、ルネ・デカルトは惑星の運動や重力の原因を、空間に充満しているエーテルの圧力差や渦動によるものとする「渦動説」で説明を試みた。
・また、ヨハネス・ケプラーは地磁気が惑星の運動の原因であるとする重力理論を展開した。
・これに対し、ニュートンは主著『プリンキピア』においてラテン語: "Hypotheses non fingo"(和訳 われ仮説を立てず)と宣言した。
・あくまで観測できる物事の因果関係を示すという哲学、解釈を展開した。これは、「作り話」的な説明もあるデカルトの自然学を批判したものだとされる。
・万有引力の法則を提示するにあたっても、引力がなぜ発生するか、あるいは引力が何のために存在するのかということではなく、引力がどのような法則によって機能するのかという説明のみに終始し、それをもたらす原因については仮説を立てる必要はないとし、新しい方法論を提示した、ともされる。
・後の時代に、科学者らは上記のような方法論が、「実証主義による近代科学の礎になった]」「科学的方法論の礎となった」などと評するようになった。
・これは「神の行いについて、人間の持つ理性では理解不能であるという思想を背景としたものであった」とも言う。
ニュートンは生涯を通じてキリスト教研究にも打ち込んでいた。
その結果は、1690年頃に執筆された『ダニエル書と聖ヨハネの黙示録の預言についての研究』と、死後の1728年に刊行された『改訂古代王国年代学』に纏められた。
この中でニュートンは、聖書や伝説にある出来事の年代確定に天文学手法を導入しながらキリスト教的歴史観である普遍史をプロテスタント的史観で再構築し、また「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」を解釈した独自の終末論を展開している。
・絶対的時間や絶対的空間などを確立したニュートンではあるが、彼自身はそれらがキリスト教の教義と矛盾するとは考えておらず、『プリンキピア』一般注にて宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、それは万物の主だと述べている。
・ニュートンは、キリスト教研究の中でカトリックを激しく攻撃している。
「ヨハネの黙示録」解釈では、神に楯突く側である「大淫婦」を世俗に堕落したローマ教皇だと断罪した。
またアタナシウスら正統派教父をも批判し、三位一体説はヒエロニムスによる改竄だと主張し事実上否定している。この三位一体説否定はニュートンが異端と断罪され公職から排除されていたアリウス派に属していた事を示し、ケインズは「恐ろしい秘密」とコメントしている。
1692.3.1~ セイラム魔女裁判と集団ヒステリー
・アメリカ合衆国ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で200名近い村人が魔女として告発され,無実の人々が次々と告発され、裁判にかけられたその経緯は、集団心理の暴走の例として著名
 
1694 

イングランド銀行(イングランドぎんこう、英: Bank of England
・イギリスの中央銀行。
・軍事費を調達する目的で創設。本店がシティのスレッドニードル通りに所在するため、「スレッドニードル通りの老婦人」と呼ばれることがある。なお、歴史的には、「英蘭銀行」と表記されることもままあった。
・創立時は大同盟戦争とウィリアム王戦争、そしてザームエル・オッペンハイマーの活躍する大トルコ戦争のさなか。当時は政府への貸付を主要な業務とする商業銀行であった。また、政府を通してイギリス東インド会社、ハドソン湾会社などへも貸付を行っていた。
・昔から内外のユダヤ人がその経営に深くかかわり、彼らは国債市場と国家債務を膨張させた。政府と国策を共にする関係にありながらナショナリズムとは距離をとるという独立した姿勢が貫かれている。 

 

アーミッシュ
電気を使用せず、現代の一般的な通信機器(電話等)も家庭内にはない。
原則として、現代の技術による機器を生活に導入することを拒み、近代以前と同様の生活様式を営む。
服装はきわめて質素。
ペンシルベニア州のアーミッシュは、日常生活ではきわめて古い時代の技術しか使わない。このため自動車は運転できない(ただし旅行の際は別)。商用電源は使用できないが、風車・水車によって蓄電池に充電した電気は利用できる。本段落が伝聞調になっているのは、アーミッシュがあまりその生活について語らず、写真撮影は宗教上の理由から拒否されることが多い。ただしこれらの宗教上の制限は、成人になるまでは猶予される。したがって、未成年ならば自動車運転免許を持つアーミッシュも存在する。
成人になる際、アーミッシュであり続けることを拒否することもできるが、ほとんどのアーミッシュの新成人はそのままアーミッシュであり続けることを選択するといわれる。
政治的には、「神が正しい人物を大統領に選ぶ」との信条から、積極的に有権者として関わることはなかった。しかし、2004年の大統領選挙では、激戦州となったペンシルバニアやオハイオのアーミッシュに共和党が宗教的紐帯を根拠とし支持を広げたという。専用の教会建物はなく、民家の家具を片付けて利用する。

~1714 貝原 益軒(かいばら えきけん)
江戸時代の本草学者、儒学者。明治時代に西洋の生物学や農学の分野がもたらされるまでは、日本史上最高の生物学者であり農学者である。
益軒といえば『養生訓』。これは江戸時代に出版された本のなかでロングセラー第一位であり、現在でも買える凄い本で、85歳で亡くなるすこし前(1713年頃)に書かれたという。
今から約300年前の江戸時代に、心身相関を説いている。
益軒はこの本の執筆態度として、「古典にある説を簡単に解説したもので、一方自分で試みて効果のあったことを記した」との旨を語っている。
生き方を説く場合には避けて通ることの出来ない基本となっている本だと言える。
⇒中村天風にも影響。
1736.1.19~1819.8.25 ジェームズ・ワットと産業革命
スコットランドの発明家、エンジニアであり、トーマス・ニューコメンの蒸気機関へ施した改良を通じてイギリスのみならず世界中で産業革命の推進に貢献した。
~1744~ 安藤昌益(あんどう しょうえき)-八戸で講演。身分・階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきであると主張。平等思想。
自然真営道』の内容は、共産主義・農本主義・エコロジーに通じるとされている。
日本の権力が封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたとみなし、孔子と儒教を徹底的に批判。
発見者・狩野亨吉(こうきち)をして「狂人の書」と言わしめ、レーニンをもうならせたという。
安藤昌益
『自然真営道』
1756~1763
(江戸時代
9代将軍家重) 
ヨーロッパを中心にした世界規模の七年戦争とパリ和約
ハプスブルク家オーストリア継承戦争で失ったシュレージエンプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因であったが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。
イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスオーストリアロシアスペインスウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドではムガル帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。
この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ(外交革命)。しかし戦争の結果、墺(オーストリア)仏の外交努力は英普(プロイセン王国)側が勝利したことで水泡と化し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。
 
~1772


1744.4



83歳没
エマヌエル・スウェーデンボルグ(イギリス)
・最初のスピリチュアリスト
・アンドリュー・ジャクソン・ディビスが師と仰いだ。
・多彩な科学者だったが、55歳で科学者であることを断念した。
・父はスウェーデン王室の祈祷所の牧師で、生まれながらにしてキリスト教と深いかかわりがあった。
幼くして霊的な素質を持っていた。神がかりになったことも…
1759.9.19(71歳)のときに旅先で自宅近くの火災を霊視した。
『近代スピリチュアリズムの歴史』 三浦清宏 P49~)

・83・4年の生涯の前半を科学者、後半を神学者として過ごす。
(・科学者時代には多々の不思議なインスピレーションも??)
・52?54?56?歳ごろから幻視体験(幽体離脱、自らは「死ぬ方法」と名付けた)をいくどとなく体験。百回以上とも
1744年4月ロンドンで最初のキリストの幻視を体験する。
キリストが現れ、「
人々に聖書の霊的内容を啓示するためにあなたを選びました。この主題に関して何を書くべきかを示しましょう」と語った。
・1743.7月~1年以上体験した「夢日記」を記録。
(※・1745年の4月にもキリストの再来今までの世間向きの学問をいっさい捨てて
霊的な仕事に専念するように命じられたという. 『近代スピリチュアリズムの歴史』 三浦清宏 P47)

・それ以来彼は霊界の探訪者・神秘主義者へと転身し、一切の世俗的な著作活動を放棄して霊的な研究へと進み、霊界探訪に基づく
膨大な量の神学的著作を残す。
・神学者への転向は彼の科学者としての名声を曇らせるものであったことは間違いない。転向後の彼を精神的な病にかかったものと見る人もいるが、霊界探訪に基づく膨大な著作には終始科学者としての理性的で冷静な目が貫かれ、緻密な整合性が見られる。カントが「それが霊界についてであるという点を除けば、これ以上理性的な本はないくらいである」と述べたほど、その内容からうかがえる著者の精神は健全そのものである。
すでに人望厚い科学者として、押しも押されもしない専門的地位と社会的名声を築いていた。

・晩年こうした体験に基づき16冊の大著を書き記した。
『天界と地獄』
科学者としての丹念な分析と論理性をもった死後の世界観は、それまでのキリスト教の考えを根本から覆すような画期的なものであった。
死後の世界をはじめて科学者の目を通して研究したもので、人類思想史上大きな足跡を残した。

・その内容は、今日のスピリチュアリズムと比較しても大枠で一致する。ただ時代の影響で、その貴重な体験とみごとな分析にもかかわらず、キリスト教の影響がかなり残っており、今一つ正確さに欠けるきらいがあることも事実である。

・キリストが肉体を通じて人間と繋がっていることは認めるものの、あくまでも神の現れとしてキリストを見、キリストに帰依する以外に人間の持つ汚れを清める方法はないと考える。
・キリストは肉体という地上の部分を持ち、聖霊はキリストの「働き」。「神」は「愛」に対応、「子」は「叡智」、「聖霊」は「働き」に対応。
この「愛、叡智、働き」の三位一体は人間レベルにおける「魂、心、体」に対応する。
照応の理論
・地上にあるもので天上にないものは何もない。
自然界に存在するものはすべて天上(霊界)に本の姿を宿している。
人間が考えることはすべて天界にその因子を有する。

・天界の主はキリスト。…
・霊界には時間も空間も無い。すべては心の状態の変化のみ。
(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P55~)

・1772.3.29、83歳で、メソジスト派の創始者ジョン・ウェスレーに手紙を送り、予告通りの日にこの世を去る。


エマニュエル・スウェデンボルグ  Emanuel  Swedenbolg  1688-1772
スウェーデン人。自然科学、数学、物理学、哲学、心理学など20もの学問分野で、多くの業績を上げた天才であると同時に、巨大な霊能力の所有者としても世界中に知られる。1747年、いっさいの科学的研究の活動を放棄し、後半生の約30年間、心霊的な生活と霊界の研究に没頭した。生きながら霊界に出入りする「霊的生涯」を送り、ヨーロッパ中の大きな話題を集めた。彼が霊界で見聞、実体験してきたことを書き記した膨大な著書は、現在もロンドンの大英博物館に保管されている。1772年3月29日、自分が予言した日に没し、いまなお人類史上最大の不思議な人物とされる。(Wikipedia)


・スウェーデンボルグについてはその巨人的な才能や霊界探訪者としての側面ばかりが強調されがちだが、人物としては愛の人であったことを多くの人は知らない。その神学的な反対者たちでさえ、彼の誠実で勤勉で親切な人柄を攻撃することはできなかったという。

・ただ時代的影響は免れえず、その貴重な体験と見事な分析にもかかわらず、キリスト教思想の影響がかなり残っており、今一つ正確さに欠けるきらいがあります。霊性進化の道より
カントが『ある霊視者の夢』発行
※カントは調査のため会見を申し込んだが断られたとも言われている。
 
~1758~ 

ブードゥー(あるいは「ヴードゥー」)教
この呼び方は英語で、ハイチや西アフリカではヴォドゥンVodun)と呼び習わされている。ヴォドゥンとは西アフリカのフォン語(Fon)で「精霊」の意味。ヴォドゥンはベナンなどの西アフリカで広く信じられており、ベナンの国教となっている。キューバのサンテリアやブラジルのカンドンブレ、マクンバ(英語版)といった信仰・呪術の仲間である。もっとも近年はカリブから欧米への移民が相次いでいるため、欧米各国でも移民の一世、二世らによって信仰されている。
「宗教」と規定されることがあるが、教義や教典がなく、また宗教法人として認可された教団が皆無で、布教活動もしないため、民間信仰といった方が現状に即しているといえる。その儀式は太鼓を使ったダンスや歌、動物の生贄(いけにえ)、神が乗り移る「神懸かり」などからなる。ブードゥーを取り仕切る神官は「ウンガン(英語版)」(フォン語: hùn gan、英語: Houngan)と呼ばれる。サンテリアやカンドンブレ、アフリカの民間信仰なども含めたブードゥーならびに類似信仰の信者は、全世界で五千万人にも上るという。これはチベット仏教の三千万人を遙かにしのぐ数字である。

フランソワ・マッカンダル(François Mackandal, 1758年没)は、ハイチのマルーンの最も有名な指導者の一人。マルーンは主に、プランテーションから逃亡し山地や丘陵地帯で生き存え、ほかの元奴隷たちと結集し共同体を形成していた黒人奴隷のことを指す。マッカンダルは、ハイチのプランテーションの逃亡奴隷であり、ブードゥー教の司祭、ウンガン (houngan) であった。彼はマルーンを、島のフランス人農園主の対抗勢力に導いた。
以上、Wikipedia 

 

1771~
1776~
フリーメイソンイルミナティグラントリアン
・フリーメーソンーは大別して、英米系と大陸系に二分される。ドイツでは、インゴルシュタット大学の教員アダム・ヴァイスハウプトによって1776年にイルミナティという秘密結社(「啓明結社」とも「光明回」とも訳される。渋澤龍彦は著書『秘密結社の手帳』のなかで「バヴァリア幻想教団」と呼んでいる)が創設された。
この結社はイギリス系のフリーメーソンリーとは違って、超越的存在(神)を認めず、君主制を妥当し、急進的に共和制の政権を樹立しようとする純然たる政治的秘密結社であった。このイルミナティをフリーメーソンリーの一つとみなす論者は少なくないが、メンバーが重複していただけで、別の結社であると考えるのが適切なようである。
 「バヴァリア幻想教団とフリーメーソンとを混同する歴史家もいるが、両者はまったく別のものである。ただ、フリーメーソンの非政治主義にあきたらず、メーソンのなかから幻想球団へ加入した者も、大勢いたらしい」と、渋澤龍彦も前掲書のなかで述べている。結局、このイルミナティは1785年に、バヴァリア選挙候カール・テオドールによって禁止令が出され、90年にはほぼ消滅したといわれている。
グランド・ロッジが成立したフランスのメーソンリー
世界史の展開に深く、しかも劇的に関わったという点では、フランスのメーソンたちは、本家イギリスのメーソンをしのぐ。オルレアン公フィリップ、ヴォルテール、ミラボー、ロベスピエール、ラファイエット、モンテスキュー、ディドロ等々、フランス革命の名だたる立役者がフリーメーソンであったことはまぎれもない史実である。
ここで注意を要するのは、1771年(73年という説もある)にフランス・グランド・ロッジから独立する形で創設されたグラントリアン(大東社)である。
日本において公刊されているフリーメーソンリーの研究書は、ほとんどがこのグラントリアンと、イギリスに誕生した「正統」フリーメーソンリーとを並列するか、あるいは曖昧に混同して記述している。しかし、イギリス系はすでに述べてきたように、教会と王権の支配を相対化したものの、「至高存在」と王政を否定しはしなかった。それに対し、グラントリアンは実際、急進的な啓蒙主義の影響を受けて、「至高存在」に対する尊崇を排し、無神論的な政治結社になっていく。明らかに両者は、ある時期から別種の思想を報じる別種の団体となっていったのである。もっとも、英米系と大陸系メーソンリーが混同されがちなのは、仕方がないところもある。本家のイギリス系メーソンリーが、グラントリアンに対する承認を取り消し、絶縁を宣告したのは、フランス革命勃発から約80年後の1868年のことである。言い換えるならば、イギリス系の「正統」フリーメーソンリーは、一世紀近くもの間、グラントリアンを「承認」し続けてきたわけである(その後、フランス・グランド・ロッジとグラントリアンが再統合して1914年にグランド・ロッジ・ナツィオナルが創設され、イギリス系メーソンリーとの間に承認関係が復活した)。一時絶縁したとはいえ、歴史的にこの無神論的政治結社と「まったく無関係」とは言い切れないだろう。
1773 フランツ・アントン・メスメルとメスメリズム
「動物引力」による治療を開始。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
メスメルは患者たちを、個別療法と集団療法の両方で治療した。
1780年までに、メスメルには個別治療が可能な数以上の患者がいて、それで「baquet(バケツ)」として知られる集団治療法を確立。その治療を見たあるイギリス人医者は、次のように記述している。
「部屋の中央に約1フィート半(45cm)の高さの器が置かれていて、ここではそれを「baquet(バケツ)」と呼んでいる。回りに20人の人々が楽に座れるくらいの大きさである。それを覆う蓋の端近くに、それを囲む人々と同じ数の穴が開けられている。その穴の中に、患者に適用されることになっている体の部分に応えるために、右側に曲がった、高さの異なる鉄棒を挿し込む。鉄棒の他にbaquetと患者の1人を繋ぐロープもあり、その患者から他の患者に次々と手渡されて、ロープは円になる。最も著しい効果はメスメルが近づいたことで生み出される。メスメルは患者に触れることなく、手または目の決まった動きだけで「流体」を伝達すると言われる。私はその効果を目撃したという人、手の動きで痙攣が引き起こされ、除去されたという人の何人かと以前話したことがある……。
1774~1778  クリミア・ハン国
1774年、露土戦争(1768年-1774年)に敗れたオスマン帝国は、キュチュク・カイナルジ条約でクリミア・ハン国の宗主権を放棄させられ、名目上独立したクリミア・ハン国はロシア帝国の影響下に入った。1778年にはロシアによって正教徒
の住民がクリミアからアゾフ海北岸のマリウポリ周辺に強制移住させられた。そして1783年、ロシア帝国はキュチュク・カイナルジ条約を破棄してクリミア・ハン国を併合した。⇒アゾフ大隊
当時の皇帝エカテリーナ2世の寵臣グリゴリー・ポチョムキンの主導でクリミア半島とその北のノヴォロシアと呼ばれる地域の開発が推し進められた。このときには開発のために移住させられたものの多くはウクライナ・コサックであった。
 
1776~1849 調所 広郷ずしょ ひろさと)と『薩摩燃ゆ!』
薩摩藩の財政立て直し。安永5年(1776年) - 嘉永元年(1849年)⇒村田清風(長州藩)
1789~ サミュエル・ハーネマンホメオパシー
(1755年ドイツ、マイセンに生まれる)によって始められた。
ハーネマンは科学に関する多くの書物を著した。中でも最も有名なものは、砒素中毒に関する専門書。批評家達は後に、あんなインチキ医者にさえならなければハーネマンは偉大な科学者になっただろうにと言ったとされている。
1789年に彼はライプチヒに引っ越し、梅毒に関する専門書を出版。同種療法、同毒療法、同病療法)を確立。
1783 

イギリスでの奴隷制度廃止運動とクエーカー教徒
1783年アメリカ独立戦争の終結の年)までに、イギリスの大衆の間では反奴隷制度運動が始まりだした。この年イギリスで最初の奴隷制度廃止運動の組織がクエーカー教徒の集団によって創設された。クエーカー教徒は多くのやり方で運動を先導し、この運動が続いている間は影響力を保ち続けた。1783年6月17日、セシル・レイ卿(レットフォード選出の国会議員)がクエーカー教徒の請願を取り上げ、この問題を正式に政府に持ち上げた。1783年にはまた、ビールビー・ポーテウス主教が英国国教会に対し奴隷貿易に関わることをやめること、またアフリカ系カリブ人奴隷に注目するような実行可能な政策を作り、奴隷の待遇を改善するよう訴えた。
黒人は奴隷制度廃止運動で重要な役割を演じた。イギリスでは、その自叙伝が生きている間に9版を重ねたオローダー・エキアーノが黒人貿易に反対する疲れを知らぬ運動を続けた。

 
1795

葛飾北斎 北斎宗理の号も
彼は生涯に30回と頻繁に改号。現在広く知られる「北斎」は、当初名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星及び北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰にちなんでいる。
この改号の多さについては、弟子に号を譲り収入としていたからとの説もある。
また、93回に上るとされる引越しの多さも有名(一日に3回引っ越したこともあるという)。
当然、食生活も大変乱れていたが、それでも90歳の長寿を全うしたのは、慈姑(くわい)だけは毎日欠かさず食べていたからだと言われている。

『ライフ誌-この1000年で最も重要な業績を残した世界の人物100人』-に選ばれた唯一の日本人
1807 
オラウダ・イクイアーノ(オローダ・エキアーノ)グスタヴス・ヴァッサ(1745-1797)と奴隷貿易法の制定
1789年に自伝、『The Interesting Narrative of the Life of Olaudah Equiano:アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語』を出版。この書は、イギリスとその植民地のアフリカ貿易を終結させた奴隷貿易法の制定(1807年)の後押しとなった。⇒1834年ジャマイカ(イギリス連邦)完全撤廃
チャールズ皇太子、ウィリアム王子お詫び(2022.3)

目次   紀伊國屋書店

著者の故郷、その慣習としきたり、その他
著者の生まれと家柄―妹との誘拐―奴隷船の恐怖
ヴァージニアへ―イングランド到着―降雪の驚き
ボスコーエン中将とル・クルー氏の名高い戦闘についての詳細
迫害、残虐、搾取のさまざまな興味深い実例
状況の好転―二度の地震に驚く―三ペンスで商売を始める
西インド諸島への嫌悪―自由を手に入れるための計画
三つの驚くべき夢―バハマの浅瀬で難破
マルティニコ到着―新たな困難とイングランドへの航海
イエス・キリスト信仰への改宗について
スペインからイングランドへの帰還の途中、十一人の不幸な人々を救出する
現在までのさまざまな出来事―王妃陛下への嘆願書―結婚―結び

イクイアーノは数知れぬ命の危険にさらされ、白人のリンチで重傷を負ったりしながら、いつも奇跡的に一命をとりとめた体験は、読みながら本当に数奇な人生だと思わざるを得なかった。

非常に不思議なことに、しばしば
予知夢を見たことが書かれていて、イクイアーノの本を読んでいると、たしかに人知を超えた予知夢やはからいみたいなのがあるのかもしれないと思えた。
また、イクイアーノは、こうした体験から、
キリスト教の神に深い関心を抱くようになり、さまざまな教会を訪れて話を聞いたり、自分で聖書をよく読んだりし、深い祈りや瞑想を行って、最終的には非常に不思議な霊的な体験をしたことが書かれている。
これほどひどい目にあいながら、「自分は格別に恵まれた人間だった」とイクイアーノは言い切る。
それはやっぱり、他の人間には到底わからない、
深い信仰の体験があればこその境地だったの
だろう。
 あらすじ参考サイト、「ポルフィの日記」

ウィリアム・ウィルバーフォースと奴隷廃止運動
・彼のおばのハンナが、若いウィルバーフォースにメソジスト教会の教義に関心を向けさせた。
1785年、ウィルバーフォースは、宗教的転換をもたらす経験と彼が表現する霊的な感得を経た。彼は残りの人生をかけて、神のために奉仕することに専念することを誓った。彼が助言を受けたひとりは、福音主義的運動の主導的な立場にあった英国国教会の聖職者であるジョン・ニュートン(アメイジング・グレイス作詞者)であった。ピットを含めて彼がアドバイスを求めた人々は、彼に政治の世界にとどまるよう助言した。
1787年
には、ウィルバーフォースは、トーマス・クラークソンや、チャールズ・ミドルトンおよびミドルトン夫人による奴隷貿易に反対する運動を行う成長中のグループを彼らのケント市のテストンの家で紹介され、議会における運動のリーダーとなるよう説得を受けた。(Wikipedia)

※『アメイジング・グレイス』がマイケル・アプテッド監督、ヨアン・グリフィズ(ウィルバーフォース役)主演で制作され、イギリス議会がイギリス国民による奴隷輸入の禁止を可決してから200周年を記念して2007年3月23日に公開された。
(Wikipedia)

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2017.10.16、
生誕272周年
1744~
1812没
ロスチャイルド家金融業
初代のアシュケナージ・タルムードのユダヤ系ドイツ人であるマイアー・アムシェル・ロートシルト(1744-1812年)がドイツのフランクフルト・アム・マインで開いた古銭商・両替商に端を発し、ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世との結びつきで経営の基礎を築いた。ヨーロッパに支店網を築き、彼の5人の息子がフランクフルト・ロンドン・パリ・ウィーン・ナポリの各支店を担当、相互に助け合いながら現在のロスチャイルドの基盤を築いた。
1807 ヘーゲル-精神現象学、ヘーゲルの体系は神の体系に代わる物。「われは人間なり」
カント、デカルト、ルソーら近代西欧思想の祖 神に対して人間一般を対置。
近代(西欧)合理主義により労働は報酬を出来高払い制に。
労働⇒国家⇒世界
賃金のために働き、生き甲斐は他のところで⇒レジャー、サービス業の発展⇒人は機械にあらず
1820~ フローレンス・ナイチンゲール(イギリス)
イギリスの看護婦、統計学者、看護教育学者、近代看護教育の生みの親。
本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。⇒後述
 
1760年~1834年

水野 南北
江戸時代中期の頃の観相学の大家。当時、日本一の観相家といわれ「節食開運説」を唱えた人物。
大坂阿波座(大阪市西区)に生まれたが、幼くして両親を亡くし叔父夫婦に育てられる。子供の頃(10歳)より盗み酒を覚え、酒代に窮して叔父の稼ぎ集めた虎の子を持ち逃げし、天満(大阪市北区)で酒と博打と喧嘩に明け暮れ家業の鍛冶職から「鍵屋熊太」と呼ばれる無頼の徒となった。刃傷沙汰を繰り返し、 18歳頃、酒代欲しさに悪事をはたらき、天満の牢屋に入れられる。牢内で人相と人の運命に相関関係があることに気づき観相に関心を持つようになる。
出牢後、人相見から顔に死相が出ていると言われ、運命転換のため、慈雲山瑞竜寺(鉄眼寺)に出家を願い出たところ、「半年間、麦と大豆だけの食事が続けられたら弟子にする」といわれ、堂島川で川仲仕をしながら言われた通り麦と大豆だけの食事を続けたところ、顔から死相が消えたばかりでなく、運勢が改善してしまった。こうした体験から観相学に興味を持ち、髪結い床の見習い3年、湯屋の三助業3年、火葬場の隠亡焼き3年と徹底した観相の研究を実施して観相学を究め、南北相法を完成し、節食が運勢を改善することを唱えた。
しかし、そこまで研鑚を 積み重ねても従来の観相学では百発百中とはいえず、悩んだ末に伊勢の五十鈴川で 断食水行50日の荒行を行い断食を続けるのさなか天啓が訪れる。食は命なり』~「人の命運は総て食にあり南北は喝破した。

1769~1814 ナポレオンの欧州席巻とロンドンのネイサン、パリのジェームス、ロスチャイルド
特にロンドンのネイサン(1777-1836年)とパリのジェームスが成功を収めた。ネイサンはナポレオンが欧州を席巻する中で金融取引で活躍し、各国に戦争の資金を融通した。
ジェームスは当時の成長産業だった鉄道に着目し、パリ~ブリュッセル間の北東鉄道を基盤に事業を拡大していった。
1783

塙保己一と群書類従
幼少の頃から身体は華奢で乳の飲み方も弱く、丈夫ではなかった。草花を好み、非常に物知りであったという。5歳のときに疳(かん)の病気(胃腸病)にかかったのが原因で、目痛や目やにの症状が出て徐々に視力が弱っていき、7歳の春に失明した。あるとき、虎之助のことを聞いた修験者が生まれ年と名前の両方を変えなければ目が治らないと進言し、名を辰之助と変え、年を二つ引いた。しかし、目痛や目やには治ったものの、視力が戻ることはなかった。その後、修験者の正覚房に弟子入りして、多聞房という名をもらうも、視力は戻ることはなかった。
手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えた。また、手で形をさわったり匂いを嗅いだりして草花を見分けることができた。目が見えなくなってから和尚や家族から聞いた話を忘れることはなく、一言一句違わずに語ることができたほど、物覚えが良かったという。10歳になると、江戸で学問を積んで立派な人間になりたいと考えるようになるが、両親が反対するだろうと悩んだ。
天明3年(1783年)に検校となる。天明4年(1784年)、和歌を日野資枝(ひのすけき)に学ぶ。寛政5年(1793年)、幕府に土地拝借を願い出て和学講談所を開設、会読を始める。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』である。
『群書類従』666冊が完成したのは、保己一が74歳のときである。34歳のときに決心してから41年後となる。
また歴史史料の編纂にも力を入れていて『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折があったものの東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。同所の出版している『大日本史料』がそれである。盲人としても、寛政7年(1795年)には盲人一座の総録職となり、文化2年(1805年)には盲人一座十老となる。文政4年(1821年)2月には総検校になり、同年9月に死去。四男忠宝が跡を継いだ。
嘉永4年(1851年)、保己一が編纂した『令義解』に女医の前例が書かれていることを根拠に女医の道が開かれ、荻野吟子が日本初の国公認の女医第一号となった。それまでは医者は男性しかなることができなかった。
ヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と両親より教育されていて、1937年に来日した際、記念館を訪れている

伊能忠敬(ただたか)地図作りのために江戸を出発
・江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的状態。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直した。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域窮民を救済
・こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。
・50歳を迎えた忠敬は、家督を長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出る。
・浅草に星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があった。暦局に着いた忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)32歳の門下生となった。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われ、メンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだった。
・至時は昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、彼を“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。
・この頃、暦局の人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。
当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった。外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのだ。結果、幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのだった。(ただ幕府の援助はなく、すべて自費。)忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」と
・1800年(55歳)、忠敬は江戸を出発。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。目撃者の記録には「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあり、雨、風、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいった。
昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。江戸にいた至時は手紙を書いて忠敬を励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。
忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった。(しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠。)
・半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。彼の測量は多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった。
・1805年(60歳)、再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上になることもあった。忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。
だが西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずだった。ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。また、ずっと相棒だった測量隊の副隊長がチフスで死んでしまう悲劇もあった--。
・1815年2月19日!最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる。あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。そのまま忠敬は回復することなく、1818年、73歳で病没。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。
・1821年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。
・忠敬の死から43年後の1861年、来訪したイギリス測量艦隊が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府の役人が忠敬の地図の一部を携帯していたのを船長が見てびっくり仰天し、“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにも関わらず正確に描かれている。こんな地図があるなら今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまったという。そしてイギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と書き記した。鎖国状態にあった日本を、西洋の知識人は未開の文明後進国だと決め付けていたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き見下すことを改めたという。
・忠敬は、遺言にこう残した--「私が大事を成し遂げられたのは、至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」。その願いは聞き届けられ、上野の源空寺の墓地で、彼は既に200年近くも恩師の傍らで幸せな時を過ごしている。忠敬の墓石の側面には、こんな文面が彫られている“忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った”と。
「地球の大きさを知りたい」、このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになった忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。第一、200年前の海岸線を徒歩で一周という偉業。彼は地図と共に人間の底知れぬ可能性を後世の私たちに残した。
・地図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。シーボルトは“世界地図と交換したい”と働きかけ、その写しを国外に持ち出した。この流出事件で景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した--「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」(高橋景保)
NHK「その時歴史が動いた」、エンカルタ総合大百科、世界人物事典(旺文社)より

214枚の日本大図 
※’04年、名古屋ドームにて
(撮影kooichi.ikaiさん)
1803~1815  ナポレオン戦争
ナポレオン率いるフランス帝国軍対イギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどが戦った。
 
1805  スイス4ヵ国から永世中立を保証
ウィーン会議でフランス、プロイセン、ロシア、イギリスなどからスイスの永世中立が保証される。以来、スイスの中立は非常に厳格に守られ、2002年まで国連への加盟すら拒否された。 
 
1806

ルイス・クラーク探検隊発見隊

1780~
1814~
1850

黒住宗忠-黒住教(くろずみきょう)
岡山県岡山市今村宮の神官、黒住宗忠が江戸時代(文化11年11月11日・西暦1814年)に開いた教派神道で、神道十三派の一つである。同じ江戸時代末期に開かれた天理教、金光教と共に日本三大新宗教の一つに数えられる。

黒住 宗忠 (くろずみ むねただ)  1780~1850
神道系の新宗教のさきがけとなる黒住教を開いた幕末の神道家。 備前の神社の神職だった。
黒住宗忠は、安永9年11月26日の冬至の日に、現代の岡山県に位置した備前国御野郡中野村の今村宮に仕える禰宜の家に三男として生まれる。
幼名を権吉(ごんきち)といい、備前藩から孝行息子として表彰されるほどの親孝行であったといい、「黒住の孝行息子」と周囲からあだ名されたという。神職を継いでからは、左京宗忠と改名している。
文化9年(1812年)8月、実母・黒住つたが腹痛のため寝込んでしまい、次いで実父・黒住宗繁も同じような腹痛となる。宗忠は懸命に看病を行なうが、次々と両親を失う結果となり、極度の絶望状態に陥り、やせ衰えて行く中で翌年の11月頃には自身も肺結核と思われる病となって寝込んでしまう。
しかし、文化11年(1814年)11月11日、病気のため死を覚悟したは太陽を拝む(日拝)中で天照太神と同魂同体となるという「天命直授」と言われる霊的体験により天命を悟るとともに、病気も消えうせ、宗教的活動を開始したと言われる。
以後、嘉永3年(1850年)に死ぬまで、布教や病者の救済をした。享年71。
皇室や公家の中に宗忠に帰依する者が多く、宗忠の死後、神道の権威とされた吉田家より「宗忠霊神」、安政3年(1856年)3月8日に「宗忠大明神」の神号が授けられ、文久2年(1862年)2月25日に京都神楽岡に宗忠神社が創建された。
宗忠神社は慶応元年(1865年)4月18日、孝明天皇によって勅願所となり(孝明天皇が定めた勅願所は宗忠神社のみである)、翌年2月7日従四位下の神階を宣下された。

1820
仙童 寅吉
文政3年(1820年)の秋、天狗小僧と呼ばれたひとりの少年が脚光を浴びた。天狗の世界に誘われ、何年もの間そこで過ごした少年が戻ってきたというのだ。その少年、寅吉の語る異界の様子は驚くべきものであり、多くの人々がその情報を求めて彼の話を聞きにやってきた。平田篤胤もそのひとりだった。寅吉15歳、平田45歳のことだった。

勝五郎再生記聞
文政5年(1822年)、武蔵国多摩の百姓の倅、勝五郎(当時8歳)が何気なく発した問いがこの事件のきっかけだった。勝五郎は生まれる前のことを誰もが記憶しているものとそのときまで信じていたのだ。自分が人と違っていることに気付いた勝五郎は誰にもいわないよう懇願するのだが、やがて家族にも知られるところとなり、前世での出来事、命を落としたときのこと、死後に出会った謎の人物のこと、この家に生まれたいきさつ等をとつとつと、しかし詳細に語る。
半信半疑の祖母に手を引かれ、とうとう前世に住んでいたという村へ出かけたところ、そこには勝五郎が語ったとおりの風景があり、家族が暮らしていたのだった……。江戸の世を騒がせた輪廻転生の話。http://d.hatena.ne.jp/supernil/20091210/1260352735
『仙境異聞・
勝五郎再生記聞』
平田篤胤
1822~

平田篤胤と『仙境異聞』
・篤胤は、天狗小僧を通じて異界・幽冥の世界の有様を聞き出した。1822年(文政5年)にはその聞書きをまとめた『仙境異聞』を出版。
・これに対して、周囲からは少年を利用して自分の都合のいいように証言させているに違いないと批判された。しかし、本人は至って真剣であり、寅吉が神仙界に戻ると言ったときには、神仙界の者に宛てて教えを乞う書簡を持たせたりもしている。
『仙境異聞』に続いて『勝五郎再生記聞』『幽郷眞語』『古今妖魅考』『稲生物怪録』など一連の幽なる世界の奇譚について書き考察している。
49歳から54歳までの数年間、支那や印度の古記文献の研究をし、さらに異国に於ける仙人や神の存在についての研究をして行く。 

 
1823  モンロー主義
アメリカ合衆国ヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱したことを指す。
第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが、1823年議会で行った7番目の年次教書演説で発表した。モンロー宣言と訳されることもあるが、実際に何らかの宣言があったわけではないので、モンロー教書と訳されることも多い。この教書で示された外交姿勢がその後のアメリカ外交の基本方針となった。原案はアメリカ合衆国国務長官ジョン・クィンシー・アダムズが起草した。 

目的と狙い
19世紀前半、ラテンアメリカ各地で独立運動が起こった。
19世紀初頭のナポレオン戦争(特に半島戦争)は、スペインのアメリカ植民地に対する支配力を弱め、中南米諸国は次々に独立へと動き出していった。これに対しスペイン本国は、中南米植民地での独立運動を鎮圧しようとした。
しかし、ナポレオン失脚後のヨーロッパは自由主義ナショナリズムを敵視する保守反動的なウィーン体制下にあったため、この体制を主導していたオーストリアの政治家メッテルニヒは、独立運動への干渉を図った。
また、独立運動を支持する姿勢をみせていたイギリス(おもに自由党)の狙いは、ラテンアメリカに工業製品を輸出し、農産物や資源を輸入して経済力を高めることであった。こうした動きを牽制するため、モンローが年次教書において、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉を示すに至ったのである。
南北アメリカは将来ヨーロッパ諸国に植民地化されず、主権国家としてヨーロッパの干渉を受けるべきでない旨を宣言した。
それはさらにヨーロッパの戦争と、ヨーロッパ勢力と植民地間の戦争に対してアメリカ合衆国は中立を保つが、植民地の新設あるいはアメリカ大陸の独立国家に対するいかなる干渉もアメリカ合衆国への敵対行為とみなすという意図を述べたものであった。
合衆国にとって、もう一つの大きな懸念材料は、アラスカ(当時はロシア領)からロシア太平洋沿いに南下政策を図ることであった。そのため、この教書はロシアのアメリカ大陸進出に対する牽制という狙いも含んでいた。
この宣言は欧州に対するアメリカ合衆国による「アメリカ大陸縄張り宣言」でもある。それに沿って1830年インディアン移住法を定め、国家として先住民掃討を進め、また米墨(メキシコ)戦争で領土を割譲させるなど、アメリカ大陸内での勢力拡大を推し進めた。
1833年、イギリスがフォークランド諸島を占領したが、特に措置を講じておらず、このときにモンロー主義は放棄されたと見ることができる。イギリス資本の進出が背景にあると見られる。」とする意見もあるが、アメリカ合衆国はそれ以前からフォークランド諸島を領有するアルゼンチンの勢力とはフォークランド諸島寄港問題で対立しており、アメリカ合衆国はフォークランド諸島については不干渉の立場をとっていた。
つまり「モンロー主義の放棄」とは「アメリカ合衆国の縄張りはアメリカ大陸に限らない」ということである。そこで、先住民掃討完了を意味する「フロンティア消滅宣言」のあった1890年頃から太平洋進出を進め始め、1898年米西(スペイン)戦争⇒スペイン帝国崩壊ハワイ併合が続く。その後さらに米比(フィリピン)戦争、中南米各国に介入する「棍棒外交(棍棒を携え、穏やかに話す」へと続いていく。

セオドア・ルーズベルトが主張したことは、米国は西半球に、欧州諸国が介入するのを妨げる権利のみならず、砲艦外交をちらつかせる権利を持つということである。この外交方針によりアメリカ合衆国海軍が拡張され、米国は積極外交を仕掛けることとなった。
 
 1828.11
1829.12
シーボルト事件とシーボルト国外へ追放
出航の延期によって、当時、国外への持ち出しが禁止されていた日本地図(伊能忠敬地図)やその他の禁制品を多数、シーボルトがオランダに持ち帰ろうとしていたことが発覚した。
1828年11月、長崎奉行所はシーボルトが所持していたそれらの禁制品を没収。シーボルト自身も出島に拘禁。
1829年12月、シーボルトは国外追放を申し渡されたため、滝や娘のイネと別れ帰国

シーボルトの功績
シーボルトは帰国後、日本での研究成果を『日本(ニッポン)』学術的な評価が高いシーボルトの日本研究の集大成として知られ、日本の地理、歴史、宗教、工業、商業など多分野にわたる調査・収集資料と、日欧の既存資料をまとめたもの、『日本植物誌』、『日本動物誌』などの著書にまとめ、西洋諸国に広く日本のことを紹介した。
とりわけ植物への関心が高かったシーボルトは、1万点以上の植物標本を収集し、絵師の川原慶賀による植物画なども残している。さらに単にコレクターとしてだけでなく、研究者として日本植物の分類にも貢献したほか、ユリやアジサイ、ツバキなどを持ち帰り、ヨーロッパの園芸植物に多様化をもたらす先駆けとなった。⇒
品種改良
長崎市観光協会公式
日本近代医学の父・シーボルト|長崎で活躍した外国人 〜シーボルトとグラバー〜|特集|長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」 (at-nagasaki.jp)
1830

モルモン教
・末日聖徒イエス・キリスト教会は、ジョセフ・スミス・ジュニア(1805年 - 1844年)によって1830年アメリカ合衆国にて設立された。
・ジョセフ・スミス・ジュニアによれば、彼は14歳の時(1820年)、当時の教派間の争いや矛盾に疑問を抱き、新約聖書ヤコブの手紙一章5節を読み、どの教会が真実であるかを神に祈り求めたところ、実際に神とイエス・キリストを見、言葉を交わしたとされる。ジョセフによれば、彼はどの教会にも加わってはいけないと告げられ、イエスキリストの教会を再び地上に回復するために神から召されたとされる。
教会の信条によると、回復が必要であったのは、イエスキリストと12使徒(イエスの弟子)の死後、神の神聖な儀式を行うための神権(神の権能)が地上から失われており、完全なる教義や儀式も聖書の人の解釈によって失われていたからだとされている。
14歳だった少年ジョセフはどの教会に加入するべきか迷い、正しい教会がどれであるか知りたいと願った。ジョセフは聖書に答えを求めて、「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヤコブ1:5)という一節を見つけ、神に尋ねる決心をした。
ジョセフは、1820年の春、近くの森に行き、ひざまずいて祈ったところ、神より示現を受けたと主張している
一夫多妻について。
創始者ジョセフ・スミスは、教義として、一部の指導者は神により多妻を認められているとし、教会員は一夫多妻を実施していた。 これは当時の倫理感から一般市民の強い反発を招いた。その後合衆国にて一夫多妻を違法とし、一夫多妻者の移民を禁止する法律ならびに、一夫多妻を指導する宗教の財産を没収するという、モルモン教を対象とした法律(Edmunds-Tucker Act :エドモンド/タッカー令)等が成立すると、教会は信教の自由を根拠に裁判で争ったが敗訴し、破産の危機に陥った。
・神権は1832年のサスケハナ川のほとりで、イエス・キリストの弟子であるヨハネ、ペテロ、ヤコブがジョセフ・スミスとオリバー・カウドリーに天使として現われ按手により再び回復されてからいまだに受け継がれており、そのことによりジョセフ・スミスから生ける預言者による神の啓示は続いていると信じている。

1833.8.23 イギリス議会で奴隷制廃止法を成立
・モーリタニア:1980年7月(1905年にフランスにより公式に廃止。暗黙のうちに1961年の新憲法で、およびその年の10月に国際連合加入の時に表明、現実には存在。2007年8月に犯罪となった。
・ニジェール:2003年廃止。フランスの植民地時代に奴隷市場は閉鎖されたが、2003年に奴隷制度が違法となった。
ネパール:1921年廃止 実際には現在も世襲的な債務奴隷「カマイヤ(カマラリ)」が存在する。
スーダン:公式には1924年廃止、実際には今日も継続 
 
1837~1851 パックス・ブリタニカ
英国によるビクトリア女王の治世と世界平和の時代
1838年(江戸-天保9年)~ 中山 みき天理教
金光教・黒住教とともに日本三大新宗教の一つに数えられる。
みき31才(文政11年)の頃のこと、みきは、近所の子を預かり育てるうち、預かり子が、当時絶体絶命と云われたほうそうにかかるという事件に遭遇することとなった。
計らずもみきの子二人と預かり子が、当時の流行病であったほうそうに罹かるという事件がおこった。どうしたわけか、みきの子供はどの子も快癒に向い無事となったのに対し、預かり子の方は熱気がずっと続き、一心込めての看病にも拘らず、回復の気配を見せず、みきの大いに慌てることとなった。
無理な願いでは御座いますが、預かり子の身の上難しいところ、どうかお助け下さいませ。その代わりに、この子の命を助けてもらうためには、願わくば世継の男の子一人を残して頂けさえ致しますれば、娘二人の命まで召されるとも厭いません。更にご無理を云わして頂けますなら、この預かり子に80迄の寿命を授かり下されませ。このようなお願いをお聞き届け頂きますにつき、もし娘二人の命にて不足で御座いますなら、願満ちました暁には私の命をも差しだします。私の身命を差し上げます以上、爾来、お召しまされようとも御用にお使いあそばされましょうとも不足を申しません」。と、概ねこのように誓ったと云う。
他人の預かり子を助けたさに、自身の命と愛娘二人の命を差し出すというのである。みきは、この預かり子救済の過程で、各地の神仏にすがり又一心不乱に祈り、この預かり子の命さえ助かるならば、爾後一身を神仏の御用に託すことを誓約する身となった。こうしたみきの献身的な願いが神仏に聞き入れたられたのか、預かり子の命は奇跡的に助かることとなった。

長男秀司が足痛で苦しんだとき、修験者市兵衛を招き祈祷をおこない、みきみずから加持代となり、このとき、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに乗り移り、天啓を受けたとされている。 (天理教では、この日を「立教の元一日」としている)
みきは、天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民におしみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかった。
教祖中山みき亡き後、本席という立場の飯降伊蔵に同じ霊が降霊、自動筆記による教典有り。
世界(鎖国の世において)一列皆兄弟、他人というはさらにないぞやといい、心の埃を取れという。
神がかりとなる前の逸話、教祖となってからも天理にのっとった生き方、人々の規範となりうる生き方が示されている。

1840~1842  アヘン戦争
もともと1757年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行中国語版)という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)。
一方ヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのはイギリス東インド会社であり、同社は現地に「管貨人委員会」(Select Committee of Supercargoes)という代表機関を設置していた。しかし北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」と認識していたため、直接の貿易交渉には応じようとしなかった。そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書を広東地方当局に提出できるだけであった。
このような広東貿易制度は中国市場開拓を目指すイギリスにとっては満足のいくものではなかった。広東貿易制度の廃止、すなわち北京政府による貿易や居住の制限や北京政府の朝貢意識を是正することによって英中自由貿易を確立することが課題になっていった。
イギリス東インド会社は1773年にベンガル阿片の専売権を獲得しており、ついで1797年にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は中国への組織的な阿片売り込みを開始していた。
北京政府は阿片貿易を禁止していたが、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、阿片貿易は拡大していく一方だった。
1823年
には阿片がインド綿花に代わって中国向け輸出の最大の商品となり、収入の20%が阿片になった。広東貿易の枠外での阿片貿易の拡大は、広東貿易制度の崩壊につながることとなる。

イギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。
イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。
アヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。
イギリスの勝利に終わり、1842年南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 
 
1842年  フランツ・アントン・メスメルジェームズブライド
ドイツの医師。動物磁気と呼ばれるものの提唱者。メスメルは動物磁気と呼んだが、他の人たちはそれをメスメリズム(mesmerism)と呼んだ。
メスメルの概念と実践の発展が、1842年のジェームズ・ブライドによる催眠術の開発をもたらした。メスメルの名前はmesmerize(催眠術をかける)の由来となった。
 
1846

アンドリュー・ジャクソン・デービス(Andrew Jackson Davis)
米国の霊覚者。
キャッツキル山で啓示を受ける。(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
思想的にスピリチュアリズムを先取りした哲学書を出版して後のスピリチュアリズムに多大な影響を与え、「スピリチュアリズムのヨハネ」と言われた。(下記#スピリチュアリズムの勃興を予告した人物を参照)。
奴隷制度廃止運動家、女性開放運動家、禁酒運動家でもあり、スピリチュアリズムの思想によって社会に影響を与えた最初の人と言える。
ニューヨーク州のオレンジ郡ブルーミングローブ生まれ。家が貧しく、教育はほとんど受けていない。成長すると、靴屋の徒弟となった。
生まれつき霊視能力があったらしく、母が死去したときに輝くような野原に美しい家のビジョンを見て、母が行ったところだと思ったという。

1843年、17歳で近くの町の講演会に出かけて催眠術にかけられ、催眠状態で透視能力や読心能力を発揮できることに気づく。
さらに実験を続けるうち、特殊な能力が発達した。(メスメリズムとの邂逅
この能力を生かすべく最初は(※ウィリアム・リビングストンと共に)病気の治療を始め、「ポキプシーの千里眼」として評判になった。しかし、催眠状態に入ると演説することが多くなり、入神講演出版がライフワークであることを認識して治療院を閉鎖した。
1846年、20歳で入神講演の内容をまとめ、
第一部「大自然の摂理-※その聖なる啓示と人類への声」、
第二部「大自然の啓示」、
第三部「人類に告ぐ」の三部作として出版した。
(原文:The principles of nature, her divine relations, and a voice to mankind

1847年、アンドリュー・ジャクソン・デイヴィスが『自然の原理』The Principles of Natureという本を出版した。 デイヴィスは入神状態を経験し、入神状態で口述した内容が他の人によって15ヵ月にわたり書き留められ、それが『自然の原理』としてまとめられた。
本は反響を呼びロングセラーとなり30年間で34版を数えた
『自然の原理』は三部構成-、
第一部の「自然の原理」では、世界は心と物の二つから成り立っているが、物質も心も本質的には霊的である。
第二部の「自然の聖なる啓示」に、宇宙の創造、星雲の形成、太陽系の誕生、地球生命の発達などを説明しており(ダーウィンの『進化論』の発表より10年以上も前の段階でデイヴィスはこうした説明を行った)。
そしてスピリチュアリズムの重要な部分、つまり霊界とは何か、霊界はどういう構造なのか、人は死ぬとどうなるのか、といったことが書かれている。
そのためこの本は、後に「スピリチュアリズムのバイブル」と呼ばれるようになった。
肉体と霊とはもともと一体であるが、年をとるにつれて肉体は衰えて霊(精神)の思うとおりには動かなくなるので、霊はそれまで肉体に充満していたエーテル的な物質を吸収して霊体をつくり霊界での生活に備えるのだ、とした。
そしてこうしたことは霊が低い次元から、より高い次元へと移動することであって、死とはそうした次元の移動にすぎない、とした。
そして、死とはあらゆる現象の中で最も賛美すべきものであって、皆がその到来を楽しみに待ち、それに感謝すべきだ、と述べた。
肉体を脱してまず入る世界をデイヴィスは「第二界」と呼んだ。
その後に第三界から第七界まである。
第二界では肉眼の代わりに霊的な視力を得ることになり、地上の人間を見ても肉体は見えず、霊体しか見えない、と述べた。
同じ第二界にいるもの同士は声を使わず思念だけで交流できる。
第二界には3つの社会(グループ)があり、宇宙の目的、宇宙の役割、人間の宇宙における役割などといった宇宙の真理を学ぶとする。 また、霊界全体は、魂同士が引き合う力、および魂が向上を目指す力が原動力となって発展してゆく、とした。これは大反響を呼び、当時の米国の知識階級に大きな影響を与えたといわれる。

大自然の摂理」では個人的な意識の死後存続、霊こそが実在であること、霊や霊界の描写、イエスは神ではなく規範とすべき人間であったことなどが述べられ、現在のスピリチュアリズムとたいへんよく似ている。
大自然の啓示」では宇宙、太陽系の歴史や人類にいたる生命の進化について書かれている。この中で海王星と冥王星が発見される前にその存在を指摘したことは話題になった。

人類に告ぐ」では理想的な経済・社会基盤について述べている。
後にスピリチュアリストたちの活動が盛んになってくると喜んで支持し、自らを「スピリチュアリスト」とした。
しかし、哲学的思想をなおざりにして物理的現象にばかり夢中になる傾向がスピリチュアリズムに出てくるとこれを嫌い、1880年には自分の哲学は「調和哲学」(※54歳のとき。この頃には自力で入神状態に入ることも出来るようになっていた。自分を霊的感応状態におくことによって霊界から自由に情報を入手できた。欲しい知識が自由に流れ込んでくる。…『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P47)だと宣言して、スピリチュアリズムと袂を分かってしまった。
その後も精力的に出版を続け、1910年に死去。

1848年のハイズビルのフォックス家事件以降に起こったスピリチュアリズムの勃興を予告した人物としても知られている。『スピリチュアリズムの真髄』(ジョン・レナード著(国書刊行会発行))に詳しい説明があるが、この本は現在絶版となっている。
彼の著作である第二部「大自然の啓示」には、後のハイズビル事件(フォックス家事件)を予言する記述が見られる。
肉体の中にいる霊と、より高い世界にいる霊とが交信する。…間もなくそれは生きた人間がやってみせる形で行なわれるだろう。
(『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P35)
・…。その時、現在火星や木星や土星の住民たちの間に行なわれているように、人間の内部が開かれて霊的な交流が達成されることになる新時代の到来を、世界の人々は大歓迎するだろう。(〃 P45)

・聖書の言葉には誤謬があり、全体は不完全な物語。
・キリストについては「三位一体」説にある「神の子」であることを否定し、比類ない高潔な人格と抜群の霊能力を持った宗教改革家としている。(〃 P55)

『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P38にて補足

デ-ビスの著述がすすむにつれて、協力者だったブッシュ教授の態度が一変。敬虔なキリスト教徒である教授がスピリチュアリスト的な考え方についていけなくなったためだと言われている。
1846.9.19  フランス、ラ・サレット他各地で予言を託す聖母
・聖母マリアの顕現は5世紀までさかのぼる。
・初期は主に正しい信仰の在り方と指針を人々に教戒していた。
・フランス南東部の、ラ・サレットに聖母マリアが出現。
ラ・サレットは標高 1,000~2400メートルの高地にあり、現在でも人口わずか 70人ほどの小村ながら、ルルドに次ぐフランスの聖母マリア巡礼地となっている。
・二人の子どもがサレットの山中で、見慣れない服装をし、輝く光に包まれた貴婦人に出会った。貴婦人は岩に腰掛け、顔を手で覆って泣いていた。
人々の犯しつづける罪があまりに重く、もう支えきれないと嘆いた。
このままでは世界は破滅する
…他36の預言を残した。←1531年へ
・転換点となり、もっぱら終末預言的な内容が増え始めた。
その後も聖母の出現は続き、現在も世界各地から報告されている。
この200年間聖母マリアは一貫して言いつづけているのだ。「悔い改めよ」と。『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』
 
 1848.2. 1848年革命
フランス2月革命はヨーロッパ各地へ伝播し、この内、特にドイツ連邦、オーストリアで起こった運動を3月革命と言う。
1848年にヨーロッパ各地で起こった革命。
ウィーン体制の事実上の崩壊へと突き進んだ。
 
 1848.2.24 『共産党宣言』
・カール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスによる弁証法的唯物論『共産党宣言』
 
   物理的心霊現象の時代の幕開け  
1848.3.31~
現代スピリチュアリズム元年
近代心霊研究の始まり-一般霊との交霊
アメリカのニューヨーク北部の小さな村ハイズビルで起こったフォックス家事件(=ハイズビル事件とも言う)に始まる。 
ハイズビルに住むフォックス夫妻には、マーガレット(11歳)とケート(9歳)という二人の娘がいた。いつの頃からか、夫人と二人の娘は夜になると不思議な物音がすることに気づくようになる。やがてラップ音やノック音がしたり家具が動いたりするようになる。
 1848年の3月31日の晩、前夜の騒音で家中の者が不眠になっていたので、その日は早くから床に入った。するとまたコツコツと窓を叩く音がする。はじめは怖がっていたが、今ではもうすっかり慣れた娘の一人が、パチンパチンと指を鳴らして、「お化けさん、真似をしてごらん」と言うと、同じ数だけ叩く音がする。娘たちは面白がって遊び始めたので、夫人が試しに、その場の誰にも答えられないような質問をしてみようと思いつき、「私の子ども全員(前夫との子供も含めて)の年齢を上から順番にラップ音で答えてください」と言った。すると即座にすべての子どもの年齢が正確に返ってきた。そこで夫人は、「正しい答えをしていますが、あなたは人間ですか?」と尋ねてみた。ラップ音はない。「あなたは霊ですか? もしそうならラップ音を二回鳴らしてください」ラップ音二回。さらに質問を続け、「もし傷ついた霊ならラップ音を二回鳴らしてください」と言うと、即座にラップ音が二回鳴って家全体が振動した。
それで驚いて近所の人達を呼び集め大騒ぎになった。ドゥラスという人が中心になって、アルファベットを早口で言って、霊に望みの箇所で音を鳴らしてもらうといった繰り返しで、とうとう一つの通信文を獲得する
それによると、音を鳴らした霊は、五年前にこの家に泊まって殺されたチャールズ・ロズマと言う名前の31歳の行商人で、五百ドル奪われ地下室に埋められた、というのである。
それで翌日、皆で地下室を掘ったら水が出ていったん作業を中止したが、その年の夏、水が引いたので再掘したら本当に毛髪と歯と骨が出てきたという。
(この事件に自作自演説もある。)(ニューヨークでも新聞はこぞって姉妹を嘲弄した。…『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏 P18)

フォックス家の知人であるアイザック・ポストは、ロチェスターのリーの家でアルファベット表を使って交霊実験を行ったところ次のような霊界からのメッセージを受信した。
「友よ。あなた方はこの真理を世に広めなければならないのだ。これは新時代の曙光なのである。それを、あなた方はもはや圧し隠そうとしてはならないのだ。あなた方がその義務を行うとき、神はあなた方を護り、善き霊たちがあなた方を見守るであろう」(「新霊交思想の研究」田中千代松著、37頁)

その後このメセージを実行しようとする人が増えていき、
18491114日、ロチェスターのコリンシアン・ホールで最初の公開交霊会が開かれた。

地球上のあまりの惨状を前にして、霊界では高級霊達が結集し、一致団結して「地球人類救済」に乗り出すことになりました。そのための大プロジェクトが立案され、計画にそって綿密な準備が進められました。
そして1848年に、地上世界に向けて計画が実行に移されることになりました。
それが地上のスピリチュアリズム運動の開始だったのです。


心霊現象の歴史分析
1、物理的心霊現象の時代
・1848年のアメリカのニューヨーク北部の小さな村ハイズビルのフォックス家の事件がスピリチュアリズムの原点
・物理的心霊現象の時代であり、物理的な心霊現象を顕す霊媒が中心だった。

1848 米国史上初の男女平等、婦人の投票権を求める運動
・女性が霊能に気付き、神からの贈り物と思い、社会での独立や地位向上のために最大限に利用しようとしたとしても不思議ではない。
・社会の良識に背く新しい女たち
『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏P29
1850年代 パリの上流社会では「お宅のテーブルの具合はどうですか?
(降霊会における招霊実験をテーブル・ターニング)」というのうが挨拶代わりとなった。
1853  ペリー、浦賀に来航   
1853~1856  クリミア戦争
1853年から1856年の間、
クリミア半島などを舞台として行われた戦争
フランスオスマン帝国イギリスを中心とした同盟軍およびサルデーニャと、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらには
カムチャツカ半島にまでおよんだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。
この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させた
プロイセンヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスフランスの国際的な発言力が強まり、その影響は中国日本にまで波及した。
 
1854~1856
の2年間

フローレンス・ナイチンゲール(イギリス)と看護学と赤十字(一部前述)
wikipediaより
・裕福な家庭で両親の(※補足-1818年に結婚、1821年新婚旅行から帰国。先に姉が誕生)3年間の、新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで次女として生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられる。
・幼少期は、贅の限りを尽くした教育(フランス語・ギリシャ語・イタリア語(姉妹とも読み書き話しができた)、ラテン語(聖書や哲学の勉強の基礎となるものとして学ぶ)などの外国語、ギリシア哲学(プラトン)・数学・天文学・経済学・歴史(イギリス、外国)、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、詩や小説などの文学)が施される。
・しかし、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。
・その後ブレスブリッジ夫妻という有名な旅行家の友人に連れ添われてローマに旅行に出掛ける。そしてローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと友人を介して知り合った。帰国後、ハーバート夫人である、通称リズことエリザベス・ハーバートとも親しい交際が始まる。
・ナイチンゲールは精神を病んだ姉の看護をするという口実で1851年、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在する。ここでは、看護婦に対しても教育が行われていた。その後看護師を志し、リズ・ハーバートに紹介されたロンドンの病院へ就職するが、ただし無給で、生活費は、年間500ポンド、数少ない理解者の父が出していた。
・就職に反対する母、姉と険悪となる。のちに婦人病院長となったナイチンゲールはイギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴える。当時、看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代であった。・・しかし、1854年にクリミア戦争が勃発すると、ロンドンタイムスの特派員・により、クリミア戦争の前線での負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況であることを伝え始めると、一気に世論は沸騰する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固める。
・事態を重くみたシドニー・ハーバート戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。
・11月、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かった。しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否した。
ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。しかし味方がいないわけではなかった。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接女王に届けるよう命じた。ハーバートはすぐにこれを戦地に送り、病院内に張り出した。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵らは元気付けられ、対抗勢力には無言の圧力となった。
・スクタリ病院の看護師の総責任者として活躍。
・後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇(42%)したが、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれた。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。
・ナイチンゲールの従軍後の1855年、戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転した。新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣した、そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。
・この間もナイチンゲールは陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれる。もっとも大きなものは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだった。最終的には、この部分を修正し、女王名の入った新たな辞令が届くが、これは1856年の講和直前であった。
・1856年3月30日パリで平和条約が締結される。4月29日クリミア戦争終結。
7月16日病院の最後の患者が退院。ナイチンゲールは国民的英雄として祭り上げられることを快く思わず、8月6日スミスという偽名を使用して人知れず帰国した。
・11月帰国後ナイチンゲールチームはバーリントンホテルに集結し、タロック大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始める。数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出した。このためイギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としている。(※皆を納得させるための手法として考案)これによる改革は保健制度のみではなく、陸軍全体の組織改革につながった。
・ナイチンゲールは「自分は(クリミア戦争における英国の)広告塔となる」ことをいとわなかった。しかし、あまりに広告塔として利用されたせいか、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになる。それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャルしか記すのを許さなかった。
・ナイチンゲールのこうした態度に影響されてか否か、赤十字国際委員会の創設者の一人であるアンリ・デュナンがナイチンゲールの活動を高く評価していたため、委員会が「傷病者や障害者または紛争や災害の犠牲者に対して、偉大な勇気をもって献身的な活躍をした者や、公衆衛生や看護教育の分野で顕著な活動あるいは創造的・先駆的貢献を果たした看護師」(全世界で隔年(西暦で奇数年)で50人以内)に対して贈る記念章に名前を残している。(※ナイチンゲール記章-二人は面識はなく手紙のやりとりをしていた。ボランティア活動には否定的だったため、デュナンの活動には非協力的だったようだ)
・ナイチンゲールは赤十字社活動には関わっておらず、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していた。これはマザー・テレサと同様、「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」ということを見抜いていたためである。そして「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」という考え方があったからだといわれている。
・超人的な仕事ぶりと必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない果敢な姿勢により、交渉相手となる陸軍・政府関係者はナイチンゲールに敬意を示し、また恐れもした。オールド・バーリントン通りにあったナイチンゲールの住居兼事務所は関係者の間で敬意と揶揄の双方の意味を込めて「小陸軍省」 Little war office とあだ名された。
・戦時中に作られたナイチンゲール基金が45000ポンドに達すると、聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校がつくられる。校長は病院の婦長ウォードローバーが当たったが、運営に関してはナイチンゲールも協力した。
・その後、同様の各種の養成学校がイギリス内に作られ、現在に近い看護婦養成体制が整い始めた。
・彼女自身が負傷兵たちに奉仕したのはクリミア戦争の2年だけであり、むしろその象徴的献身や統計に基づく医療衛生改革で名声を得た。彼女自身はクリミア戦争で熱病にかかり37歳(1857年)の頃から虚脱状態になやまされ残り55年間は病床の日々を送った。(以上Wikipediaより)
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フローレンス・ナイチンゲールが聞いた「神の声」とは
まず彼女は「神の声を聞いた人」です。
彼女は生涯に4回(1837,1851,1854, 1861)神の声を聞いており、クリミアに赴いたのは、神の命に従って奉仕を するためでした。
1)運命の1837年2月7日。フローレンスは神の声を聞きます。神は彼女 にこう言いました。『私の所に来て奉仕しなさい』しかしその時彼女にはど うすれば神様に奉仕することができるのか分かりませんでした。
彼女がその解答を見つけたのは7年後の1844年、24歳の時でした。彼女は修道女のように病院で病気やけがの人の世話をしたいと言い出します。そして 翌年、従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚を断って近所のサリスベリの町の病院に入って仕事をしながら看護の勉強を始めました。1847年からはローマ の保養所に移り、ここでその所長のシドニー・ハーバートと出会います。
2)その後1849年にはエジプトに行ったあと1850年から1851年にかけて2回 ドイツの看護学校に行って、はじめてシステマティックな看護理論を学びます。
そして1851年他人の評価を気にせず神に奉仕しなさい」という2度目 の神の声を聞いて、貧しい人・病む人たちへの手を更にさしのべていきます。
3)現地に行ってみるとそれはひどいものでした。彼女らのチームは野戦病院の衛生環境を強引に改善し、死亡率を数パーセント下げてみせました。この時彼女はチームのやり方を軍の首脳部に納得させるために彼女が発明した統計グラフを使用しました。これは当時としては非常に独創的なものでした。単なる数字ではなく視覚に訴えるものの説得力は強く、彼女の考案したグラフの様式は今でも使われています。彼女はこの手法の考案者として後に英国統 計学会の会員になり、米国統計学会の名誉会員にもなっています。
このクリ ミアで彼女は3度目の神の声を聞きました。
帰国後彼女は状況をビクトリア女王に報告した上で、今後の軍役における衛生管理についても助言をしました。しかしこのクリミア戦争ではさすがに激務がたたって彼女はかなり体を壊し、後々までそれが響くことになります。
4)この頃から彼女は夜の時間に文筆活動をするようになります。昼間は看護活動や後身の指導に当たり、夜は本を書くというのは大変な負荷ですが彼女は公的な場所への出席をできるだけ減らして、そういった時間にあてていきま した。彼女は生涯に150冊の本12000通の手紙を書いています。その手紙の大半が世界各地から看護と衛生に関して送られてきた質問状への回答でした。(※⇒ナイチンゲール書簡集) 1860年6月24日にはナイチンゲールの名前を冠した看護学校がロンドンにで きました。彼女はその学校での指導要領などにも細かいところまで注意をはらいます。
翌年にはアメリカから勃発した南北戦争での衛生管理について質問を受けています。
その年彼女は4度目の神の声を聞きました。
1872年には国際赤十字のアンリ・デュナンがナイチンゲールを高く評価する 声明を出しました。1887年には英国看護協会の設立に助力しました。そして 1907年には女性としては初めて、メリット勲章を授与されました。そして 1910年8月13日、90歳の高齢で亡くなりました。
彼女は25歳の時の最初の求婚の他に2度プロポーズをされています。2度目 はサリスベリで駆け出しの看護婦だった時ですが、散々悩んだ末、上流家庭 の奥方におさまってしまえば「神様への奉仕」ができないと結論を出し、断っています。3度目は38歳の時ですが、彼女はその求婚者を姉のパーシノープに譲って(!!)しまいました。 彼女は病人を救うのは宗教者の愛よりも衛生環境であるとして、近代的な看 護理論と病院の衛生管理の指導・普及に多大な貢献をしました。彼女はまた 自然現象のみでなく社会現象も数字で把握することができるのだということ を実証してみせ幾つかのグラフを発明しました。彼女はまた女性にも家庭に引きこもるだけでなく社会に出て積極的に活動する生き方があるのだという ことを実践してみせてくれました。彼女はそういう意味でクリミアの天使であっただけでなく、近代思想家でもあり数学者でもありフェミニストでもあ りました。 以上、フローレンス・ナイチンゲールより
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「ナイチンゲールの年表」より 神の声についての調査
1820年、両親の新婚旅行中のフィレンツェ(英語名:フローレンス)で次女として生まれる。現在「看護の日」(ナイチンゲール記念日)になっている。
1829年、カトリック解放法が成立。国教会徒でない人でも公職に就けるようになる。
1830年、父はハンプシャー州の州長官に就任し、州の行政と治安の責任者にる。
1832年、父は自らがケンブリッジで習ったような教育を娘達に授ける。
1)最初の神からの啓示を受ける。自らの寝室に茨の冠をかぶったキリストが光り輝く姿で現れ、「我に仕えよ!(「To My Service」)」と言われる。
1839年、一家はヨーロッパ旅行から帰国。フローレンスとパーテノープはビクトリア女王に拝謁。
1840年、イギリスでは大変な飢饉と不況に襲われる。ナイチンゲール家の人びともリーハースト荘の近くの農村地帯を病人を見舞って歩く。
毎日のように自分に語りかけてくる神の声を自覚。「私を愛せ!」 
日常生活を送る中でも突如トランス状態になり、白昼夢を見、恍惚とする。胸の中から声が響いてくる。そうした経験を日記に記す。

1844年、看護婦として病院で数ヶ月働きたいと言い出す。その後、隣の村の自分の家に自立して、「教養ある女性のための誓約によらない、プロテスタントの婦人団体のようなものを」設立したいと言い出す。家族に大反対される。
1845年、従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚を断る。
1847年、ブレスブリッジ夫妻という有名な旅行家の友人に連れ添われてローマに旅行に出掛ける。そしてローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと出会う。帰国後ハーバート夫妻との親しい交際が始まる。
1848年、チャドウィック(イギリスの都市の人口の死亡率の高さと平均寿命の短さを調べて、衛生改革を訴えた運動家)をリーダーとして保険局が作られて全国的な衛生活動を行なう。その頃イギリスは大規模なコレラの流行に見舞われ、二度のコレラで両方とも2万人を超える死者を出す。
2)1852年、再びキリストが現れ、「救助者になれ!(To Be a Deliverer)」という二度目の啓示を受ける。
1854年、ロンドンタイムスの特派員ウィリアム・ハワード・ラッセルにより、クリミア戦争の後方部隊が如何に悲惨な状況にあるかということがを新聞に載り、世論は沸騰する。
1854年10月21日クリミアでの奉仕を申し出るフローレンスの手紙と、同じく奉仕を彼女に求めるシドニー・ハーバートの手紙が郵便局ですれ違う。「 トルコにおけるイギリス陸軍病院看護婦監督 」の公式任命が下り、シスター24人、職業看護婦14人の計38人の看護団を組織して出発。
1854年11月、当初医師達は看護婦を病室入れることを拒んでいたが、インカーマンの激戦で大量の傷病兵が送られてきたため、入院者が12,000人以上に増え、スクタリの病院はパニック状態となる。フローレンス達は看護に没頭する。
3)クリミアで彼女は3度目の神の声を聞く。
1855年、2月旧友のパーマストン卿が首相となる。首相は二つの委員会、補給問題を査察する『マクネル・タロッチ委員会』と、『衛生委員会』を戦地に派遣する。衛生委員会の働きで給水・排水と換気の問題が改善され、この後死亡率が急激に下がる。
・スクタリの病院の死亡率42パーセント。一方、もっと劣悪な補給と看護状態だったバラクラヴァは死亡率13パーセントであったことが後にわかる。
・娯楽施設をつくり、兵士がお酒や売春婦に走らないようにし、節約した金を本国の家族に送金できるようにシステムを作った。その後半年の間に7万1千ポンドが送金された。
・病院の修復を一旦裁可されたが、150名の職人のストライキで大蔵大臣が手を引いたため、新たに200人の職人を雇い、自分の財源から費用を支払い、期日までに病室を増やし、新たに500人の傷病兵を受け入れる。彼女がクリミアに滞在中に、支出した個人財産は7000ポンドに及ぶ。
・前線の病院を視察。その後
クリミア熱(チフスか?)で倒れる。二週間危篤の状態になって生死の境を彷徨う。このニュースにイギリスの世論は沸騰する。
シドニー・ハーバートの呼びかけによって『
ナイチンゲール基金』が集められる。
1856、ジョン・ホール医師とフローレンスとの深刻な対立は、ホール医師が本国にむかってフローレンスを中傷する文章を次々と送っていたため有名になる。
同年3月、陸軍大臣のパンミュア大臣から、フローレンス・ナイチンゲールの指揮下に全て従うようにという手紙が届く。パンミュア大臣から密命を帯びて派遣されたレフロイ大佐の報告からフローレンスの方が全て正しいという判定が下る。

・バラクラヴァの病院に乗り込む。この旅行の際、ホール軍医は「どんな種類の食糧も彼女に供給されないように、命令を出す。」 しかし先見の明のあるフローレンスは大量に食糧を用意し、10日間の旅中、食事をすることが出来た。アイルランドの修道女達は国に帰る。
・4月29日クリミア戦争終結。
・この戦争の死者は2万1千人。内、病死した人が1万6千人。多くは伝染病による死亡者。この間、フローレンスは2千人を超える人の臨終に立ち会う。

・同年7月、スクタリを後にして帰国の途に着く。自分が偶像化され、虚像が一人歩きすることを恐れ、スミスという偽名を使用して人知れず帰国するなど、人前に出ることを避けた。本国で民衆は熱狂して迎える。女王はブローチを贈り勲功を讃える。
1857スクタリの死亡率の高さは、衛生状態の悪さが原因であることを理解したときにフローレンスは壊れ始める。自分がよかれと思ってした活動によって結果的に大勢の人びとを死に至らしめてしまった。フローレンスは自分の責任を感じて苦しむ。全く食事を受け付けなくなり、衰弱する。
1861、自分がスクタリの病院に送られた意味を考える。これは間違いなく神の意志だった。自分が間違いを犯すことさえも神の計画の一部だったのだ。神は私が間違いに気づき、間違いから教訓を学ぶという方法で私を教育なさろうとしているんだと信じる。
・インドのための『ロイヤル・コミッション』を立ち上げる。衛生学者であるファー博士とサザランド博士を委員に任命し、インドの衛生改善を指導。兵士の死亡率を下げていく。現地の人達にも各地に衛生委員会を作ることを呼びかける。カルカッタやマドラスなどの大きな都市に下水道を引こうと努力する。飢餓から救うために政治家達にインドに灌漑用水を引くことを呼びかける。のちにフローレンスは『インドの母』と呼ばれるようになる。
1893、シカゴ博覧会で、看護の本質に関するナイチンゲールの信念を明確にした演説が行われた。「この職業は一つの芸術であり、科学である」と記述している。
1907、女性としては初めて、メリット勲章を授与される。
1910、90歳で死去。 
「ナイチンゲールの年表」より

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現役ナースさんのHP ナイチンゲールのお話より
1)一般論的ナイチンゲール
1848年から1849年にかけてイギリスのロンドンでは、2回にわたりコレラが大流行します。その頃彼女は、エジプトへ旅行をした後、1850年から1851年の間、2回ドイツの看護学校へ行き、看護理論を学びます。そして、1851年に『
他人の評価を気にせず神に奉仕しなさい』と、2度目の神のお告げを賜ります。彼女は、その後も貧しい人や病む人のために奉仕を続けます。
 1853年、ナイチンゲール33歳のときに、病院の看護監督に就任します。


 1859年、ナイチンゲールは“看護のバイブル”といわれる『
看護覚書き』を刊行します。また、同じ年に『病院覚書き』という本が刊行されました。彼女は、看護に貢献しただけでなく、『病院覚書き』を発表したことにより、これが医学の大発展につながり、医療全体にもかなり貢献しています。

 そして翌年の1860年、イギリスのロンドンにある聖トーマス病院に、彼女は最初の看護学校を設立します。1861年には、助産婦養成所を開設しますが、こちらのほうは7年後に閉鎖されました。1860年は、アメリカで南北戦争が勃発しており、彼女はアメリカから衛生管理についての質問もいけています。また、彼女はこの年に
4度目の神のお告げを賜ります。彼女は、生涯の中で4度“神のお告げ”を賜ったといわれています。

 1872年、国際赤十字のアンリー・ジュナンは、ナイチンゲールを高く評価する声明を発表しました。…
 1887年、イギリスでは『
英国看護協会』が設立され、ナイチンゲールも設立に助力しています。そして、1907年には、イギリスではこの章を頂くことはかなり名誉なことといわれている『メリット勲章』なるものを、女性では初めて授与されています。

 ナイチンゲールは、クリミア戦争後看護のみならず医療全体においてかなりの貢献をしてきました。しかし、数多くの彼女の功績は全てベッドの上でされたことでした。残りの54年間の生涯をほとんど人とは会おうとしないで引きこもりの生活をしていたようです。彼女は周りの人たちにはよく「私は心臓病で死にそう」と訴えていたそうです。
 1910年8月13日、こうしてナイチンゲールは90年の生涯に幕を閉じました。イギリスでは、ロンドン市内にある著名な人たちを葬る墓地に彼女も加えられる話も出ていましたが、自らの希望で彼女の両親が眠るイングランドのハンプシャー州にあるロムジィ近くのイースト・ウィロー教会の墓地に、彼女は両親と共に眠っています。

2)ナイチンゲールのもう一つの顔
ナイチンゲール家はとても裕福でした。しかし、彼女はすでに6歳のときには、その裕福な生活に不安や罪悪感を抱いていました。そして、『
白日夢癖』・『食卓恐怖症』が出現します。白日夢とは、簡単に言うと空想のことで、現実に満たすことができない欲求を、空想で満たすことでストレスを解消しようとする現われのことです(※いろいろな解釈があるようです。もっと重要な意味がある場合があります。⇒ブルース・モーエンと白昼夢また、食卓恐怖症とは対人恐怖症の一種で、人前に出ると意識してしまい緊張感が増して対人関係を避けようという行動が出てきます。彼女は、他の人たちと同じように振舞えないのではないかと不安を抱き、食事のときもナイフやフォークで何か過ちを起こすのではないかと思い込み、皆といっしょに食事をとることを拒否していました。これらの症状は神経症の類で、神経症はまだ自分自身で症状を自覚して病識がある状態のことです。彼女は、晩年自分を振り返ったときに、「幼い頃、自分は他の人と違うのではないか、と強迫観念に捕われていた」と語っています。彼女は夢の中へ夢の中へと逃げていってしまったのでしょうね。
3)看護覚書とナイチンゲールの理論
看護の要素は『新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさを適切に保ち、食事を適切に選択し管理すること』と書かれており、療養環境を整えることが大切であると語っています。それは、人間の健康を回復する目的であると語っています。つまり、彼女は看護の目的とは、『
健康の増進』とはっきりと述べています。そして、病気の治癒力とは人間がもっている『自然の力』であると語っています。
ナイチンゲールは『看護の仕事は、快活な、幸福な、希望にみちた
精神の仕事です。犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、快活な女性こそ、本当の看護婦といえるのです(ナイチンゲール書簡集より)』と、言葉を残しています。彼女の生きた時代には、身分階級というものがあり、看護の仕事をするものは下層階級の女性であり、暗いイメージがつきまとっていたことも影響しているかもしれません。現在でも、看護というお仕事は3K・5K、もしかしたら9Kなどといわれており、過酷な仕事であって自分に犠牲をはらってでも『奉仕の精神』で務めるようなイメージがつきまとっています。彼女は、その象徴のようにあがめられてきました。ですが、彼女はそのようなイメージとは違い、看護という職業を確立しようと考えていた人です。彼女は、看護の原点をみつめ、看護の歴史を築き、世界中に看護の独自性を広めました。そして、彼女の理論を超えてさまざまな看護理論が発表されている現在では、残念ながら彼女の理論は忘れ去られていることも事実です。現在の、看護理論の主流はアメリカの看護理論です。日本でも、アメリカの看護理論を取り入れており、そのままの理論を取り入れようとしているために、さまざまな問題が生じているのも事実です。つまり、日本人の生活環境にそぐわないということです。その点、彼女の理論は『看護とは何か』ということを突き詰めていて、単純といえば単純であり、基本といえばこれが基本なのです。

またナイチンゲールは『
々の健康上の知識や看護の知識は、つまり病気にかからないような、あるいは病気から回復できるような状態にからだを整える知識は、もっと重視されてよい。こうした知識は誰もが身につけておくべきものであって、それは専門家のみが身につけうる医学知識とははっきり区別されるべきである(看護覚え書より)』と書き残しています。彼女の時代には、まだまだ看護婦という職業は確立されてはいませんでした。そんな状況の中で、彼女は看護の知識と医学の知識をはっきり別けるべきだと既に考えています。そして、看護の視点で病気をみつめるように訴えています。彼女自身の生命観から看護独自の視点で『病気とは何か』ということを説いています。彼女はこんなエピソードも語っています。「ある非常に優れた医師が、肺炎をどう治療するかと聞かれたとき『私は肺炎は治療しません。私は肺炎にかかっている人を治療するのです』答えたのであるが、それにもかかわらず、病気でなく病人を看護するということは、看護そのものと医師との違いのひとつである(ナイチンゲール著作集・第2巻より)」と。彼女の看護のあり方は、からだの中には自然に回復する治癒力があり、その回復していく道程が順調に進むように療養の環境を整えることによって、生命力を支えることと説いています。それと、彼女は『看護は生きた身体と生きた心と身体と心が一体となって表現された感情とに働きかけるのである(ナイチンゲール著作集・第2巻より)』と、説いています。こうして、彼女は『何が看護で何が看護でないか』ということを、明確にしていきました。

『看護覚え書』の第1版が印刷されたのはクリミア戦争から帰還して2年後の1859年12月のことでした。クリミア戦争前は、上流階級の人々の周りで生活していたナイチンゲールは、クリミア戦争を機に下層階級の人々のために尽くします。ナイチンゲールの理論には、単に病人を対象にしただけでなく、兵士・貧民・インドの人々といった存在が大きく影響しています。ナイチンゲールの著書150篇のうち、4分の3にあたる48篇が、1850年代の末から1860年代の末までの10年間に書かれています。しかも、この48篇のうちにはナイチンゲールの代表作も多く、ナイチンゲールはこの10年間で勢力的に執筆活動を行い、この期間にナイチンゲールの理論は形成されたといってよいでしょう。

全ての人たちが健康への最善の機会を与えられるような方法が学習され実践されますように!』と1893年にナイチンゲールは夢を語っています。世界でも、医学への考え方は変化してきており、疾患を直す医学から疾患を予防する医学へと徐々に移りつつあります。看護も傷病者だけを看るのではなく、疾患を持っていない人に対しても必要なのではないかと考えられるようになってきて、今もなお看護学の中ではいろんな看護理論が生まれています。彼女の夢は、世界中の人たちへのメッセージではなかったかと思います。誰もがいつも健康でいられますようにという彼女の願いは誰もが想うことですよね。看護には知識や技術は当然備わっていなければならないものではあるけれど、私自身が看護する心を失わないでいたいものだと思います。 ナイチンゲールのお話 現役ナースさんのHP

1851~1879

ダーウィンと種の起源と宗教観
・典型的な手紙魔だったダーウィンは生涯で2000人と手紙による意見交換をし、そのうち約200人が聖職者だった。決して生物に対する神学的な見解を否定したわけではなかったが、しかしもっとも愛した長女アン・エリザベス(アニー)が献身的な介護の甲斐無く死ぬと、元来信仰心が薄かったダーウィンは「死は神や罪とは関係なく、自然現象の一つである」と確信した。
・彼はしばらく正統な信仰を持ちつづけ、道徳の根拠として聖書を引用したが、旧約聖書が述べる歴史には批判的だった。種の変化を調査しているとき博物学の友人たちがそのような考えを、神授的な社会秩序をむしばむ恐るべき異教で、英国国教会の特権的な地位を批判するための反国教会主義者か無神論者による急進的な主張の一種だ、と考えていることを知っていた。ダーウィンは宗教を民族の生き残り戦略であると書いたが、まだ神が究極的な法則の決定者であると思っていた。
1851年のアニーの死は失われつつあったキリスト教信仰への終わりを意味した
・1870年代に親族に向けて書かれた『自伝』では宗教と信仰を痛烈に批判している。このセクションは『自伝』が出版されるときにエマと息子のフランシスによって削除された。
・1958年に孫娘ノラ・バーロウによって出版された新しい版では削除された全てのセクションが元通りおさめられている。
・1879年に書かれた書簡では、自分はもっとも極端な考えに触れた時であっても神の存在を否定すると言う意味における無神論ではなく、「不可知論が私の心をもっともよく表す」と述べている。
・晩年のダーウィンの友は、敵対者からの批判に疲れ、信仰と科学の間で揺れるダーウィンの遅疑逡巡を回想している。

1852~ W.R.ハイデン夫人の渡英により英国にスピリチュアリズムが飛び火
・メスメリズムの講師とともに渡英
・優れたサイコメトリスト
・叩音によってアルファベットを確かめながら、霊と交信
・数学者のオーガスタス・ド・モーガンと社会主義者のロバート・オーエンに影響
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P68
1853~
(3年間)
1856 
クリミア戦争
1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争である。

フランスオスマン帝国イギリスを中心とした同盟軍およびサルデーニャ(イタリアとフランス)と、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまでおよんだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。
この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。
この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まりその影響は中国や日本にまで波及した。
Wikipedia ⇒※プチャーチン長崎へ来航 日露和親条約 ⇒日露修好通商条約等へ
ロシア帝国 
~1853
1854~ 
アメリカのペリー来航、日米和親条約締結と開国
一般的には1639年寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、
1854年嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」 (英closed country) と呼ぶ。 

鎖国」という語は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄(1760年〜1806年)が、1801年成立の『鎖国論』(写本)において初めて使用した。
1690年から1692年にかけて来日したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが、帰郷後にアジア諸国に関する体系的な著作『廻国奇観』の中で日本についても論じ、死後『日本誌』(1727年刊)が編集され英訳出版された。そのオランダ語第二版(1733年刊)中の巻末附録の最終章に当たる『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』という論文を、1800年頃に長崎の元阿蘭陀稽古通詞であった志筑忠雄が訳出した。その際、あまりに論文の題名が長いことから、翻訳本文中の適当な語を捜し、『鎖国論』と題した。この「鎖国」はその際に新造された語だが、本は出版されず写本として一部に伝わっただけで、「鎖国」という語も広まらなかった。したがって、いわゆる「鎖国令」という語は明治以降の研究者による講学上の名称で、実際にそのような名称の禁令が江戸時代に発せられたことはなかった。
 
1854 スピリチュアリズム究明の建議書が米国国会に提出される。13,000人が署名。
1855 シアトル首長の手紙-父は空 母は大地
1854年アメリカの第14代大統領フランクリン・ピアスはインディアンたちの土地を買収し、居留地を与えると申し出た。
翌年それに対しインディアンの首長シアトルはこの条例に署名し、大統領に宛て手紙を出した。
父は空 母は大地
1855~ 霊媒の王、ダニエル・ダングラス・ホーム(D・D・ホーム)
・少年の頃から透視能力
・22歳でアメリカから渡英、ロンドンへ。
・「食客」となり、次第に時代の寵児となる。
・彼の降霊会と知識人によるその反応をコナン・ドイルが報告
・離れたところに置いたアコーディオンを手を触れずに演奏、物品や自身を浮遊させた。著名人に大々的な浮揚を証言させた。
・潔白、オープンな態度で人気。
・自分の霊能に対してもてなしとか個人的な贈り物以外、報酬はいっさい受け取らなかったと言われる。1857年にパリのユニオンクラブで公開実験が行なわれたとき、5万フランという巨額な謝礼を、自分は生命が永遠であるということを知らせる使命のために来ているのだからと言って断った。そのときもその日暮らしの風来坊で健康に不安があったのである。
・ナポレオン三世とアレクサンドル2世に贔屓を受けた。
霊能が1年間停止される、というメッセージが霊界から届き、ローマ・カトリック教に改宗するなど受難の後半生が待っていたが、最後まで霊能を飯のタネにせず、潔癖な暮らしぶりで53歳で亡くなった。『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P81~
1856(7年は改定版)
10年間
アラン・カル(ー)デック(イポリット・レオン・デニザール・リヴェイユ)と『霊の書』
フランスの心霊運動の基礎を築く。
スピリティズムという用語はフランスからラテン系諸国に広まった。
天体には全て生物がいる。各天体の物理的構造は皆違っている。
地球は、その居住者の肉体的・精神的資質の点では、この太陽系の惑星の中でも、最低のものの一つである。 火星は、ある点では、地球の人類よりも低い。
・木星は、あらゆる点で、地球人よりはるかに優れている。
太陽は肉体をもつ者の住む世界ではないが、高級霊達の集まる場所である。天体の大きさ、太陽からの距離は、その天体の進歩程度とは必ずしも関係はない。即ち、金星は地球よりも進歩しており、土星は木星よりは進歩していない。
再生はすべて地球上とは限らない。多くの天体で再生が行われる。現在我々が生きているこの地球は、我々にとって最初の地上生活でもないし、また最後でもない。しかし、最も物質的な生活の中の一つであり、完全からは最も遠いものである。

「アラン」も「カルディック」も彼の前世のときの名前として降霊会のときに示されたもの。
高級霊たちがカルディックに重要な宗教的役割を与え、指導するとのメッセージを送ってきた。カルディックはさまざまな質問を用意して霊との対話を繰り返し、2年後に新しい宗教観それを伝道すべき自分の使命とを確信するに至った。
1856年に『霊の書』、翌年に改訂版を刊行
「スピリティスム」と名乗った。
フランスはもとより、南米にも伝播、とくにブラジルに信奉者が多い。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P187
アラン・カルディック
『霊の書』
~1856~ エマ・ハーディング・ブリテン(Emma Hardinge Britten,
イギリスの霊媒兼作家、編集者、音楽家。精力的な講演活動や出版でスピリチュアリズムの普及に大きく貢献した。
幼い頃から音楽の才能があり、劇場にも出演し、11歳で人に教えるほどだった。
宗教的にはオルペウス教の結社などに親しんで育ち、スピリチュアリストとして活動するようになってからも古代のシンボル秘儀に関する発言がみられる。また、子供の頃に夢遊病メスメリズムによる「磁気治療」を受けたことがあり、これは後のスピリチュアリズム信奉の基礎になったという。
直接のきっかけとなった事件は1856年に起こった。エマは米国の劇場に出演するため、母と共に汽船「パシフィック号」に乗って海を渡った。
後日、エマはパシフィック号が運んでくる予定の小荷物を受け取りに港に行ったが、「嵐のため船の到着が遅れている」と知らされ、手ぶらで宿に帰った。その晩エマは霊の存在を感じて驚き、母に相談した。すでにハイズビル事件(1848年)を知っていた母はテーブルの上にアルファベットを書いた紙を置き、エマに霊と交信させた。得られたメッセージは、
「パシフィック号のフィリップ・スミスだ。エマ、私が死んだことを知らせに来た。パシフィック号は遭難して、乗員は全員死亡した。船と乗員の行方については、今後いっさい何の手がかりも得られないだろう」というものだった。エマはメッセージを疑ったまま眠れぬ一夜を過ごし、翌朝霊媒のケロッグ夫人のところに行ってみた。夫人はエマに会うなりトランス状態になり、同じメッセージを語った。パシフィック号の遭難は後に確認されたという。
この事件の後、エマはスピリチュアリズム運動に身を投じ、霊媒能力とパフォーマンスの才能を生かして積極的に交霊会講演旅行を行った。(※「スピリチュアリズムの女パウロ」と言われるほどの第一流の伝道師となる『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P189)
なお一時期、神智学の創始者ヘレナ・ブラバッキー夫人にも接近するが、すぐに疎遠になっている。
やがて米国の保守的な地域を中心にスピリチュアリズムに対する反対運動が起き、嫌がらせや脅迫で危険を感じた母の勧めで英国に戻った。

1890年には数多いスピリチュアリスト・チャーチの連帯を目指してNational Spiritualists' Federation(後のSpiritualist's National Union, SNU)を創設。旗印として掲げられた7ヶ条は、エマが理想的社会主義哲学者のロバート・オーエンから自動書記で得たものであるという。
1890年「スピリチュアリスト国民連合(NFS)」設立とその綱領で今日に至るまで「スピリチュアリズムの七綱領」として認められている。
キリスト教国以外に広まるにつれて全部を容認できないスピリチュアリストも出てきたために、現在では以下の最も基本的な二つの綱を認めることとなっている。
1892年にアメリカで「全米スピリチュアリスト連合」設立
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P189
-*-*-*-*-
国際スピリチュアリスト連合(The Spiritualists’ National Union)がエ(ン)マ・ハーディング・ブリテン夫人の霊界通信により、スピリチュアリストとはなにかの定義となるスピリチュアリスト七大綱領を発表しました。その内容は以下の通りです。
  1.神は全人類の父である
  2.人類はみな兄弟姉妹である
  3.霊的世界と地上界との間には霊的交わりがあり、人類は天使の支配を受ける
  4.人間の魂は死後も存続する
  5.自分の行為には自分が責任を取らねばならない
  6.地上での行為は死後、善悪それぞれに報いが生じる
  7.いかなる人間にも永遠の向上進化の道が開かれている


しかし、この綱領は(※キリスト教国以外では)誤解を生じる表現などがあり、シルバーバーチなどの霊界通信『シルバーバーチの霊訓』)でも、その問題点が指摘されています。
私(一般財団法人日本スピリチュアリズム協会理事 江原啓之)がその誤謬を正し、より理解しやすい表現に訂正したものが「スピリチュアリズム八つの法則」です。
  1、霊魂の法則
  2、階層の法則
  3、波長の法則
  4、守護の法則
  5、類魂の法則
  6、因果の法則
  7、運命の法則
  8、幸福の法則

私は以上のように新たなる綱領を提示し、スピリチュアリズムまたスピリチュアリストの生き方を日本で伝えて参りました。
スピリチュアリズム(霊的真理)こそ、人類に伝えられた幸福の生き方であり福音であると確信いたします。かつてカントが述べたように、現世を物質的価値観として捉える生き方では、正直者が馬鹿を見る生き方となり、不条理な世界観に心を曇らせるばかりで刹那的人生観しか見いだせません。
しかし、霊的価値観の視点は、正義に希望の光を与えるものであり、前向きな人生観へと変えて行くものです。心の乱世といえる混沌とした今の時代、スピリチュアリズムは大いなる幸福への福音であると確信いたします。

日本では「スピリチュアル」という言葉をどう訳すか議論されています。なぜなら、一番的確と思われる「霊性」という言葉を用いれば「霊(たましい)」を認めざるをえなくなるからです。WHO(世界保健機構)でも1998年に、人間の健康の条件の中に「スピリチュアリティー」という言葉を加えることが、議論された事もあるのです。

 

グレート・ホワイト・ブラザーフッド(Great White Brotherhood)
神智学やその影響を受けたニューエイジ思想で信じられている超自然的人物の集団
・日本語表記としては「聖白色同胞団」「大白色聖同胞団」「大いなる白色同胞団」がある。
ブラヴァツキー夫人はこの集団に属する。
・クートフーミやモリヤといったマハートマー(大師、マスター)から教えを授かったと主張した。
・チャールズ・ウェブスター・リードビーターによれば同胞団のリーダーはサナト・クマーラである。
Ascended Master Teachingの教義によればサナト・クマーラがこの集団を創設した。
・同胞団の本拠地はゴビ砂漠上空のエーテルに存在するシャンバラに築かれた。 

 
「原罪」「人間の堕落」「永遠の劫火」などの教会のドグマに強い敵意
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P79
1858
フランス ルルド、ベルナデッド前に聖母出現の事件
有名な「ルルドの奇跡」 「ルルドの聖泉」
南フランスのスペイン国境に近いピレネー山脈の麓に、人口一万五千人のルルド(Lourdes)という町がある。
そこの洞窟から湧き出す「聖なる水」で病気や身体の障害が治るというので、非キリスト教徒を含めて毎年数百万人にのぼる巡礼者が世界中からこの地を訪れる。
(1972年の統計では三百五十万人でしたが、そのうち八万人が、身体障害者や病人)
洞窟の内部には有名なマリアの聖堂があり、重病人や松葉杖をつきながらやって来た人達が泉の「聖なる水」を飲み、「聖水浴」をして、聖母マリア様に祈りを捧げると奇跡が起こって病気が治り、また歩けるようになって松葉杖を残して国に帰るのだそうです。
・ルルドが名高い巡礼地になったきっかけは、1858年2月11日に当時十四才の貧しい粉屋の娘マリー・ベルナデットが、薪拾いに行ったマッサビエル洞窟の中で聖母マリアを見たことから始まります。
2月25日に聖母は娘に「泉の水を飲み、その水で顔を洗えば奇跡が起きる」と告げました。
翌日ある盲人がこの泉で水を飲み、顔を洗うと目が見えるようになり、その事実が知れ渡ると、大勢の病人がこの洞窟を訪れるようになりました。これがルルド巡礼の起源ですが、聖母マリアはベルナデットの眼前に、合計18回出現したと言われています
この泉の水を科学的に調査したところ、特別な成分は含まれておらず、山から流れ出る清水と全く変わらぬ成分なのだそうです。にもかかわらず、多くの重病人の奇跡的治癒が実際に起きるといわれています。
この現象はカトリック信者と医者を含む科学者との間で、またカトリック教会とフランス政府との間でそれ以後、論争の種となりました。

1859~
 
金光大神(こんこう だいじん) - 明治16年(1883年)10月10日)は宗教家・金光教教祖。戸籍名は金光大陣
備中国浅口郡占見村字香取(現岡山県浅口市金光町)の農家・香取十平(かんどり じゅうへい)・しもの次男として生まれる。
幼名は源七(げんしち)。1825年11月26日、同郡大谷村(現浅口市金光町)の農家・養嗣子に迎えられ、川手文治郎(かわて ぶんじろう)と改名した。
1831年(天保2年)、浅尾藩主に蒔田広運が就任し、藩主の幼名(荘次郎)と同一音の「次郎名」が禁止されたため、文治郎も川手国太郎(くにたろう)と改名した。
1836年(天保7年)8月6日、養父が死去した。臨終に際しての養父の遺言により、赤沢姓に改め赤沢国太郎となった。
1844年(天保15年)、赤沢文治(あかざわ ぶんじ)に改名した。
他の村人から「信心文さ」と呼ばれるぐらい、当時の民間信仰に手厚く丁寧で、人望もあり、田畑も増やし村の自作農家では十指に入るほどの成功を収めたが、三度の自宅建築のたびに家族や飼牛を亡くし、村人等は金神の祟り「金神七殺」と恐れたという。
1855年(安政2年)年、当時厄年といわれた数え年42歳の時、年頭に厄除け祈願を多方面の寺社にて行ったにもかかわらず、喉の大病に患り、医師には「九死に一生」といわれ治療法はないといわれる。親族が集まり、この病気平癒の祈祷を行った時の体験で神仏の救いを実感し、信心を深めた。後に、この闘病のときに「天地金乃神」(てんちかねのかみ)の声を聞いたとしている。
1857年(安政4年)、実弟の香取繁右衛門(かんどり しげえもん)に金神の神懸かりがあり、その後金神の祈祷者となったことから弟を通じて金神を主として信仰しはじめ、次第に自らも金神の啓示が分かるようになり、数々の不思議な体験をした。
1859年(安政6年)10月21日、神示(立教神伝)により農業をやめて「取次」業に専念するようになった。
1868年(明治元年)、神から「生神金光大神」という神号を受けたとされる。明治新政府が戸籍を編成する際、名前を「金光大神」と届け出たが、戸籍には「神」の代わりに同音の「陣」を用い「金光大陣」と記載された。1883年(明治16年)10月10日に死去した。
なお、篤信者に与えられる神号としての金光大神は他にも、斉藤重右衛門(笠岡金光大神)、片岡次郎四郎(才崎金光大神)に与えられており、区別して教祖金光大神または生神金光大神と呼ぶ場合がある。 
 
1859~

赤沢文治(川手文治郎)と金光教
安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。

現在の本拠地は岡山県浅口市金光町大谷である。(金光町の町名は金光教の本部があることから付けられた。)
祭神は天地金乃神(てんちかねのかみ)と生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)である。教主は金光平輝(こんこうへいき、五代金光様)、教務総長がいる。日本を中心に約1600の教会・布教所、45万人の信者を有する。

従来の金神思想では日柄方位の吉凶を重視し、厳密な日柄方位の遵守を求めたが、金光教祖は自身の体験から、そういう凶事は人間の勝手気ままから生じる神への無礼が原因であり、神への願いにかなう生き方や行動を行いさえさえすれば、すべてが神に守られた中での生活が行えると説いた。そして、神と人とは「あいよかけよ」の関係であるとした(人が助かるには神に願い、神の助けが必要だが、神もまた人が助かって欲しいという願いを持ち、人を助けることで神としての働きが出来るので助かっているという関係)。また、人はみな神のいとしご(氏子)であり、それぞれの宗教の開祖も、神のいとしごであるという教えから、他の全ての宗教を否定しないという特徴を持つ。信者は、本部および各教会の広前に設けられた結界の場において、生神金光大神の代理(てがわり)となる取次者を通じて、各人それぞれの願い・詫び・断り・お礼を天地金乃神に伝えることにより、その願い・祈りを神に届け、また神からの助かりを受ける。これを「取次」といい、金光教の特徴とされる。 (本部広前の結界の場で金光教主は、年間を通して、一日の大半を取次業に専念している。)

1860~ 国安 仙人
 11歳のとき、聖良仙人が来訪。それを転機として12年、岩木山、八甲田山、開聞岳、国見山などを渡り歩き、
五穀断ちをはじめとする仙界修行をし、海上歩行をはじめ、物品引き寄せ、千里眼、念力、テレポーテーションと、神仙家随一の神通力を発揮した。― 『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)
  著者の不二龍彦氏が、「この章で扱う神仙家(①~④の4人)のなかでも、真に神通力第一と呼ぶにふさわしいのは、明治期の大仙人・国安仙人である」と述べているほどの人物。 その国安仙人の生活ぶりは、ある意味では今日の日本人と正反対の内容となっている。
  彼のふだんの生活ぶりをザッと紹介しておこう。そこには、なるほどそれでこそ仙人といったエピソードが充ち満ちている。
  中国の神仙関係の書物を読むと、仙人修行者は肉や魚の類はもちろん、穀物を断って心身を浄化するということが必ず書かれている。そして、仙人になると、
ほとんどものを食べる必要がなくなるというのだが、国安仙人もまさにそうだった。魚介鳥獣を食わず、穀類・野菜類も食わず、もっぱら木の実を常食としていて、それも、あれば食し、無ければ自分から買って食べることはなかった。
  しかも国安仙人の買い物というのは、すべて売り手のいいなりで、決して値切るということがない。そのため高く売りつけられることもあったが、仙人はまるで意に介することはなかった。
  そもそも国安仙人には、物欲というものがまるでなかった。自分を飾るとか、うまいものを食うとか、神仏のためと称して豪壮な家を構えるといった俗情は完全に欠落しており、寄進にしても、信者が惜しんで出す金は受けつけなかった。信者がそのそぶりを毛筋ほども見せない場合でも、仙人には相手の心の内が手に取るように見えていたらしく、黙って返してよこしたという。
                       ―― 『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)

  この国安仙人は幼名を米太郎といい、万延元年(1860年)に江戸深川に生まれています。そして明治3年、11歳の年に人生の転機が訪れるのです。米太郎の前に聖良仙人と名乗る白髪の老人が忽然と現れて、「我は前世からの約束で、今日、汝を訪れたのである。これより行を積み徳を積んで、人助けをせよ。そのために汝を時々仙界に呼んで修行をさせるであろう」と告げたのです。以下は本文を引用してご紹介します。

  こう語り終えるやいなや、聖良仙人はためらう米太郎の襟首をつかみ、あっという間にいずこかの山中に連れ去った。かくして米太郎の仙界修行が始まったのである。
  仙童寅吉や宮地水位も語っていたことだが、仙人に導かれて仙境に入るという場合、それは霊体や幽体を飛ばすとか、意識だけを飛ばすというのとは違う。そうしたケースもあるにはあるが、多くは
体ごと異境に参入してしまうらしいのである。
  合理的に解釈したいタイプは、こうした異境へのトリップを、何らかの特殊な意識体験だろうということで片づける。麻薬などのトリップと同じ体験と見なすわけである。しかし、実際に仙境に遊んだという者は、そんな合理的解釈を拒絶する。水位も
体ごと移行するといっているし、寅吉も杉山僧正のもとに出向くときには旅支度をしている
  のちに国安仙人は、
弟子の前でトリップの現場を何度も実地に見せているが、そのときには必ず「体ごと消え失せた」と弟子や信者は報告している。今流にいうと、テレポートしてしまうらしいのである。
―― 『日本神人伝』(不二龍彦・著/学研)


  実はこれと同じ出来事が、『ヒマラヤ聖者の生活研究(第一巻)』(ベアード・T・スポールディング著/霞ヶ関書房)の中に載っている。
  この本の第3章「肉体の自由自在なる出現・消滅」のなかで、エミール師という人物が、著者をはじめとする調査団の目の前で、自由に肉体を消したり、現したりした事実が述べられています。その「肉体の出現・消滅の原理」を、エミール師は次のように述べています。
  ‥‥わたしは自分の肉体を「普遍なるもの」の中に置き、肉体の波動を高めることによって「普遍なるもの」に戻した。わたしたちの言い方をすれば、一切の質料が存在する「普遍なるもの」の中にいったん奉還したのです。
  それから私の
神我(実相)、すなわちキリスト意識を通して、肉体を心の中に置くとそのバイブレーションが下がり、ついにこの部屋の此処で具体化し再現して、皆さんにも見えるようになる――というわけです。
  この過程のいったいどこに神秘があるのでしょうか。神の「愛(め)ぐし子」を通じて父なる神がわたしに与えたもうた力、別言すれば、法則を使っただけではないでしょうか。この「神の子」というのが、あなた方であり、わたしであり、人類全体ではないでしょうか。 ―― 『ヒマラヤ聖者の生活研究(第一巻)』(霞ヶ関書房)

http://www001.upp.so-net.ne.jp/apocalypse2012/karma24.html
 
1861~63 ウィリアム・マムラーと心霊写真
ボストンで彫金仕事をしていたマムラーが友人の写真スタジオで自分の写真を撮ったところ、12年前に死んだ従妹が写っていた。
このことが評判になり、やがて、心霊写真に専念するようになった。
「門前市を成す」ありさまとなり、ほかにも心霊写真家たちが輩出するようになったが、いわゆる生き霊が写るようになって風向きが変わった。
1868年にはニューヨークに移住し、仕事は繁盛したが、やがてある新聞記者に訴えられ、長い裁判沙汰となり1884年に貧困の中で死を迎えるに至った。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P177
1862.8.21  生麦事件(なまむぎじけん)
は、江戸時代末期(幕末)の文久2年8月21日1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。
尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから、文久3年7月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が勃発した。
講和
10月5日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。
薩摩藩は幕府から借りた2万5000ポンドに相当する6万300両をイギリス側に支払い、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。 
生麦事件 - Wikipedia 
1860年代

ウィリアム・クルックスと心霊研究とケイティ・キング(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏)
物理学に留まらず、様々な分野における研究を行った。
例えば、テンサイからの砂糖製造の研究、フェノールの防腐作用の発見(1866年)、ダイヤモンドの起源に関する研究、都市排水に関する研究といったものである。
1860年代の後半から心霊現象の研究をはじめた。「心霊研究はこの人から始まる」と言われた。
「心霊現象研究協会」(SPR:Society for Psychical Research)の創設メンバーに加わり、1896年には会長に就任した。

19世紀半ば~

ニューソートNew Thought、新思考)
米国で始まった宗教運動の一。
谷口雅春光明思想と訳しているように、気持ちを明るく保つことによって運命が開けるという考え方。
マーチン・A・ラーソンはニューソートの主張を以下のように要約する。
・人間の心情と意識と生命は宇宙と直結している。
・あらゆる病の本質は自己意識に対する無知が原因である。
・原罪は存在せず、万人が「キリスト」の力を内包している。
・全人類に、喜びと成長と発展と幸福の機会が既に与えられている。
・人間は内なる「神」の一部を顕現すべく無限の発展を遂げつつある。
・正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた。
・愛の力は神の意志の地上的表現である。


日本でも著作がベストセラーになっている英国出身の牧師ジョセフ・マーフィーなど、いわゆる成功哲学の著者の多くが、これに属する人々である。
また、
ニューエイジの源流のひとつである。
ニューソート団体の多くは、お互いに緩やかな結びつきの単立のキリスト教会の形を取ることが多く、その結果、海外ではニューソートの一派としても知られている日本の新宗教、生長の家は、世界最大のニューソート団体ということになっている。

近年ではニューソート思想にニューエイジ(「チャネリング」と呼ばれるシャーマン的な入神行為によってもたらされる「神からの啓示」を教義とする神秘主義思想)の概念を付与した形の自己啓発団体も欧米を中心に数々存在している。
日本ではA Course in Miraclesの分派、ニール・ドナルド・ウォルシュ氏(神との対話シリーズ)の一派、分派など判別が付かないほどに入り乱れている。
各々の信奉者が集まり勉強会と称した読書会なども盛んである。

『マーフィーの法則』
『超意識』坂本政道
神との対話シリーズ 
186011.6~
1865.4.15 
エイブラハム」・リンカーン、アメリカ合衆国第16代大統領となる 
学者たちが論じるリンカーンの信仰と哲学について
たとえば、リンカーンがしばしば宗教的なイメージや言葉を用いたのはその個人的信仰を反映したのか、あるいは聴衆に対するアピールの道具だったのか、である。彼は聖書批判の論文を記したことがあり、無宗派を生涯貫いたが、聖書には親しみ、そこから多くを引用し、内容を賞賛した。
1840年代、リンカーンは「宿命論」を信じた。これは人の心は高い力によって制御されることを主張する信念だった。学者の中には1850年代にリンカーンが一般的方法における「神の摂理」を認め、福音主義の言葉やイメージをめったに使わなかったと主張する者がいる。その代わりに建国の父達の共和制をほとんど宗教的な畏敬の対象にした。また歴史家の中には息子のエドワードに死なれたとき(1850年)、神に縋すがる必要性をより多く認めたとする者もいる。
リンカーンが年を取るにつれて、人との関わりがその信条や公の表現に影響を与えるようになったのは神の意思という観念であった可能性がある。個人レベルでは1862年2月に息子ウィリーが死んだことが答や慰めを求めて宗教に傾かせた可能性がある。ウィリーの死後、1862年夏あるいは秋に、リンカーンは神の見地から戦争の厳しさが必要である理由について個人の考えを文書に記そうとした。このとき、「神は人間の争いなしに連邦を救い、あるいは破壊できただろう。しかし争いが始まった。始まってしまえば、神はいつかはどちらかに勝利をもたらす。しかし、戦いは進んでいる」と記した。1864年4月、奴隷解放を検討する中でリンカーンは「私は事態を制御していなかったと主張するが、事態は私を制御していたと明白に白状する。今、3年間の闘争の果てに、この国の状態はどちらの側も、あるいはいかなる人も考えあるいは予測したものではない。神のみがそれを主張できる。」と記していた。
なお、リンカーンは、どの宗教を信仰しているかを公表していない。自らの信仰を公表しなかったアメリカ大統領は、数人のみである。 Wikipedia
 
1861~1863 アメリカ大統領リンカーン-霊界通信に大変関心をもち、霊媒を通して交霊会
フォックス家事件後約十年の1861年(南北戦争が始まった年)から三年間、リンカーンは、ネティ・コルバーンという若い女性霊媒と交流している。
交霊会には常に大勢の同席者がいた。はじめての交霊会で、霊側は一時間以上国事についてのアドバイスをするが、霊媒ネティに意識が戻ってから、リンカーンは彼女に次のように言っている。
「あなたは大変非凡な才能をお持ちのようだが、それがから与えられたものであることに、わたしは一点の疑いも抱いていない。わたしはおそらく、ここにいる誰よりも、いま伝えられたことの重要性を理解しているつもりですよ……」
霊側がリンカーンに勧めたアドバイスの一つは、奴隷解放の実施を遅らせないことであった。
彼は結果的に霊界通信に従って六百万人の奴隷を解放した。
また霊側は、南北戦争で士気の低下した北軍兵士を元気づける一番の方法は、大統領自らフレデリックスバーグの前線に赴くことであると説得した。リンカーンがそれを実行すると、兵士たちの戦意が驚くほど向上したという。
映画「ナショナル・トレジャー」-リンカーン暗殺者の日記 -目と脳が痺れる、ものすごい映画だ!リンカーン暗殺事件も自由の女神像の秘密も歴代大統領までも暗号の共犯者だと知らせ、人類最大のミステリーの真相を明かしたのだから…荒俣 宏

歴史学者であり冒険家のベン・ゲイツは、テンプル騎士団の秘宝の秘密を受け継ぐ一族の末裔。秘宝は、当時のフリーメイソンらによってイギリスの手に渡らないようにアメリカ建国時に封印されたという。
『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏 P19
  映画
『ナショナル・トレジャー』
1862 アンリ・デュナンと国際支援組織・赤十字国際委員会
アンリ・デュナンはソルフェリーノでイタリア統一戦争に遭遇し、自ら救援活動を行った。
1862年、彼はその体験を「ソルフェリーノの思い出」に書いて出版し、国際的な救援組織の必要性を説きました。この本がきっかけとなり、ヨーロッパ各国は史上はじめての国際支援組織・赤十字国際委員会を設立。
「ソルフェリーノの思い出」の中で、デュナンは「平和愛好者団体が抱く希望や期待は実現し難いだろう」と書いています。デュナンがその平和愛好者の1人として文中に記したサン・ピエール師は、ヨーロッパの戦争を防ぐには国家連合が最善だと主張した作家でした。デュナンは戦争が避けがたいものならば、せめてその被害を少しでも防ぐための組織が必要だと主張した。⇒EU
1865  アメリカでの奴隷制度の終焉
1863年
1月1日奴隷解放宣言後に、活動家は奴隷状態に残ったままの奴隷の自由と黒人の生活状態の改善を追求した。
1865年アメリカ合衆国憲法修正第十三条の成立が公式に奴隷制度を終わらせた。
実際には1995年ミシシッピ州憲法での承認をもって、制度は完全に終わった。 
 
1852~
~1852
~1904
宮地水位
1852年(嘉永5年)12月18日土佐国潮江村(現高知市土居町)で潮江天満宮の祠官(しかん)の家に生まれる。父は常磐、母は熊沢弥平の次女。幼名は政衛(まさえ)。本名は堅磐(かきわ)。
862年(10歳)父常磐の影響で、この頃より異界に出入りする
1864年(12歳)潮江天満宮の神主となる。以降、神職の身でありながら、高野山や法隆寺に住み込み、仏学などの見聞を広める。
1869年(17歳)手箱山、石鎚山、金比羅を巡拝。途中鉱山を発見。
1873年(21歳)東京下谷の学舎で一時期講授補役を勤める。
1882年(30歳)皇典講究所の委員に任じられる。
1892年(40歳)この頃顕微鏡を入手して昆虫や粘菌類を研究
1904年(53歳)晩年の5年は病床に伏す。明治37年3月2日帰天。
<後世に与えた影響> 
* 異界と現界を往来し、道教の神仙思想と古神道を融合させた宮地神仙道の祖。神格概念の骨格は平田篤胤の“仙境異聞”の世界に負っているが、神集岳神界、万霊岳神界の概念は先人未発のもの。本来、機密である神界の情報を書物で公にしたのは、人間界にも神界を知らしめるべきとの使命によるものでその意義は大きい。
<特筆すべき生活>
* 10歳の頃から53歳で帰幽するまで数百回にわたって肉身のまま異界を往来し、その記録を「異境備忘録」に残す。死去の際は、棺が大音響とともに閃光を発し、その棺は軽く、尸解(しか)の特徴がでていたという。(尸解とは、肉体の死を待たずに法術により肉身を消し、自己の本体たる霊物を神仙界に遷すという)
* 幽界交信者には無学や独断的傾向の人が多いが、水位は和漢洋の学問を修めた博識多才の人で、門人は3,000人以上いたという。

友清歓真によると、1922年(大正11年)から宮地水位からの霊啓が始まったという。 
 
~1867

江戸幕府終焉、大政奉還
・徳川家の人がむなしく亡びなかったのは、天璋院(篤姫)の働きによるところが実に大きい。二百数十年続いた徳川幕府の体制が崩壊しようとする時、徳川家の人々はもちろん、それに連なるどれほど多くの人々が、動乱のあおりを受けて苦しむことになっていたか。
・その時に当たり、天は人を見捨て賜わず、篤姫なる人物を、徳川の大奥に配し、局面を大きく動かし賜うた。
・島津の分家に生まれ、将軍の正室「御台所」に登りつめた。夫の徳川家定は心身ともに虚弱だったため、ただでさえ多くの人々の想念渦巻く中で、動乱がいっそう人心を惑乱させる中で己を持し、官軍の江戸総攻撃をくい止めて、江戸城の無血開城を実現する陰の力となった。自分が嫁いだ徳川の家を保持し、徳川宗家十六代の家達(いえさと)を養育し、大奥女中たちの生活の面倒をみ、篤姫によって、日本国が利益を得た。

 
  徳川 家達(とくがわ いえさと)
・徳川宗家16代当主で、もと田安徳川家7代当主
・幼名は「亀之助」。号は「静岳」。従一位大勲位公爵。第4代貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権大使、第6代日本赤十字社社長などを歴任するほどの優秀なる人材だった。
・「天璋院篤姫」の英才教育を受け続けただけのことはある、素晴らしい人生であった。
 
1867.11  大政奉還(たいせいほうかん)
江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が統治権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇が上奏を勅許した政治的事件。 
 
明治維新
1867~1872

開始時期については諸説あるが、狭義では
明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い。
日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする。
終了時期についても、廃藩置県の断行(1872年)、西南戦争の終結(1877年)、内閣制度の発足(1885年)、立憲体制の確立(1889年)までとするなど諸説ある。
薩摩藩の調所(ずしょ)笑左衛門広郷(ひろさと)と同時期に長州藩で財政改革を行なった村田清風がいる。

1868
9/ 8~
明治元年   
福沢諭吉
・文明の本質を「人間交際」にあると考えており、多様な要素の共存が文明の原動力だとし、これを自身の哲学の中心に据えた。
・福澤の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)。
  五代友厚   
大隈重信
  渋沢栄一   
安政6年
明治3年
1870
中村正直とサミュエル・スマイルズと「天は自ら助くるものを助く」
スマイルズは自立した個人の勤労倫理を説いた。その主張は「天は自ら助くるものを助く」という格言に要約される。『セルフ・ヘルプ=Self-Help (西国立志編 原名 自助論)』はこの格言を引くことで始まるが、産業革命後に登場した中産階級の人々に向けて、市民社会を生きる上で大切な市民道徳とその実践を、平明な言葉と実例で説き、19世紀の後半から20世紀の初めにかけて世界的に読まれた。日本人はその影響感化をもっとも深く受けた国民である。
「天は自ら助くるものを助く」は中村がスマイルズの『セルフ・ヘルプ=Self-Help (自助論)』として日本語に訳したとき巻頭に掲げた。
朗々たる響きも手伝ってこの格言は明治日本の人口に膾炙した。日本語の諺と化したといってよい。それというのも、この自助の教えこそ、明治日本に高らかにこだました時代精神ともなったからである
「余を作りし者はこの書なり」とは国木田独歩の短編『非凡なる凡人』の主人公が『西国立志編』に対して感謝の念をこめて発した言葉である。(『天ハ自ラ助クルモノヲ助ク 中村正直と西国立志編』平川祐弘 P3~)
今では二人とも忘れられた啓蒙思想家、19世紀のベストセラーとなってしまった。日本で官学の諸学校が整備される以前は中村の私塾同人社は福沢の慶応義塾と並んで日本で最も評判の高い学校であった。
人口3000千万の頃に出版部数は100万部に達した(〃)
1870

パリのロスチャイルドとバチカン
資金難にあえぐバチカンに資金援助を行うなどして取り入り、その後ロスチャイルド銀行は、ロスチャイルドの肝いりで設立されたバチカン銀行(正式名称は「宗教活動協会」、Instituto per le Opere di Religioni/IOR)の投資業務と資金管理を行う主力行となっている。

ハンフリー・デービー
化学者。ファラデーを見出した。

マイケル・ファラデー
貧しい階級出身。数々の業績で知られるイギリスの化学者・物理学者。

1864~1912 ジェームズ・アレン(イギリス)-『考えるヒント・生きるヒント』『原因と結果の法則』4部作 (聖書につぐロングセラーの一つ) ①原因と結果の法則②幸福への道③困難を超えて④輝かしい人生へ

「私たちは、自分が考えたとおりの人間になる」
「思考は現実化する」
「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」
自分の心をしっかりと管理し、人格の向上に努めている人たちは、「環境は思いから生まれ出るものである」ということを熟知しています。
-
喜びは正しい思いの結果であり、苦悩は誤った思いの結果


アレンにとって、彼の哲学はもはや哲学ではなく、真実そのもの、つまり明確な経験的知識であった。
彼の妻リリーによれば、アレンは、「人々への何らかのメッセージがあるときにだけ書き、それがメッセージであるためには、彼が人生の中で実際に試してみて、良いものであることを確認したものでなくてはならなかった」という。彼自身、『As a Man Thinketh』の前書きの中で、「この小冊子は、私の瞑想と体験の結果である」と明言してもいる。
イングランド南岸の静かな保養地、イルフラクームに住み、毎朝夜明け前に、近くの小高い丘の中腹までゆっくりと登っていく。それが、アレンの一日の始まりだった。その丘からは、自宅と海が一望できたという。そこに一時間ほどとどまり瞑想した後で、家に戻り、午前中を執筆活動にあて、午後になると家庭菜園での農作業に精を出す、というのが彼の日課だったようだ。
夕方以降は、知人や友人たちとの会話に興じることが多かったらしい。彼の哲学に興味を持った人たちの訪問を、頻繁に受けていたようである
「アレンは、夜になるといつも、黒のビロード地のスーツを着ていた。そして、彼の家を訪れた我々小グループに、瞑想や哲学、トルストイや仏陀について、また、どんな生き物をも絶対に殺すべきではない(筆者注=おそらく、食用にする生き物は除いて)、といったようなことを、静かに語って聞かせたものだった。我々の誰もが、彼のキリストを思わせるような風貌と、穏やかな語り口、そして特に、毎朝夜明け前に丘に登ってと交信していたという事実に、若干、ある種の恐れのようなものを感じていた
成功哲学の祖、ナポレオン・ヒル、デール・カーネギー、アール・ナイチンゲールなどに強い影響を与えた。
心は、創造の達人
「心は、創造の達人です。そして、私たちは心であり、思いという道具をもちいて自分の人生を形づくり、そのなかで、さまざまな喜びを、また悲しみを、みずから生み出しています。私たちは心の中で考えたとおりの人間になります。私たちをとりまく環境は、真の私たち自身を映し出す鏡にほかなりません」
人生の創り手
「自分こそが自分の人生の創り手である」
思いと人格
「私たちの人生は、ある確かな法則にしたがって創られています。私たちがどんな策略をもちいようと、その法則を変えることはできません」
思いと環境
「自分の心をしっかりと管理し、人格の向上に努めている人たちは、「環境は思いから生まれるものである」ということを熟知しています」
思いと健康
「きれいな思いは、きれいな習慣を創りだします。自分の心を洗わない聖者は、聖者ではありません」
思いと目標
「人間を目標に向かわせるパワーは、「自分はそれを達成できる」という信念から生まれます。疑いや恐れは、その信念にとって最大の敵です」
思いと成功
「人間は、もし成功をめざすならば、自分の欲望のかなりの部分を犠牲にしなくてはならないのです」
ビジョン
気高い夢を見ることです。あなたは、あなたが夢見た人間になるでしょう。あなたの理想は、あなたの未来を予言するものにほかなりません」
穏やかな心
「穏やかな心は、真実の海のなか・・・・・・水面から遠く離れた、いかなる嵐の影響もおよばない永遠の静寂のなか・・・・・・に住んでいます」
『考えるヒント・生きるヒント』
  『原因と結果の法則』
『As a Man Thinketh』
1867
1870~ 九鬼 盛隆
日本における断易(五行易)の中興の祖。
九鬼盛隆は1870年(明治3年)、三重県の熊野九鬼の浦に生まれた。
彼の一族は、戦国時代に活躍したあの九鬼水軍の子孫であり、彼自身23代目の嫡流であった。
幼児期から漢文を学び、中国の思想に強い関心を持った。
青年時代には仏教、神道、キリスト教を学んだが、これに満足せず、最も真理に近い思想は中国哲学、特に「易経」にあると考えるに至る。そして、大陸に渡り、研究を深めた。
1904年、漢学の大家で、明治天皇に「易経」の講義をしたことでも知られる碩学、東京帝国大学教授の根本通明に師事し、内弟子となる。
そして、「易経」すなわち「周易」の研究に全霊を注ぎ込み、独自の理論を築いて行く。そして、国学院大學の講師として教鞭をとった。根元教授の著書とされる「周易講義」も、実は多忙な教授に代わり、彼がゴーストライターを勤めて書いたものらしい。
しかし、当初彼は「易経」すなわち「周易」の研究が中心であり、「断易」(五行易)の類は、「古来多くの儒者等の排斥論に気触れ」まったく興味をもっていなかったという。
だが、ある日、ふとしたきっかけから、断易の書を読み、その魅力に取り付かれたという。そして、周易から断易へと倉変えをする。そして、後半生を断易の研究に捧げることになるのである。
彼の最大の業績は2冊の名著、「断易精温」と「断易真義」を著したことであろう。
当時の断易は、江戸時代の誤訳の多い本や中国であっても内容の混乱した本などが参考にされ、混乱状態にあった。九鬼以前にも優れた研究者は居たが、正確な占法は普及するには至らなかった。
彼は、そんな中、中国の書籍の中でも理論的に優れた書物を選抜し、これを整理統合し、上記の大冊にまとめあげたのである。
現代の断易の研究者達は、彼の著書にも暦などには若干のミスがあるとしながらも、彼を「断易の中興の祖」、「正確な断易の普及のきっかけを作った大恩人」と、その業績は高く評価している。
(が、初心者向けには、今ではもっと親切な本が出ており、ある程度慣れるまでは、彼の著書は読まない方が良いという。これには私も同感である。)
彼は、易とは「神からの託宣であると考えた。この点においては、周易の高島嘉右衛門と同意見であった。実際、嘉右衛門も、彼を高く評価しており、彼に卦の解釈を依頼したケースからも明らかだ。
しかし、九鬼は、「」に関しては、高島嘉右衛門以上に、深く関わった。
彼は「神がかり」を経験し、それに深く耽溺してゆくのである。
きっかけは、大本教である。それ以前にも、彼は神と感応する機会はあったらしい。だが、それはさほど深いものではなかった。しかし、大正8年頃、大本教の機関紙「神霊界」を読み、それが真実であるかを占ったところ、「魔の眷属である」との結果を得て、これを退けたが、これは彼が鎮魂帰神やお筆先に関心を持つきっかけとなった。
翌年、隣家で起こったポルターガイスト現象がきっかけとなり、霊現象の存在を確信する。
劇的な事件が起こるのは、その年の10月である。
宇都宮に松川勇という敬神家が居て、本田亀次という霊媒を通じて神がかりを行っていた。しかし、松川は古典や神道に関する知識が少なく、審神者(さにわ)をうまく勤められずにいた。
すると、突然、本田にかかった神は、「静岡市に住む友清歓真を呼べ」と託宣した。この時、松川は友清のことは全く知らなかったという。
こうして、古神道の大家、友清が呼ばれると、続いて神は、友清に対して「九鬼盛隆を呼び、ここに参列させよ」と託宣した。
かくして、面識の無い友清と九鬼が、そこに呼び出されたわけであるが、二人は本田の語る託宣の内容に感動し、驚愕する。そして、これは本物であると確信するに至る。
そして、神は霊媒の本田を九鬼にゆだね、審神者(さにわ)の役を務めるように命じたのである。
こうした九鬼の古神道関係の記録は、「惟神本道」という著書に書かれている。
さらに、夏目漱石や平田篤胤の霊も降り、この交霊記録は「未耕地の開拓者」や「本道真義」などにまとめられた。
彼は一種の終末論にも近い思想を持っていた。彼は、「使命を忘れ、迷妄に陥った日本はその報いを受ける。」と。既に大正14年に日米開戦と日本が壊滅的打撃を蒙った後、敗戦することを予言していたと言われる。
しかし、本田との共同作業も大正15年をもって終わる。
その後、各地を転々とした後、自分の娘に霊媒の才能を見て、彼女を霊媒として育てようとしたが、本田ほどの成果を挙げることはできなかったらしい。
その後、彼は多少の門人を育てながら、静かに余生をすごした。
彼もまた、高島(※嘉右衛門)同様に、他人から乞われて易を立てても、報酬を要求することは一切なかった。
昭和16年に、彼は予言していた日本の敗戦を見ることも無く世を去った。
「断易精温」 九鬼盛隆 八幡書店、「断易真義」 九鬼盛隆、「日本神人伝」 不二龍彦 学研
「断易入門」 菅原壮 東洋書店
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/uranai/kuki.htm
 1851 D.D.ヒューム(ホーム)-前述-
1851年 叔母の家を出て、熱狂的信奉者の支援を受けるようになる。ハーバード大学の調査グループがヒュームを調べ、現象が本物であることを証言。
・1855年 22歳で渡英し、一大センセーションを巻き起こす。
 
1853.8~
1855.2.7~
(安政)
日魯通好条約と国境問題
1853年8月(嘉永6年7月)、国境の画定と開国・通商を要請する国書を携えたプチャーチン(Putiatin, E. V.)ロシア艦隊司令長官がパルラダ号で長崎に来航し、日本とロシアとの条約締結交渉が開始された。
その後、長崎での数次にわたる交渉を経て、ディアナ号で再び下田に来航したプチャーチンと日本側全権・筒井政憲(まさのり)、川路聖謨(としあきら)との間で、
1854年の日露和親条約に続き1855年2月7日(安政元年12月21日)に調印されたのが、日魯通好条約(日露和親条約)、(批准書交換が行われたのは1856年12月7日)。
・第1条で今後両国が「末永く真実懇」にすることが謳われるとともに、第2条において、日露間の国境を択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間とすること、樺太(カラフト)島には国境を設けずに、これまでどおり両国民の混住の地とすることが定められた。
箱館、下田、長崎の3港の開港(第3条)のほか、双務的な領事裁判権が規定されていることもこの条約の特徴である(第8条)。
なお、この条約は、日本語、ロシア語、中国語などで書かれた。(外務省
江戸幕府
ロシア帝国
 1850年代~
1874
クルックス博士と物質化したケーティ・キング霊の研究-前述-
彼は一八六三年、英国学士院会員に選ばれ、一八九七年にはサーの称号を受け、後には英国学士院をはじめ、化学協会・電気技師協会・英国学術協会の会長を歴任。
その間、タリウム元素の発見、クルックス放電管の発明などで世界的な名声を博しました。文字どおり英国科学界だけでなく、世界科学界のトップの立場にいた人物でした。
(一)空中浮遊――霊媒者ホームとクルックス博士
(二)物体移動・物体浮遊――エクトプラズムの存在
(三)物質化現象(幽霊現象)

・そのクルックス博士が、本格的に心霊研究に乗り出す際に出した声明文
――
「まだ何ひとつ理解していない問題について、見解だの意見だのといったものを持ち合わせてはいない……一切の先入観を持たずに研究に入りたい。この研究の結果、間違いないと確信した情報はいつでも提供しよう……」そしてこの声明文は、「科学によってスピリチュアリズムの愚にもつかない現象を追放しよう!」。
・クルックス博士は――「信じがたいことだが事実である」との霊魂の存在を認める声明を出した。これが出版されると、英国中に大センセーションを巻き起こした。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-1_03.htm
 
 幕末 会津庄内両藩が蝦夷地の売却をプロイセンに提案。
ビスマルクからの返書が届く前に、板垣退助伊地知正治らが、会津城を攻略したため売却計画は阻止された。在府の大村益次郎は周囲の敵対勢力を徐々に陥落させていく長期戦を指示したが、戦地の板垣退助、伊地知正治らは、これに反対し一気呵成に敵本陣を攻める短期決戦を提案。長期戦となっておれば、日本の国境線は大いに変わっていたと言われる
 
 
1872~1892
約20年間

『霊訓』の受信は1873~1883の10年間。
スティントン・モーゼス(イギリス)『霊訓』(『The Spirit Teachings』)
『霊訓』の受信は1873~1883の10年間。
アラン・カーデック(カルデック)の『霊の書』、モーリス・バーバネルの『シルバー・バーチの霊言』と並んで世界の三大通信と言われている。

特長は(1)大小の敲音、(2)種々の光、(3)種々の香気、(4)種々の楽声、(5)直接書記-文字が直接現れた(6)卓子テーブル、椅子其他物品の浮揚、(7)物品引寄、(8)直接談話、(9)霊言と複数の人格、霊

スティントン・モーゼスを霊媒とした霊界通信
『霊訓』 HPで解説しているのはどういいう立場の誰??
解説
第一章  幽明の交通とその目途
第二章  健全な生活
第三章  幽明間の交渉
第四章  各種の霊媒能力
われ等が求むる所は、右にのぶるが如き人物である。慈悲心にとみ、熱情にとみ、自己を忘れて真理を求め、神業一つを睨みつめて、現世的欲求を棄てて顧みない人物がほしいのである。そんな人格が暁天ぎようてんの星の如く稀であるべきは、元よりいうまでもない。それけそう言った人格は尊い。友よ、おちついた、熱心な、そして誠実な哲学者の心をもって心とせよ。又慈悲深く、寛厚かんこうにして、常に救いの手をさしのべんとする、仁者の心をもって心とせよ。更に又為すべき事を為して、報酬を求めざる神のしもべの克己心をこれに加えよ。かかる人格にして初めて、気高く、きよく、美しき仕事ができる。われ等としても、最大の注意をもっこれを監視し、又警護する。同時に神の直属の天使達も、また常に温顔をもっこれを迎え、露あやまちのないように、特別の保護を与えるであろう。
第五章  幽明交通と環境

交霊には『肉体が健全で、感覚が鋭敏で、その上心が受動的』な人が選ばれる。
第六章  夫婦関係
第七章  真の宗教
第八章  神霊主義

(一)神の認識と崇敬。 ……神に対する責務。
(二)同胞への貢献。 ……隣人に対する責務。

    イ、自己の肉体を守る。
    ロ、自己の知識を開発す。
(三) ハ、真理を求める。
    ニ、善行を励む。
    ホ、幽明交通を講ず。

……自己に対する責務。

第九章  啓示の真意義
主としてキリスト教を中心としての言説であるが、無論これは仏教にも、神道にも、又儒教、道教等にも、ことごとくあてはまると思う。啓示と霊媒、又啓示と時代の関係を説きて直裁簡明、正に絶好の指針とするに足りる。『インスピレーションは神から来る。しかし霊媒は人間である』――これを忘れた時に、当然その人は経典病患者になる。
第十章  進歩的啓示
第十一章 審神の要訣
※キリスト教の牧師であると同時に強力な霊媒だった。
さまざまなメッセージの送り手が現れ、その数は49名になったが、それを統括するのは「インペレーター」と名乗るものだった。いわゆる「背後霊団」がこの事業を組織的に行なっていたということになる。
署名に添えて十字の印を残した。現在は「心霊研究大学」に1冊欠けて24冊のノートブックのうちの23冊が残っている。
送られてきた内容は牧師として自分の意志にまったく反するものであり、しばしば反対意見を述べたが、それに対してさらに強い意見が送られてきた。…対話体で書かれている。
重要な主題は現存するキリスト教の錯誤や迷妄を正そうとするところにあり、まさにモーゼスのような熱心なキリスト教徒なら飛び上がりかねないような内容であった。
…われわれの仕事は、イエスがユダヤ教に対してしたと同じことをキリスト教に対してすることである。形骸化した内容を精神的なものとし、新しい生命を吹き込むのだ。」というのが霊団の賢人たちの趣旨である。
あらゆる行為は絶対不変の因果律の支配を受けるが故に「地獄」とは自分の行為がもたらす魂の苦悩の状態でありそれがすなわち「罰」なのであって、神が下す復讐の鞭などではない。
日常の幸福は… 宗教的信条とは関わりのないものである。

『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P191~
1875

スエズ運河と英国
ロンドンのロスチャイルドは、政府に運河買収の資金を提供。
1875年サイード・パシャの後任イスマーイール・パシャは、かさむ対外債務のためにやむを得ずエジプトが持つスエズ運河会社の株式を400万ポンドで手放す決意をした。この情報を入手したイギリスは国策を転換し、急遽資金を調達してこの株を購入、スエズ運河の株44%を保有する筆頭株主となった。この決断をした首相のベンジャミン・ディズレーリは、議会の承認なしに事を進め、購入資金をロスチャイルド家から借り受けたことがイギリスの憲法制度に反するとウィリアム・グラッドストンに告訴された。

1875  樺太千島交換条約と榎本武揚
榎本武揚は伊能忠敬の元弟子であった幕臣榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、蝦夷共和国の総裁となる。箱館戦争で敗北し降伏後、東京の牢獄に2年半投獄されたが(獄中でも海洋法の書を携帯して研鑽に励んでいたという)、敵将黒田清隆の尽力により助命され、釈放後明治政府に仕えた。開拓使北海道の資源調査を行い、駐特命全権公使として樺太千島交換条約を締結
 
1877(明治10年) ライブツィヒ大学物理・天文学教授ヨハン・ツェルナー、ヘンリー・スレードの霊能を調査
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
1879.3.14~1955.4.18 アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)
1879  琉球王朝、日本に帰属   
1882(明治15年) 心霊研究協会(SPR)設立。
初代会長ヘンリー・シジウイック。現在に残る世界最古の心霊研究機関(『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表)
1863~
1888~
1907

長南 年恵(ちょうなん としえ)
明治時代の霊能者、超能力者。現在の山形県鶴岡市出身。本名、登志恵(鶴岡市戸籍研究による)。
20歳のころからほとんど食事をとらず、口にするものは生水程度であったという。
また、空気中から神水などの様々な物を取り出すなど、多くの不思議な現象を起こしている。
弟の長南雄吉は、大阪浦江にあった大日本蓄電池株式会社の専務取締役で、雄吉が見た年恵の20歳以後の超常現象などの記録を、後年、心霊研究家の浅野和三郎がまとめて発表している。

1884 ヘンリー・セイバートとセイバート委員会
遺言により、ペンシルベニア大学に寄付された6万ドルを資金として、スピリチュアリズム調査研究を目的として出来た委員会
トーマス・ハザードが顧問として加わった。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P148
1884 井上円了「妖怪学」を始める。
日本の心霊研究の先駆け 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
1856.7.9~
1884~
1943

ニコラ・テスラ
ハンガリー王国(現在のクロアチア西部)で生まれる。父母はセルビア人で、父はセルビア正教会
。姉が2人、兄デン(12歳で事故死)、妹が1人。
兄を喪った5歳の頃から幻覚を頻繁に見るようになったとされる。また、「テスラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るために勉学に励み、特に数学において突出した才能を発揮したとされる。
1880年、オーストリア帝国グラーツのポリテクニック・スクール在学中に交流電磁誘導の原理を発見。1881年に同校を中退し、ハンガリー王国ブダペストの国営電信局に就職。23歳でプラハ大学を卒業したらしい(その後、エジソン社のフランス法人に勤めたともされている)。
1884年にアメリカに渡り、エジソンの会社・エジソン電灯に採用される。当時、直流電流による電力事業を展開していた社内にあって、テスラは交流電流による電力事業を提案。これによりエジソンと対立し、1年ほどで職を失うこととなる。

1885 ボストンにアメリカ心霊研究協会(ASPR)設立。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
     
1886
(明治19年) 
自由の女神(正式名称:世界を照らす自由)ニューヨーク港内リバティ島に立つ
アメリカ合衆国の独立(1776.7.4)100周年を記念して、独立運動を支援したフランス人(フランス共和国、西ヨーロッパカリブ太平洋およびインド洋に位置する共和制国家の人)の募金によって贈呈され1886年に完成した。アメリカ合衆国の自由と民主主義の象徴であるとともに、19世紀以来絶えることなく世界各地から観光客が訪れている。
なお、自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物であった。
Wikipedia 
 
1885~
1887~

ホジソンとパイパー夫人
ASPRの役員を務め、併せてパイパー夫人の調査をするため、ボストンに派遣された。まもなく、ASPRに加入した詩人で作家のジョージ・ペラムと知り合い、親しい友人となった。
1889年、パイパー夫人の調査をするうち、その誠実さを認識したホジソンは、さらに夫人にとって未知な環境での交霊会を観察するため、英国に招待した。夫人は厳重な監視下で88回の交霊会を開き、多くのSPRメンバーが死後存続を確信したが、ホジソンはまだ懐疑的な姿勢を保っていた
パイパー夫人は、心霊研究史上、最高の霊媒と言われている。彼女は、実に多くの科学者たちの調査実験の対象となって、近代心霊研究成立のために大きな貢献をした。
夫人は1885年に、有名な心理学者W・ジェームズ博士の調査を受け、多大な成功を収めた。それ以来45年間に数百回にも及ぶ調査実験を受けている。
1889~1890年には、オリバー・ロッジやマイヤースの監視の中、きわめて厳格な条件下で88回の実験を受けています。この実験の結果が、オリバー・ロッジをスピリチュアリストに転向させるきっかけとなった。
1892年、ジョージ・ペラムが事故死。その1ヶ月後、彼はパイパー夫人の交霊会に登場した。ホジソンはすぐには信用せず、ペラムの友人を何人も匿名で交霊会に参加させ、会話の内容を確認した。ペラムは旧知の友人たちをすぐに見分けて名前を呼んで話しかけ、話し方は生前の特徴をよく備えていた。また、子供の頃に会ったきりだった者はわからない様子だった。生前会ったことがない者が混ざっていると、「面識がない」ときっぱり言い切った。
ペラムについてさまざまな角度から検証したホジソンは、ついにパイパー夫人の霊媒能力だけでなく、死後存続も真実であると確信するようになった。
1897年、パイパー夫人を通じて現れるが「レクター」と名乗り、これ以上ペラムを当てにしないよう警告した。その後はレクターが主な通信相手となる。
調査は15年間続いた。

1888~
1952

友清 歓真(ともきよ よしさね)
新興宗教「神道天行居」の創設者。神道霊学の理論家としても知られる。
元名は友清九吾(ともきよ きゅうご)。号は磐山(ばんざん)、無方斎(むほうさい)、半仙老人(はんせんろうじん)、如甕道人など…。
友清によると、1922年(大正11年)から宮地水位からの霊啓が始まったという。
また、獣医の義兄より高知県立図書館に水位の文庫がある事を知らされた。(友清はこれも水位の霊の導きとしている)

1889

ドイツの美学者あるいは心理学者マックス・デソワール (en:Max Dessoir)により「超心理学という言葉が造語された。

1856~
1939

ジークムント・フロイトと精神分析
ユダヤ系オーストリア人の精神分析家、精神科医。
人間の無意識に注目し精神分析を創始した。
無意識の発見は数多ある人類の発見の一つであるが、「実在」としてとりだせないために批判も多い。しかし、戦争や宗教を考えるに当たっては避けては通れない道である。
フロイトの生い立ちから人生に数々の考えるべきヒントがある、と言う学者もまた少なくない。
フロイトのような心理学者の場合、その人がどのように育ち精神的発達をしたかは、精神分析学を提唱する上でかなり関わってきます。なので、フロイトについて学ぶなら、生い立ちも知っておく必要があるのです。
フロイトは両親がどちらともユダヤ人で、フロイトも当然ユダヤ人の貧しい家庭に育ちました。
とても複雑な家庭で、フロイトが生まれた時、父親であるヤコブ・フロイトは3度目の結婚でした。 なので、フロイトが生まれる前から、ヤコブには2人の息子がいました。フロイトが生まれる頃には彼らの子供が生まれていて、その子供がフロイトにとっては遊び相手でした。 フロイトは甥と遊んでいた事になります。
母親であるアマリエにとって、フロイトは長男でした。その後、男の子が2人、女の子が5人生まれ、中にはユリウスという生後8ヶ月で死んでしまった子もいました。 普通弟や妹が生まれると、上の子は親の愛情を求めて嫉妬したりすることもありますが、フロイトの場合は弟や妹達が生まれた後も、子供達の中で1番かわいがられました。

フロイトは賢い子供でした。
フロイトは多くの書物に目を向け、8才の時にはすでにシェークスピアを原文で読んでいました。
文学、歴史、武勇伝など、さまざまな書物を読むことが好きだったようです。
さらに、ギリシア語、ラテン語、英語など、言語においても優れていたようです。

また、フロイトはユダヤ人であったためさまざまな差別を受けました。 考え方なども大きく関わっています。
フロイトが生まれた当時、オーストリアではまだ「ユダヤ人迫害」が禁止されたばかりで、 まだまだ何をするにも許可がいったり、「よそ者」扱いされる事がたびたびありました。 そして
ユダヤ人であった事が、フロイトの人生に大きく関わってきます。
ユダヤ人であったため、嫌な思いをする事もたびたびありました。
例えば、フロイトは電車に乗っていて、 窓を開けようとしたら「見下げたユダヤ野郎!」とはきすてるように言われました。
このことは相当ショックだったらしく、フロイトはその後『汽車恐怖症』になってしまいました。 また、フロイトが父から聞いた話で、ある日父親が歩道を歩いていると、
キリスト教徒にぶつかられ、帽子を橋の下のぬかるみに投げられました。
「それでどうしたの?」とフロイトが聞くと、何も抵抗せずに帽子を拾って帰った、と言われました。 フロイトは父の行動に対してショックを受けたそうです。 これら以外にもさまざまな差別やショックを受け、フロイトは「いつか見返してやる」という気持ちになったそうです。

そしてフロイトにとって憧れのヒーローはハンニバルになりました。
ハンニバルの父親はハンニバルに、ローマ人への復讐を誓わせました。
父の復讐に燃えるハンニバルが、フロイトにとっては、ユダヤ人がカトリック社会にはむかうようなものと重なって見えたそうです。

フロイトが成長するにつれて、ユダヤ人迫害はますます強くなりました。
そのため、彼は長期にわたって、ウィ-ン大学医学部の講師として働いていましたが、ずっと教授にはなれませんでした。最終的に、フロイトの患者が絵画を文部大臣に献上したので、フロイトはやっと教授になれたのでした。

ナチスの迫害によってロンドンに逃れそこで癌のため亡くなった。

1875~1961 カール・グスタフ・ユングの治療法
精神科医であったユングは、当時の精神医学ではほとんど治癒できなかった各種の精神疾患に対する療法の確立を目指し、ピエール・ジャネやウィリアム・ジェームズらの理論を元にした心理理論を模索していた。
フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近し、一時期は蜜月状態(1906-13年)となるが、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。
フロイトは無神論を支持したが、ユングは神の存在に関する判断には保留を設けた
またユングはフロイトとアルフレッド・アドラーの心理学を比較・吟味し、両者の心理学は双方の心性の反映であるとし、外的な対象を必要とする「」を掲げるフロイトは「外向的」、自身に関心が集中する「権力」に言及するアドラーは「内向的」であるといった考察をし、別の視点からの判断を考慮に入れた。
・ユングは歴史や宗教にも関心を向けるようになり、やがてフロイトが「リビドー」を全て「性」に還元することに異議を唱え、はるかに広大な意味をもつものとして「リビドー」を再定義し、ついに決別することとなった。
ユングは後に、フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであるが、自分の言う無意識とは「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものである、と例えている。
ユングの患者であった精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点があること、また、それらは、世界各地の神話・伝承とも一致する点が多いことを見出したユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通するイメージを想起させる力動を「元型」と名付けた。
晩年、物理学者のウォルフガング・パウリとともに共時性シンクロニシティー=意味のある偶然の一致)に関する共著を発表した。
ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの精神分析学と共通しているが、個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通しているとされる集合的無意識(普遍的無意識)の分析も含まれる。
ユング心理学による心理療法では能動的想像法も取り入れられている。
能動的想像法とは、無意識からのイメージが意識に表れるのを待つ心理療法的手法である。また、ユング心理学は、他派よりも心理臨床において夢分析を重視している。
夢は集合的無意識としての「元型イメージが日常的に表出している唯一の現象」でもあり、また個人的無意識の発露でもあるとされる。
夢の分析はフロイトが既に重視していたことであったが、フロイトの精神分析と異なる点は、無意識を一方的に杓子定規で解釈するのではなく、クライアントとセラピストが対等な立場で夢について話し合い、その多義的な意味・目的を考えることによって、クライアントの心の中で巻き起こっていることを治癒的に生かそうとする点にある。
ユングはフロイトとの決別以後も治療を続けた。ただ、彼は人生の方向を決めるのは治療者ではなく、クライアントであるとし、クライアントの無意識的創造力を信頼した。
また、日本のユング心理学はその心理臨床において箱庭療法を積極的に取り入れたことでも知られている。

ユングの自伝
「私は存在したものの、成就したものの束である」

ユングも、その晩年にの臨死体験をしている。彼の場合は、「宇宙との一体感」を語っているわけではないが、自己への囚われや執着からの解放という点ではかなりはっきりとした自覚を持っている。
自伝『ユング自伝―思い出・夢・思想 』のなかで、69歳でのその体験をつぎのように語る。 (自伝は、全二巻に分かれており、この体験が語られるのは二巻目である
ユングは幼少期からかなり特異な体験をしています。牧師の子として生まれながら、伝統に染まったキリスト教徒としての生活には違和感を覚えていました。
また、
霊的な要素を強く有しており、そうした側面がユング心理学を形づくっていったことは間違いありません。子どものときから自分の中に二人の人格(スイス人の少年としてのNo.1と老賢者としてのNo.2)がいることを自覚しています。
幼少期からたびたび
象徴的な夢を見ており、それを詳細に記憶しています。自伝を書いたときすでにユングは80歳を超えていたわけですから、これほど鮮明にそれらの夢を覚えているのは驚くべきことです。
ユングの霊的な素養は母方から受け継いだもののようです。両親の結婚生活はあまりうまくいっていなかったと書いていますが、父は牧師でありながら、本当の意味での霊的な生活や信仰を体験として持っていたとは言い難かったようです
ユングが精神医学者になることを決意する契機となったのは、自宅で起こった霊的な現象でした。母の隣にあったテーブルがいきなり大きな音を発して割れたり、自宅の棚にしまわれていた鋼のナイフが砕けるという事件があったのです。こうした素養が彼を優秀な精神分析家にした面は少なくないと思われます。
69歳のときに心筋梗塞と脚の骨折によって臨死体験と思える経験をしています。地球をはなれ高みから見下ろしているユングを連れ戻すために、主治医が原初的形態としてやってきます。これで彼は生き返るのですが、そのことに不満を抱くと同時に主治医の命が危ないと危惧します。そして、間もなくその心配どおり主治医は亡くなるのです。
死後の生命」という章をもうけてそのことについても考察しています。死後の生活について、そういうものがあると欲しているわけではないが、それらは存在し、偏見によって抑圧しなければ、表現力を与えられると述べ、次のように言っています。
----批判的な合理性は、死後の世界についての考えを多くの神秘的な考えと共に、除去してしまったようである。これは、現代では殆どの人が、自分意識を同一視し、自分について自ら知っていることのみが自分であると考えているためにこそ、生じたことである。
しかし、このような知識がいかに限定されたものであるかは、心理学を生かじりしたものでさえ明らかである。合理主義と教条主義は現代の病である。つまり、それらはすべてのことについて答えをもっているかのように見せかける。
しかし、多くのことが未だに見出されるだろうに、それを、われわれの現在の限定された見方によって、不可能なこととして除外してしまっているのだ
1875~1965

アルベルト・シュヴァイツァー
・ドイツ出身のアルザス人で、フランスの神学者・哲学者・医者・オルガニスト・音楽学者。
・30歳の時、医療伝道に生きることを志し、アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、当地の住民への医療などに生涯を捧げたとされている。「生命への畏敬」への哲学などでも知られ、世界平和にも貢献。「密林の聖者」とまで呼ばれている。
・他に音楽にも精通し、バッハ研究でも有名。
・20世紀のヒューマニストとして知られている人物である。彼は生まれつき非常に頑健であまり疲れない身体を持っていた。
・1875年に当時、ドイツ帝国領だったカイザースベルク、(現在のフランス領アルザス・オー=ラン県のケゼルスベール)で牧師の子として生まれる。
・当時のドイツにおいて牧師は社会的地位が高く、シュヴァイツァーの家庭は比較的裕福な部類であった。幼い頃、同級生の少年と取っ組み合いの喧嘩をして、相手を組み伏せた時、相手の少年はシュヴァイツァーに向かって「俺だって、お前の家みたいに肉入りのスープを飲ませてもらえれば負けやしないんだ!」と叫んだ。これを聞て心に激しい衝撃を受け、「同じ人間なのに、なぜ自分だけが他の子供たちと違って恵まれた生活をしているのか」と、子供心に本気で苦悩したというこの時に抱いた苦悩こそ、その後の彼の一生を決定付ける重要な出来事であった。
・7歳の頃からピアノを習い、14歳の頃からパイプオルガンを習う。これは後のバッハの研究の下地となる。ストラスブール大学で、神学博士・哲学博士を取得する。哲学博士の論文は『カントの宗教哲学』であった。
・21歳の時、「30歳までは芸術と科学を身に付けることに専念し、30歳からは世のために尽くす」と決意して、30歳から新たにストラスブール大学の医学部に学ぶ。これは、キリストが30歳から布教活動を始めたという故事に倣ったものであった。
・38歳の時に医学博士を得、当時医療施設に困っていたガボン(当時仏領赤道アフリカの一部)のランバレネで活動しようと決め、旅立つ。
・41歳のとき、「生命への畏敬」(Ehrfurcht vor dem Leben)という概念にたどり着く。この概念は、後の世界平和への訴えとなった。医療活動も第一次世界大戦などによって、中断され、ガボンがフランス領であったために、国籍がドイツであったシュヴァイツァーは、捕虜となりヨーロッパへ帰還させられる。
・保釈後、ヨーロッパ各地で講演および、病院の資金援助のためにパイプオルガンの演奏活動を行い名声を得るとともにシュヴァイツァーの活動が次第に世間に知れ渡るようになる。その後も、助手らにも病院を任せ、アフリカでの医療活動とヨーロッパにおける講演活動とを行き来を繰り返す。
・第二次世界大戦後は広島と長崎に原子爆弾を落とされたのを知り、核問題を中心に反戦運動を展開。1953年には、ノーベル平和賞を受賞する。
・晩年もランバレネにおいて医療活動を展開していた。
・1965年に90歳で死去し、同地に埋葬された。
・思想家・音楽研究家としての著作に、『カントの宗教哲学』『バッハ』(いずれも日本語訳あり)があるが、いずれも一級の研究書として、研究者らに受け入れられている。
・神学者としての著作の『イエス伝』は、イエス伝の研究史的見地から労作であり、現在においても評価が高い。
・他にゲーテやインド思想などにも言及しており、なかでも主著として扱われているのが『水と原生林の間で』である。
・その一方で、一般にはキリスト教の伝道と医療活動およびその平和活動を通して、シュヴァイツァーの活動は高く評価されているが、日本の児童文学者寺村輝夫が伝記アフリカのシュバイツァー』で記しているように、実はアフリカ現地での評判は決してよいものではない
自らの神学思想を現地の文化より優先し、また同時代の知識人たちの大半と同様に白人優位主義者の側面を持っていたことも事実である。現に、シュヴァイツァーは「人類皆兄弟」の標語を唱えながらも、あくまで白人を兄、黒人を弟として扱っていたため、アフリカの一部の保守階層を中心に、ヨーロッパの列強の帝国主義・侵略戦争・植民地支配のシンボルと見なしている者も少なくない。とはいえ、「黒人は人間ではない」と見なして露骨に差別・排除する習慣が当たり前であった当時のヨーロッパ全体の風潮と比較すれば、曲がりなりにも白人と黒人を「兄弟」として位置付けていたシュバイツァーの思想はそれなりに進歩的だったとも言える。

19~20世紀

チャネリング (channeling) とは、常識的な通信手段では情報をやりとりできないような相手(何か高次の存在・神・死者(霊界人)・未来人・宇宙人など)から、特別な能力によって情報を交信することチャネリングを行う霊媒者をチャネラーと呼ぶ。シャーマニズムの一種。
古代の多くの聖典と呼ばれる書物は、チャネリングによって書かれたともいわれている。チャネリングは瞑想状態(変性意識状態)で行うことが多いが、それは限定条件ではなく、通常の意識状態でも可能とされる。日本では特にバシャールや神との対話が知られる。また、これを行う人物としてエドガー・ケイシーが知られる。
19世紀から20世紀に掛けてイギリスを中心に西洋諸国に普及したスピリチュアリズムでは、シルバーバーチ、ホワイトイーグルが知られている。チャネラーとして、モーリス・バーバネル、グレース・クックなどが存在した。

スピリチュアリズム
これは新しい時代の科学だった、少なくとも科学の仲間入りをしようとした、ということである。19世紀の科学の誕生と発展を抜きにしては考えることが出来ないことだ。
ナンダ・フォダーは彼の『心霊科学事典』の中の「スピリチュアリズム」の項で、スピリチュアリズムの最も簡潔な定義はかつて全米スピリチュアリスト連盟が採択した「スピリチュアリズムとは、霊媒が霊界の住人たちとの交信によって一般に提供した事実に基づく科学、哲学、宗教である。」と真っ先に「科学」を挙げている。さらに「スピリチュアリズムが『科学』になるのは、霊媒によって提供される事実や幽霊やポルターガイストなどの自然発生的霊現象を調査し、分析し、分類するからである」と言う。…スピリチュアリズムの誕生が当時発展途上にあった科学(特に物理学と化学)と密接に結びついたことは疑いのないことである。
叩音(…)と共に霊界からの通信が送られてきたというのは、当時始まったばかりのモールス符合による電信になんとよく似ていることだろう。実際霊媒たちが叩音と共に降霊会を始め、「叩音霊媒」という名さえもらったのはこの頃だけで、今ではほとんど稀な現象である。また、科学実験の対象として有名な人体や物品の空中浮揚や幽霊の出現などのいわゆる「物理現象」が盛んに起こったのもD・D・ホームが活躍した1850年代~70年代にかけての初期の頃である。
彼らはなぜ夢中になったのか。
人間はどこから来てどこへ行くのか、という今まで人類が解けなっかた疑問を解決する鍵になるかもしれない」とスピリチュアリズムに期待した…。
30年もの研究の後で言ったシャルル・リシェの言葉を借りれば
私たちを包む宇宙のことを私たちは何も知らないと思わざるを得なくなった。私たちは一種の夢の中に住んでいて、その夢の動揺や激しい動きについてはまだ何も分かってはいないのである
しかもこの言葉を理解するのに現代まで一世紀以上の歳月がかかっている。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P209~

スピリチュアリズムとキリスト教
微妙な関係にある。当時の思想的危機は今日の人間の想像を上回るものだったと思われる。唯物論が盛んになって、今まで平穏だったキリスト教社会を揺るがせ始めたのだ。唯物論を推進した最大の原動力は進化論だった。…。それに加えて『共産党宣言』や『資本論』の発表…世はまさに唯物思想一色になるのではないかと思われた。これに真っ向から立ち向かったのがスピリチュアリズムである。
人間の魂は肉体とは異なり霊界に根拠を持ち、霊的に進化したものだという考えは、同じ「進化論」でも根本的に違う。
一方スピリチュアリズムはキリスト教会に不満を抱くものの福音ともなった。その最大の理由は神の罰が無いことである。
スピリチュアリズムの説く死後の世界では同じ考えや好みを持つ者同士が集まって社会を作る。…。人間同士が地上の思いを死後まで引きずってきて自分で作り出す因果応報の世界なのである。したがって「最後の裁判」のような神の怒りと罰などは無い。神は常に愛の心を持って人間を救おうとしているというのがスピリチュアリズムの霊界である。
死後の世界でも人間はすべて自分に責任を持たねばならない。神の指図ではなく、自分の考えと行為とが霊界における自分の立場を決める。その人間の魂の精進によってより高い世界に行くことが出来るので、神の世界に近づこうと永遠に努力を続ける。これがスピリチュアリズムの「進化論」である。
ナンダ・フォダーは『心霊科学事典』の「スピリチュアリズム」の項でコナン・ドイルの次の言葉を引用している。
スピリチュアリズムはどの宗教の中にも入って行けない者のための宗教である。
どの宗教を信じていても、その信仰を強める働きがある。

1891 二宮 尊徳(にのみや そんとく)
天明7年(1787年) - 安政3年1856年)没後の1891年に従4位が追贈された。
    精神的心霊現象の時代へ  
1891~1892 ユーサピア・パラディーノとダミアニ夫人とキアイア博士とチェザーレ・ロンブローゾ
ユーサピア・パラディーノはナポリ在住の女性霊媒
それまでに著名になったのは主としてイギリスとアメリカだった。
キアイア博士から手紙をもらった犯罪心理学者のチェザーレ・ロンブローゾが数人の科学者と共にナポリを訪れ、ユーサピアの霊能を調査。
「彼女はインドのゴム人形のように奇妙な人体部分を作り出す新種の自動創生装置です。いったい彼女には幾つ手足があるのでしょう。…」

彼女をめぐって17回にも及ぶさらに大掛かりな実験が行なわれた。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P149~
1849~

~1892~

~1912
ウィリアム・トーマス・ステッド
ステッドは、イギリスの著名なジャーナリスト。
その彼が1892年、自分に自動書記の能力があることに気がつく。
その後、彼はスピリチュアリストとしての人生を歩むようになる。
霊媒としての彼の傑作は、死去した仕事仲間の友人ジュリア・エイムスからの霊界通信を編集した著書、『ジュリアからの音信』がよく知られている。
1893年、彼は自分がスピリチュアリズムを信奉していることを公の場で告白した。
それに先立つ1883年、彼は自身で創刊した『レビュー・オブ・レビュー』誌の中で、大西洋の氷山に大型定期船が衝突して沈没するという作品を書いている。
1909年、故ジュリアからの要望として、霊界通信のための事務局「ジュリア顕幽連絡局」を設立し、肉親と死別した人々のため無償で通信を試みる。
その29年後の1912年、その記事がまさに予言となったようなタイタニック号の沈没事故が起きた。ステッドはニューヨークのカーネギーホールへ招かれて講演するためにタイタニック号に乗船していた。そしてタイタニック号とともに大西洋に没することになった。
「ジュリア顕幽連絡局」は資金難で一時中断するが、1914年にステッドの友人の支援で「ステッド局」として再開した。
死後、ステッドは複数の交霊会に現れたとされており、さまざまな手段で通信を送ってきたことになっている。苦しんでいる霊を救済する仕事もし、1916年、精神科医ウィックランド博士の交霊会にもステッドが現れたとされており、タイタニック号事件で水死した人の霊を連れて来たとして、博士のカウンセリングを受けさせたことがあるという。
その後、ステッドは霊界から、ウッドマンという霊能者を通じて娘のエステルに通信(自動書記)を送ってきた。彼自身の他界直後の状況や幽界の様子がリアルに伝えられている。それが『ブルーアイランド』として出版され大反響を巻き起こした。
1936年に故ステッドの要望により「ステッド局」を廃止。
スピリチュアリズム普及会(旧・心の道場)第1公式サイトより
ジュリアからの音信
『レビュー・オブ・レビュー』誌
『ブルーアイランド』
1892~ 地質学者のアルベルト・ハイムと臨死体験の研究
というのは、欧米では登山時の事故で自身が臨死体験したことをきっかけに研究を行い1892年に発表し先鞭をつけた。
その後、アメリカ心霊研究協会(ASPR)のジェームズ・ヒスロップが1918年に、
イタリアの医師ボッツァーノ(it:Ernesto Bozzano)が1923年に、
イギリスの物理学者のウィリアム・フレッチャー・バレットが1926年に、
それぞれ無関係に研究を発表したものの、その後1970年代までは(ごくわずかの例外を除いて)研究は途絶えた。
⇒エリザベス・キューブラー・ロスやレイモンド・ムーディへ
本居宣長と山岡鉄舟
晴れてよし、くもりてもよし 富士の山 もとの姿はかわらざりけり
1890年代
~1900年代

シオン賢者の議定書』(シオンけんじゃのぎていしょ、The Protocols of the Elders of Zion)⇒1910年代へ
・「秘密権力の世界征服計画書」という触れ込みで広まった会話形式の文書。
・1890年代の終わりから1900年代の初めにかけてロシア語版が出て以降、『ユダヤ議定書』『シオンのプロトコール』『ユダヤの長老達のプロトコル』とも呼ばれるようになった。
ユダヤ人を貶めるために作られた本であると考えられ、ドイツのナチスに影響を与え、結果的にホロコーストを引き起こしたとも言えることから「史上最悪の偽書」、「史上最低の偽造文書」とも呼ばれている。
・この文書は1897年8月29日から31日にかけてスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン二十四人の長老」による決議文であるという体裁をとっている。
そして、1890年代末から1900年代初めにかけてロシア帝国内務省警察部警備局により捏造されたとする説が有力である。
1920年にイギリスでロシア語版を英訳し出版したヴィクター・マーズデン(「モーニング・ポスト」紙ロシア担当記者)が急死したため(実は原因は伝染病)、そのエピソードがこの本に対する神秘性を加えている。
・ロシア革命によって、日本を含め世界中にこの文書は広がった。一般人だけでなく、ヒトラーやヘンリー・フォードなどもこの文書を熱狂的に支持した。ロシアではソビエト時代になると発禁本とされた。
⇒日本への影響は1918年へ

1892年(明治25年)~ 出口なおと大本(おおもと)教
出口なお
に降りた国祖・国之常立神の神示を立教の原点とする教派神道系の教団⇒出口王仁三郎
明治25年(1892年)2月、帰神(神懸かり)状態で13日間の断食となる。帰神状態となって大声の金切り声で叫ぶなどの奇行を行なうようになると、周囲の人々からの理解はなくなり、座敷牢に押し込まれるなどの虐待にあうが、入牢中に落ちていた釘で神の言葉を文字に刻むようになり、これが後年の「おふでさき」と呼ばれるものへとなって行く
大正5年(1916年)10月の神島参拝で、出口なおの筆先に「未申の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が五六七神の御霊・・・」という神示があり、これによって出口なおは、婿養子の上田こそ、本当の「みろく様」であったという確信に至る。
教団では、この時を境に未見真実から見真実となったと言われているが、なかでも重要なことは、なおの神業的役割が王仁三郎に懸かっている神霊を正確に審神者することであり、大正5年の神島参拝において、王仁三郎への審神者を完了したことにある。 出口王仁三郎-『伊都能売神諭』

大本神諭(おおもとしんゆ)
お筆先を編集した文書集 1892年(明治25年)、現在の住居表示で言うところの京都府綾部市本宮町に住む女性、出口なおに、艮の金神(うしとらのこんじん)という男性の神格を表す高次の神霊が神懸りし、出口なおに筆と紙をもたせ、その神霊が出口なおの身体を駆使して文字を記していくという現象自動書記があったと伝えられている。その量は膨大であり、半紙にて5万枚以上にも及んだと伝えられている。
当時、行政当局により宗教法人設立が厳しく監視され制限されていたので、出口なおは一時同じく神道であるところの金光教の地方教会の世話になり、名を借りて活動を進めていた時代があったと記録されている。
その後、上田喜三郎(後の出口王仁三郎)が活動を補佐するようになって組織的に発展していった。宗教法人大本(以下、大本と略す)では、このとき書かれたものをお筆先と称して、大本の最高聖典となって残されている。
大本神諭は非常に疑問の多い文書である。この文書は実際、出口王仁三郎のみにしか、筆先の編集作成は出来ないとされていたにも関わらず、海軍出身の浅野和三郎が筆先から神諭への編纂に携わったという逸話もあり、その真偽が問われている。浅野和三郎が編纂した箇所がどの部分で、どれだけの量、またはどれだけのパーセンテージで編纂したのかは正確に判明していない。つまり、それは大本神諭が艮の金神を含めた神霊たちのそれであるという確証は薄らいでくることを意味している。
また、出口王仁三郎が筆先から神諭へと編纂したと言われているが、当事者である出口王仁三郎も疑問に満ちたことを発言している。 『年月日と組立等を、開祖なおに尋(たず)ね乍(なが)ら書いたのであるから、誌上の稿になったものと同じお筆先は実際にはありません」』
ということを大正8年、京都府警に発言しているが、この発言自体が物議を醸している。
神諭は筆先がベースであるとは公然として発表されることでありながらも、この発言内容をみると出口王仁三郎の創作であるという可能性も浮上してきており、大本にとっては大本神諭の存在意義そのものが疑問視される。

~1893 フォックス姉妹晩年のスキャンダルと3姉妹の死、そして『スピリチュアリズムに対する死の一撃』
長女リーをはじめとしてケイト、マーガレットと続いて他界した。
ナンダ・フォダーによれば死の床にあったマーガレットを看取った女性医師の証言が1905年のニューヨーク法医学会の会合であったそうで、手も足ももはや動かすことのできぬマーガレットの霊界への問いかけに対して天井から、壁から、叩音が鳴り続けたという。『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P199~
1894.7~  日清戦争
1875(明治8)年9月の江華島事件を契機として、
翌1876年2月26日江華島条約(日朝 修好江華条約)が締結され、65年ぶりに日朝修好が復活した。この条約は、朝鮮の独立を確認 し両国の友好を約したものである。
これはすなわち清国の宗主権を否認したものであり、ここに 日清戦争の直接的原因が芽生えた。その後、1894(明治27)年2月に朝鮮で起こった農民反乱の甲午農民戦(東学党の乱)は、 李王朝への反発から日本や欧米の侵入に対する反対へと発展した。朝鮮政府は、鎮圧のため、清国に救援を求めた。
清国から出兵の通告を受けた日本政府は、直ちに出兵し、清国政府に共同し て朝鮮の内乱を鎮圧し、内政改革をすすめさせようと申し入れたが、清国はこれを拒否すると、 日本軍は朝鮮王宮を占領し、朝鮮政府に清国軍を撤退させるよう求めた。こうして7月25日の 日本軍による清国艦隊への奇襲攻撃(豊島沖海戦)、成歓・牙山の戦闘が行われ、日清両国は戦争状態に入り、8月1日、両国とも宣戦布告して日清戦争が始まった。

日清戦争(にっしんせんそう)
1894年明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日であり、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。
李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島遼東半島および黄海で両国は交戦し、日本側の勝利と見なせる日清講和条約下関条約の調印によって終結した。壬午軍乱以後、閔妃によって清国は李氏朝鮮に対する宗主権を一方的に主張していたため、講和条約の中で日本帝国は、李氏朝鮮に対する清国の一方的な宗主権の放棄とその独立を承認させた他、清国から台湾澎湖諸島遼東半島を割譲され、また巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費となった。 ウイキペディア 
日清戦争、もう一つの側面 
1896 宮沢賢治と三度の大地震
宮沢賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」(理科年表No.281)が発生して岩手県に多くの災害をもたらした。
誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」(理科年表No.282)が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で大きな災害が生じた。この地震の際に母は賢治の入ったえじこ(乳幼児を入れる籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという。

1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。
法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。
死の前日農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。
この年3月3日に「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。
誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している。
地震直後に詩人の大木実へあてた見舞いの礼状には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている。
1879.12.30~
1896.6.17
~1950.4.14

ラマナ・マハルシ
・南インドのタミル・ナードゥ州のマドゥライ市のティルチュリ村で生まれる。
ヴェンカタラマン・アイヤル
と名付けられる。生家は現在、父の名スンダラム・アイヤルにちなみスンダラ・マンディランと名づけられ、聖なる場所として残されている。
・1896年6月17日、16歳の頃に突如として起こった死の体験に触発された内的探求から、肉体を自分とみなすエゴとしての「私」が消え、完全な、無限の、不死の、実在かつ意識かつ至福である真我(アートマン)または真実(理)こそが私であると悟る。
・土日ごとに寺院を訪れ、熱烈な宗教的な喜びをもって寺院の周りを回る敬けんな性格であったが、特別に宗教的な書籍に親しんだり、瞑想などの修練をしたことはなかった。
・同年8月末、巡礼都市であるティルバンナーマライの古来よりシヴァ神の顕現とされるアルナーチャラの丘に呼ばれるように家を出て、生涯をアルナーチャラから離れることはなかった。ティルバンナーマライに来た当初、沈黙を守っていたが、自然とその存在は知られるようになり、次第に多くの人々が訪れるようになった。
・ラマナ・マハルシという名前は、1907年ごろに訪問したガナパティ・サストリによって命名され、以後広まった。最初の頃は、アルナーチャラの周辺にある寺院や洞穴に住んでいたが、1922年12月ごろから、アルナーチャラのふもとにある、母親のアルガンマルのお墓がある場所に定住し、そこが現在のラマナ・アシュラムに発展した。
・午後8時ごろに死去。亡骸はサマーディ・ホールの地下に安置されている。現在のアシュラムはマハルシの実弟の孫にあたるV.S.ラマナンにより管理されており、世界各国から訪問する信奉者を受け入れている。
・マハルシの教えは、不二元論にたどれるが、自身は何らかの思想や哲学を教えているという思いはなく、ただ自らの体験を語っていた
難解な聖典の教え
を、その本質を把握して明確に説明することができ、数多くの質問者の疑問を晴らした。
・言葉での教えより、モウナ(沈黙、静寂こそが最も力を持っているとたびたび語っている。ここでの、モウナは単に言葉を発っさないことではなく、こころがその源(真我)に溶けこみ、別に存在していない在り方を意味している。
・マハルシは、モウナは「永遠の雄弁」であると表現し、言葉を発することはその力の妨げになると言っている。実際に、マハルシに会いに来た人が、目と目を合わせるだけでこころが落ち着き、今まで味わったことのない幸福感に包まれたというような話が、マハルシとの思い出を収録した『FACE TO FACE WITH SRI RAMANA MAHARSHI』などの本の中でよく語られている。(Wikipediaの写真を見て納得!!)
・「私は誰か?」という問いかけによる実践的な真我の探求(アートマ・ヴィチャーラ)を推奨した。肉体を自分であると誤ってみなしているエゴである「私」の根源を探求することで、エゴが消え、純粋な意識であり絶対的実在の真我こそ私であると悟る。これは、ヴィチャーラ・マッガ(探求の道)またはジニャーナ・マッガ(知恵の道)と呼ばれる。この悟りは、常に自らが真我であることに気づくことであり、新たに真我を作りだしたり、真我を獲得するということではない。探求は、真我を見えなくしている障害物である「私とは肉体である」という思いを核とする様々な思いを除くだけである。
マハルシは、自らが真我であるのに真我であると気づいていないことを、不可思議の中の不可思議とあらわしている。
・悟りへのまっすぐなもうひとつの道として、バクティ(献身、帰依)も教えている(バクティ・マッガ)。バクティは神などの至高の存在に自分自身を明け渡す(委ねる)ことである。その達成において、自分自身の欲望は完全に消える。バクティとジニャーナには優劣はなく、どちらを選ぶかは修行者の性質による。マハルシは、バクティはジニャーナの母という表現をしている。ちなみに、神・師(グル)・真我は同じものの異なる呼び名である。
・他の修行の道を否定せず、自身が最も行いやすいと感じる修行をすればよいといい、様々な修行にも寛容な態度をとった。『ウパデーサ・マンジャリ(英:Spiritual Instruction)』のなかでストゥーティ、ジャパ、ディアーナ、ヨーガ(プラーナーヤーマ)などが説明されている。それらの伝統的な修練でつちかった一点への集中力は、真我の探求を容易にする。
・マハルシは、真我を悟るために、大部分の人は継続的に努力して修練する必要があると説いている。今世で修練なくして悟ったものは、前世ですでに必要な修練を終えているからである。
・悟るための助けになるものとして菜食(ニンニクなどは除く)を最も優れたものとして勧めている。菜食により、心に落ち着き(サットヴァ)の性質が増す。
・マハルシの教えは、ヨーガの一種として、ジニャーナ・ヨーガとあらわされることもある。ジニャーナは、「Knowledge」と英訳され、日本語では「知識」や「知恵」となる。このジニャーナは主体(私)が対象を知ることで得られる相対的な知識とは異なり、主体と対象という二元性を越える「真我もしくは神以外何も存在しない。私や私のものは存在しない」という体験的知識である。この絶対的な知識も含め、すべての知識は最終的に放棄される。絶対的な知識は無知を破ることで役目を終える。
・アシュラムの周りに住む動物にたいして優しく接していた。アシュラムの敷地内には現在もマハルシが作らせた鹿、カラス、犬、牛のお墓が大切に残されている。アシュラムで飼っていた牛のラクシュミが亡くなった際、マハルシはラクシュミは真我を悟ったという内容の詩をうたった。
・聖者として特別扱いされることを好まず、平等を重視していた。食事のお布施のある場合は、かならず皆で平等に分配し、特別に自分だけに用意された食べ物は受け取らなかった。自分の食事が人より多く盛られているのに気付くと、厳しくしかった。医療もアシュラムに住む人が自分と同じ扱いを受けられるようになってはじめて、受けるようになった。
・キリスト教やイスラム教をはじめとする様々な宗教・宗派にたいして非常に寛容であり、宗教間の優劣を説かず、それぞれに通底する真理を説いた。対話しに来た相手の信仰を傷つけないで導くよう配慮していた。

189712.4~1963

岡本天明と日月神示(ひつきしんじ)
・神典研究家で画家
・日月神示は明治30年12月4日~1963年(昭和38年)4月7日に「国常立尊」(別名、国之常立神)と呼ばれている高級神霊より自動書記によって降ろされたとされる神示、神典である。原文はほとんどが漢数字、かな文字、記号の混じった文体で構成され抽象的な絵のみで書記されている「巻」も有る。
・その難解さから当初は書記した天明自身もほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者の協力などで少しづつ解読が進み天明亡き後も妻である岡本三典、1917年(大正6年)11月9日-2009年(平成21年)6月23日の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われている。
しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれている箇所もあり解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的で、その為に仮訳という副題を添えての発表も有った。
・日月神示の構成は本巻38巻と補巻1巻の計39巻から成る。
・別名「ひふみ神示」または、「一二三神示」とも呼ばれる。
・上記の他にも神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻有り、天明は「これら未発表のものは、或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります。」と昭和36年に語っている。日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかった。
・1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作等により広く一般にも知られるようになった。
三千世界の大洗濯と大峠
神示には過去にも世の建替は6度あったとあり、今後に起こるとされる大建替で7度目だという。そして、これが最後なのだとも書記されている
過去6度のそれぞれについてはその全てが現界のみの建替でしかなかった為に、すぐに元に戻り根本的な大建替にはならなかったのだという。そして、今後に起こるとされる大建替では過去にあったそれらとは全く異なり、この現界はもちろんの事、神界、霊界、幽界等も含めた全ての世界に起こり、天明が最初に麻賀多神社の社務所で書記させられたように、文字通りこの世始まって二度とない苦労になるのだとされる。

中矢伸一
1900
心霊研究の黄金時代終わる
SPR初代会長ヘンリー・シジウイック死去
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
   心霊研究の黄金時代終わる  
1900  北シベリアのベレゾフカ川岸でマンモス発見!!
されたという通報を受け、1901年5月3日、ロシア科学アカデミーの動物学者オットー・ヘルツとオイゲン・ピッツェンマイヤーらはペテルブルク(現・サンクトペテルブルク)を出発した。鉄道で5月14日にイルクーツク、6月14日に馬車と舟でヤクーツクに、9月9日に現地に到着した。
マンモスは腐敗するも残存した頭蓋骨と地中に埋没した下半身という半ば立ち上がった姿勢をしていた。これを運搬用に解体し、1902年2月18日に帰還した。復元された標本はベレゾフカのマンモスと呼ばれ、皇帝・ニコライ2世とアレクサンドラ皇后も見学した。
 
 ⇒2012.10月へ
1900 ヘレン・ケラー
ラドクリフ大学(現ハーバード大学)へ入学。
Life is either a daring adventure or nothing.「人生は恐れを知らぬ冒険か、無か」

・ヘレン・ケラーにスウェーデンボルグを紹介したのは「ジョン・ヒッツ」という人物である(故鳥田四郎牧師はジョン・ヒッツを「牧師」と呼んでおられるが、彼が牧師であったかどうかは定かでないことから、敬称を省略する)。ちなみに、このヒッツという人物、ヘレン・ケラーの伝記類のほとんどに登場してこない。唯一『世界の伝記42 ヘレン・ケラー』(山主敏子著 ぎょうせい)にその関係が書かれていた。本書を参考にヘレン・ケラーがスウェーデンボルグを知る経緯について要約して紹介する。
・幼い頃からヘレンは、この世のすべてのものを創造したのは誰だろうという疑問を持っていた。それに対してサリバンは、「母なる自然が創った」と話して聞かせていた。最初はそれで納得していたヘレンであったが、自ら手に触れるものには「みんな生命がある」と感じ、創造主に対する好奇心は増すばかりであった。そして神について考えるようになり、フィリップス・ブルックスという神父から「神は愛なり」というキリスト教の教えを学んだ。しかしそれでもヘレンは神の愛と「物質世界」との関係がはっきりつかめずにいた。そんな時、ヘレンはジョン・ヒッツに出会うのである。十三歳の時であった。これから先のエピソードは『世界の伝記』からそのまま紹介する。
・ヘレンはこの人から、スウェーデンボルグの『天国と地獄』という本を貰って読み、すっかりその思想に魅せられて、スウェーデンボルグの考え方をもっと研究したいと思い、ヒッツに頼んだ。ヒッツはヘレンの役に立ちそうなものを点字に打って、送ってくれた。
・ともあれヘレンは彼の宗教書にすっかり心酔してしまった。彼女は自分もまた霊的な体験を持ったと信じ、それをサリバンに語ったこともある。日本スウェーデンボルグ協会 HPより

『天国と地獄』
 ~
1900~
1945
カール・オーガスト・ウィックランド博士と心霊治療
スウェーデン生まれの米国精神科医。妻アンナを霊媒とし、霊界の医療団(Mercy Band マーシーバンド)とともに精神病の治療を行った。
・ダラム医科大学で精神医学を専攻して1900年に卒業。
1909-18年には国立シカゴ精神病学会の会長を務め、その後ロサンジェルスに移住し、国立精神病学会の研究機関で精神科医として働いた。
・ウィックランド博士が心霊現象に興味を持つようになったきっかけは患者だった。
・心霊現象を調べるため交霊会に出席するうちに、妻のアンナに優れた霊媒能力があることがわかり、やがて妻を通して、霊界の医療団から治療に協力するよう要請を受ける。
人間に憑依した霊は混乱した精神状態にあり、感覚的にも地上人に近く、霊界の医療団を見たり声を聞いたりできず、治療を受けることもできない。そのため、一度博士の妻の体を借りて霊を説得する必要があるという。
・治療ではまずアンナが霊の憑依を確認し、博士たちが患者に軽い電気ショックを与えて、憑依している霊をアンナに乗り移らせた。次に博士が霊に状況を説明し、自分の肉体の死を認めるようにもっていった
・次に、霊の生前の様子を聞いて問題点をはっきりさせ、それを乗り越えて霊界に行くよう説得する。
・霊が納得して霊界に向かう気が起きると、霊界の医療団の協力で家族が迎えに来たり、霊が自ら離れて行ったりして「除霊」が完了する。(⇒※モンロー研で学んだ人々と魂の救出の方法と酷似)
・治療が終了し、霊が離れると、患者は生来の人格を取り戻した。患者によっては多数の霊が憑依しているため、数回にわたる治療が行われた。また、どうしても説得に応じない霊は、霊界の医療団が隔離し、特別に治療したらしい。
・狂信的な宗教者に間違った信仰を教え込まれた者や、わがまま一杯に育った青年、麻薬中毒患者などの例が挙げられている。
⇒『神科医ウィックランド博士の迷える霊との対話―精神病を除霊で治した医師の30年 スピリチュアリズムによる人類への警告』1993/8
1877~
1901~
(明治34)
1945
エドガー・ケーシー(アメリカ)
・7・8歳の頃-両親に”人の姿をした幻”を見たり、彼らと話したりすることができると話している。最近死んだばかりの親戚が現れて彼の生まれる前に起こった事柄を教えてくれたと言って両親を面食らわせることもあった(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P22~)
・9歳の頃、ついに父親は息子に新品の聖書を買い与えた。…
祈る機会さえあれば「病人を癒す機会が与えられますように」と少年は神に訴えかけた。(『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P22)
・13.4才のころに「神がもし自分のことをちゃんと見守ってくれているのなら、その証を示してください。」「これこそ神の愛の表れにほかならないというようなことを、人々のために、自分ができるようになりますように」と祈っていたという。⇒この祈りの最中に最初の不思議が起きる
いつもの隠れ家で聖書の「マノアの夢想」を読んでいると、突然ハミングが聞こえ、…光輝く姿※女性が見えた。「汝の祈りは聞き届けられた。汝は何を欲するのか
敬虔な気持ちで答えた。
病気の人々、とりわけ病気の子どもたちの助けとなることを。また、仲間たち、人々を愛することを……
後に彼は「汝が正しく力を使う限り、人助けをするための力が与えられるだろうと、そのとき告げられた」
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P24~)
・1901年3月31日父母の見守る中で催眠術の暗示を受けて自分の声を取り戻すための治療法を試した。アラン・レインという催眠術師も立会い、声が戻った。このことがホプキンスビルの新聞に報道された。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P28~)
・彼の得意とする手法はリーディング
まず、彼は他者による催眠状態において第三者からの質問により、アカシックレコード(アカシャ記録)と言われる宇宙意識から宇宙の知識を引き出す。
次に、それに基づいて個人の体を神経の状態や各臓器の状態また体の状態なども透かしたように話し病気の治療法などを口述する。彼のリーディングの(速記等の)記録は約14000件(1901~1944年の間に全16000件以上)にもおよび、米国のAssociation for Research and Enlightenmentで利用可能な状態で保管されている。彼の表層意識が答えているわけではないので、予言者というより、治療者・回答者であるとされる。
そして、未来のことは確定しているわけではなく、人の意思にかかっているときっぱり言い切っている。「眠れる心霊診断家」。

第二次世界大戦の勃発と終戦をズバリ予告
もし人々が祈り、また祈ったように生きるならば、無事に過ぎるだろう」という神の声であったが、その声は人々には届かなかった。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P34~)

1910.8.10娘を助けてもらったもののお金を受け取らないケイシーに対し、C.H.ディートリッヒは感謝の気持ちを公証人作成の口述書にすることにした。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P69~)

この仕事(リーディングのこと)の動機が邪悪な場合は、逆にエドガー・ケイシーの肉体は危険にさらされることになるというのだった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P74)

ケイシーはリーディングが本当に神の意志に従うことなのか、自分が本当に神の意志を伝えるに相応しい人物なのか、という問題について、生涯、疑問や不安を持ち続けていたが、家族にふりかかった問題を解決したときには、無条件に自分の幸運に感謝した。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P77)

近年彼の方法でALS、リウマチ、MS、エイズ、パーキンソン病、がんなど難病を治癒した人が何人も出てきている。また、彼の方法を利用しがんなどの手当てをしている療法に、ホクシー療法がある。この彼が言った心、体、魂を治し健康な体と精神をこの世に存在させる療法をケイシー療法と呼び、それを応用しているクリニックも米国にある(AREクリニック)。

ケンタッキー州ホプキンスビル出身。 幼少期より予言を行い始める。 保険のセールスをしていたが、咽頭をこわし、会話がままならなくなり写真家に転向。 ノストラダムスジーン・ディクソンとともに世界三大予言者と言われているようだが、彼の予言者的な部分は一部分であり、半数以上が病気治療のフィジカル・リーディングと呼ばれるもので自己治療に貢献している。

ケイシーの勧める物理療法は大きく分けて4つ。ケイシーの死後もレイリーがそのリーディングを研究。
循環作用、排泄作用、同化作用、食事法。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P140~)

1923年にオハイオ州に住む裕福な印刷会社の経営者アーサー・ラマーズが「人生の意味はそもそも何なのか?個人の才能や欠陥、罪や徳は一体どうして現れるのか?生まれたときから死ぬときまで、人間に不平等がついて回るのはどうしてなのか?…」これがのちの2500件にのぼるライフ・リーディングとよばれるものの始まりとなった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P88~)

1923.8.10アーサー・ラマーズの依頼を受け、「生まれ変わり」の事実を語っている。
リーディングができるようになったのは”神の意志”によると考える以上、それぞれの時点ではどんなに”常識”に反するように感じられたとしても、謙虚な気持ちで受け止めるべきであるという結論を彼は出していた。このエドガー・ケイシーの大決心によってわれわれは人類誕生の謎も、現代の人類が抱える危機をも知ることができたわけである。
リーディングによれば、すべての人間は、利己的な心を捨て、自分より不幸な人を助けたいという気持ちを持ち続けることによってのみ、自分の可能性をフルに開花させることができるというのである。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P145~)

1936.6庭園を耕していて真昼の幻影を見、書斎にこもり、何時間も後に姿を見せたケイシーは第二次世界大戦が近づき、何百万人もの死者が出る兆候があったと説明した。それは、意識のある彼に対する神からの緊急メッセージだった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P102~)

1936年
地球が神の地上として真理で満たされた時代に、この肉体、エドガー・ケイシーは復活され、浄化され、解放されよう。」つまり、この時こそケイシーはこの物質現象界へ輪廻転生してくる必要性から解放される。

ケイシーと妻と秘書の3人が医師の資格がないのに医療行為をしたとしてデトロイト警察に逮捕され、判決が出た夜に夢を見た。
汝の同胞になすことは、汝が汝の神と汝自身になすことであるゆえ、汝が自我を捨てて他人に尽くすなら、神は汝に栄光を与え、汝の行為と汝の同胞との関係において『解放者』としての資格を与えるだろう。忘れぬように心せよ。どんな裁きの時も、誘惑の時も、神は常に汝の側におられることを。また、汝が滅びることを望んではおられないことを。意志を強く持て。神は常に汝とともにおられる。恐れてはならない

すべての結果には原因がある。
もし、人が現在の自分の考えや行為は、前世の代償を払わされているのだと感じたとしたら、カルマの法則に諦めを感じるのではなく、将来(来世)のために正しい生き方をしようという勇気が湧いてくるに違いない。
カルマの法則の目的は、モラルを高め、精神的な成長を助けることにある。
カルマは”生きる条件”を作り出しはするが、そこから自分に相応しいものを選択して行動に移すのは人間の意志である。その意志の力によって、その霊魂が前世で作り出したカルマ的パターンも変えることができる。
カルマには各集団に共通なものがある。民族・人種にもカルマがある。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P158~)

宇宙に最初に存在したのは唯一の精神(スピリット)であった。心の力、生命のエネルギーの巨大な海が全宇宙のすみずみにまでいきわたっていた。それは全知全能で、すべての根源であった。「宇宙の力」「すべてのもの」「生命のエッセンス」--こうした言葉で表されるものが永遠の神であり宇宙と人間生成の「第一原因」意識)であった。
「第二原因」は願望意思)であった。精神は活動し、自分自身を自分の外へ発展させることで個々の生命のうごめきを示し、いろいろな形に自分を現す。この生命の震えの中にアミリウス=光が生まれた。光こそ、精神が最初に形をとって自己を現したものである。…
最初の創造物は”考え”である。
自由な意志理性を付与されていた。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P168~)

すべての物質は精神を持ち、その精神は、創造者と別だとはいえ、創造者の意志を体現したものであった。
創造の力は宇宙全体に及んでいる。
第一の法則は愛。
第二の法則は繁殖。
第三の法則は進化、成長、発展

意識のレベルとして3つのものを生み出した。
第一の意識
第二に潜在意識⇒記憶の貯蔵庫、第一と第三の意識の架け橋となる。
第三に超意識⇒魂そのものとつながる
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P171~)

現代にはこれからアトランティス人たちが大量に生まれ変わってくる。
核爆弾と核エネルギー、…科学の氾濫。地球温暖化、化学肥料や農薬の残留、水資源の汚染、これらは確実に悪い方向に進行している。加えて自然の反逆が大きくなってきている。頻発する地震は不気味であるがそれは一つの結果である。…。日の下に新しきものなし、歴史は繰り返す。アトランティスの悲劇は今や、我々にとって現実のものなのである。
人類のカルマ神のカルマ
「…。神が障害を取り除いてくださるかもしれない。それはあなたが信仰、愛、忍耐、親切、柔和を持った時である」
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P184~)

1944.9.17自分自身についてのものが生涯最後となった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』H2.8.15五十嵐康彦P105~)

「ライフ・リーディング」と呼ばれる、人生について悩める人々に与えた助言の数々がある。 彼の「ライフ・リーディング」は、人の魂は死後も永遠に存在し続け、転生を繰り返すという、自身が信教していたキリスト教の教義や現在の常識ではにわかには受け入れがたい概念を根幹としており、人生において存在する一見不可解な問題や様々な悩みは、前世との因果関係を知ることによって、その存在理由を明確にすることができるというものである。
ライフ・リーディングは2500件を数え…、…ありとあらゆるテーマについてリーディングを与え、トータルでおよそ50000ページ近くの資料が今に残されている。(『1998年エドガー・ケイシー世界大破局への秒読み』林陽P29)

宇宙について
ケイシーの説く輪廻転生によると、私たちは死後それまでの霊的成長に応じて、また次回の転生に必要な精神的特性を培うために、ほとんどの人は太陽系内のいくつかの惑星に霊的次元において滞在する。これは太陽系内のそれぞれの惑星が、魂の成長にとって必要な学びの場を提供してくれるためである。
現代に生きる私たちは、平均すると数十年から数百年の周期で生まれ変わっている。 この転生期に、私たちは平均して4つくらいの惑星に滞在するという。 ただし、この惑星滞在はあくまで霊的次元の話であって、肉体をもって各惑星で生活しているわけではない。 『眠れる預言者 エドガー・ケイシー』より
エドガー・ケーシー
奇跡の生涯

エドガー・ケーシーとキリスト教と聖書と「輪廻転生」について
1901.10.2 明治34年I.A.メモリアルデー  
1901 マイヤース、病死
人間の意識顕在と潜在(サブリミナル)とに分けて考察した最初の一人。
複数潜在意識説⇒1903年に遺著『人間個性とその死後の存在』出版
『人間個性とその死後の存在』
1901

ミルトン・エリクソンMilton H〔yland〕 Erickson,
催眠療法家として知られる精神科医、心理学者。 彼はアメリカ臨床催眠学会の創始者で、初代会長も勤めた。アメリカ精神療法協会、アメリカ心理学会、アメリカ精神病理学会などのメンバー。晩年は催眠の臨床性・実践性向上のため、精力的にワークショップを開き世界各国を行脚した。にもかかわらず、日本への訪問は3度目のポリオ発病のため、ついにかなわなかった。そのため、日本人で彼の教えを受けた人間は高石昇、柴田出など数少ない。

 1902~1925 ルドルフ・シュタイナー-神秘学など(ドイツ)
20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びた
アントロポゾフィー(人智学)発展の第一段階 1902~1909
1900年代からは神秘的な結社「神智学協会」に所属し、ドイツ支部を任され、一転して物質世界を超えた“超感覚的”(霊的)世界に関する深遠な事柄を語るようになった。
「神智学協会」幹部との方向性の違いにより1912年に同会を脱退。
自ら「人智学協会」を設立した。「アントロポゾフィー」(人智学)という独自の世界観に基づいてヨーロッパ各地で行った講義は生涯6千回にも及び、多くの人々に影響を与えた。また教育、芸術、医学、農業、建築など、多方面に渡って語った内容は、弟子や賛同者たちにより様々に展開され、実践された。
シュタイナー教育バイオダイナミック農法
アントロポゾフィー発展の第二段階 1910-1916
アントロポゾフィー発展の第三段階 1917-1923
晩年 1924-1925
『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』では具体的な霊的体験を得るための修行法を描いているが、二部を作る前に世を去った。
また自身が40歳になるまでは霊的な指導を引き受けなかったのは、40歳までに霊的な指導を引き受けると誤謬に陥り易くなるためだとも言う。(発明は40歳までのは人類の道徳を退行させ、40歳以後のは人類の道徳に貢献するものにもなる、と主張されている。)いかにして高次の世界を認識するか 
『いかにして超感覚的世界の
認識を獲得するか』 
いかにして高次の世界を認識するか
1904~1905  日露戦争
1904年明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて大日本帝国南下政策を行うロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の斡旋の下で、ポーツマス条約を締結した。

講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を割譲させ、またロシアが清国から受領していた大連旅順租借権を獲得した。同様に東清鉄道旅順 - 長春間支線の租借権も得るに至った。しかし交渉の末、賠償金を得るには至らず戦後外務省に対する不満が軍民などから高まった。
戦争の性格
日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また2国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。このことから、横手慎二は日露戦争は第0次世界大戦(World War Zero)であったとしている。Wikipedia 
 
1904.2.8~1905.9.5
日露戦争 
日露戦争ロスチャイルド家
大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争
日本が戦争を行う際、膨大な戦費をまかなうため
日英同盟を根拠にして外貨建て国債をロンドンで発行した。当時世界最大の石油産出量を誇っていたカスピ海のバクー油田の利権を持つロスチャイルド家は購入を断わったが、ニューヨークの銀行家でユダヤ人ジェイコブ・シフを紹介した。そして、氏が支援を申し出たため、外債募集に成功した。
日本は戦争に勝ったがロシアから賠償金を獲得できず、ジェイコブ・シフに金利を払い続けたこの為に、「日露戦争で最も利益を得たのはジェイコブ・シフ」と言われ、一時はジョン・モルガンのモルガン財閥と並立する存在になった。
バクー油田
一方で、ロスチャイルド家はロシアの石油開発に巨額の投資を行っていた。
バクーで大掛かりに油井が掘削されたのは1846年である。
1872年にロシアが石油産業の国家独占を廃止し、油井を売却すると、ロスチャイルド家など欧米諸国から石油資本が流入して急速に発展を遂げ、未だペルシア湾の油田が開発されていなかった20世紀初頭には、世界の石油生産の過半を占めた。
この時代のバクーは石油産業から近代的工業都市へと発展を遂げ、流入してきたアゼルバイジャン人やアルメニア人の政治・経済・文化活動の中心となった。

アルフレッド・ノーベルは、二人の兄と1878年に『ノーベル兄弟石油会社』を設立して油田開発、ナフサ精製、輸送などを受け持って巨万の富を築いた。
この活況は1920年にボリシェヴィキのバクー制圧まで続いた。 
 
1905 ポーツマス条約と小村寿太郎
1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議ポーツマス会議ポーツマス講和会議と呼ぶ。
1905

シャルル・ロベール・リシェ(Charles Robert Richet)はフランスの生理学者。
1913年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。アレルギー研究の父、心霊現象の研究でも知られ、1905年には心霊現象研究協会(SPR)の会長もつとめている。
1893年には話題になっていたイタリア人霊媒エウサビア・パラディーノを調査する過程で、ギリシア語のecto(外の)とplasm(物質)を組み合わせて「エクトプラズム」という新語をつくりだしたことでも知られている。
・晩年の感想-
私たちを包む宇宙のことを私たちは何も知らないと思わざるを得なくなった。私たちは一種の夢の中に住んでいて、その夢の動揺や激しい動きについてはまだ何も分かってはいないのである。」『近代スピリチュアリズムの歴史』心霊研究から超心理学へ 三浦清宏 P25

1905  特殊相対性理論
アルベルト・アインシュタイン
が発表
慣性系に対する電磁気学および力学の理論である。特殊相対論と呼ばれる事もある。
 
1906 地球の平均気温上昇問題が始まっていた。
http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0220a/start.html
1904~81 オンム・セティ
本名をドロシー・ルイーズ・イーディーというイギリス人白人女性。
オンム・セティとは、「セティの母」という意味である。彼女は一度結婚し、セティという名の一人息子がいた。その息子の名は、3千年前の恋人、セティ1世からとられたものである。
彼女は、3歳の時に自宅の階段で転げ落ちて意識を失うという事故に見舞われた。かけつけた医師は、両親にドロシーの死亡を告げたが、奇跡的に息を吹き返したという。
この事故を契機に、古代エジプトのヴィジョンを見るようになる。
やがて自分が三千年前に、エジプトのアビドスの神殿の巫女であったこと、そして時のファラオのセティ1世と道ならぬ恋に落ち、彼の子を身ごもってしまい、巫女の身でありながら妊娠したことを追及され、相手の名前を告げることなく自殺したという事実を知ることになる。
さらに、三千年前の恋人であったファラオのセティ1世の霊と交友、対話するといった前世体験を、その死の時まで持ち続けたのである。 また、古代エジプトの宗教を信じ、三千年前と同じように、神殿に香や供物を捧げ続けたのである。
その晩年は、収入も財産もほとんどなく、質素な服をまとって、掘っ立て小屋でネコやガチョウと同居しながら送った オンム・セティの表の顔は、エジプト考古局の職員であり、ヒエログリフを解し、高度なドローイング技術を持ち、セティ一世神殿のレリーフの理解度の深さにおいて、エジプト学者たちから一目置かれる存在であった、という。 とはいえ、その生涯は、傍目には、決して幸福といえるものではなかったようだ。
オンム・セティの生涯について
『転生』(新潮社)
『転生者オンム・セティと
古代エジプトの謎』(学研)
1910 福来友吉が念写発見
四国、丸亀にて長尾郁子念写事件
1910
(明治43) 
 韓国併合条約、日韓(大日本帝国・大韓帝国)併合  
1911  モーリス・メーテルリンクと『青い鳥』
最も大きな成功作は『青い鳥 (L'Oiseau bleu)』だった。
※2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語。
1911年にノーベル文学賞を受賞。作品の主題は「死と生命の意味」だった。 
 
1912~ ウッドロウ・ウィルソン
第28代アメリカ合衆国大統領

後に、「果たしてウィルソンか?」http://www.books.x0.com/bunko/b14/b14t01.shtml
 
 
1912.4.14

タイタニック号
1912年4月14日の深夜に氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没した。
犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人(他に1,490人、1,517人、1,522~23人など様々な説がある)であり、当時世界最悪の海難事故であった。
その後、映画化されるなどして世界的にその名を知られている。
事故の前に巨大船沈没の詩や小説が発表され、ウィリアム・T・ステッドはタイタニック号の乗客として事故死。短編小説『アドミラル号』が発表され、その細部があまりに一致していたため、事故後に書かれた小説だと勘違いされたほどだった。
予知的小説として、1898年に発表されたモーガン・ロバートソンの『タイタン号の遭難』が最も的中率が高いとされた。⇒モーガンは後にピストル自殺

タイタニック号のシンクロニティ」として数々の不思議な一致が起こっている。

1912
7/30~
 大正元年  
1914  ウィリアム・トーマス・ステッドと『邦題 ジュリアからの便り』
1914年、生前ステッドが受け取ったとしていた、ジュリアからの1895-1912年までの通信を After Death or Letters from Julia (邦題 死後-ジュリアからの便り)として娘のエステルが発表。
死後、ステッドは複数の交霊会に現れたとされており、さまざまな手段で通信を送ってきたことになっている。苦しんでいる霊を救済する仕事もしていたとされている。
1916年、精神科医ウィックランド博士の交霊会にもステッドが現れたとされており、タイタニック号事件で水死した人の霊を連れて来たとして、博士のカウンセリングを受けさせたことがある。
ジュリアの音信』
1912?~
10年~
1922年9月
エステル・ステッドが『ブルーアイランド』出版
スピリチュアリズムが明かす死後の世界 エステル・ステッド著
1912年4月15日、英国の豪華客船“タイタニック号”が、その処女航海において北大西洋上で氷山と激突、2000余名の乗客のうち1500余名の生命とともに海の藻屑と消えました。父・ウィリアム・ステッドからの
自動書記による霊界通信
☆ 父から通信が届けられるまでの経緯
☆ まえがき(霊界のウィリアム・ステッドから)
1 章  タイタニック号の沈没直後
2 章  ブルーアイランドに到着
3 章  ブルーアイランドの建造物
4 章  ブルーアイランドの生活
5 章  良心の声
6 章  初めての地上界との交信
7 章  思念の力
8 章  霊界から要求したい条件
9 章  自由と摂理
10 章  予知現象の原理
11 章  実相の世界
12 章  “無限”への旅の始まり
13 章  個人的存在の彼方へ
☆ おしまいに  
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/blue-island.html
『ブルーアイランド』 

1912~1995
83才没
スティリアノス・アテシュリス(ダスカロス=ギリシャ語で先生)
・元キプロス政府印刷局の労働者だった男性
・スピリチュアリズムに関わる人々の間では「ザ・ヒーラー(世界一のヒーラー)」
・「20世紀における最も偉大な霊性の教師」と呼ばれ、最大限の尊敬を集めている人物。
・彼は生涯を通じて無償で多くの人々を癒し、無条件の愛を示し続けたヒーラーであり、霊的な真理を教え続けた教師でした。
・ダスカロスは1912年、キプロスという島国に生まれ、95年に亡くなるまで首都ニコシアにほど近い、ストロヴォロスで生活
・自分の名前が知られないように努めていた彼は生前から、周囲の人々にただ「ダスカロス」 ( ギリシャ語で「先生」を意味する ) と呼ばれていました。
幼少期から目に見えないガイドと会話し、またごく自然に他人の考えていることがわかった。卓越した意見を述べて大人を驚かせることも多く、小学校ですでに先生たちの学問上の問題を助けることもあった。
すべての過去生を覚えていて現代ギリシャ語、古代ギリシャ語、トルコ語、ラテン語、ロシア語、英語、フランス語、イタリア語、サンスクリット語、アラム語、そして古代エジプトの象形文字など数多くの言語に通じ、イギリスに留学した際には、哲学博士と神学博士その他の学位も取得している。
・キリストであるジョシュア・イマヌエルが生きていた時代に最年少の弟子だったダスカロスには、生涯を通じてヨハナン (福音書の著者であるヨハネ) が霊的なガイドとして連れ添っていた。
・立つことすらできなかった小児マヒの子どもを歩かせたり、再起不能なまでに変形した背骨を再生するなど、奇跡のようなヒーリングを行なうこともできた。しかし、ヒーリングは聖霊によってなされるもので自分はそのチャンネルにすぎないと考えるダスカロスは、大勢の人を癒しながら決して謝礼や治療費を受け取ることがなかったといいます。
・彼の家はそんな噂を聞きつけた人であふれ、時には一日に80人以上の人々が癒しを求めてやって来ることもありましたが、ダスカロスはどんな時も拒むことなく人々を受け入れ、“神聖なる計画”の一部である本人のカルマが許す限り、その人は必ず癒されたそうです。
彼が行なう驚異的なヒーリングを目にして「奇跡だ!」と騒ぎ立てる人も少なくありませんでしたが、そんな時、決まってダスカロスは「奇跡でも何でもない。自然の法則を知っていれば、誰にでもできることなんだ」と語り、また人々が感謝しようとすると、いつもこう言って遮りました。
私ではなく、神に感謝してください」と。
・世界中から様々な人々が教えを求めて訪れました(多くの著名な霊的リーダーたちが欧米から彼のもとを訪れました)。しかし、こうした“教え”に関しても、ダスカロスは「自分は単にヨハナンや他のマスターたちのチャンネルに過ぎない」と強調していました。
・また口ぐせのように「真理の探究者にとって、名声とは罠なんだ」と語り誰にも自分のことを書かせず、インタビューも受けつけませんでした。こうして彼は細心の注意を払って脚光を浴びる危険性を避けながら、83年の生涯を他者への愛に捧げ、市井の人として生きたのです。
・そんなダスカロスが、取材の申し出に「(ヒーリングや教えについて)私の手柄にしないという条件を守るなら」と名前を伏せて書くことを許可した唯一の相手、それが過去生からの縁があったキリアコス・マルキデスでした。アメリカのメイン大学社会学教授であるマルキデスのルポルタージュ(邦題『メッセンジャー』太陽出版刊行)は85年に出版されると欧米でミリオンセラーになり、ダスカロスのもとを訪れる人はいっそう増えました。
・ダスカロスは第一級の覚者であり、真のヒーラー魂の医師でしたが、中でも人生の関心事は周りの人々の痛みを和らげることと、自己発見の旅に関心を持っていて、旅立つ準備のある人々の手助けをすることだったといいます。
・そのため、彼は定期的に「サークル」と呼ばれる勉強会を開き、“旅立つ準備のある人々”を対象に、自由な雰囲気の中で真理について、聖霊との共同作業であるヒーリングや精神修養の具体的な方法について、やはり無償で教えていたのです。
・このサークルは彼が亡くなった今も世界的に広がり、欧米を中心にたくさんのサークルが、ダスカロスの遺した著作や講義のテープやビデオを使っての自主学習を続けています(ヒーリング同様、天から受け取ったものは無償で与えるべき…、というダスカロスの教えに従って、これらのサークルも無償で運営されています)。
・また、生前から、教えを宗教にすること、サークルを組織化することは決して認めませんでした。それはダスカロスが「無批判に信仰する者より、理性的な無神論者のほうが神に近い」と考え、また組織化することによって、教えが欲望や権威主義といった人間のエゴイズムに利用されることを危惧したからでしょう。
・ダスカロスは矮小化された、特定の宗教的イメージがつきまとう「神」という言葉も極力避け、“絶対無限の存在”という表現を好んで使っていました。真理の探究には宗教や民族の違いはもちろんのこと、時間や場所さえも超越した愛と理性、そして“神聖なる計画を理解することが重要だと、彼は考えていたのです。
・ダスカロスはよく、自分の語る言葉であっても決して鵜呑みにしてはいけないと、生徒たちを戒めました。何であれ鵜呑みにせず疑問をもち、すべてを実際に体験して試し、自己修養によって得られた指針から主体的に判断しなくてはならないと教えたのは、他者を崇拝し盲目的に自らを委ねてしまいがちな人間の危うさを知っていたからだと思います。
・ダスカロスは人間の心にジャングルのように巣くうエゴイズムからの脱却という、厳しい課題の実践を生徒たちに求めました。多くの人々にアピールする意識の覚醒、ヒーリングや霊的能力の修得といった華やかな表の部分ではなく、奥深く地道な ― だからこそ確かな力となる ― 真の霊的教えの実践を説いた教師、それがダスカロスだったのです。
・ダスカロスは7歳のときにヨハナンから<7つの約束>を授けられ、その導きによって自分の学校の先生たちを相手にサークルを始めたといいます。
 <7つの約束>を読むと厳しい戒律のような印象を受ける人がいるかもしれませんが、これは戒律でも、破ることが許されない誓いでもありません。ダスカロスはサークルに入門する生徒たちを「真理の探究者」(Researchers of Truth)と呼んで、7歳のときに自分が授けられたものを、彼らと分かち合いました。それは、真理の探究者ならば心に刻むべき“約束”、それが<7つの約束>だと考えたからなのでしょう。

ダスカロスは7歳の時に、指導霊であるヨハネから7つの約束をさせられます。
彼はその約束を生涯守り抜いたそうです。
7つの約束とは
1、いつどこにいても、私もその一部である絶対無限の存在に、心をこめて奉仕します。
2、いつどこにいても、私には神聖なる計画に奉仕する準備ができています。
3、いつどこにいても、またどのような状況にあっても、私は「神聖な贈り物」である
思考と言葉を正しく使います。
4、最も賢明なる神聖なる法則が与えてくれる、あらゆる試練と苦難に対して、私は不平不満を言うことなく、忍耐を持って受け入れます。
5、私に対する人々の行動がどのようなものであっても、私は心と魂の奥底から、誠意を持って兄弟姉妹である隣人を愛し、彼らに奉仕します。
6、私のあらゆる
思考、願望、言葉、行動が神聖なる法則と完全に一致することを目的にして、毎日絶対無限の存在について瞑想し、熟考します。
7、私のあらゆる
思考、願望、言葉、行動が神聖なる法則と完全に調和したものであるかどうか毎晩、確認します。

7つの約束>の中でも、とりわけダスカロスが重要性を強調したのが、7つめの約束である「内省」です。一日の終わりに、自らの感情・思考・行動を顧みて、自分を裁くことも賞賛することもなく、第三者として客観的に点検する。不足があれば、より良い感情・思考・行動をシュミレーションしてみる。これを習慣化することによって、
感情と思考をコントロールしてエゴイズムを減らし、兄弟姉妹であるすべての人々を愛する」ようになること、
それこそ真理の探究者にとって最も大切な修養だと、ダスカロスは考えていたのです。

7番目のエクササイズ
日々の内省は毎晩、眠りにつく前の、潜在意識に入りやすいタイミングで行います。
ベッドに座ってもいいし、眠ってしまわなければ、横になっても構いません。
完全にリラックスして、まず、朝起きた時から順を追って、今日一日にあったことをすべて思い出します。
一つひとつの出会い、出来事をもう一度見つめなおしてください。
この時、自分自身や誰かを責めることなく、客観的な第三者の目で見つめることが大切です。
そして、慈悲と寛大な心を持って、自分自身に次のように質問します。

思ったり感じたりすべきでなかったことで、思ったり感じたりしてしまったことは何か?
思ったり感じたりすべきだったことで、思ったり感じたりしなかったことは何か?
言うべきでなかったことで、言ってしまったことは何か?
言うべきだったことで、言わなかったことは何か?
すべきではなかったことで、してしまったことは何か?
すべきだったことで、しなかったことは何か?


内省の目的は、自分自身や他の人々を責めることではなく
(ましてや賞賛することではなく)ただ公平な目で、自らの思考や行動を観察することにあります。
その上で、気付いた点から自らの言動を改めるように努力しましょう。
こうして内省を続けていくと、だんだんと自分自身を観察することに熟達していきます。
そしてやがて、道徳面においても、霊的、神秘的な人生の側面においても成長を加速していることにづくはずです。
ダスカロスの教えの多くは、かつてキリストが12人の弟子に与えたものと同じ、<エソテリック・ティーチング>(秘儀的な教え)と呼ばれる内容だといいます。
エソテリック・ティーチング>とは、
古代エジプトの時代から高位の僧だけに脈々と伝えられた秘儀・秘教です。なぜ、こうした教えが一般の人々に長く隠されてきたというと、霊的知識や能力について学び、修養を重ねることには、常に大きな責任と危険がつきまとうからだとダスカロスは語っていました。
どれほど霊的に成長しようと、人間には最後まで欲望、慢心といったエゴイズムの誘惑がつきまといます。そして知識や能力を持つほどに自他への影響力は高まり、間違って悪用した場合のダメージや“負債”はいっそう大きくなってしまうのです
自身も、修養を重ね、着実に意識の覚醒に向かいながら大きく階段を踏み外した人々を、実際にたくさん見てきたのだと思います。
そして、そんな彼らの姿に胸を痛めていたからこそ、「内省」の重要性を説き、<7つの約束>によって日々エゴイズムを減らしながら、急がず一歩ずつ確実に意識の階段を昇っていくように警笛を鳴らし続けたのでしょう。
 ……戦争の世紀と呼ばれた20世紀を超えてなお、今も地球では無慈悲な破壊や殺戮が続き、この世の地獄に泣き叫び、飢えや渇きに苦しむ兄弟姉妹は増える一方です。このように色濃く物質文明の闇が翳を落とす時代に、気づいた者から物質世界の“酔い”から覚め、周囲を照らし、兄弟姉妹を助ける愛の灯台となりなさい
と優しく囁き続ける人、それがダスカロスであり、彼は暖かな炎を静かに燃やして明るく輝いていた、ひときわ大きな愛の灯台だったのです。
『メッセンジャー』
1913~ ジョージ・ヴェール・オーエン牧師と『ベールの彼方の生活(全4巻)』
キリスト教の牧師であるジョージ・ヴェール・オーエンは
聖職者で「霊団」の指示による自動書記によってこの本を書いたことなど、モーゼスとよく似ている
最初は亡くなった母からメッセージが伝えられたが、そのうち母に代わって何人もの「霊」が通信してくるようになり、1913年にはオーエンの守護霊の「ザブディール」と名乗る人物がメッセージを送ってきた。高級霊たちの一大階層があり、自分は彼らの代表者としてオーエンに霊界の真実を伝えるのだという。
新聞王のノースクリフ卿が感銘を受け、日曜週刊紙『ウィークリー・ディスパッチ』に連載(
1920年)売り上げを急速に伸ばしたが、いっさい原稿料を受け取らなかった
この大反響を快く思わなかった英国国教会はこれを快く思わず圧力を加えた
。オーエンはついに、自らその職(イングランド北西部のウォーリントン近郊の町の副司祭)を辞した。その後スピリチュアリスト教会の牧師として生活するようになった。
この『ベールの彼方の生活』でモーゼスの『霊訓』と違う点は、
各層に分かれている霊界の構造とそれぞれの状況が詳しく色彩豊かに目の前に浮かぶように書かれていることだ。
それと共に宇宙創造の過程を視野に入れた想像力の広さや鉱物界、植物界、動物界、人間界などに関する知識の豊富さ等の点でスウェーデンボルグの記述が彷彿され、この巨人の霊的な影響下で書かれたのではないかという憶測を生んでいる。古典的な文章の美しさも第一級のものだ。

読者は
全宇宙が各界における高級霊団によって組織され運営されていること
至高の界からの霊的エネルギーによって各界が創造され、統一されていること
存在の原理である「」と「波動」が物質にどのように作用し、その進歩にどのように関わっているか、等を知ることができる。また、地獄や極楽の様相についても、実際にその場にいるかのように生き生きと書かれている。さらに霊界の上には光も届かぬほどの遥かな高みがあり、個々の霊の無限の進歩が続いていることを知るのである。
『ベールの彼方の生活(全4巻)』
1832.12.24~
~1914.10.17
高島嘉右衛門
~1914年(大正3年)10月16日)は横浜の実業家および易断家。
伊藤博文に指南。暗殺も予言
占いは売らない
易と横浜港第二次工事の資金調達のエピソード
明治18年、請われて皇典講究所で行った「神道実用論」と題する講演の中で、嘉右衛門はこう語っている。を「神と人をつなぐ電信機」と見、「占告神示説」(卦(け)を神のお告げとする説)の立場を貫き通した嘉右衛門の、生涯変わることのない信念だった。
明治21年7月21日の大雨の話 「日本神人伝」不二龍彦著 「学研」より
自らの死期を予言して位牌を作らせ、持っていた。観相学の大家桜井大路とのやりとりのエピソードが残っている。
高島嘉右衛門 「日本神人伝」不二龍彦著より
『高島易断』
「日本神人伝」不二龍彦著 「学研」
1914(大正3年) アルバート・シュレンク・ノティング『物質化の諸現象』を出版
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏心霊年表
1914  エヴァンジェリン・アダムズとホロスコープ
・1914年に運勢の占いを禁じていたニューヨーク州の法令違反で告訴されたが、裁判で占星術の正しさを証明し、撤回させたという逸話を持つ。『戦慄!!世界の大予言GAKKEN MOOK』
・当時開業していたニューヨークの町の「まじないを禁止する」と法律に違反するとして逮捕されたが、裁判所で裁判官にホロスコープを渡され、それを読み解くように言われたという。
・それを、何の予備知識もなしに、ホロスコープを読み解き(裁判官の息子の物で、見事にその性格と人物像について述べた)、これを契機に、占星学はでたらめではないという認識が成立し、裁判で見事勝利を勝ち取った。この実績により、アメリカでは、占星術をいかがわしい占いの類とは一線を画した科学的なものという見解がひろまった。
 
1914 宮沢賢治と法華経
1914年(大正3年)、盛岡中学卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。
退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける。
1914.7.28~1918.11.11

約30年後に
第二次
 世界大戦

第一次世界大戦( World War I)
1914~1918年にかけて戦われた世界規模の大戦争。
ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦した。
第二次世界大戦が勃発する以前は大戦争(The Great War)、諸国民の戦争(War of the Nations)、欧州大戦(War in Europe)とも呼ばれる。当初には諸戦争を終わらせる戦争(War to end wars)という表現もあった。

7000万以上の軍人(うちヨーロッパ人は6000万)が動員され、史上最大の戦争の一つとなった。
第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した史上死亡者数の最も多い戦争の一つであった。
戦争が長引いたことにより革命が勃発し、4つの帝国(ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国(トルコ)ロシア帝国)が崩壊した。
戦争は世界全ての経済大国を巻き込み、それらを
連合国ロシア帝国フランス第三共和政グレートブリテンおよびアイルランド連合王国三国協商に基づく)と
中央同盟国
(主にドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国)の両陣営に二分した。イタリア王国ドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を締結していたが、未回収のイタリアを巡ってオーストリアと対立したため、英仏とロンドン密約を結んで連合国側で参戦した。諸国が参戦するにつれて両陣営の同盟関係は拡大されていき、例えばイギリスと同盟を結んでいた大日本帝国は連合国側に、ドイツと同盟を結んでいたオスマン帝国は中央同盟国側について参戦した。
参戦国や戦争に巻き込まれた地域は、2018年時点の国家に当てはめると約50カ国に達する。
終戦後(戦間期)も参戦国の間に対立関係が残り、その結果わずか21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発した

1915 浅野和三郎と三男の病
3男が原因不明の病に⇒女行者に11.4日に完治するとのお告げ
妻の多慶子に霊能、昭和4年には二男新樹の死をきっかけに霊言現象がおきるようになった。⇒『新樹の通信』(約6年間に及ぶ)
英文学者を止めて大本教に入信。
1923.3発起人となって東京に「心霊科学研究会」設立
1925.7大本教脱退  『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P276~
『新樹の通信』
1915~16 

一般相対性理論
一般相対性原理と一般共変性原理および等価原理を理論的な柱とし、リーマン幾何学を数学的土台として構築された古典論的な重力場の理論であり、古典物理学の金字塔である。
測地線の方程式とアインシュタイン方程式(重力場の方程式)が帰結である。
時間と空間を結びつけるこの理論では、アイザック・ニュートンによって万有引力として説明された現象が、もはやニュートン力学的な意味での力ではなく、時空連続体の歪みとして説明される。

一般相対性理論では、次のことが予測される。
重力レンズ効果   膨張宇宙 ブラックホール 時間の遅れ など

 
1916 第一次世界大戦の影響と『レイモンド』ベストセラーに
スピリチュアリズムは一部の社会的に余裕のある人間や好事家や研究者の対象ではなくなり、生活上の必要事となっていた。
戦争で家族のメンバーを失った人々が戦死した肉親と交流したいと願い、霊能者の許を訪れるようになった。

その傾向に拍車をかけ象徴的な出来事となったのがオリヴァー・ロッジの『レイモンド、または生と死』の出版だった。
ロッジは英国を代表する物理学者だった。理論物理学の功績で「サー」の称号を授与され英国における心霊研究の重鎮だった。
『レイモンド』は戦死した陸軍少尉だった彼の息子のレイモンドとの霊媒を通じての対話を柱として書かれたものである。霊界におけるレイモンドの身元証明と霊界で彼が見聞したことを父に伝えるというもので、それを通じてロッジ自身が信ずる死後の世界の存在の具体的な証拠を示そうとするものである。通信を媒介したのはレナード夫人やパイパー夫人という当時最高と言われた霊媒たちだった。
…。霊界にあるシガーや…があまりにも具体的に書いてあるために、ロッジは世間から嘲笑され非難を受けた。親子の情がこういうものを書かせる免罪符となっていいものだろうか、と皮肉る科学者もいた。
ロッジはしかし、自分の心霊研究は長い経歴を持つものであり、以前は他人の経験を対象としたのだが、今回は自分自身の経験に代わっただけに過ぎない、自分の立場に変わりはない、と述べている。実際『レイモンド』によって、彼は霊魂説を受け入れる立場を今までになく明確にしたのである。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P202~
オリヴァー・ロッジ
『レイモンド、または生と死』
1917 バルフォア宣言とイスラエル建国
ロスチャイルド家は第一次世界大戦の際にユダヤ人国家の建国を約束させる(バルフォア宣言:後のイスラエル建国につながる)など、政治にも多大な影響力を持った。
1917.10~

(7年間)

1924 
ウラジーミル・イリイチ・レーニンのロシア統治
1870年4月22日 – 1924年1月21日)は、ロシア革命家政治家哲学者ロシア・ソビエト共和国およびソビエト連邦の初代指導者(人民委員会議議長)。「レーニン」は筆名(#筆名も参照)であり、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派の指導者として活動し、1917年十月革命を成功させた後、史上初の社会主義国家であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を樹立し、その行政府である人民委員会議の議長に就任した。1919年には第二インターナショナルに代わる共産主義政党の国際組織としてコミンテルンの創設を主導、その後1922年にはソビエト連邦の成立を指導し、1924年に死去するまで同連邦の首脳を務めた。マルクス主義者として政治、経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、その思想はレーニン主義として継承された。 
 
1917 ルシア他3人の幼女とファチマ(ポルトガルの中央部)の大予言
  コンノケンイチ-今野健一『月のUFOとファティマ第3の秘密』
  縄文人(なわふみひと)解説 
  2012年の黙示録
7/13以降毎月ポルトガルの一寒村、ファチマに住む3人の幼女の前に聖母マリアが6回にわたって出現し、最後の日には10万人の大観衆の前で大奇跡を現出させ、当時のヨーロッパ全土に一大センセーションを巻き起こした。
しかもその際に「人類の未来にかかわる3つのメッセージ」が託された。これが有名な「ファチマ予言」である。
・第一と第二のメッセージ(予言)は、25年後の1942年にバチカンから発表された。
第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発に関するもので、いずれも細部にいたることまであまりにもピタリと的中していた。
・第三の予言は、1960年まで公表してはいけないとメッセージされていたからである。
だが、予言は1960年になっても発表されなかった。
第三の予言を読んだ法王パウロ六世が、内容の重大さにショックを受けて卒倒し、「これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持っていく」といって、発表を差し止めてしまったからである。
その後も第三の予言は秘密文書として、バチカン宮殿の奥深く、今も厳重に秘匿されており、そのため「ファティマ第三の秘密」ともいわれている。
私たちは一体何のためにこの世に生まれてきたのか?
私達のこの生の目的は何なのか?
私達はなぜ今ここにいるのか?
私達の存在する理由は何なのか?

聖母はすぐにそれを教える。
私達は天主を知り、天主を愛し、天主に仕え、そうすることによって、天主と共なる永遠の福楽を得るために創造された。
私達は永遠の生命を得るために生まれてきた。
この地上の生活においてただ一つのことだけが本当に重要だ。
つまり、永遠の生命を勝ちうるか否か、ということだ。
私たちの主はこう言われた。
「たとえ全世界を儲けても、
魂を失ったら何の益になるだろうか?」と。
そして第三の予言とは。今はそれが明らかにされたが、その中に教皇の暗殺も含まれていた。
現教皇は1981年5月13日の暗殺未遂事件ががそれに当たると話しておられる。教皇様は聖母の御保護で、凶弾がわずかに急所を外れたと言っておられる。
『月のUFOと
ファティマ第3の秘密』
1917~  ロシア、革命後の宗教弾圧
ロシア革命
によって無神論を奉じるソヴィエト政権が成立すると、多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。後に世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。

聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され致命した。日本正教会の京都主教を務めていたことのあるペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされた上で銃殺されるという特異な致命を遂げたことで知られている。
1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑されたが、1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2千人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5千の司祭が銃殺もしくは投獄された。
1937年1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された。
 
 
1918~
1919~

2004
シオン賢者の議定書』(シオンけんじゃのぎていしょ、The Protocols of the Elders of Zion)の日本への影響 ← 前述は1800~1900年代
⇒シオニズム(ヘブライ語: ציונות‎, Zionism 英:ザイオニズム)とはは、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的運動。)
・1918年日本はシベリア出兵を行うが、日本兵と接触した白軍兵士には全員この本が配布されていた。
・シベリアから帰った久保田栄吉が1919年初めて日本にこの本を紹介した。
・後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げ、日本に帰ってくると友人の酒井勝軍にこの本を紹介し訳本を出版させた
・自らも1924年包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した。
・海軍の犬塚惟重も独自に訳本を出版している。
・安江と犬塚は満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。酒井勝軍も日ユ同祖論の本を出しているが、安江らの影響とも思われている。
・また、安江仙弘が全文を紹介する以前の1923年『マッソン結社の陰謀』および『シオン議定書』と題するパンフレットが全国中学校校長協会の名前で教育界に配布されている。さらに、戦争が激しくなると旧制の中高等学校で「ユダヤ問題」が盛んに論議されるようになった。戦前戦中は少年向け小説にもユダヤの陰謀をネタに使った物が多数あり、一般に広がっていた。
・1986年宇野正美が『ユダヤが解ると世界が見えてくる』という本を出版し一大ブームとなる。その後この本のオカルト的要素に惹かれた人たちが延々と類書の出版を続けた。
・近年でも、太田龍の補訳による『シオン長老の議定書』(2004年)が出版され、反ユダヤ主義者の根強さを語る。 
 
1918 ジェームズ・ヒスロップと臨死体験の研究
アメリカ心霊研究協会(ASPR)のジェームズ・ヒスロップが発表
1918 ギュスターブ・ジュレー-フランス
もともとは内科の医師だったが、若くして生命界を支配する“魂の力”とでもいうべき未知の原動力の存在を確信し、生物の発生や進化の現象は、すべてこの神秘的な力のなせるわざにほかならないと主張した(すでに31歳のときに、このテーマについて著書を発表している)。
ジュレーはやがて自説を裏づける心霊現象の研究に没頭するようになり、1910年代にエバ・Cによる物質化現象を目のあたりにすると、医者の道にキッパリ別れを告げて、心霊研究の道一筋にうちこむようになった。
そして1918年にパリで公の設立をみた「国際心霊科学研究所」の初代所長に迎えられてからは、深い学識に裏打ちされた思想性豊かな心霊研究家として、国際的にエネルギッシュな活動を続けたが、1924年に惜しくも飛行機事故で急逝した。
1918~19 スペインかぜ
全世界的に流行したインフルエンザのパンデミックである。
感染者6億人、死者4000~5000万人。
発生源は1918年3月米国のデトロイトやサウスカロライナ州付近。
その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。CDC によれば、既に1915年にインフルエンザと肺炎による死亡率が米国で増加しているが、発生源は依然不明としている。
新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。
米国発であるにもかかわらず
スペインかぜと呼ぶのは情報がスペイン発であったためである。当時は第一次世界大戦中で、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であり大戦とは無関係だった。
一説によると、この大流行により多くの死者が出たため、第一次世界大戦終結が早まったと言われている。
1918~1922  シベリア出兵
1918年から1922年までの間に、第一次世界大戦連合国イギリス日本フランスイタリアアメリカカナダ中華民国)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」を名目にシベリアに共同出兵した、
ロシア革命に対する干渉戦争の一つ共産主義の封じ込めという目的のほかに帝政時代の外債と、露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いもあった。
日本は8月12日のウラジオストク上陸以来、増兵を繰り返して協定兵力を大きく超える兵力7万3,000人を派兵。ハバロフスクや東シベリア一帯を占領したが、日本の反ボルシェヴィキ政権樹立工作は酷寒とパルチザンの抵抗にあって不成功に終った。
1919年秋には白軍のアレクサンドル・コルチャーク政権が崩壊したことで英仏による革命政権圧殺の計画は不可能に陥り、ヨーロッパ革命情勢への危惧もあって両国はシベリア撤兵を決定した。アメリカもチェコ軍団の引揚げ完了で出兵目的は達成されたとして1920年1月にシベリア撤退を決定した。
しかし日本の原敬内閣は、列国の撤兵後も出兵目的を居留民保護とロシア過激派が朝鮮満州に影響力を伸ばすことの防止に変更することで駐兵を継続しようとした。そのためアメリカなどから日本への不信感が高まり、日本国内でも批判が高まった結果、1922年10月に日本も撤兵となった。この出兵で日本は3500名の死傷者を出し、10億円に上る戦費を消費したうえ、日米関係の悪化を招き、日ソ国交回復の妨げにもなったとされる。
 
 
1919
1920.1.10 
国際連盟設立
平和維持のための国際機構という構想は古代ギリシア以来繰り返し提唱されてきた。さまざまな分野の国際協力は国際関係の緊密化とともに19世紀後半以来発展したが,戦争と平和という高度に政治的な問題には及ばなかった。大規模な常設の国際平和維持機構の必要は,第1次大戦の惨禍によって初めて痛感され,1918年1月
ウィルソン・アメリカ大統領の〈平和のための14ヵ条〉の中にとりあげられた。かつてのユートピア思想はようやくここに現実の課題となった。
戦後開かれた
パリ講和会議はウィルソンの主張を基礎に国際連盟憲章を作成し,これをベルサイユ条約その他の講和条約の一部とした。
連盟は従って法的には20年1月10日,ベルサイユ条約発効とともに成立した。戦勝国および招請された
中立国計42ヵ国が原加盟国となったが,最大の役割を期待されたアメリカが国内における孤立主義の台頭により不参加となり,連盟の力を少なからず弱めることとなった。
なお本部所在地は
ジュネーブ,初代事務総長はイギリスのドラモンド
 
近代史で習わない
人々
水野 広徳(ひろのり)
第一次世界大戦では2度にわたり欧米諸国を私費で視察。
戦時下である1度目の視察の後に1917年(大正6年)に東京朝日新聞に連載の紀行文『バタの臭』では、空襲を受ければ東京や大阪が灰になる可能性を早くも指摘。
戦後の2度目の際にはその惨状を目の当たりにし、一転して反戦思想家に転じ反戦・平和論を説いた。
1921年(大正10年)には東京日日新聞に文章を発表して謹慎処分を受け、この問題をきっかけに、慰留する海軍を自ら退役。
1941年(昭和16年)2月26日、遂に軍部の執筆禁止者リストに載る。
1945年(昭和20年)、腸閉塞を発症し、10月18日、遺書に「百年後の知己を待つ」と書き残し生涯を閉じた。
高群 逸枝と夫
民間での研究家。母系性、結婚の形態の研究、卑弥呼の時代の姫彦制の研究、母性我的世界観を提言
杉山 茂丸~泰道~龍丸 親子3代
1955年、インドのネール首相より協力を求められ、アジアの国民生活と生産技術を指導する為、国際文化福祉協会を興し、日本国内においてガンジー翁の弟子達の指導を行う。
インドの飢餓を救うため私財を投げ打って植林。グリーンファーザーの異名。
国際会議に出るも日本国と時の首相佐藤栄作の支援無し。友人に借金の末、大役を果たす。
1859~
1918~1930
コナン・ドイル(イギリス)-『人類へのスーパーメッセージ
1859年生まれ。
イギリスのエディンバラ大学医学部卒業。開業医となるが32歳で執筆活動に専念。『
シャーロック・ホームズ』のシリーズは世界的に有名。歴史小説、科学小説でも知られる。
20代のときから心霊学に関心を抱き、研究を続ける。
1918年以降は
心霊主義者として執筆、講演などに活躍。
晩年は
第一次世界大戦での息子の死もあってか、心霊学に傾倒し英国心霊現象研究協会会員となるが、科学的すぎるとして脱退。
交霊会心霊学の講演、それに関する執筆などを行ない、「心霊主義の聖パウロ」の異名を取った。
そして、コティングリー妖精事件において大失態を演じてしまった。
彼の行動は当然学者であるロッジとは大いに違っていた。「スピリチュアリズムのパウロ」と言われたほどに精力的に世界各地を行脚して回り、講演に、討論に、執筆に、
スピリチュアリズムこそは人類の福音であり、愛する者を失った人々の最大の慰めであることを説き続けた
1916年にはすでに「死者との交流を信じる」一文を書いているが、『新しい啓示』と『生命の言葉』を出版してはっきりとスピリチュアリズムのために闘うことを明言し、伝道の行脚を始めたのは1918年息子が死の床にあった年のことである。
これ(スピリチュアリズム)が心の底から受け容れられると世界の全思想に徹底的変化を与えて練りなおすことになるとに相違ないと知った瞬間から、私は、このことのために働くのはよいことだと思い、またこれと比べれば、私の過去の仕事は無にひとしい、と知った。『ホームズ物語』
あるスピリチュアリストの名誉がSPRの機関誌によって傷つけられたことに強く反論し、SPRとの36年間の縁を断ち切る手紙を病の床から書いて送り、世間を驚かせた。
1930年7.7没。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P205~
コナン・ドイル
『新しい啓示』
『生命の言葉』
1919 山田 治朗吉
明治から大正・昭和初期にかけて活動した剣術家
1919年、雑誌『新時代 第3巻第1号p. 154』において、関東大震災の到来を予言する。
1920~ モーリス・バーバネルとシルバーバーチ
シルバーバーチは1920年にイギリスにおいてイギリス人青年モーリス・バーバネル(1902-1981、当時18歳)を霊媒として語った霊とされているものの名である。英語でシラカンバの意味。
1924年、モーリス・バーバネルはイギリス人ジャーナリストハンネン・スワッファーと出会い、以後イギリスのロンドンにある彼の自宅で霊交会を行うようになる。この霊交会をハンネン・スワッファー・ホームサークルと名づけ、モーリス・バーバネルに憑依するシルバーバーチはこの霊交会において指導霊としての地位を築き、以後60年間に渡って近代心霊主義的教訓を説いた。
バーバネルは、1932年にスワッファーらの支援を受けて心霊主義専門新聞『サイキック・ニュース』を創刊し同紙の編集の中心となり、途中で編集権を手放した時期もあったものの、後にこれを回復し、終生同紙の編集に携わった
 
1847~1931
1920年代~
トーマス・エジソン と オカルト研究
エジソンはオカルト・超自然的なものに魅せられるという一面もあった。
ブラヴァツキー夫人やバート・リーズの降霊術を信じていて、ブラヴァツキー夫人の開く神智学会に出席した事もある。
来世を信じ、後半生は死者と交信する電信装置 (Spirit Phone) を研究。
エジソンは合理主義者を自負しており、1920年代を通じて常に自由思想家協会を支持していた。
エジソンは、人間の魂もエネルギーであり宇宙のエネルギーの一部であると考えていた。
エネルギーは不変なので、魂というエネルギーは人間の死後も存在し、このエネルギーの蓄積こそが記憶
なのだと考えていた。
エジソンの言によれば、自分の頭で発明をしたのではなく、自分自身は自然界のメッセージの受信機で、
宇宙という大きな存在からメッセージを受け取ってそれを記録する事で発明としていたに過ぎない」のだという。
「天才は1%のひらめきと99%の汗」の真意(真意は天才は1%の汗と99%のひらめきだった
1921.6.30

アルフレッド・ワトキンスとレイライン
・ワトキンスはイギリス中部のヘレフォードシャー州にあるブレッドウォーディンを訪れ、近くにある丘陵が連なる地へと車で出かけた。そのとき、丘の頂上をつなぐ小道同士が一直線につながっているように見えることに気付き、地図を確かめ、それらの場所が一直線に連なっていることを確認した。
・彼は後に息子にこの体験を「あらゆるものが瞬くように私の中へ入り込んだ」と語った。これを聞いた人の中には、彼の感じた「瞬き」というのはいわゆる神秘的な体験なのだろうと言ったものもいた。
・しかし、ワトキンスより以前の1870年9月にウィリアム・ヘンリー・ブラック(William Henry Black)がヘレフォードにあるイギリス考古学協会に「Boundaries and Landmarks(大地に引かれた境界と名所旧跡)」という説を主張していた。その中で、彼は「名所旧跡は、西ヨーロッパ全域に巨大な地理的な線を描くような位置に存在している」という仮説を立てた。ワトキンスが上記のように感じたのは、彼がこの仮説を読み、それを頭の片隅においていたからかもしれない。

「Boundaries and Landmarks
(大地に引かれた境界と名所旧跡)」
1921.10
(大正10年)

第一次大本弾圧事件による検挙
・その数年前から、大本は出口王仁三郎二代教主輔を中核として教勢を拡大させていた。
・1919年(大正8年)11月18日には亀山城(明智光秀の居城)を買収し、従前の綾部に並ぶ本拠地とする準備に入った。
・また1920年(大正9年)8月17日に大阪の有力新聞だった大正日日新聞を買収して言論活動にも進出する。
・一方で「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えた当時の有力信者・浅野和三郎や谷口雅春を中心とする一派が王仁三郎と対立、終末論を展開していた。社会体制の変革を主張し、天変地異の予言と称して一般市民(信者)を混乱させていることを批判する大手メディアも現れた。
・日本政府は陸・海軍の幹部軍人が多数入信したことで、大本に警戒感を抱いた。そもそも大本は国常立尊という天照大神より上位の神を重要視しており、現人神たる天皇の宗教的権威を脅かしかねなかったのである。内務省は一部の著作を発禁処分とし、京都府警も王仁三郎を呼び出して予言をしないよう警告した。原敬総理大臣は1920年10月9日と14日の日記で大本の布教方法と教勢について批判した。

 
1922 ~ 友清 歓真(ともきよ よしさね)と霊啓
新興宗教「神道天行居」の創設者。神道霊学の理論家としても知られる。
友清によると、1922年(大正11年)から宮地水位からの霊啓が始まったという。
また、獣医の義兄より高知県立図書館に水位の文庫がある事を知らされた。(友清はこれも水位の霊の導きとしている)
 
1922

臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)とレイキ(霊気)
・現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の創始者。
・生誕地は、岐阜県山県郡谷合村(現在の岐阜県山県市)。
・職業は、公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家秘書などさまざま。
・その体験から「人生の目的とは何か」という大命題の探求から、の道に入り、真の悟りともいえる安心立命(あんじんりゅうめい)の境地を目指し修行するも、どうしても悟りを得られず、悩みぬいた末にの師に相談したところ、「それなら一度死んでごらん」と答えられ、「自分の人生も、もはやこれまで」という覚悟を決め、1922年春(3月または4月と、文献によって記載が異なる)に京都の鞍馬山にこもって断食を始める。修行のための断食と言うよりは、死を覚悟してのものだったらしい。
・断食に入り3週間目の真夜中ごろ、脳の中心部あたりに落雷をうけたような激烈な衝撃を感じ、そのまま意識不明の状態に陥る。
数時間後、ふと気がつくと夜が明け始めた頃で、心身爽快な気分に満ちて目覚め、その衝撃のときに感じたエネルギーが心身を貫き、体内との共鳴、一体感を達成し、求めていた悟りの境地を完成したことを知る。

・悟りが得られたことに喜び勇んで山を降りる途中、石につまづき足の指の爪がはがれ、思わず手を当てたところ痛みが去り、血が止まり即座に治癒してしまったという。そして、山のふもとまで降りてくると、小さな食堂があり、主人が止めるのも聞かず腹いっぱい食べた。主人の孫娘が顔が腫れるほどのひどい虫歯で、頬に手を当てるとたちどころに痛みが引いた。さらに、家族にも試したところ即効的な効果があり、「広く世の中の人にこの力の恩恵を与えたい」との思いから、工夫研究の結果、この能力を他人に伝授し、心身改善に活用する方法を見出す。これが臼井霊気療法という手当て療法の始まりとされる。
・1922年4月に指導法や五戒
今日丈けは 怒るな 心配すな 感謝して 業をはけ(げ)め 人に親切に
朝夕合掌して心に念じ 口に唱へよ
を定めた上で臼井霊気療法学会を設立する。
・現在世界中に広まっているレイキは、臼井が養成した21または20人の師範(レイキを他人に伝授できる資格者)の一人林忠次郎がハワイ在住の日系人高田ハワヨに伝授したものが広まったもの。
・日本式と西洋式
・日本で主流になっている「レイキ(=西洋レイキ、Western Reiki」は、臼井甕男から林忠次郎へ(21もしくは20人のうちの一人)から師範の伝授を受けたハワイ在住日系人の高田ハワヨ(たかたはわよ)から海外に広まり、1980年代より日本に逆輸入されたものである。臼井から林が独自に発展させた霊氣が高田に伝わり、日本国外で高田及び高田の後継者等によってさらに改変された部分があるため、オリジナルの「靈氣(直傳靈氣、霊気)」と区別する。

1923

関東大震災(かんとうだいしんさい)
(大正12年)9月1日(土曜日)午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震
・千葉県・茨城県から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大の被害を与えた。

1923 ボッツァーノと臨死体験の研究
イタリアの医師ボッツァーノ(it:Ernesto Bozzano)が1923年に研究成果を発表
   
1923~
1937~
国際スピリチュアリスト連盟(ISFというの略称の国際組織で、二、三年に一度の割で不定期に開催)の総会開催
第一回は1923年にベルギー
第二回は1925年にパリで(名誉会長はコナン・ドイル)、
第三回は0928年にロンドンで、といったぐあいに開かれ、その後は2年に一度のペースで開催されている。
第三回総会には日本から
浅野和三郎福来友吉が出席して演説し注目を集めた。
浅野は海軍機関学校(現防衛大学校)教授。心霊体験をきっかけに大本に入信。教団内では有力な信者であり、論客として活躍するも、大正10年(1922年)の第一次大本事件による大弾圧の後、教団を離れ、大正12年(1923年)、「心霊科学研究会」を創設。
さらに、より実践的な機関として1930年1月「東京心霊科学協会」を設立した。
伴に大本を離れた人物として生長の家創始者谷口雅春氏が居る。
1937年、スコットランドのグラスゴーにて、
シルバー・バーチは特別に催された交霊会で各国の代表に次のようなメッセージを送った。
十七章  スピリチュアリズムの第一線で働く
         人々への励ましのメッセージ


スピリチュアリズムが地上に展開を始めてからしばらくの間(1930年頃まで)は、物理的心霊現象が頻出していました。まさに奇跡の連続と言ってもいいような状況でした。
そしてその不思議な現象を、当時の一流の科学者達が調査実験に乗り出しました。ほとんどの科学者は初めは心霊現象に懐疑的でしたが、研究を進める中で生々しい現象を突きつけられ、例外なく霊の存在を認めるようになっていきました。

より内面的な現象へ、より精神的・霊的要素の多い現象へと変化していきます。それがスピリチュアル・ヒーリング(心霊治療」だったのです。
1930年頃より、スピリチュアリズムの中からスピリチュアル・ヒーリングが起こされるようになりました。そしてその後、スピリチュアル・ヒーリングはスピリチュアリズムの中心的な
心霊現象に発展して現在に至っています。
スピリチュアル・ヒーリング(心霊治療)の目的は、いまだに霊の存在を知らない人々にそれを教え、人間は死後も“霊”として生き続けることを示すことです。霊が霊界から地上人に働きかけることができる事実を伝え、地球人類の「霊的覚醒」を促すことにあります。これがスピリチュアル・ヒーリングの目的です。
スピリチュアル・ヒーリングは“病気治療”という医学的手段を用いて「
霊的覚醒と霊的救い」をもたらそうとするものであり、病気を治すことが本来の目的ではありません。これが一般の治療(ヒーリング)と心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)の根本的な違いです。
スピリチュアリズムの初期には、物理的心霊現象という華々しい現象が演出されましたが、スピリチュアル・ヒーリングの世界でも、霊性が未熟な地域では派手な心霊治療が演出されます。それがフィリピンやブラジルなどで見られる“心霊手術”です。こうした人目を惹くようなスピリチュアル・ヒーリングは、いつまでも存在する必要はありません。
やがて
手当てや軽い接触といった一般的なヒーリング形式に変化していくようになります。
1925
大正14年
 
 大正14年Y.Y.メモリアルデー   
 1925? 「あの世」から帰ってきた英国の新聞王・ノースクリフと『ノースクリフの帰還』とハネン・スワッファー
世界的に有名な日刊紙Daily Mailを創刊し、八十種類を超える雑誌を出版したノースクリフ卿は、本名をウィリアム・ハームズワースといい、1865年にアイルランドで生まれ、1922年に57歳でロンドンで没した。
 その一番弟子のような存在だったスワッファーは、後に評論家として「フリート街の法王」の異名を取る程の存在となった。
米国の「ウォール街」が金融の中心地であるように、フリート街は新聞社が軒を連ねるジャーナリズムの中心地で、そこの法王と呼ばれるということは「泣く子も黙るご意見番」といった意味が込められていた。
 本書はこの二人の子弟関係を扱ったものであるが、実はそれは地上時代のことではなく、死後三年も経たないうちにデニス・ブラッドレー・ホームサークルに出現して、愛称の「スワッフ」の呼び名で語りかけた。死後の存続など全く信じていなかったスワッファーは、何度も出席してノースクリフと名乗る[霊]と対話を重ねて行くうちに、否定しようにも否定出来ない完璧な証拠を見せ付けられて、ついに人間個性の死後存続を信じるようになった。その経過を綴ったのが本書である。
http://jisatsudame.com/archives/7705869.html
『ノースクリフの帰還』
 
1926 ウィリアム・フレッチャー・バレットと臨死体験
イギリスの物理学者のウィリアム・フレッチャー・バレットが研究成果を発表
1926 コナン・ドイル、『スピリチュアリズムの歴史』出版
念写の写真術も記述
『スピリチュアリズムの歴史』
1857~1926 エミール・クーエと潜在意識と自己暗示
フランス人、サジェッション(自己暗示法)の創始者、暗示で奇跡的治療を行なう
暗示は、潜在意識へインプットするためのプログラムであり、この鍵である暗示を適切に潜在意識へインプットできれば、潜在意識はそのプログラムにしたがって、全力をあげて動き出す
① ある考えが精神を独占してしまった場合、その考えは実際に、肉体的もしくは精神状態となって現われる。
② ある考えを意志の力でおさえようと努力すれば、その考えをますます強めてしまうだけである。
1926
12/25~ 
昭和元年(12月25~12月31日まで)  
1927 ウィリアム・マクドゥーガルとJ.B.ライン
ライン革命と超心理学。スタンフォード大学での研究
霊媒を頼るのではなく、学生などの普通の人間を使って研究
⇒「心霊研究のアマチュア化」、霊能は万人のもの
心霊セミナー、心霊治療 『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P?
1927~
(4年間) 
1931
クルド人とアララト共和国
首長やイスラム聖職者に率いられたクルド人が立ち上がり、1927年にトルコ南東部で独立を宣言したのがアララト共和国だった。独立運動にはイランのクルド人たちも加わったが、ローザンヌ条約でトルコの領土が確定したばかりだったので、アララト共和国を承認する国はなく、31年までにトルコ軍によって制圧された。
その後、トルコではクルド人に対して徹底した同化政策が進められ、
政府は「クルド人という民族は存在せず、山岳トルコ人なら存在する」という立場を採った。
1980年代に入ってクルド労働者党(PKK)による独立運動が盛んになると、トルコは再び武力鎮圧を強化する一方で、トルコ国会でクルド語を使った議員を懲役刑にするなどの
弾圧を強めた。 
 
1927~ ロバート・ハロルド・シュラー
アメリカの牧師。ニューソート(米国の新しい宗教運動家)の第一人者。
では、実際に取りかかることが出来る好機や可能性とはどんなもので、どこに潜んでいるのだろうか?
たとえば、明日にでも、もっと情け深くなれるではないか。
また、明日からさっそく、人を裁いたり、批判したりする悪癖を抑えることが出来るではないか。そして、そのような姿勢こそが、心の平安と愛とを、ますます豊かに与えてくれるのである。
困っているときこそ人を助けよ
。なぜなら、他人のために尽くすことによって、初めて自分の運勢も好転できるのである。
人生(宇宙)には、このような見えざる真理が厳存しているのである。
1927~
1930年代 
 W・T・パリッシュ、妻の病気治療をきっかけとして、1927年から心霊治療を開始
①.心霊治療の理解の前提
普及手段としての心霊治療
スピリチュアリズムの勃興期においては、物理的心霊現象は霊魂説を証明するための手段として用いられてきた。
1927年(注)以降は心霊治療(スピリット・ヒーリング)にその座を明け渡した。
心霊治療は回復不能であると診断された病が完治したという“事実そのもの”によって、霊魂説を証明しようとするもの。

このような心霊治療は霊界側の戦略に沿って登場したものであるが、これは従来からあった“心霊治療”を、スピリチュアリズム普及の手段として霊界側が活用したもの
現在では世界各地で宗教やスピリチュアリズム普及の手段として、心霊治療が行われている
心霊治療(スピリット・ヒーリング)のポイントである霊界の霊医の存在や、身体の二重構造を前提とした心霊治療のメカニズム(治癒する仕組み)などについては、ある程度の霊的知識―
死後も人間は霊として生き続ける」「霊的世界は存在する」「霊的世界とこの世とは交流がある」―
が前提になければ理解することはできない。
この霊魂説の理解が前提にあって、始めて患者は病の苦しみを通して
この世をどのように生きたら霊性向上が図れるか”、というスピリチュアリズム本来の目的にたどり着くことができる。

このような理由から、霊界の戦略転換の時期が1927年または1920年代~1930年代であったということになる。
東京シルバーバーチ読書会より
・霊界の戦略転換の時期は「生き方としてのスピリチュアリズム(霊的摂理に則った生き方)」を説いたシルバーバーチの出現時期とも連動している(1920年に出現し1935年頃に霊媒現象が軌道に乗った:4168、語る237参照)。
パリッシュが
始めた心霊治療は彼の死後(1946年)、「病気治療の使徒」と呼ばれたハリー・エドワーズによって引き継がれて1940年代後半以降、世界各地へ広まった。
 
1928.11.17 マージェリ・クランドンとジョージ・ヴァリアンタインと浅野和三郎
浅野は日本の心霊研究の基礎を作った。
マージェリはハーバード大学医学校の外科教授の妻でボストン在住。夫がアイルランドの心霊研究家クロフォードの著作を読み、興味を持ち、自宅で降霊会のまねごとをし、霊能が開発されるに至った。
浅野は11.17の夜、当時有名だったもう一人の霊媒ヴァリアンタインと他の実験の証言者と共にクランドン家に招待された。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P160~
1928~

アンドリュー・カーネギーとナポレオン・ヒル
・1908年、新聞記者として世界の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーにインタビューをした事をきっかけに、「20年間無償で500名以上の成功者の研究をして、成功哲学を体系化してくれないか」と頼まれる。
・彼は「やらせてください」と即答。
それから20年間苦悩の末、約束通り、
1928年に『頭を使って豊かになれ(思考は現実化する)』(Think and Grow Rich)を執筆。
・ウッドロウ・ウィルソン大統領の補佐官、フランクリン・ルーズベルト大統領の顧問官を務めた。
1937年『頭を使って豊かになれ(思考は現実化する)』(Think and Grow Rich)を発行。
1970年に87歳で死去。

ナポレオン・ヒル
『Law of Success』(16セッション)をまとめる
『成功哲学』
『心構えが奇蹟を生む』
 『思考は現実化する』
1928 ウィリアム・ホープと福来友吉
9.19日と29日の2回心霊写真をとってもらうために訪れた。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P181~
1929  アメリカのウォール街での株価大暴落をきっかけに「世界恐慌」始まる   
1893~
1930~1985
谷口雅春と生長の家
1929年12月13日深夜、瞑想中に「今起て!」と神から啓示を受けたということを機に仕事の傍ら神から受けたとする啓示等をまとめて
1930年3月1日に自費で修身書として雑誌『生長の家』1000部を創刊した(生長の家ではこの日を以て「立教記念日」としている)。
人間・神の子」「実相一元・善一元の世界」「万教帰一」の主張を雑誌で発表し、多くの購読者・賛同者を取得していく。
1931 アーサー・フィンドレーと「直接談話」のしくみ
・実業家で経済や財務、心霊問題について数多くの著作を残した。
・自分の館を寄贈してスピリチュアリストの活動拠点「アーサー・フィンドレー・カレッジ」を作った。
・ジョン・C・スローン(支配霊はホワイトフェザー)という直接談話に優れた霊媒による降霊会での詳細な報告
亡くなった自分の父との関係を明かされ、彼の霊能を信ずるようになった。
クロフォードが説くように、すべての物理的心霊現象はエクトプラズムによるものだという。
叩音、テーブルの浮上、霊の物質化などみなそうだが、「ダイレクト・ヴォイス(直接談話)」にもこの物質が大きく関わっているという。
エクトプラズムは霊媒や降霊会のメンバーの人体から出るだけでなく、霊界(フィンドレーの言う「エーテル界」)からも供給されるという。その成分については地上の言語で説明することが出来ないと言う。
エクトプラズムが直接霊人と霊媒の発声器官とを繋いでいる場合で、霊人が話すとその振動がエクトプラズムを伝わって霊媒の器官を動かし、声となって出る。(「異言」)
②「エーテル界の化学者」が霊媒や参加者、エーテル界から集めて作ったエクトプラズムを使って、まず手を造り、次にその手によって口や舌などを持つマスクを造る。それから「直接談話」をしようと思う「エーテル界の住人」がそのマスクに顔を突っ込み、口や舌や喉が自分に合うように調整してから話し始める。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P174~
『エーテル界の縁で』
アーサー・フィンドレー
年に10回以上も増刷され続け、20カ国以上に翻訳された大ベスト・ロングセラー
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P174 
1931 福来友吉、『透視と念写』をロンドンで出版
三田光一(福来が出会った日本最高の霊媒)と念写の実験-弘法大師と月の裏側の写真⇒1985年のNASA撮影の月の写真へ
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P240、P268
1931.5~ ハロルド・J・レイリー
博士は、アメリカのマッサージセラピー分野では開拓者的存在だった。彼は、ロックフェラーセンターのレイリー健康研究所の創設者で、カイロプラクターであり、物理療法士、自然療法の先駆者として世界的に知られていた。彼の顧客には、世界的な富豪や有名人(グラディス・ディビス・ターナー、ジャネット・トーマス、ジェームス・C・ウィンドサー他)がいた。
ケイシーのリーディングにより、さまざまな患者が、1931年の5月から彼の元に送られてくるようになり、彼はそうした患者をリーディング通りに治療した。
しばらくやっているうちに、私は治療者がなすべきことは、肉体自体が自らを治し始めるようにしてやるだけだということに気づいた。ひとたび血液やリンパや神経伝導のインパルスが組織に流れるようになると、肉体はその防衛線が打ち破られた箇所すべてで反撃を始めるのだ」
これが有史以前からの歴史を誇る東洋医学(漢方)ヨーガの思想と一致していることはまことに興味深い。
循環作用、排泄作用、同化作用、食事法
ケイシー自身は毎朝、垂直の姿勢から立ったり座ったりを繰り返し、その後、ストレッチングに似た床運動を行なっていた。
(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P132~)
実際にケイシ-と会ったのは、治療開始から2年後ことだった。
彼は、9000以上のケイシーメディカルリーディングを45年以上にも渡り、研究し、活用した。そして、ケイシーリーディングからのマッサージを「新しいヒーリングアート」と定義し、ケイシー・レイリーマッサージスクール(アメリカ・バージニア州)の開設に力をつくした。
レイリー博士の治療は、湿布やサウナ、入浴療法などの水治療法も含む。
エドガー・ケイシーの超能力健康法
1930年代の初め頃~1979年
女史が他界するまで
約50年間
グレース・クック女史とホワイトイーグルの霊示
・この霊示は、女史をチャネラー(霊媒)として約50年にわたって通信されたもの
・女史の口を通じて伝えられるイーグル霊の霊示は完璧に近いと考えられます。
・なぜかというと、2人は太古から二度にわたり、親子として次に師弟関係として再生するという深い霊縁を作ったのです。
・イーグル霊は太古に既にイニシエーション(魂が一段一段と目を覚まして進歩の階段を上ること)を通過している覚者です。クック女史は一つ前の前世で、イニシエーションを通過し、地上に再生する必要のない者になりました。
しかし、死の時、イーグル霊は女史の魂をはるか上方に連れて行き、地球の様子を見せました。女史はそこに渦巻く地上の混迷と苦しみの様を見て、もう一度地上転生を決意しました。これがグレース・クック女史で、この霊格の高さがホワイト・イーグルの高い霊示を伝えやすいものとしています。
・その霊示の本質は、「人は神の子である」ということ。それをイーグルは「キリスト神霊の子」と表現します。キリスト神霊とは霊太陽(宇宙を維持して生かしている根源の光)のことで、その分霊を受けているのが人間だというのです。
この「神の子」がスピリットで、それは心臓(ハート)チャクラに鎮座すると明言しています。これが「内在の神」です。
光への道
ホワイト・イーグルの霊示
桑原啓善・訳  でくのぼう出版  1994年刊

光への道――ホワイト・イーグルの霊示
1931 昭和六年以降、漸次霊界は昼になりつつあるので、天国を造る事は容易になったのである。(『天国の礎』より)  『天国の礎』P4より 
1931ごろ

長井 津(わたる)と真向法
・明治21年(1889年)10月福井県の越前岬に近い勝鬘寺と言う浄土真宗の寺に、9人兄弟の3男として生まれる。中学を中退して商売で身を立てようと単身上京し、大成建設の前身である大倉組に入社し、大倉財閥の大倉喜八郎に師事。
・30歳で呉支店長に出世して財を築くが、34歳の時に妻に先立たれる。
・多忙とストレスの続く生活の中、42歳の時に脳溢血に倒れ、左半身不随の身となる。
・医師からは不治と診断されて悶々と日々を送る中、精神の安定を求め、実家の勝鬘寺の経典の中から勝鬘経を紐解く。その中の「勝鬘及一家眷属頭面接足礼(勝鬘婦人と一族・従者達は、頭を仏の足に接して礼拝し、清浄な心を以て仏の真実の功徳を嘆称したてまつった)」と言う一節が目に留まった。この「頭面接足礼」とは五体投地礼の一種であり、両手を伸ばして相手の足を取り、腰を曲げて相手の足に自分の額を押し頂いて拝む最上の礼拝である。
・しかし、実際に行ってみると長井は全くこれを行うことが出来なかった。礼拝とは、釈迦の教えをありのままに拝聴する身構えが出来ていると言う意志表示であり、頭面接足礼が出来無ければ、素直に教えを聞く準備が出来ていないのだと考えた長井は、この礼拝の練習を毎日行う。
・これは後に真向法の第一体操と呼ばれるものになるが、この練習を3年の間行い、更に第二体操を編み出して練習に加えて繰り返している内に、次第に体が柔軟になり、不自由だった体が元の通り動いて、以前にも増して健康になっていった。
・この二つの体操に驚嘆すべき自然治癒力のあることを確信した長井は、これを世に広めようと努力するようになる。当初は「念仏体操」と称していたが、「礼拝体操」、「日本国民体操」、「昭和体操」、「中和柔和法」と名前を変えて行った。体操が二種類から四種類になるのは昭和18年頃から。
・昭和21年の正月に、長井津は二首和歌を詠み、その内の一首が
真澄空 唯一つなる み光を 仰ぎ拝(おろが)む 今日のたのしさ」と言う和歌であった。
・これを1月12日に「真澄空 唯一つなる み光を 真向仰げ 四方の国人」と改作し、ここから取って最終的に体操法を「真向法」(4種の体操)と名付けた。

1932~33  ホロドモール
(スターリンの政策が引き起こした人為的な大飢饉)は、何百万人ものウクライナ人が命を落とした。飢餓テロ飢餓ジェノサイドスターリン飢饉などとも呼ばれる。
同じころ、カザフスタンでも100万人が飢餓で命を落としているWikipedia
スターリン 
1932 ジェラルディン・カミンズ女史と『永遠への道』
フレディック・ウィリアム・ヘンリー・マイヤースが通信霊となって、自動書記霊媒として有名なカミンズという女性の4番目の作品としてこの年に発表された。
マイヤーズはまだ知己も地上に残っているいわば新参者からのメッセージだが、
7層に及ぶ霊界の構造各界の仕組みを説く構想力の壮大さと重厚な文章による説得力は『ヴェールの彼方の生活』に劣るものではない。
オリバー・ロッジは序文を寄せ、死後30年間(マイヤースがはっきりした通信を送れるようになるには、他の死後存続を確信していた者たちと比べると、時間がかかり、死後30年以上たってからのものだった。)にこれだけの理解に達した親友のなおも止まらぬ情熱と研鑽を讃えている。
生前彼が展開した「サマーランド」や「類魂」「複数潜在意識」説を思わせるものが記述されている。
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P197~
マイヤースからの死後通信
1932 The Road to Immortarity (邦題:永遠の大道/ジェラルディン・カミンズ著、近藤千雄訳、心の道場刊)
1935 Beyond Human Personality
(邦題:個人的存在の彼方/ジェラルディン・カミンズ著、E.B.ギブス編/近藤千雄訳、心の道場刊)
  ワード博士(フランス)と『霊界探検記』(※オリヴァー・ロッジ卿の『死後の生存』とともに『天国の礎』で紹介されている)

この本が出版され、心霊研究はいよいよ盛んになったという事である。
ワード博士に到っては霊界探究がすこぶる徹底的で、同博士は一週に一回一時間位、椅子に座したまま無我の境地に入り、霊界へ赴くのである。
その際博士の伯父の霊が博士の霊を引連れ霊界のあらゆる方面に対し、つぶさに霊界の実相を指示教導されて出来た記録であるが、その際友人知己の霊も種々の指導的役割をなし、博士の霊界知識を豊富にしたという事である。
これはなかなか興味もあり、霊界生活を知る上において大いに参考になるから、読者は一度読まれん事を望むのである。

もちろん西洋の霊界は日本とは余程相違のある点はやむを得ないが、私は最後において、日本及び泰西(たいせい・西の果て・西洋)における霊界事象を種々の実例をもって解説するつもりである。
十数年前、英国よりの通信によれば同国においては数百の心霊研究会が生まれて盛んに活動しつつある事や、心霊大学まで創設されたという事を聞及んでいたが、その後大戦のためいかようになったか、今日の実状を知りたいと思っている。さて霊界の種々相について漸次説いてみよう。」 (『霊界叢談』 http://www.geocities.jp/shumeic5/RS1.htmlより)
 (『霊界叢談』http://www.geocities.jp/shumeic5/RS1.htmlより)
1930年代 チャールズ・シェリントン卿とノーベル医学生理学賞
・人間は「心」と「脳」という二通りの基本要素で構成されているという可能性を認める考え方を正当だと考えた。
ワイルダー・ペンフィールドと脳の構造と機能、臨床神経外科的研究
・「コンピュータ的機構」と名づけられた部分は頭頂葉に位置し、脳の運動感覚機能を司っているのに対して、「心的機構」と名づけられた部分は、脳の解釈的能力を担っている。国際臨死体験研究学会設立(アメリカ)
1932.1.8  桜田門事件(最後の大逆事件)
昭和7年(1932年1月8日に起きた昭和天皇暗殺を狙った襲撃事件で、四事件ある大逆事件の一つ(最後)である。犯人は大韓民国臨時政府の抗日武装組織「韓人愛国団」に所属していた李奉昌で、天皇に危害を加えようとしたなどで大逆罪に問われ、死刑となった。李奉昌大逆事件とも。
 
 
1933 ディール・カーネギー
人を動かす原則1  批判も避難もしない。苦情も言わない。
人を動かす原則2  率直で誠実な評価を与える。

人に好かれる6原則

1.誠実な関心を寄せる
2.笑顔で接する
3.名前は当人にとって、最も快い、最も大切な響きを持つことばであることを忘れない
4.聞き手にまわる
5.相手の関心を見抜いて話題にする。
6.重要感を与えるー誠意を込めて。

人を説得する原則10 人の美しい心情に呼びかける
人を変える9原則
1934  湯川秀樹と仏教??

昭和9年に湯川博士が発表したのが、後のノーベル賞につながる「中間子論


この理論で湯川博士は、陽子と中性子を強い力で結びつけている「中間子」という新たな粒子が存在するはずだと予測した。湯川博士が27歳で人生で初めて書いた論文だった。

論文はまず国内で発表され、その翌年には日本数学物理学会の欧文誌にも掲載されたが、当初、国際的には全く注目されなかった。

しかし、その後、実験で「中間子」の存在が確かめられて状況は一変し、湯川博士はノーベル物理学賞を受賞した。 
 
1934 ジョセフ・バンクス・ラインとライン革命と超感覚的知覚と超心理学
「ESPカード」を使って実験
『近代スピリチュアリズムの歴史』三浦清宏P229~
1934・5年ごろ K・スチュアートとマラヤの夢理論(1951)
・スチュアート(1902-65)は1924-40年の間世界放浪
・その間1934、5年頃マラヤ(現マレーシア)に滞在し、そこの山地民セノイ族の夢の技法の調査をしたとされる。その調査に基づくというこの論文の趣旨は、セノイ族が平和な争いのない部族で、それは彼らが夢を共有するテクニックを有しているからだ、という所にある。
・この論文は、1969年にタートの『意識の変容した状態』という話題となった論集に掲載されたことをはじめ、1970年代以降もしばしばニューエイジャーから称賛を以て言及されている(ローザック、環境音楽のJ・ハッセル etc.)。
これに対して配布資料のドムホフは、彼の調査報告をでっちあげだと論じ、1960年代の米国の社会情勢によってこの論が注目されただけだと位置付けた。
明晰夢―夢見の技法 スティーヴン ラバージ
1935.12
(昭和10年)
第二次大本弾圧事件
12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。
王仁三郎は巡教先で検挙された。罪名は不敬罪並びに治安維持法違反。
取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、987名が検挙され、318名が検事局送致、61名が起訴された。特別高等警察の激しい拷問で起訴61名中16人が死亡している。王仁三郎の後継者と目された娘婿・出口日出麿は拷問により発狂し、王仁三郎は「日出麿は竹刀で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな」と辛い心境を詠っている。こうした厳しい取調べにも関わらず転向者は少なく、王仁三郎・澄夫妻のカリスマと人間性が信者達の抵抗を支えたと見られる。
 
 

ユダヤ人の迫害
・歴史の中で他教徒から非常に多くの迫害を受けているが、現代に至るまでユダヤ人は滅ぶことはなかった。迫害は、当時のキリスト教社会が信仰の自由を許さなかったこと、キリスト教の一部の神学者がイエス・キリストを殺害したのがユダヤ人としたこと、ユダヤ人はキリスト教社会やイスラム教社会で疎まれていた金貸しや錬金術師が多く、トラブルが多かったことが原因ではないかと考えられている。・18世紀頃から宗教的迫害が薄れていったことで、ユダヤ人は自由な信仰、活動が可能になり、今では多くの大企業の設立者や科学者にユダヤ人が存在する。
・ユダヤ人はタルムード(「口伝律法」を収めた文書群)に従って行動すると思われているが、それはラビ的ユダヤ教徒の場合に限られる。ただし、一般的なユダヤ人の宗教はラビ的ユダヤ教である。ユダヤ人は何よりも学問を重視すると云われる。
・紀元70年にローマ軍によりイスラエルが一度滅びたときもラビ・ヨハナンが10人が入れる学校を残すことを交渉し、ローマ皇帝ティトゥスがこれを許したため、ユダヤ人は絶滅を免れた。
・今では最も知的な民族集団の一つと考えられており、一例としてノーベル賞の22%、フィールズ賞の30%、チェスの世界チャンピオンの54%がユダヤ人であるともいわれる 

 
 1935~ ナチスのロマ(ジプシー)絶滅政策
・ドイツにおいてはナチスが政権獲得後の1935年に、ロマを「劣等民族」と見なす法律が施行された。・ロマの選挙権は剥奪され、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学の禁止、ドイツ国内での移動禁止などが主な内容である。
・その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマには優生学的な観点から、強制的断種手術が行われた。
・ナチスは、ロマがアーリア系であることは知っていた。アーリア主義を掲げるナチスがロマ撲滅を図ったのは、ロマがドイツ人と相いれない生活習慣を持つため、アーリア系の面汚しであり、劣った異民族の血が混じっているに違いなく、放置すればドイツ人の血が汚されると考えたためである。
・第二次世界大戦によりドイツの占領地域が広がると、ナチスは再び多数のロマを抱えこむことになった。ナチスが「最終解決策」と呼んだ政策で、ロマはユダヤ人のホロコーストと同様に虐殺の対象とされた。これはポライモスと呼ばれている。正確な数は不明であるが、戦争中に約50万人のロマが殺害されたとされる。強制収容所への移送を待たずに現地で殺害されたものも多かった。ナチス親衛隊特別行動部隊「アインザッツグルッペン」が東欧の占領地域に派遣され、ユダヤ人、共産党員、ソ連軍捕虜とともに、多数のロマが殺害された。ナチスの被害にともなう戦後補償について、現在もロマはユダヤ人より不利な扱いを受けている。
・第二次大戦までの多くの国では、ロマは固定した店舗で開業することは禁止されていた。
・第二次世界大戦のナチス迫害によって、ロマの人口は減少した。社会主義体制となった東欧とソ連圏では、ロマの労働者化を進めるために移動禁止令が制定された(ソ連1956年~ポーランド1964年)。
・スイスでは、1926年から1972年まで政府の支援を受けた民間団体「青少年のために」が1000人以上の子供のロマを親元から誘拐し、施設に収容したり、スイス人の家庭へ養子として引き渡したりした。
・1990年代の一連のユーゴスラビア紛争では、ロマが迫害の対象となることも少なくなかった。1999年のコソボ紛争では、彼らはセルビア人、アルバニア人の双方から迫害を受けている。
・ルーマニアにおけるロマに対しての差別は根深く、結婚、就職、就学、転居などありとあらゆる方面にて行われている。しかしその起源はいずれの説も根拠を欠いたものが多く、現在でも定説は無い。
・スペインではマドリードの郊外ロスフォスコスがロマの集住地域となっており、38家族、約200人のロマのバラックが立ち並んでいる。このロスフォスコスは麻薬の売人や泥棒の巣窟と目されている。
 
  ヒーリングの時代
ハリー・エドワーズなどを代表とする、病気などの癒しを目的とした霊媒が注目を集め活躍する時代へ
 
1935 岡田茂吉と世界救世教
大本に入信するも、
12月のある晩、神秘体験をし、自己の使命を悟る。
昭和9年、大本を離れ、世界救世教へ
全人類の病貧争からの脱出、
すなわち健康の実現、貧苦からの脱出、安全の実現を基礎として、新文明世界(=地上天国、理想世界)を創造することを目指した。

そして、そのような新文明世界は、3つの活動理念
「生命の芸術=精神性」「美の芸術=」「農の芸術=自然力を培い発展させることによって達成される、と説いた。健康で幸福なライフスタイルの実現
後に分派して崇教真光、など
 

 1935
ハリー・エドワーズとスピリチュアリズムと霊的治療
霊的治療およびスピリチュアリズムとの接触があったのは一九三五年、この年である。・この前後のエピソードは本書にも述べられているが、スピリチュアリストのグループの交流と共に、まるで待ちかねたように生来の治療能力が開花したのである。
・その治療実績と影響力は日を追って増加し、年と共に霊的治療の至宝と仰がれるようになり、その名は英国全土ばかりか、世界中に知られるようになった。
http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/ume-10-4.htmlより一部転載
ハリー・エドワーズ著/梅原雅隆(梅原伸太郎)訳『霊的治療の解明』(国書刊行会、1984年)に収載された「解説」
 
1936.7~1939.3

スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Española
第二共和政期のスペインで勃発した内戦。
第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。
エドガー・ケイシーのリーディングの記録の中には16世紀のスペイン人たちがした代償に関するものがある。過去にスペイン人はアステカ文明を破壊し、殺戮をほしいままにした。
その結果、
カルマの報いをいけることになった。内戦は起こるべくして起こった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』五十嵐康彦P183~)

1937.4.17

中村久子とヘレン・ケラー
41歳の久子は東京日比谷公会堂でヘレン・ケラーと出会う。久子はその時口を使って作った日本人形をケラーに贈った。ケラーは久子を、「私より不幸な人、私より偉大な人」と賞賛したという。
翌42歳の時、福永鷲邦に出会い、「歎異抄」を知る。
50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えた。久子は講演で全国を回る中で自分の奇異な生い立ちを語るとともに、自分の体について恨む言葉も無く、むしろ障害のおかげで強く生きられる機会を貰ったとして「『無手無足』は仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さ(を感じる)」と感謝の言葉を述べ、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語っている。
1950年(昭和25年)54歳の時、高山身障者福祉会が発足し初代会長に就任する。
65歳の時厚生大臣賞を受賞した。
幾度もの苦難を乗り越えて自分で生き抜いてきた久子は以下の言葉を残している。
人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。

1937~

日本レイキの後継者、林忠次郎と高田ハワヨ
・彼女は日系二世として日本とアメリカの言語と文化に通じていたため、西洋に日本のレイキを伝えるという役割に適しており業績は広く認められている。しかしながら高田はレイキを彼女の影響下に於て、ある意味「フランチャイズ」的に守ろうとしたとしてレイキ界では今なお論争が続いている。
・高田は日本生まれの両親の下に生まれ、カウアイ島の彼女の父が働く砂糖きび農園で育った。
・1917年3月10日、彼女が働いていた砂糖きび農園に帳簿係として雇われていた高田サイチと結婚。1930年10月東京でサイチは肺ガンの治療中に34歳で死亡。この時高田夫妻には2人の娘がいた。彼女は家族を養うために忙しく働いたが、そのため肺及び胃腸の様々な病気になり、神経衰弱から重いうつ病にもなり苦しむことになった。
・この後すぐに彼女の姉妹の1人が亡くなり、高田は両親にそのことを伝えることと、自分の病気の治療先を探す目的で義妹と日本に向かった。両親を訪ねた後、彼女は東京の病院に行き、癌や胆石等のために命にかかわる状況であると診断された。彼女はまず数週間かけて肺気腫から回復した後、虫垂炎等の胃腸の手術のために入院することになった。
・手術が始まる直前の手術台の上で、ハワヨは「手術の必要は無い、手術の必要は無い。」と言う声を聞いたが、それは今までに聞いたことの無い声だった。それがどういう意味なのか不思議に思ったが、メッセージは3度目にはさらに大きな声で繰り返された。彼女は自分は意識は明瞭で、そんな声のことなど考えたこともなかった、と理解していた。それは不思議なことではあったが、医者に尋ねに行こうと決心させる力があった。彼女は手術台を降り、シーツで身をくるんで医者に話をしに行った。
・高田は手術医の長に手術を必要としない代替療法があるかと尋ね、皇居近くで診療をしている林忠次郎(臼井甕男の直弟子)の診療所を教えてもらった。林は後にレイキの「グランドマスター」とされた人物で、林の治療により高田は毎日手当てを受け、目に見えて回復していった。4ヶ月後、彼女は完全に治癒。この結果、彼女は日本のものであり日本のみにあるべきだと言われていたレイキを学びたいと望むようになった。レイキは日本国外の人間には教えられないとされていたが、高田は病院の手術医と話し、この医師が高田がレイキを学ぶことを許すように林を説得。林は自分の妻以外の女性にレイキを教えたいと考えていたことと、高田がとても熱心であったため、彼女に教えることを決めた。
・彼女は林の下で1年間働いた後、セカンドディグリーを受けた。
・1937年健康になった高田はレイキの開業準備にハワイに戻り、すぐに診療所は軌道に乗った。
・林は自分の施術技術を広めるためハワイを訪れた際に、彼の娘と共に高田を訪ねた。
・1938年の冬、高田は林から神秘伝(師範として他人にレイキを伝授できる)の伝授を受けた13番目の、そして最後の1人となった。
高田は夢に林が現われたと言い、1940年第2次世界大戦が迫っていた東京に戻った。そこで林は高田の実績を評価して自分の後継者とした。
・林は日本海軍の予備役将校であり軍に復帰するように求められていたが、仏教徒であり平和主義者として多くの血が流される戦争に加担するよりはと切腹した。
・高田はハワイに戻ってから30年間レイキを教えたが、1970年まではファーストとセカンドディグリーのみを伝授した。彼女は多くのレイキのプラクティショナー(開業者)を養成したが、マスターは育てようとしなかった。
・1970年以降、亡くなる1980年までの間に高田はレイキのサードディグリーを伝授し、22人にマスターを伝授した。
・彼女はマスター伝授の指導に10,000USドルを科したため、レイキマスターを富裕層のためのエリートクラブにした、と非難された。林は妥当な「エネルギーの交換」だと弁明して、林に言われたとする、治療のためにお金を支払わない者は良くなろうとする動機を持てない、という趣旨の言葉を引き合いに出した。
・彼女の残したものは今は様々な形で混在している。
・現在、日本で主流になっている「レイキ(=西洋レイキ、Western Reiki」は、林から師範の伝授を受けたハワイ在住日系人の高田ハワヨから海外に広まり、1980年代より日本に逆輸入されたものである。臼井から林が独自に発展させた霊氣が高田に伝わり、日本国外で高田及び高田の後継者等によってさらに改変された部分があるため、オリジナルの「靈氣(霊氣、霊気)」と区別する。
・日本国内では林忠次郎から師範の伝授を受けた最後の1人である山口千代子が長年、家庭生活の中で実践してきた靈氣(レイキ)がある。それが現在の「直傳靈氣研究会(じきでんれいきけんきゅうかい)」(山口千代子の息子、山口忠夫設立)が普及しているレイキであり、「直傳靈氣(じきでんれいき)」という名称が使われている。

                       霊訓の時代
・世界中に様々な霊界通信が地上に示され、本当の生き方を模索することが注目された。
・シルバー・バーチなどが日本では有名だが、枚挙にいとまなく世界中で霊界通信が示された。
・人々も心霊現象への興味よりも、霊界が示す人生哲学に注目が集まった。
 
 1938~1993 『シルバーバーチの教え』刊行
世界的ジャーナリスト、ハンネン・スワッハーが交霊会に出席したことで事態が一変、毎週定期的に交霊会、速記によって記録をとり『シルバーバーチの教え』として16冊が刊行された。
 
1877~
1945
エドガー・ケーシー(アメリカ)
主要な部分は1901年に前述
1944.9.17自分自身についてのものが生涯最後となった。(『エドガー・ケイシー 日本人への最後の警告』H2.8.15五十嵐康彦P105~)
「ライフ・リーディング」と呼ばれる、人生について悩める人々に与えた助言の数々がある。 彼の「ライフ・リーディング」は、
人の魂は死後も永遠に存在し続け、転生を繰り返すという、自身が信教していたキリスト教の教義や現在の常識ではにわかには受け入れがたい概念を根幹としており、人生において存在する一見不可解な問題や様々な悩みは、前世との因果関係を知ることによって、その存在理由を明確にすることができるというものである。
エドガー・ケーシー『奇跡の生涯

エドガー・ケーシーとキリスト教と聖書と「輪廻転生」について
1937~1945  日中戦争(北支事変=支那事変⇒大東亜戦争へと拡大)
1937年
昭和12年)から1945年(昭和20年)まで、大日本帝国中華民国の間で行われた戦争である。日本側では、紛争が勃発した当初は北支事変と称し、1937年(昭和12年)9月の第1次近衛内閣閣議決定で支那事変を正式の呼称とした。
戦争でなく事変と称されたのは、盧溝橋事件後に本格的な戦闘が行われても、1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が勃発するまで両国は宣戦布告を行わなかったからである。その理由として、日中両国がアメリカ中立法の発動による経済制裁を避けたかったことが挙げられる。
日本側は事態の早期収拾も狙っており、また、戦争ともなれば天皇の許可(聖断)が必要になるからであった(昭和天皇は戦争に反対だった)。一方中国側は、国内での近代兵器の量産体制が整わないままであることから、開戦により軍需物資の輸入に問題が生ずる懸念があったことに加え、軍閥毛沢東率いる中国共産党との内戦の行方も不透明であったことから、蒋介石は「安内攘外」政策をとり、国内の統一(共産党との決着)を優先すべき問題と捉えていた。
太平洋戦争が始まると、蔣介石の重慶政府が米英とともに日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたことを受け、日本側の東條内閣は10日の閣議で「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」ことを決定した
 
1942.1.1~
1945.6.26~
1945.10.24
 
「国際連合(United Nations:連合国)」国宣言と国際連合設立
この名称は、第二次世界大戦中にアメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領が考え出したものであった。その言葉が最初に使われたのは、26カ国政府の代表が枢軸国に対して共に戦うと誓った1942年1月1日の「連合国宣言(Declaration by United Nations)」の中であった。
中国、ソビエト連邦、イギリス、アメリカの代表が1944年にワシントンD.C.に集まって行った審議に続き、翌年の1945年、50カ国の代表が「国際機関に関する連合国会議(United Nations Conference on International Organization)」に出席するためにサンフランシスコに集まった。
会議では「戦争の惨害」を終わらせるとの強い決意のもとに国際連合憲章(Charter of the United Nations)が起草され、1945年6月26日に署名された。
国際連合は中国、フランス、ソビエト連邦、イギリス、アメリカおよびその他の署名国の過半数が批准したことを受けて1945年10月24日に正式に設立された。本部はニューヨークに置かれることになった。世界平和に対するこの歴史的誓約を記念して、毎年10月24日は「国連デー(United Nations Day)」として祝う行事が各国で行われる。第二次世界大戦が引き起こした鋭い対立や多くの審議の対象となったその後の冷戦によって世界が二分化されたにもかかわらず、国連は今後もこの誓いに忠実に、成長を続ける。今や世界では対立がより複雑になり、グローバルなテロリズムのような新たな脅威が出現してきた。こうした問題に取り組むための世界的な交渉の場がこれまで以上に必要となった。こうした状況のもとにあってはこの誓約は今まで以上に今日的な意義を持つようになった主要 機関として総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局の六つの機関を設けている。国連ファミリー全体はもっと大きく、15の専門機関と数多くの計画や基金、各種機関が含まれる。
https://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/
 
 
1938  「東洋のシンドラー」樋口季一郎
樋口(季一郎)に野望を挫かれたスターリンは、連合国軍に対して樋口を戦犯として引き渡すように申し入れたが、マッカーサーはこれを拒否した。米軍とのパイプもあったのだろうが、背景にはユダヤ人団体が引き渡しに反対して圧力をかけたといわれている。

樋口はハルビン陸軍特務機関長を務めていた1938年(昭和13年)、ナチスに追われてソ満国境のオトポール(現ザバイカリスク)に逃げ込んできたユダヤ系ドイツ人に食料や燃料を配給し、日本政府と軍部を説き伏せて、満州国の通過を認めさせていた。
ドイツは日本に抗議し、関東軍司令部は樋口を呼び出して査問するが、樋口は参謀長だった東条英機(1884~1948)に「
参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」と問いかけた。東条も樋口を不問に付し、「当然なる人道上の配慮によって行った」とドイツの抗議を一蹴したという。
この逸話から、樋口は近年「もうひとりの杉原
千畝ちうね(1900~86)」と呼ばれることもある。隆一さんは「祖父は合理的に物事を考える人だった。ユダヤ系ドイツ人を救ったのは、杉原のように外交官としての信念というよりも、筋が通らないことが嫌いだったからだろう」と話す。 
 

[スターリンの野望]北海道占領阻止した

孫の樋口隆一著(明治学院大学名誉教授)「陸軍中将 樋口季一郎の遺訓-ユダヤ難民と北海道を救った将軍」
1939~1945  第二次世界大戦(太平洋戦争)
1939年から1945年にかけて連合国と枢軸国の二つの陣営で行われた人類史上二度目の世界大戦。主な戦場はヨーロッパ戦線アジア・太平洋戦線の二つ。両陣営合わせて、数千万人の死者を出す人類史上最大の戦争となった。戦争は連合国の勝利で終わった。第二次大戦ともいい、今日の日本では単に「戦後」といった場合、第二次世界大戦(太平洋戦争)より後を指すことが多い。
 
 
1940.7.~8月  もう一人の「東洋のシンドラー」杉原千畝、命のビザを発行
第二次世界大戦
中、リトアニアカウナス領事館に赴任していた杉原は、ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ(通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くがユダヤ人系であった。「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる。彼が残した
「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」という言葉は、有名である。 
 
1942~

1946.1 ~
(1年間)
1946.12
 
クルド人とクルディスタン人民共和国(別名:マハバド共和国)
だった。クルド人たちがイラン西北部のマハバドを中心に建国した。

第二次世界大戦でソ連軍がイラン北部に進駐すると、その後押しを受けて現地のクルド人たちは1942年にKJK(クルド建国グループ)という組織を結成した。そして戦後も続いたソ連軍の占領の下で、45年9月にカズィ・ムハンマドらKJKのリーダーたちが同じくソ連軍に占領されていたアゼリ人地区のタブリーズを訪れたところ、 アゼルバイジャン自治共和国 の独立準備が進められていることを知り、それならクルド人も続けと12月にイラン・クルド民主党(KDP-I)を結成。
翌46年1月、マハバドでクルディスタン人民共和国の独立を正式に宣言し、カズィ・ムハンマドが大統領に就任した。

独立宣言には、クルド人の自治や、公用語や教育言語としてのクルド語の採用、クルド人による民主的な議会の創設、クルド人による行政運営、アゼルバイジャン自治共和国との連携、法の確立などが盛り込まれた。しかし実際には議会は開設されず、あくまでイラン国内での自治にとどまるのかそれとも最終的に完全な独立を目指すのかがはっきり決めず、おおよそ現在の西アゼルバイジャン州一帯を支配したが領土もはっきりしなかった。しかしアゼルバイジャン自治共和国とは友好条約を結び、経済や軍事面での協力関係にあった。
領土も主権(独立か自治か)もはっきりできないままクルディスタン人民共和国の成立を急いだわけは、46年3月にソ連軍の撤退が予定されていたので、その前にとりあえず既成事実を作ろうとしたためだった。そのため同じイラン国内のクルド人居住地帯でも、南側のイギリス軍占領地域(現在のクルディスタン州)へは勢力を伸ばせなかった。
また1930年代からイラクでクルディスタン独立のためのゲリラ戦を続けてきたムスタファ・バルザニが、3000人の仲間を引き連れてKDP-Iに合流したことも独立実現のチャンスだった。バルザニは国防相に就任し、クルディスタン人民共和国の軍を率いることになった。

しかし、46年5月にソ連軍がイラン領内から撤退し、ソ連による軍事支援や経済援助の望みが絶たれると、クルディスタン人民共和国は崩壊への道を辿り始める。クルド人たちはそれまで栽培したタバコをテヘランへ出荷することで現金収入を得ていたが、それが不可能になって困窮した多くの部族が政府に叛旗を翻し、南へと去っていった。またマハバド周辺の部族は、ただでさえ痩せた土地なのにバルザニらイラクのクルド人が流入してくることに不満を抱き、南へ去った部族の土地をバルザニらが独り占めしたことも怒りをかった。
こうしてクルディスタン人民共和国はクルド人たちの支持も失い、46年12月にイラン軍が侵攻するとあえなく崩壊。「反逆罪」に問われたカズィ・ムハンマド大統領はマハバドの広場で絞首刑にされた。またマハバドを占領したイラン軍は、クルド語による学校教育を禁じ、クルド語の出版物を集めて焼き捨てたという。一方でバルザニは再び仲間を引き連れてイラクへ戻り、さらにソ連へ亡命した。 
 
1943.3~  シンドラー夫妻、ユダヤ人強制労働者を多数救出
シンドラー夫人の墓石に刻まれた言葉は「一人の人間を救う者は、全世界を救う」 
Wikipedia
オスカー・シンドラー 
1905~
1939~

ヴィクトール・フランクル『夜と霧』
・ウィーンに生まれる。ウィーン大学在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。
・「第三ウィーン学派」として、また独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では元々知られていた。
・フランクルの理論にはマックス・シェーラーの影響が濃く、マルティン・ハイデッガーの体系を汲む。精神科医として有名であるが脳外科医としての腕前も一級であった。
・第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られ、恐怖の3年間を生き延びた。
・この体験をもとに著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上に渡って読み継がれている。発行部数は英語版だけでも900万部に及び、1991年のアメリカ国会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」のベストテンに入ったという。
・読売新聞による「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」のアンケート調査でも、翻訳ドキュメント部門の第3位となったという。
・よく誤解されるがフランクルのロゴセラピーは収容所体験を基に考え出されたものではなく、収容される時点ですでにその理論はほぼ完成しており、はからずも収容所体験を経て理論の正当性を実証することができたと言えよう。
・極限的な体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄であった。
・学術関連などで度々日本にも訪れていた。
ロゴセラピーとは
「ロゴ」は、ギリシア語で「意味」の意。
ロゴセラピーは、人は実存的に自らの生の意味を追い求めており、その人生の意味が充たされないということが、メンタルな障害や心の病に関係してくる、という見解を基にしている。(心的な疾患は、当事者に人生の意味に関して非常に限定的な制約を課していると言える。)ロゴセラピーは、人にその生活状況の中で「生きる意味」を充実させることが出来るように、あるいはその価値の評価の仕方を変えることが出来るように援助しようとするものである。
そのためロゴセラピーは手法として、実存主義的アプローチをとり、下記の3点を基本仮説とする。

  1. 意志の自由 - 人間は様々な条件、状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っている。(決定論の否定)
  2. 意味への意志 - 人間は生きる意味を強く求める。
  3. 人生の意味 - それぞれの人間の人生には独自の意味が存在している。

フランクルは、人の主要な関心事は快楽を探すことでも苦痛を軽減することでもなく、
人生の意味を見出すこと」であるとする。
人生の意味を見出している人間は苦しみにも耐えることができるのである。

『夜と霧』
1893~
1940~1966

マクロビオティック(正食)の祖、桜沢如一(ゆきかず)
・和歌山県新宮市(当時の東牟婁郡)の貧しい武士の家系に生まれる。
・14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して石塚左玄の「食養生」に触れ、健康を回復する。
・その後貿易商として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会に参加。
・1924年には同会会長となり、同会の復興・指導に専念する。
・1929年に単身シベリア鉄道経由でパリに渡り、ソルボンヌ大学に留学。次いで、同年、フランス語にてパリのVrin社より『Le Principe Unique de la Science et de la Philosophie d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルローなどと親交。
・1937年に帰国、『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラーとなる。
・1939年、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、
・1940年、無双原理講究所を滋賀県大津市に開設する。
・その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ説」「ナトリウム・カリウムのバランス論」を易経の陰陽に当てはめた無双原理を提唱。
・戦後は世界連邦運動に取り組む傍ら、再びインド・アフリカ・欧米など世界各地を訪ね、マクロビオティックの普及に注力する。
・1955年には、アフリカ・仏領ガボンにてアルベルト・シュバイツァー博士と会見し、西洋医学、栄養学の限界とその改善を進言するが、受け入れられなかった。
・1960年代初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴランはパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換にシフトすることになる。
・1964年6月21日、桜沢は、自ら考案の装置にて、Na→Kの低温低圧原子核転換の成功を述べている(客観的な真偽不明)。
・後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫、大森英桜⇒妻大森一慧(かずえ)「穀菜食」「食で運命が変わる」⇒宇宙法則研究会、岡田周三、菊池富美雄らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。

1941
昭和16年~
土光 敏夫と 母 登美
明治4年8月8日生まれ。土光敏夫の母。
昭和16年、亡夫の一周忌に念願であった女学校の創設を宣言。その当時の御年70才というから驚きです!
人間生きているうち一度は鬼の口に飛び込まねばなりません」という覚悟で、戦時中学校教育の重要性を説き、無一文から「自分が死んでも香典は要らないから生きているうちにください」とまわりの農家を口説いて回り、とうとう念願であった戦争をしない国づくり、幸せな社会づくりのための女子教育を実現すべく奔走した。
ほとんど独力で寄付集め、諸交渉をおこない、とうとう、戦争真っ只中の昭和17年 橘女学校創立  校主土光登美。17年横浜鶴見に橘学苑(現橘女子高)を開校する。戦時下、教育方針は、成績第1主義ではなく、「正しきものは強くあれ」という登美さんの言葉を校訓に掲げ、自立した女性、平和社会を築く女性の輩出を願って教育が行われ始めました。
一、 心すなおに真実を求めよう
一、 生命の貴さを自覚し、明日の社会を築くよろこびを人々とともにしよう
一、 正しく強く生きよう
 
という三つの言葉を遺した。
しかし、女学校を設立してわずか3年後の昭和20年、73歳で他界。
夫もであったが、日蓮宗に深く帰依した女性。(温厚な夫に比べると厳しい女性であったという。親戚の土光●●さんの記憶より)。土光は母の気性を強く受け継いだ・・・ (テレビ朝日、9月4日 10時~「サンデー・フロントライン」 特集より)
その他の登美の名言
国の滅びるは悪によらずして、その愚による。
 1942.5.20 クリッシー・ラング家での 霊媒ジョン・スローンをとおしての交霊会の記録  
1944.6.10~1961 岡本 天明と日月神示
・本名は信之。天明は「雅号」である。雅号とはいえ、「天明」とは!(後に「日月神示」へ)
・昭和19年-4月18日 - フーチ(扶乩)の実演会の審神者兼司会役を務める。
この際出てきた神名が「天之日月神」。後日、麻賀多神社の末社の神と判明。
・6月10日 - 天之日津久神社に参拝した折に自動書記現象がおきる。(日月神示「上つ巻」第一帖・第二帖を書記する。
・矢野祐太郎氏の奥さん(新(シン)女史)が大切なものと判断。
・1961年(昭和36年)9月1日- 最後の自動書記現象
  物理霊媒レスリー・フリントの自伝『暗闇の中の声』
レスリー・フリント(Leslie Flint,1911年 - 1994年)
著名な直接談話霊媒。史上最もテストされた霊媒
 『暗闇の中の声』
1945~15年間  ジョージ・ウッズが物理霊媒フリントと直接談話による霊との交信、テープレコーダで録音グリーン女史も関与
・1938年の永井健三、五十嵐悌二による交流バイアス方式の発明で、1939年~1941年までに音質が飛躍的に改善され、実用に耐える長時間高音質録音が可能となった。
・1945年、ジョージ・ウッズが物理霊媒フリントと直接談話による霊との交信を始める以前は、その種の交信方法はほとんど見られなかった。また交霊会の記録は、参加者の記憶や暗闇の中で書き取られたメモに頼っていた。だがそうした形での記録は、内容自体が疑わしいとか、作り話で信頼できないものとして取り扱われがちであった。
・しかし戦争が終わって決定的な変化が訪れた。それは持ち運びのできる小型テープレコーダーが発明されたことである。ウッズは最新型のテープレコーダーを手に入れ、それを交霊会に持って行くようにした。
・これによって初めて、霊の語るすべての声を、そっくりそのまま記録し、それを関心のある人たちに聞かせることができるようになったのである。交霊会に参加できない人でも、まるでその場にいるかのように、霊媒の話を鮮明に聞くことができるようになったのである。
こちら(あの世)にきた人は最初、みんな同じようなことを考えます。彼らは急いで地上の友人や親戚の所に戻って、こちらの世界がいかに素晴らしいかを伝えたいと思うのです。“死は誰にでも訪れるごく自然な出来事なのです。死を怖がる必要は全くありません”と。今は地上のことをあまり気にしてはいけません。そのうちあなたが地上に戻って人々のお役に立つときがくるかもしれません
⇒『500に及ぶあの世からの現地報告』の資料となるテープ500本が15年間にわたって保存されていった。
⇒1961年、1966年、1972年へ
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/life-after-death/life-after-death-03.htm
500に及ぶあの世からの現地報告』の資料となるテープ500本 
1945

初めての核実験
・開発は1942年からのマンハッタン計画で進められ、1945年7月16日ニューメキシコ州アラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)が実行された。この原子爆弾のコードネームはガジェット (Gadget) と呼ばれた。
・1945年に原子爆弾はアメリカ合衆国が最初に開発に成功。
・初めての核実験が行われて以降、冷戦期にアメリカ合衆国・ソ連を中心に約2,000回の核実験が行われている。
・詳細は「核実験の一覧」を参照(Wikipedia)

1945.2.4~
2.8~
~2.11 

ヤルタ会談(クリミア会議)
1945年2月4日から2月11日にかけて、ソビエト連邦クリミア自治ソビエト社会主義共和国ヤルタ近郊にあるリヴァディア宮殿で開催された、アメリカ合衆国イギリスソビエト連邦による連合国首脳会